お化け屋敷に取憑いた悪霊退治から一夜明けた。開け放った窓からは涼やかな朝の風が吹き込んでくる。熱帯夜だったのが嘘のように、過ごしやすい朝だ。テレビをつけると朝の情報番組が流れている。学校で一時間目の授業を受けている時刻だ。夏休みでもなければ、この時間帯のテレビを目にする機会はほとんどない。ただの朝の情報番組とはいえ、学生からすれば特別感があって、凪は好きだった。
「ニッキーとツヨシ結婚だって」
トーストを囓りながら零菜が麻夜に話しかけた。
「何か去年くらいにネットニュースに上がってなかったっけ?」
「ホテルから出てきたとこ、すっぱ抜かれたヤツのこと?」
「そうそう」
「あの後、何の音沙汰もなかったけど、続いてたんだねぇ」
芸能人の電撃結婚発表に、特にこれといった感想もなく零菜と麻夜は会話のネタにしている。ニッキーは、人気音楽グループ、スペモンの女性ボーカルでツヨシは歌手や俳優として活躍するマルチタレントだ。女性ファンが多く、熱愛発覚の記事が出たときに過激なファンが脅迫状をニッキーに送りつけて警察沙汰にまで発展した。芸能関係に疎い凪でも、これだけ世間を騒がせた二人なので顔も名前も知っていた。零菜と麻夜はこの話はあまり琴線に触れなかったようで、さらりと流してしまった。
「ねえねえ、今日、この後どうする?」
零菜の指が、正方形に切り分けられたサンドイッチに伸びる。塩気の効いた玉子とハムのサンドイッチだ。
「せっかくだから、どこか寄り道していこうか。このまま帰るのも味気ないしね」
と、麻夜が返す。
チェックアウトまでにはコテージを出なければならない。役目を終えた凪たちが、ブルーエリジウムの中にいつまでも留まっていることはできない。正式営業後ならばまだしも、今はプレ営業中で許可を得た一部の客だけが滞在を許されるのだ。
帰るときは速やかに帰宅しないと、会社に迷惑を掛ける。
「お土産でも買っていこうか。みんなもブルエリに来たかっただろうし」
「売店で?」
「今日はブルエリの売店やってない日みたい」
「じゃあさ、黒猫堂のケーキにしない? あそこ、テイクアウトも始めてるんだ」
「麻夜ちゃん、そこ好きだよね。じゃあ、ついでにちょっと早いけど、お昼もそこで済ませちゃう?」
「いいよ、そうしよう。ランチメニューもあるしね」
聞こえてきた店名には覚えがある。一年ほど前に麻夜と一緒に行った店だ。女子の間では、なかなかの有名店らしく、シックな雰囲気と可愛いデザインのケーキやパフェが人気だ。暁姉妹の中でも好評で、特に麻夜はその日の気分でモノレールを乗り継いで三号店にまで足を伸ばすこともあるくらいだった。
「ここからだと、三号店が近いんだよ」
「この前できたところだよね」
「そう。本店で修行したパティシエがそのまま三号店の店長に抜擢されたってことで、味の心配はまったくないよ。美味しかったし」
「凪君、それでいい?」
「どっかいきたいとか、希望ある?」
と、急に話を振ってこられた凪は、
「それでいいよ」
と、その場の勢いで答えた。
ある程度話の方向性が決まっているので、別の案を出しにくい。そもそも別案があるわけでもないので、何ら異議はないのだが、この話の流れからすれば、零菜たちの中に凪から異論が出るという発想はなさそうだ。
ブルーエリジウムを出て、一日ぶりに駐車場にやって来た。相変わらず、灼熱の太陽がアスファルトを焼いていて、陽炎がゆらゆら揺れている。コテージからここに来るまでに、大分汗ばんでしまった。早く涼しいところに避難したいところだ。
「凪君、何か付き合わせてごめんね」
「大した悪霊じゃなかったし、むしろブルエリに入れてラッキーだったよ」
「そう? じゃあ、よかった」
麦わら帽子を被って日光を避ける零菜は、凪にこの話を持ってきた張本人だ。結果的にほとんど負担なく問題を解決できたので、体感的には旅行と大差なかったのだが、それでも凪が悪霊と対峙することになったので、そこは危ない仕事を頼んでしまったと思っているようだ。
少し離れたところで、麻夜と千咲が談笑している。千咲は零菜と一緒にいることが多いのだが、麻夜とも長い付合いだ。何の話をしているのか聞こえてこないが、ずいぶんと楽しげである。
そんな二人を遠目に眺めていると、零菜が凪の袖を引いた。
「凪君さ」
「何?」
「……昨日の夜、麻夜ちゃんと何話してたの?」
「昨日の夜って……」
それはおそらく、真夜中に麻夜が水を飲みにリビングに来たときのことを言っているのだろう。何を話していたのかは、正直寝ぼけていたので、ほとんど記憶にないが、凪の血を麻夜が吸っていったのは確かだ。
隠し立てするようなことではないはずだが、何となく口ごもってしまう。
「いやらしいことでもしてた?」
「んなわけない」
「ふぅん……」
「何だよ」
「別に」
零菜の表情は麦わら帽子に隠れて凪の位置からだと見えないが、何となく、零菜の反応に棘があるように感じている。零菜の立っている側の肌が、妙にピリピリするのだ。零菜から妙な電磁波でも出ているのかもしれない。
そもそも、零菜は昨日の夜のことをどこまで把握しているのだろうか。夜もかなり更けている時間帯だったはずで、麻夜は、零菜は寝ていると言っていたはずだ。
確認しようにも、やぶ蛇になる気がするので、この話は保留する。
炎天下の中で、零菜との会話が途切れてしまう。何となく居心地の悪さを感じていると、麻夜と千咲がこちらにやって来た。
「ごめんごめん、待たせちゃったね」
「まだ、タクシー来てないし大丈夫だよ」
「ちょっと、時間かかってるのかな」
千咲が手配したタクシーの到着が予定よりも遅れているようだ。
「ごめんね。いつもだと、呼んだら十分くらいで来てくれるんだけど、この時間、この辺は混むからさ」
千咲が申し訳なさそうに謝る。
「まあ、それは仕方ないよ。この辺りは車多いもんね」
物流倉庫や工場、大型のショッピングセンター等が近くにあり、交通渋滞が起こりやすい地域である。
交通事故も、少なからず発生する。科学技術が発展しても、それを使うのは人間だ。近年は、格段に少なくなったものの、自動車事故はいつもどこかで起こっている。交通量の多いこの辺りは、事故多発地帯だ。
「炎天下にいてもらうわけにもいかないし、タクシー車で事務所で涼んでいいよ」
「ほんとに? 助かるー」
千咲の申し出に零菜がいの一番に喜んだ。
日光は肌の大敵だ。こんがり日に焼こうというのならばまだしも、白い肌を維持するのならば、できる限り紫外線は避けたい。日焼け止めクリームもしっかり塗っているが、この熱さにどこまで抵抗できるものか分からないし、汗もたくさんかいてしまう。いろいろと気を遣う年頃の乙女としては、屋内退避が最適解である。そして、これには麻夜も同意した。太陽光の下で、漫然と時間を使うよりはずっといい。
三人がブルーエリジウムを出たのは、その二十分後だった。予定時刻よりも若干遅くなったものの、計画は変更せず、黒猫堂三号店に向かったのだった。
零菜と麻夜と一緒に早めの昼食を摂ってから、凪は帰宅した。
自分の荷物を片付けなければならないので、零菜も麻夜もまっすぐに自宅に向かった。とはいえ、ワンフロアすべてが暁家の持ち物であり、玄関前までは一緒にいた。自宅というよりも自室と言った方がいいかもしれない。
僅か一日しか離れていなかったが、今回の小旅行は悪霊退治から始まったこともあってか、長く家を空けていたような気持ちになった。
「何か、靴がいっぱいあんな……」
玄関には、自分と空菜以外の靴やサンダルが置いてある。
暁姉妹の誰かが遊びに来ているのだろう。
これといって珍しいことではない。
空菜という同居人が増えてから、凪が不在であっても空菜を訪ねて誰かがやってくるようになったし、そもそも、暁姉妹が我が物顔で人の家に出入りするのは昔からのことだ。
特に疑問に思うこともなく、凪は自宅に上がる。自分の家なのだから、気兼ねすることはない。
廊下を歩いて行き突き当たりのリビングのドアを開ける。
「ただいまー……あ?」
ドアを開けた先に広がる光景を見て、凪は一瞬、固まった。
いつも以上に好意的に言うと生活感がある。悪意的に言えば散らかっているとも言える。テーブルの上にはトレーがあって、雑多な菓子の寄せ植え状態だ。一リットルのジュースのペットボトルが五本も置いてあって、すべて飲みかけだ。
誰が持ってきたのか、昏月家にはなかったダイヤモンドゲームや人生ゲームがお菓子トレーの横に出しっぱなしになっている。
凪が不在の間、この空間がパーティ会場になっていたのは誰の目から見ても明らかだった。空菜一人で、この雑然とした状況を作り出すことは絶対にあり得ない。
そして、この惨状を作り出した一人と思しい空菜はソファの上で静かに座り、帰宅した凪に視線を向ける。
「おかえりなさい、凪さん」
「ただいま。……なかなかすごい状況だな……空菜の格好も……何してたんだ?」
凪が驚いて言葉をなくしたのは、空菜の服装もまったくいつもと違う物になっていたからだ。空菜が着ているのは、所謂メイド服だった。それも、メイド喫茶の客引きが着ていそうなコスプレ専用のミニスカメイド服である。無駄にひらひらが多い。黒いガーターストッキングには、太もものにワンポイントで桃色のリボンが結んである。フリルの花をあしらったホワイトブリムをきちんと頭に装着し、メイドコスプレとしてはかなりの完成度に見える。もともと空菜の整いすぎた顔は表情の変化が乏しく、西洋人形のようだった。
「パーティでも、してたのか?」
「そうですね。たぶん」
「みんなは?」
「あっちです」
空菜の空色の瞳が示す先は、空菜の私室だ。
ドアの向こうに人の気配がある。ガタガタと僅かに音がするのは何か作業をしているからだろうか。
「何してんの?」
「片付けです。昨日の夜にいろいろ出したままにしてたので。ここにあるのも、そろそろ片付けますよ」
「そう」
「凪さん、それで、どうでしょう」
空菜は自分の胸元に手を置いて、そう尋ねてくる。
「……かなり似合ってる。いつもと全然雰囲気から変わるんで、驚いたよ」
「そうですか。なら、よかったです。どうも、この衣装はメイド服というには無駄が多く、機能的ではないように思いましたが、聞けば近年、男性の嗜好に合わせて変化した新しい形態とのこと。凪さんの嗜好にも適うようですね」
「変な納得の仕方するなよ。それと、外でそれ着るなよ」
「ええ、分かりました」
コスプレメイド服に妙なイメージを抱いている空菜は、凪の命を二の句なく了承する。空菜自身は、この衣装について思うところはあまりない。むしろ、メイド服は、人に仕えることを目的意識としてすり込まれている空菜にとっては、かなり馴染みやすい服でもあるのだ。だからこそ、観賞用に変質したコスプレ用のメイド服への違和感を強く抱いていたのだが、凪がいいと言えば、それはいいものなのだ。空菜は認識を新たにした。
「そもそも、なんでメイド服なんか着てるんだよ」
「まあ、それは昨日いろいろありまして」
ここで何かどんちゃん騒ぎをしていたのだろう。それはこの部屋の惨状を見ると簡単に予想することができる。
そこで、空菜の部屋のドアが開く。
部屋の中からは萌葱と東雲と紅葉が出てきた。東雲は大きな紙袋を両手で抱えている。
帰宅した凪を見た三人は、それぞれ三者三様の反応をした。
「え、凪君?」
「あら、思ったより早かったのね」
「ちょ、なん……っ!」
順に、萌葱、紅葉、東雲の反応だ。萌葱は驚き、紅葉は特に大きな反応なく、そして東雲は愕然として顔を紅くする。
それも無理ない反応だ。何せ、三人の中では東雲が最も大胆な格好をしていた。
空菜がメイド服を着ていたように、三人もコスプレを楽しんでいたようで、それぞれが普段見ない格好をしているのだ。
萌葱がナース服、紅葉は婦警、そして東雲は、ボア生地の布で作った露出過多のビキニだ。それぞれの生地は紐で繋がっているだけで、上半身の肌露出がかなり多い。足は太ももまでストッキングに覆われている物の、全体で見ればビキニの水着と変わりがない。彼女が顔を真っ赤にするのも頷ける衣装だ。
ハロウィンには早いが、どうも昨夜、このリビングでは前代未聞のお姫様によるコスプレパーティが開催されていたらしい。
「わたし、着替える」
早足でその場を後にしようとしたのは東雲だ。
「ダメよ。二十四時間、この格好って約束でしょう」
「いーやーだ」
逃げようとする東雲を紅葉が背後から抱き留める。
「あんまり暴れると、危ないところが見えちゃうわよ?」
「ちょっと、変なとこさ、さわ、やめー!」
紅葉の手が東雲の剥き出しの腹部をなで回す。
「……えーと、凪君、おかえり。大変だったね」
妹二人のじゃれ合いを傍目に萌葱は凪に話しかける。
「俺のほうは別に。大したことなかったよ。零菜たちとお土産買ってきたから、後で渡すよ」
「ああ、ほんと? ありがとう。気を遣わなくてもよかったのに」
努めて普通の会話をしているが、萌葱は萌葱でナース服を着たままだ。あまりにもいつもと違うので、違和感が飽和状態になっている。普段と違うと言えば、紅葉だ。日本にいるはずが、なぜ、この家にいるのか。戻ってくる連絡はもらっていなかった。
「……紅葉姉さん、帰ってたんだ」
「実は昨日のうちにね。本当は夏休みになったらすぐに帰ってくるつもりだったんだけど、そういうわけにもいかなかったのよね」
「大変だったみたいだからね」
「まあね」
黒く長い髪をさらりと払う。紅葉は留学先の日本で、事件に巻き込まれ、その解決に奔走していたらしい。先日報道され、日本と暁の帝国双方で話題になった。学校を舞台とした魔導犯罪は、日本の学校の警備体制について大きな課題を突きつけたと報じられている。それが一段落して、やっと帰省できたのであった。
「でも、なんで、そんなコスプレなんて?」
「もらいものなのよ」
「もらいものって、これを?」
「ルームメイトがね、これを着て写メを送ってくれって言って渡してきたのよ」
「なかなかやべーヤツなのでは?」
「そんなことないわ。ただちょっとわたしにのめり込んでるだけ」
そうは言っても、コスプレ衣装を友人に渡して、写メを要求するのは常軌を逸しているのではないだろうか。
「写メ送るの?」
「まさか、そんなわけないじゃない」
さらりと紅葉はそう言ってのける。
「でも、まあ、せっかくだからこれを使って楽しくやろうと思ったのよ。わたしとしては大満足よ。ねえ東雲」
「は、な、せ!」
またバタバタし始めた東雲を紅葉は解放する。
そのまま自分の着替えをひっつかんで、脱衣所まで脱兎のように走って行った。
「もったいない。可愛かったのに。ねえ?」
「んー、確かに」
その意見には同意する。
東雲の過激なコスプレは本人は恥ずかしがっていたが、かなり似合っていた。
記憶が正しければ、確かデンジャラスビーストなどというコスチュームだ。前に零菜が色違いの黒色のコスプレ写メを送ってきたことがあった。零菜のそれはまさしくデンジャラスなものだったが、東雲が着ると小動物的な愛らしさが強調される。同じ衣装でも、着る人によって印象がずいぶんと違うのだ。
「で、凪君、お土産って?」
「黒猫堂のケーキ」
「あら、素敵。麻夜のリクエスト?」
「そうそう」
「なら、三時のおやつは決まりね。凪君、わたし、コーヒーが飲みたいわ。ブラックで」
そう紅葉が言うと続いて萌葱が、
「あ、じゃああたしは紅茶がいい。確かあったよね、ダージリンが」
と、リクエストする。
そして、そのタイミングで戻ってきた東雲が、
「煎茶」
と、言って椅子に座る。
「何で全員バラバラなんだよ」
熱湯を沸かすだけで、細かい拘りはない。
全員お姫様ではあるが、家庭の中でプロ級のコーヒーやお茶を飲もうとは思っていない。むしろ、雑さがあったほうが家庭的で落ち着くというほどだ。
三時まで、あと一時間ほどある。凪は零菜や麻夜、紗葵にも携帯端末でメッセージを送り、ティータイムの準備を始めたのだった。
だらだらしたコスプレパーティの中身は次回します。そのうち姉妹の設定的なのも出すかも。