午前六時、設定したアラームよりも十分早く零菜は目を覚ました。普段であれば、ギリギリまで惰眠を貪るところだが、今日はすぐに目が冴えた。ベッドから下りると、軽くストレッチをして身体に活を入れ、それからシャワーを浴びに浴室に向かう。
昨日夜遅くに帰ってきた雪菜は、まだ寝ているらしい。
そろそろと足音を立てないように気をつけて、寝汗を吸ったシャツとパジャマを洗濯機に投げ入れて、浴室に入った。
熱いシャワーで汗を流してから、冷たい水を頭から被る。寝起きの身体が完全に覚醒し、身体の隅々まで血が行き渡るのを感じた。
今はまだ朝方なのでマシだが、今日の屋外は真夏日だ。容赦なく照りつける太陽は、地獄のような灼熱を地上にもたらし、外に出るだけで汗だくになってしまう。ちょっとした魔術を使ったズルをしたり、市販の冷却剤を使って普段は過ごしているが、それでも暑いものは暑い。技術の向上でヒートアイランド現象に日々対抗しているが、完全に無縁とは行かず、人工島故に国中が熱を持って真っ赤になる。朝に汗を流しても、午前の内に無意味になってしまうだろうが、これは気持ちの問題だ。
世間は夏休みに突入し、これから国中のレジャー施設がかき入れ時を迎える。暇を持て余した多くの学生が大挙して押し寄せるのだ。零菜も、その学生の中の一人ではある。他と違うのは、今回訪ねるレジャー施設が、プレオープン中で人混みとは無縁ということと、遊びではなく怪奇現象の調査に向かうという点だ。
曲がりなりにも一国の姫な訳で、そのようなことは間違っても仕事ではないのだが、友達からの頼みにプラスして、リニューアルオープンを控えたブルーエリジウムということもあって、特別に引き受けたのだ。
身体の水気を取りながら、自室に戻る零菜は小さくため息をついた。
閉め切ったカーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、今日は天気予報通りに快晴らしい。遊ぶにはいい天気なのだが、日差しにはとにかく注意しなければ。
まず零菜が取り出したのは日焼け止めだ。最重要課題は白い肌を守ることだ。今年発売されたばかりの最新の日焼け止めは、さらさらしていて、汗でも落ちにくく、化粧の下地としても使えるものだ。これで、全身を紫外線から守る。
次に選ぶのは服だ。
もともと、零菜はそこまで多くの衣服を買い溜める性質ではない。日常は制服で十分だし、私服にお金をかけられるほど潤沢なお小遣いももらっていない。興味はあるが、使い回しで十分事足りる。
「うまくない」
クローゼットを開けると、古式ゆかしいヴィクトリアンメイドとコスプレ用のゴスロリメイド服が激しく自己主張してくる。数は多くないものの、私服よりもコスプレ衣装のほうが幅を利かせ始めている。一回しか着ていないものもあれば、まだ袖を通していないものもある。何れは着てみようと思いつつ、その勇気が持てない衣装だ。
それらTPOに反する衣装を押しのけて、私服を取り出してベッドの上に並べる。まず、悩みどころは快活な感じで行くか、おしとやかな感じで行くかだ。
一緒に出かける麻夜が以前であれば、必ず快活な感じでコーディネートしていたので、零菜は後者を選べばよかったが、今の麻夜は高校に入ってからイメージチェンジを図って、かわいい系に進みつつある。
イメージが重なるのは、理想的ではない。
一緒に出かけるのなら、それは個々に食い合うようなデザインではいけない。かといって、麻夜に相談するのも気が引ける。これはあくまでも自分の中で決めていきたい。そんなことを考えていたら、昨日も夜遅くになってしまった。ある程度の絞り込みはしたので、思い切って選ぶしかない。
■
凪が零菜と麻夜からブルーエリジウムの話を持ちかけられたのは、三日前のことだった。
依頼主は水島千咲。この名前を思い出すのに、凪は小学校の卒業アルバムを引っ張り出す必要があった。零菜や麻夜と違い、進路が分かれて三年経っているし、同じクラスになったのも、小学校の四年生だけだ。思い出すことがないままに、時間が経てば、かつての同級生とてうろ覚えになる。決して、凪が悪いわけではない。
水島家は、暁の帝国の経済界の重鎮である矢瀬一族の遠い親戚だ。とはいえ、何代も前に分かれたので、ほとんど血は繋がっていないに等しく、矢瀬家の異能も引き継いでいない。そんな忘れられた水島家の名前が表に出てきたのは、ここ十数年のことだ。
千咲の父が営む小さな広告代理店が、国家独立の混乱に乗じて様々なプロパガンダを矢瀬一族と展開し、それ以降彼らをバックにして事業を拡大してきた。もともと優れた経営手腕があったのだろう。展開した事業は大当たりし、今は広告事業の他にも観光業や水産事業にも手を伸ばしている。
ブルーエリジウムは水島水産や水島観光が魔獣庭園の一部に出資している関係で、水島家の影響力が強い。
今回、凪たちを特別に関係者として招待するという強引な方針を打ち出せたのも、ブルーエリジウムの中で事業を営んでいるからこそだろう。
「んじゃ、出てくるから」
「お土産お願いします」
「はいよ」
空菜は杏仁豆腐を食べながらドラマを眺めている。今日は午後から生物部のミーティングがあるのだとか。黙々と作業する生物部は、彼女の気質に合っているらしく、かなり楽しげに部活に参加している。
空菜を残してブルーエリジウムに行くというのは、若干心苦しいところがあっただろうが、彼女に都合があるというのなら、凪としても思い煩うことはない。
約束の時間になったので、外に出るとちょうど零菜と麻夜が出てきたところだった。
「凪君、おはよう」
「今日も暑いねー」
「おはよう。今日は、四十度行くかもしれないってよ」
「そう? 最悪だね。何とかならないかな、この暑さ」
廊下はうだるような暑さだ。湿度が高く、ムシムシしている。立っているだけで汗が噴き出してしまいそうだった。
麻夜は黒いチノパンと白いブラウスというシンプルで機能性のある服を着ていた。桃色のシュシュで髪を一つに纏めていて、全体的にすらりとした身体がいっそう引き締まって見える。
隣の零菜は大人しめのコーディネートだ。白いワンピースの上に空色のカーディガンを羽織っている。夏空を思わせる爽やかな色合いは、零菜の瞳の色にも合っていて、彼女の魅力を損なうことなく、引き立てている。
そういった感想を言うと、零菜は少し得意げに顔を綻ばせ、麻夜は咳払いで応じた。
「凪君はさぁ」
「何?」
「いや、いいや。まあ、別に」
上機嫌なのか不機嫌なのかよく分からない微妙な困り顔で麻夜はため息一つついた。ちょうどその時、麻夜のスマホが震えた。
「タクシー来たって」
凪の通常の移動手段はモノレールだ。タクシーに乗ることはほとんどない。零菜や麻夜も車での送迎かモノレールを使うのが普通で、高校生からすると高級なタクシーを利用することはまずないのだが、今回はタクシー券が水島観光の名前で支給されているので、心置きなく利用することにした。
ブルーエリジウムまで、タクシーで三十分ほどだ。
渋滞に巻き込まれることもなく、予定通りに到着することができた。
プレオープン中ということもあって、広い駐車場に一般車両は少なく、業者のトラックや高所作業車などが出入りしていた。
「んー、到着!」
零菜が大きく背伸びをした。
風が吹いて飛ばされそうになった帽子を慌てて押さえる。晴れ渡った空に積雲がぷかぷか浮かんでいて、この上ない好天気だ。幸いだったのは、風があることだろう。おかげで、体感温度は若干低い。それでも蒸し暑さには変わりなく、日光に肌を焼かれているような感覚がずっと付きまとっている。
「来た来た、待ってたよ!」
千咲が手を振って、正面ゲートから駆け寄ってくる。彩海学園の制服の上に、作業服の上着を着ている。
「千咲ちゃん、なんか技術屋さんみたいだね」
「一応、裏方のスタッフだからね。形だけ」
零菜と千咲が手を叩いて挨拶している。
それから、千咲が凪を見る。
「昏月君だ、久しぶりー。うわー、背伸びたね」
「それは水島も同じだろう」
「いやー、でも昔はわたしとトントンだったじゃない。男子はぐんぐん伸びるもんね。わたしも弟に抜かされちゃったし」
炎天下にありながらも、千咲は快活だ。見た目は大人しそうだが、その言動には行動力を感じさせる。
「千咲、そろそろ日陰に入らない? さすがに、駐車場は暑いよ」
麻夜が横から千咲に提案する。
「そうだね。ごめんごめん、ついね。じゃあ、案内するからついてきて」
ブルーエリジウムの広大な敷地を移動するのに便利なのが、園内をぐるりと一周するモノレールだ。普通に歩けば、一周に一時間以上かかるので、五つのエリアを順番に巡るモノレールは重要な移動手段だ。そのほか、ファミリー向けの電動カートの利用も可能だ。
凪たちは千咲が運転する電動カートで移動することになった。
「こんなに人のいないブルエリは初めてだよ」
窓の外を眺めていた麻夜が呟く。
「お客さんより業者さんのほうが多いからね、今は。プールだって、今は閑古鳥だよ」
「プール入れないんだっけ?」
「ごめんねー。安全確認が済んでないみたい。魔獣庭園は行けるから、後で見てきてよ。あと、うちのお化け屋敷も入れるよ」
「そこが今ヤバいんじゃないの?」
「そうそう」
「ヤバいとこ勧めちゃダメでしょ」
「あはは、だよね。ヤバくないようにさ、みんなの力で助けてください」
電動カートが付いたのは、ブルーエリジウムの宿泊施設エリアだ。とりわけ、ホテルエリュシオンは、暁の帝国でもトップクラスのリゾートホテルで、ブルーエリジウムのオープン当時から変わらず頂点に君臨し続けている。諸外国の王侯貴族の宿泊先としても、定着しているエリュシオンを横目に、凪たちがやって来たのは一軒のコテージだった。
白い二階建てのコテージは緑に囲まれたキャンプエリアの一角にある。周囲に広がる人工林は、日本から移送した木々をベースに二十年かけて育まれた「天然物」だ。白樺やブナ、コナラといった里山を思わせる木々が土に生えているというのは、人工島では珍しく、非常に人気のあるエリアだ。二十五軒のコテージを巡り、毎年予約の争奪戦が繰り広げられているのである。
コテージの中には真新しい木材の香りが立ちこめている。日々の管理が行き届いているのだろう。埃一つない綺麗な状態で維持されていた。
零菜はソファの脇に荷物を置いて、千咲に尋ねる。
「ここ使っていいの?」
「もちろん。チェックアウトは明日の十一時ね。バーベキューセットは裏の倉庫に入ってるから。食べ物は冷蔵庫に入ってるけど、足りないのがあったら、事務室に連絡してね。届けるよ」
ガラステーブルの上にメニュー表を並べていく千咲。
その様子を見て麻夜が言う。
「何か、千咲手慣れてるね」
「そりゃ、手伝わされてりゃね。体のいい低賃金アルバイトだよ」
「そうなの?」
「うちの親、娘だからって、ただ働きさせようとしてたからね。さすがに、それならコンビニでレジやるでしょ? 給料って名目じゃなくても、小遣いはもらわないとやってらんないよね」
そうやって、千咲は人手が足りないときにヘルプに駆り出されていたのだ。親の仕事を何かと手伝うのは、昔からやってきたことなので、否やはないが、花の高校生になった今、欲しい物もあれば遊びに時間を使いたいという欲もある。家のお手伝いでただ働きするのは、割に合わない。
「千咲ちゃん、それで、お化け屋敷のほうってどうするの?」
「あ、そうだね。正直、さっと見てもらって、所感を教えて欲しい感じ。本当に幽霊がいるのなら、何とかできるかどうか……まあ、下見からお願いしたいなって」
タブレットを取り出した千咲が、テーブルの上で画面を操作する。
「ほら、見て、SNSの書き込み。また増えてる」
「ふーん、これ本当に?」
SNSの投稿だけでは詳細はよく分からないし、真偽も不明だ。
「少なくともこの投稿者は、うちのお化け屋敷に来た人で間違いないよ」
「実体験ってことなんだ」
投稿者の女性は二十代前半で、プロフィール画像は彼氏と思われる人物と撮った写真を加工したものだ。絵に描いたような恋愛を楽しんでいるという風のSNSの投稿の中には本当に自分たちより十歳近く年上なのか疑いたくなるような馬鹿馬鹿しい話がたくさんある。
その最新の投稿が、ブルーエリジウムのお化け屋敷の話題だ。
彼氏とお化け屋敷に入ったら、黒い影みたいなものが見えた。「許さない」という呻き声が聞こえた。彼氏が熱を出して寝込んだ。そんな話だ。
「この前見せてもらったのも、こんな感じだったね」
「そうなの。体験談が似たり寄ったりだから、本当なのかなって思ったり……」
零菜と麻夜が最初に相談を受けたときに見たSNSの投稿文も、今見た人とは別人の投稿ではあるが内容はほぼ同じだ。
「凪君、どう思う?」
「実際にお化け屋敷を体験した人が揃って同じことを言ってるだけなら、もともとの噂に乗っかった話題作りって線もあるけど、熱が出たってとこまで共通するともしかしたら霊障かもしれないなとは思う」
「霊障?」
霊障という聞き馴染みのない言葉に千咲が疑問符を浮かべる。
「霊障ってのは、霊体から何かしら害を受けたときに身体に出てくる障害のこと。熱が出たり、悪夢を見たりってのは、軽い部類だな。酷いと命に関わることもある」
「命にって、そんな重い話になるの?」
「投稿を見てると、そんなでもなさそうだけどね。投稿してる人も酷くなったら医者に行くって人ばかりで、実際に霊障かどうか診察した人はいなそうだし、多分、みんな話に乗っかってるだけで、本気で呪われたとは思ってないんでしょ」
呪詛の本当の危険性を知る凪からすれば、熱が出て数日寝込む程度はただの風邪と変わらないし、本当に呪われたと思っているのなら、SNSに投稿して現状報告などという悠長なことはしていられない。呪詛の種類によっては指定感染症と同レベルの取り扱いになることもあるのだ。
そして、水島観光が気にしているのは、まさにその一点だ。
本当の幽霊の類が巣くっていて、人に危害を加えているとなると、それは行政命令で営業停止を食らう十分な理由になる。
コントロールできない脅威は、迷惑でしかないということだ。
もっとも、まだお化け屋敷を視ていないうちから、幽霊がいること前提に話しても仕方がない。
まだ噂の域を出ていない話でもある。炎天下のリゾート地で遊び疲れて体調を崩すというのは、決して珍しいことではないのだ。幽霊に呪われるより、熱中症で熱を出すほうが現実的だ。
心の底では皆そう思っているのではないだろうか。
プレオープン期間中に対処すれば、噂話のままで終わらせることができるだろう。
「結局、幽霊を見たって人はSNSの投稿で分かるくらいなんだよな?」
「ほとんどが、そうなんだよね。うちのスタッフにも何人かいるけど、毎回ではないみたい」
「それでも何人かは出てるんだ」
ギミックを知らない来場者だけでなく、内部のことを分かっているスタッフの中にも体験談があるというのは、いよいよ本物の可能性が高い。千咲が零菜に助けを求めたのも、スタッフの中にも不安がる者が出てきたということが大きいのだ。
「んじゃ、とりあえず見てみようよ。そのお化け屋敷」
零菜の提案に凪も首肯した。
ここで議論していても、あまり建設的な話にはならなそうだ。まずは実地調査を行い、呪術的な観点から状況を見定めなければ始まらないのだ。
かくして、一行は水島観光が運営するお化け屋敷の前にやって来た。
「ここが、噂のお化け屋敷」
「雰囲気あるね」
お化け屋敷の見た目は、二階建ての木造校舎。学校を舞台にしたお化け屋敷なのだ。
「これがうちのホラーアトラクション、大絶叫真・学校の怪談だよ。いろいろとうちの母親の趣味がぶっこまれた、全長一キロのお化け屋敷です」
「一キロ? 学校を舞台にしてんのに?」
「好奇心から裏山の旧校舎に古くから伝わる七不思議を調べるため、旧校舎に忍び込んだ皆さんを待っていたのは、恐ろしいお化けの数々。朽ち果てた旧校舎は、誰も知らない異世界に繋がっていたのだ……という設定」
「学校の怪談系のお化け屋敷なんだ」
何年か周期でブームになる学校の怪談。零菜も小さい頃に映画を見て、そういう文化を知った。あまりホラーは得意ではないので、それ以来ホラー映画は見ていない。本物のお化けならば、まったく怖くないが、映画のお化けは本当に怖い。
「今、お客さん入れてないから機械は止めてるよ」
と、先導する千咲がタブレットを持って案内してくれる。今日は営業を止めているので、照明もついていて恐怖はまったく煽られない。お化け屋敷の裏側がまじまじと見られるので、とても興味深い。
木造の校舎を再現した床は、ギシギシと軋む。これは木材が古いわけではなく、そうなるように設計しているのだという。
「何か、木造校舎って憧れるなぁ。暁の帝国には、ないもんね、そんなの」
「日本にだって、もうないんじゃないか。木造校舎。あっても、学校としては使ってないだろうし」
暁の帝国が木材が乏しいので、多くの建物が鉄筋コンクリート製だ。森林資源に恵まれた日本でも、耐震基準やら時代の荒波やらで、ほぼすべての学校が鉄筋コンクリート製に置き換わっているはずだ。木造校舎というものは、すでに過去の遺物でありファンタジーの世界の産物だ。そして、だからこそ、不思議の世界を表すのに都合がいい。
「じゃあ、ここ。一階、女子トイレの花子さんエリア。花子さんの噂を確かめに来た一行は、奥から三番目のトイレから、別の時空間に飛ばされてしまうのです」
千咲の説明を受けながら、四人でトイレに入る。自動でドアが閉まり、密閉空間ができあがる。もともと一人で使うスペースしかないところに四人で入ったものだから、ぎゅうぎゅう詰めだ。
「凪君、女子三人と密室だよ」
「こんなときに変なこと言うな」
からかうように麻夜が囁いてくる。
満員電車並の密な空間だ。そこで麻夜と零菜に挟まれているというのは、かなり気まずい状況ではある。
凪としては、かなり気を遣っている。女性の多い環境で育ったので、下手なことはしない。それに、この密な空間は、攻魔師の訓練をたたき込まれた凪からすると、落ち着かない環境だ。ここは幽霊がいるかもしれないという触れ込みで踏み入った場所だ。身動きが取りにくい環境にはできるだけいたくないというのが本音だ。
警戒心を強めたからか、凪の霊感の隅に僅かに違和感が引っかかる。微弱な視線のような何か。それを確認する前に、急に足下が傾いた。ガタン、と音がしてトイレの壁が奥に開く。滑り台になっていて、四人は押し出されるように強制的に滑り台から滑り落ちていく。
「うわあああああ!」
「きゃあああああ!」
なかなか急な滑り台を十メートルほど滑って、クッションのプールに落とされる。
「ここで、異世界に到着しました」
「機械止めてるんじゃないの?」
零菜が唇を尖らせて抗議する。
「機械は止めてるけど、導線に従うと滑り台は通らないとダメだから。整備用のバックヤードもあるけどね」
「じゃあ、バックヤードでいいじゃん。最初から」
「えー、せっかくうちのお化け屋敷なんだからせめて中見てほしいじゃん」
「んーまあ、気持ちは分かるけど」
「それに、バックヤードで幽霊見た人いないんだよ。スタッフも含めて」
「じゃあ、本当にこの導線上なんだね」
特定の場所に居着くのは、所謂地縛霊というものに当たる。一般に知られているものは、その土地や建物に取り憑いて超常現象を引き起こすというものだ。
「ところで、今の時点で幽霊いた?」
千咲が不安げに尋ねてくる。
「何かいる感じはあるね」
答えたのは凪だった。
「本当に? わたし、まだ何も感じてないよ」
「わたしも」
零菜と麻夜は揃ってそう口にする。
「さっき、ちらっと感じたくらいだからだな。気のせいってこともあるだろうし」
とはいえ、霊感は凪が最も強い。
お化け屋敷のような施設はもともと悪いモノを集めやすい性質があるとされる。ホラー映画の撮影も、きちんとお祓いをしてから行うのが慣例だ。しかし、暁の帝国のお化け屋敷は学校ほどではなくとも、結界を張ったり地鎮祭をしたりと悪霊対策を講じるのが普通であり、この施設も当然、セオリーを踏まえて設計されている。
「昏月君が何かいるかもっていうと、ちょっと不安だよ」
「いたとしてもかなり弱い部類の霊体だと思うけどね。ただ、強いか弱いかはこの場合、関係ないか」
いるかいないかが重要なのだ。さらに言えば、それが僅かでも人に危害を加えるものならば、きちんと取り除かなければならない。事業者として当然の対応だ。
続く通路は無機質な白壁の一本道だ。学校から一転して、地下の非常用通路のような通路だ。蛍光灯の明かりで照らされているのが、返って不気味だ。
「本当ならここで、壁の右側からお化けの影がバーンて出る仕掛けになってるの」
「ここに? 普通の壁にしか見えない」
「壁は普通の壁だからね。この壁をスクリーンにして映像を投射するのよ。プロジェクションマッピングを活かした技術よ」
「へー、そうなんだ」
お化け屋敷の中を見て回りながら、千咲に仕掛けの説明をしてもらう。お化け屋敷の見学ツアーのようで楽しかったし、ギミックには最新の映像技術と昔ながらの制作技術を合わせた興味深いものだった。
「最後は脅かし役のスタッフさんの技術かな。お客さんの目線とかを誘導しながら、飛び出すタイミングを見計らってるんだよね。その辺はまだアナログなんだ」
結局、時々、何かに見られている感覚がしたものの、取り立てて霊体が姿を見せることはなく、面白いお化け屋敷の裏側を見学しただけになってしまった。
「何だろうね」
麻夜が呟く。
バックヤードの事務室で涼ませてもらいながら、コーヒーを飲んでいる。
「確かに、何かいそうなんだけど、分かんないなぁ」
「やっぱ、弱すぎるんだろうね。元が。怨霊とか、そういうレベルの相手なら、いるってすぐに分かるものだけど」
麻夜と零菜もお化け屋敷を巡っている内に何度か違和感を覚えたらしい。凪もそのタイミングで気配を感じたので、霊体が潜んでいるのは確実だ。
「でも、やっぱり何かいるんだ。えー、さすがに嫌だなぁ、それは」
「まあ、確かに気持ちが悪いのは分かる。普通は見えない相手だしな」
凪は生まれついて視える人間なので、霊体を見えない脅威と捉えたことはない。が、視えない人からすれば、どこに何がいるのか分からないというのは恐ろしいことだ。気配だけがそこにあるというのは、相手が幽霊でなくとも気持ち悪いと思うだろう。
「幽霊なんてのは、大抵は時間とともに消えていくもんだから、放っておいても害はないんだけどね」
「そういうものなの?」
「普通はね。そうでなければ世の中幽霊だらけになるじゃん」
「うん、確かに」
凪の指摘に、千咲は頷く。
いつまでも幽霊が残っていたら、それは大変なことだ。死者のほうが生者よりも圧倒的に多いに決まっている。それでは、この世なのかあの世なのか分からない。
「それに死んだ人の魂とかそういうのじゃないんだよ、俺たちの言う幽霊ってのは。残留思念なんて言って、強い感情を魔力で焼き付けた影みたいなものなんだ」
「影?」
「そう。だから、生き死には本来関係ない。生き霊って言うだろ? あれは生きてる人の感情が核になって生まれた残留思念だからだよ。個人レベルの残留思念なら、普通は数日も持たないんだけどね。才能っていうのかな、魔力なり霊力なりが強い人だったり、魔族だったりの感情が核になると、強い残留思念になるし、残留思念同士が混ざり合って強くなることもある。所謂怨霊とかはその進化形だ」
「あの、よくわかんないけど、うちにいるのは何?」
「実物が視えてないからなんとも言えないけど、最低レベルの残留思念かな。それでも人に霊障を起こせるくらいだから、怨霊に足を踏み入れてるかもしれないけど」
「どうしたらいいかな。何とかできそう?」
「出てきてくれれば、後はどうにでもできると思う。零菜の
「あー、そうだね。お化け屋敷のギミックに影響するとよくないよね」
零菜は凪の確認に頷いた。
槍の黄金は魔力や霊力を問答無用で無効化する能力を持つ。そういった力を用いるあらゆる存在に有効な切り札で、当然霊体が相手だろうと問答無用で消去してしまう。相手がどんな未練を核にしていようと関係がないので、無念を抱えた残留思念相手に使うのはあまりにも無慈悲だが、本質はそこではなく、お化け屋敷に使われているギミックすら容赦なく無効化してしまうという点に問題があった。
お化け屋敷全体に魔力無効化の神格振動波を流してしまうという作戦は、お化け屋敷そのものの営業に差し障るため使えない。
そのため、除霊するのなら霊体に出てきてもらうのが一番手っ取り早い。
「でもさ、さっき出てきてくれなかったし、どうしたら出てきてくれるかな。昏月君が攻魔師だって、分かってるかな?」
「どこまで知能があるかな。残留思念ってのは、それだけだとあまり知性はないもんだ。怨霊とかもそうだけど、結局、感情の塊だから打算的な行動は普通はしないんだよな」
この前、戦った猫鬼がいい例だ。
怨念の対象をどこまで追いかけて攻撃する傍ら、それ以外の相手は二の次だった。感情を核にした霊体は、理性がなくその核になった念を基にして行動する。
その一方で、力のある霊体は高い知性を持っている場合があり、悪知恵を働かせることもある。先入観を逆手に取られることもあるので、油断は大敵だ。
「じゃあ、基本に立ち返って霊体が出た状況を整理してみようよ。手がかりがあるかもしれないよ」
零菜の言うとおり、霊体が特定の状況下で出現するとすればその条件を見つけ出せば解決の糸口に繋がる。
「幽霊が出た時って言っても、あまり情報もないんだよね。……それこそ、SNSの投稿とスタッフの報告くらいだもん」
「そうだよね」
SNSはさっき見たとおりだ。特に新しい発見はない。もともと、短文の投稿なので情報量は多くない。スタッフの証言も似たり寄ったりだ。幽霊と思しい何かが出る場所は定まっていない。花子さんのトイレで見る人もいれば、ベートーベンの音楽室で見る人もいる。他にも廊下や出口付近と統一感はない。客の導線上のどこにでも出現するようだ。
「共通点ねえ……まあ、見た目が黒い靄ってのは、あまり参考にならないよね」
麻夜が自分のスマホでSNSを流し読みしながら呟く。
「霊的感受性が低いと靄みたいな形で見えるみたいだからな。それは、霊体全般の共通点だし」
霊体を認識するのは、それなりの霊力や魔力を持つものでないければならない。一般人が認識するには、その霊体がそれだけ強力な力を持っているときに限る。吸血鬼の眷獣のような魔力の塊と組成自体は近しいので、潤沢な魔力を内包していれば一般人にも見えるだろう。しかし、多くの霊体はそこまでの力を得ることができないので、一般人に認識されることがないのだ。
「はあー、読んでるのだるくなってきたなぁ」
零菜が投げやりな態度でスマホをテーブルに置いた。
他人の自慢話を延々に読み続けるのはなかなかの苦行だ。それも中には文章がとてつもなく読みにくいものもある。
母も学校も勉学にうるさい環境で生きてきた零菜は、ぱっと見で意味が分からないと思った文章に目を通すのが辛い。わざと文体を崩しているのだろうが、そういった書き方に頭が付いていかないのだった。
「この人の投稿、彼氏と食べ歩きのことばっかりなんだけど。大学生じゃないの……?」
「こっちも似たようなもん。プロフ画像が二人の自撮り写真だ。なんだろうな。なんか痛いなぁ」
零菜と麻夜が辛辣な感想をブツブツと呟いている。
「あはは、そうだね。でもまあ、そういう人の投稿が、お店の評判を左右することも珍しくないから」
誰でも情報を発信できるようになってからずいぶんと経ち、SNSを介した情報発信、収集は当たり前のように行われる時代だ。
評価基準をネットの情報に依存する者は普遍的に存在するし、そういった人の動きに一喜一憂する店も珍しいものではない。
積極的に「呟く」ユーザーは、その分だけ発信力がある。だからこそ、水島観光としては、今回の幽霊騒動が大きく話題になる前に決着を付けたいのだ。
「そういえば、これさ。何で彼氏の話ばっか何だろうね」
「ん? ああ、そうだね。確かに……」
零菜の疑問は麻夜も引っかかったようだ。
「え、何なんかあった?」
千咲は身を乗り出して零菜に聞いた。
「いや、彼氏が熱を出したって話は、そこそこ出てくるけど、彼女が熱を出したって話はないなって思って」
「たまたまじゃないの? 呟いてるのが女の人のほうが多いからとか」
「かもしれないけど。家族で来た人の投稿なんかにも、幽霊を見たって話がないんだよね」
ブルーエリジウム関係の投稿をざっと見ていくと、プレオープンの抽選に当たり、一家でレジャーを楽しんだという人の投稿もある。
そういった人たちの投稿だと、幽霊の噂に言及することはあっても、自分たちが幽霊に遭遇したとは書いていないのだ。
「幽霊は賑やかなのが嫌いとか」
「わたしたちも別に賑やかにしてたわけじゃないし」
「それもそうだね」
「ねえ、千咲ちゃん」
「ん?」
「千咲ちゃんも幽霊が出るか確認しに、お化け屋敷に入ったって言ってたじゃん。その時、一人で入った?」
「ううん。さすがに一人では入らないよ。あのときは、お父さんが一緒だったな」
「じゃあ、スタッフさんは?」
「スタッフさんは、ギミックのチェックに入った技術系の人と事務系のバイトの人だったかな。どっちもそれらしいのを見たってだけで、はっきりしたことは分からないんだけど」
「それさ、もしかして男女で入ったんじゃない?」
「え? ああ、確かにシフトでそうなってたけど。……何、そういうことなの?」
千咲は怪訝そうな顔をする。
「たぶん」
零菜は麻夜と凪に目配せをした。
どちらも、同じ結論に辿り着いていた。
「えーと、つまり、この幽霊は男女でお化け屋敷に入ると出るってこと? なんで?」
「それは、分からないけど、そういうのに執着する念が核になったってことなんじゃないかな?」
「えー……」
それが事実だとしたら、何とも情けない話だ。まだ、本当かどうか分からないし、背後に切実な事情があるのかもしれないが、結果だけを見れば、男女でお化け屋敷を楽しんでいるカップルのみが被害にあっている。スタッフのほうは分からない。男女一組がトリガーなのか、それとも、仕事中に仕事以外のお楽しみをしていたのか不明だ。
とはいえ、そんな理由で幽霊騒動を起こされていたのなら、経営側としてはやるせない。
「さっきわたしたちがお化け屋敷に入ったときに出てこなかったのは、四人組だったからかな」
「というより、あれじゃない。仕事っぽかったからじゃないかな。千咲ちゃん、作業着着てるし」
「あー、なるほど、そういうこと」
確かに、作業着を着た千咲が一緒にいると仕事の延長というように見える。男女比も一対三なので、さほど浮ついた雰囲気を感じさせることもなかっただろう。
「ふーん、てことは、お化けに出てもらうには、お化け屋敷でデートすればいいってことね」
「まあ、多分、予想通りなら、そうなるんじゃないかな」
「そんな馬鹿な話あるの?」
「そんなこと言われても」
千咲は真剣な表情で疑いの目を向けてくる。その気持ちはよく分かる。零菜自身半信半疑だ。しかし、状況から言ってそうとしか言い様がなかった。
「じゃあ、手っ取り早く解決するには昏月君と……れ、ええと、どっちが行く?」
デートを装えば、問題の霊体が姿を見せるかもしれない。
凪と零菜が二人で行けばと思ったが、麻夜があぶれてしまう。
踏み込んだことをすると、後々よくないかもしれないと千咲の脳内で警鐘が鳴った。男が一人に女が二人。女のほうは異母姉妹で、どうも同じ男にただならぬ感情を向けているらしい。それは近くで見ていて感じた。遠くで見ている分には面白い状況なのだが、その友人である千咲自身もまた当事者になってしまっている状況では正直、どう舵取りしていいか分からない。
とりあえず、判断は本人たちに任せよう。咄嗟に、そう判断して安全圏に退避することに決めたのだった。