二十年後の半端者   作:山中 一

9 / 92
第九話

 サテライトマートを目指す凪と零菜を、蜘蛛の形態に変化した怪物が猛追する。

 目的地まで五百メートル。

 全力疾走で、およそ二分弱。その時間を、あの蜘蛛から逃げ切ればこちらにも有利か環境を整えることができるのだが、身体の大きさが段違いだ。当然、一歩の大きさもまったく違う。凪と零菜が全力で走っても、大蜘蛛はいとも容易く追いつき、牙を光らせる。

 頭の上に落ちてくる牙に、凪がグレネードを投じる。

 青白い光が大蜘蛛の眼前でさんざめき、その身体の強烈な霊力の波を叩き付ける。 

 大蜘蛛は光と霊力に驚き、後方に跳ねる。

「くっそ、あと一発しかねえ!」

 大蜘蛛にある程度の威圧効果を発揮するグレネードは、残り一発だけになってしまった。それを使えば凪の手持ちは警棒と眷獣だけとなる。

「凪君、ここはわたしに任せて。あいつはわたしが引き付ける」

「はあ? そんなことできるわけないだろ」

「あれが魔力に惹き付けられるなら、魔力量の多いわたしのほうが狙われやすい。だったら、わたしが囮になるほうがいいでしょ。それにわたしの槍なら、あいつに致命傷を与えられるかもしれないんだし」

 零菜の言っていることは、理に適っている。

 純正の吸血鬼である零菜の魔力量は、凪を上回って余りある。そして、魔力無効化の槍は魔力で構成された大蜘蛛の身体を消し飛ばすことが可能だ。

「いや、ダメだろ」

 凪は否定する。

「そもそも、零菜はお姫様だ。お姫様を残して逃げるってのは、さすがに無理だよ。これでも攻魔官の端くれだぞ!」

「わたしは凪君の護衛役なんだから、凪君の安全を確保しないとダメなの!」

「護衛とかそんなのこの際いいだろ、……このッ」

 零菜への言葉を抑えて上を見る。

 大蜘蛛が跳んでいる。

 グレネードの直撃から、さっそく回復したと見える。

 その大蜘蛛を空を駆ける閃光が撃ち抜く。空中で三つの爆発が生じ、大蜘蛛がひっくり返って地面に落下する。

「ッ――――今のは、紗葵ちゃん?」

 これほどの威力の矢を放てるのは、紗矢華と紗葵の二人だけだ。そして、紗矢華は今朝から出張に出ていて不在となれば、絶好の狙撃ポジションを確保している紗葵による援護と考えていいだろう。

 彼女の部屋からは、この大蜘蛛の動きが手に取るように分かるはずだ。

 空から降り注ぐ矢が大蜘蛛の身体を撃ち、さらに特区警備隊の面々がいよいよ大蜘蛛に攻撃を仕掛ける。数が少ないのは、近場から騒ぎを聞きつけてやって来たからだろう。零菜を隠れて護衛していた者も含まれているのかもしれないが、詳しい事情は凪には分からない。

 とにかく、現状は凪と零菜だけがあの大蜘蛛に立ち向かっているというわけではないのだ。

 銃声と爆音が響き、空から魔力の矢が轟音と共に墜ちる。

 大蜘蛛の身体が崩れ、じゅくじゅくと傷口が蠢く。足は捥げて、内臓は零れ落ちていた。半死半生に見える大蜘蛛はしかし、実のところまったくダメージを受けておらず、取れた足の傷口から、無数の触手を伸ばして銃撃を仕掛けてくる有象無象を打ち払う。

「うあああああああああ!」

「ぐ、ああああああああ!」

 金属が拉げるような甲高い音が響いて特区警備隊の隊員が宙を舞う。

 身体を壊しても意味を成さない相手に銃器で武装しただけの隊員では分が悪い。高価な呪装弾の類を持ち出さなければ目に見えるような効き目がない。標準装備の対魔獣弾は魔獣や魔族の再生を阻害する効果があるものの、魔力の塊に対処する効能は持たないのだ。魔獣と眷獣では本質的に別物だからだ。

「あ……!」

「馬鹿、戻ってどうする!」

 凪が隊員に駆け寄ろうとして零菜の手を掴み、引っ張る。

「で、でも……!」

「こっちに惹き付ければ、アイツはほかに目もくれずこっちに来る。とにかく、サテマまで走ればいい!」

「う、うん」

 魔力量の少ない隊員にあえて襲い掛かる意味はないだろう。目の前の凪と零菜(ご馳走)に比べれば、人間の隊員など捕食するだけ時間の無駄だ。その隙にメインディッシュに逃げられるようなことになっては元も子もない。

 案の定、大蜘蛛は空から降り注ぐ矢を無視して前進を開始した。

 矢によって身体が崩れていくこともあって速度はかなり鈍くなっている。

 このまま走っても、サテライトマートまで十分に逃げ切れそうだ。そして、そうすることがあの大蜘蛛に立ち向かった隊員たちを救うことにも繋がる。

 しかし、もう少しでサテライトマートの駐車場跡地に入るというところで、側溝から泥が伸び上がった。

「な……!?」

 まさか、足元の側溝から敵の触手が伸びてくるとは思っていなかった。

 蜘蛛の形態を取っていたとしても、本質は不定形の泥の魔力生命体だ。身体の一部を変化させることなど造作もないことであり、現に特区警備隊の隊員を迎撃したときに同じように肉体の構造を変化させていたではないか。

 完全に不意を突かれた零菜は、足に絡みつく泥に抵抗できずそのまま宙に吊り上げられた。一気に下半身までが泥の触手に飲み込まれる。

「こ、の……槍の黄金(ハスタ・アウルム)!」

 零菜が切り札たる魔力無効化の雷撃槍を召喚する。右手を貫く雷光が、主の身に纏わりつく汚泥を消し去ろうとしたとき、まるで電池が切れたかのように明滅した。

「あ、う、嘘ッ……。魔力、が……」

 途端に襲い掛かってくる倦怠感と常軌を逸した眠気。このまま、睡魔に身を任せてしまいたいという欲求が、抗い難い強さで襲い掛かってきた。

 泥が急速に零菜の魔力を吸い上げているのだ。

 槍の黄金(ハスタ・アウルム)が実体化を維持できずに消失する。

 そのまま零菜を飲み込もうとする泥に向かって、凪が飛び掛る。

「来い、鈍き金剛(ドール・アダマス)!」

 凪の両腕に、金剛石の籠手が現れる。

 鈍く輝く籠手に守られた拳を握り、思い切り泥を殴りつける。

 瞬間、金剛の輝きが泥の柱を吹き飛ばし、零菜を解放する。

「おらあッ」

 さらに、凪は金剛の靴と脛当てで足を保護し、追いすがる泥を蹴り飛ばした。

 落下する零菜を抱き止めて、凪は大きく後方へ飛び退く。

 鈍き金剛(ドール・アダマス)の能力は、反射だ。攻防一体の金剛石は身体から離して使えないものの、防具としてあらゆる攻撃を弾き、そして武器としてはその反射能力であらゆる敵を弾き飛ばす。そして、移動に用いれば、自分の身体を弾き飛ばすことで大きく距離を取ることも可能だ。もちろん、そのときには相応の反動を計算に入れなければならないが。

「ぐ、……!」

 ぐらり、と凪は上体をふらつかせた。

 一瞬だが、目の前が揺れた。

 体内から魔力が抜け落ちていく感覚。眩暈に似た症状に冷や汗が吹き出る。だが、それ以上に今は零菜だ。

「おい、零菜!」

 抱き抱えた零菜は顔面を蒼白にして呻く。

 生命力の根幹に関わる魔力を奪い取られているのだ。眷獣を呼ぶことはおろか、立つことも儘ならないだろう。

 零菜がこれほどにまで弱ってしまっているとなると、槍の黄金(ハスタ・アウルム)の使用は難しいといわざるを得ない。

 凪は、進行を続ける大蜘蛛に思い切り最後のグレネードを投げつける。僅かでも足を止められればそれでいい。空から降り注ぐ矢も相俟って、足止めには十分な効果を発揮してくれる。そして、それは足止めにしかならないということでもあった。

 凪は歯軋りし、思い切り地面を蹴った。

 アスファルトが砕けて、凪の身体は眷獣の反射の力で一息に二十メートルを走破する。駐車場の入口から、工事中のエントランスまでを二歩で進んだ凪は、眷獣を送還してサテライトマートの中に入り込んだ。

 解体工事は始まったばかりで、店内は原型をそのままに残していた。

 防音シートによって日光すら入り込まない店内は、夜と同じくらいに暗い。

 ダンピール化によって暗闇を見通す目を手に入れた凪ではあるが、やはり明るいところほどものが見えるわけではない。

 生鮮食品売り場だった場所を抜け、寂寞の海に沈んだ店内を息を潜めて進んでいく。

 息を殺しているのに、鼓動の音はいやに強く聞こえる。

 鈍き金剛(ドール・アダマス)は使い勝手のよさに反して大食いだ。ほんの十秒足らずの使用で、貧血を起こしかけている。

 凪も零菜もほぼ戦闘不能に近いところまで追い込まれた。援軍の到来までここで凌がなければならないというのに、戦力が零では話にならない。

 もしも、ここに敵が現れたら。

 考えるまでもないことだ。

 動ける凪と動けない零菜。凪一人ならば逃げ切ることは可能だろうが、それは選択肢には入らない。

 当然、凪が囮となって零菜を生かすことになるだろう。疑問の余地もなく、凪はそれが当たり前だと受け入れていた。

 凪は人間よりも寿命が長いと言われている割に、常に身近に死を感じてきた。眷獣を使うたびに何かが少しずつ薄れていくのを感じていたし、大病などもあって己の生死については達観した価値観を持っている節がある。まだ十五の若者ではあるが、これと定めたものに対して命を擲つことができるのは、彼の強みであり短所でもあった。

 凪は零菜を抱えたままに止まったエスカレーターを駆け上り、二階にやってきた。

 道具が取り除かれ、柱だけが残った二階フロアは閑散としていて車のない立体駐車場にも似た雰囲気を感じる。凪は柱に零菜を寄りかからせると、自分もその隣に腰を下ろした。

 それから、自分と零菜の回りに気配を隠す魔術をかける。相手が魔力を感知して襲ってくるのなら、姿を隠しても意味がない。気配そのものを魔術的に隠蔽しなければならない。

「ッ……」

 パーカーの袖を捲くってみると、両腕の肘から先が血に濡れている。金剛石の籠手に覆われていた部分だ。足のほうも酷い状況だろうし、身体中の毛細血管が破れて青あざだらけになっているのも鈍痛の具合から分かる。凪の人間の部分が、吸血鬼の魔力行使に耐え切れていないのだ。寿命を削る上に身体にかかる負荷も桁外れ。それでもただの人間が眷獣を使うよりは何百倍もましなのだ。普通の人間なら、この時点で死ぬか虫の息だ。それを思えば、凪は純粋な吸血鬼ではないにしてもかなり眷獣の使用に耐性をつけていると言えるだろう。

「ん……」

 もぞもぞと零菜が動いた。

 凪は捲くっていた袖を戻す。

「あ、凪君?」

「気付いたか。よかった」

「ここ……もしかして、サテマの中?」

「ああ。サテマの二階だ。見ての通り、何もないけどな」

 営業しているときには、数百人の客と従業員で賑わったフロアも、今となっては閑散として物寂しい。

 普段見られない裏側を見られたとなると、童心に返ったような気持ちになるものだが、零菜はその直前に鼻腔をくすぐる鉄臭さに気付いて顔色を変える。

「凪君、もしかして怪我……」

「まあ、ちょっとな」

「ちょっとって」

 すぐ隣から漂ってくる血臭は、擦り傷程度のものではない。明らかな流血の気配を嗅ぎとって、零菜は凪の腕に手を伸ばした。

「い……!?」

 凪は漏らしかけた苦悶の声をかみ殺す。

 零菜は凪の反応にびくりとしながらも、ゆっくりと服の袖を捲り上げる。

「これ……」

 だらりと垂れ下がった左腕から立ち昇る血臭に頭がくらくらしそうだった。

 裂けた皮膚から血が滲み、赤黒く腕を染め上げている。

「眷獣、使ったの?」

「ほっとけば治る」

「そんな……! だって、そんなことしたら……!」

 零菜は、凪に抗議しようとして身体を起こそうとして、がくりと崩れ落ちた。体勢を崩した零菜は凪に枝垂れかかるような体勢になってしまう。

「おい、大丈夫か?」

「ごめん……。力、入んなくて」

「しばらく休め。俺は見た目が酷いだけだけど、零菜はそうはいかないだろ。中身が空っぽだ」

「う……」

 敵に吸い取られた魔力はそう簡単には回復しない。できれば一晩は寝て過ごす必要があるのだが、現状ではそうも言っていられないので、走れる程度の体力を取り戻すのを目標にして休憩しなければならない。

 しかし、凪に凭れるわけにもいかないので、零菜は無理矢理身体を起こして柱に背中を預ける。

「凪君」

「ん?」

「もうやめてって言ったのに……」

 恨みがましいというような口調で、零菜が言う。

「ごめんね。また、わたしの所為だよね」

「違う。あの化け蜘蛛の所為だ」

「でも、わたしがしくじらなかったら凪君が眷獣を使う必要はなかった。命を削るようなことをしなくて済んだのに」

 零菜がはっきり覚えているのは、自分が泥に飲まれかけていたことだけだ。その後、どのように凪が救い出してくれたのかは分からない。しかし、推測することはできる。凪の怪我の具合を見れば、それが眷獣の召喚によるものだということは分かるし、凪が零菜を救い出すために寿命を代償に眷獣を召喚したのだということは疑う余地もない。

「ほんとに、ごめんね」

 じわりと、零菜の目尻に涙が浮かんだ。

「お前、謝ってばっかだな。気にしていないっての」

「だって、凪君死んじゃうかもしれない」

「死なねえよ、こんなんじゃ。俺は、人並み以上に生きられるらしいしな」

 凪は吸血鬼の力を持つ人間ということでダンピールと仮の呼び名を与えられた新種扱いだ。その能力やダンピール化の経緯から、不老不死ではないものの通常の人間を遙かに上回る寿命があるとされているのだ。

「そんなのだめだよ。凪君が人よりも長い寿命があるっていう根拠がないのに」

 しかし、零菜はそれを否定する。

「凪君はそもそも自分の寿命が何年あるのか分かるの?」

「そりゃ、知らねえけど」

「じゃあ、寿命が延びたかどうかもはっきりしないじゃん。もしかしたら、人間並みの寿命かもしれない。それなのに、寿命を削ることは確定している眷獣を使ってたら、あっさりと寿命を使いきるかもしれないよ。凪君の身体は分からないことが多いから、無茶はしちゃだめなのに」

 無茶をしてはならないと言いながら、それが難しい状況だったことは零菜にも分かっている。凪が無茶をしなければ、零菜は今頃干物になっていただろう。

「凪君をそんな身体にしたのは、わたしなのに、わたしの所為で寿命を使い果たしたなんてことになったら、……そんなの、抱えきれないよ」

 膝を抱え込み、零菜は俯いた。

 彼女の声は震えて、今にも消えてしまいそうだった。

 凪はため息をついて答える。

「別に、零菜の所為ってわけじゃないって。前にも言っただろ」

「でも、わたしが凪君の血を吸ったのがそもそもの原因でしょ。そのときに凪君の身体に送り込んだわたしの魔力が、凪君の身体に残り続けてたから、古城君が凪君を血の従者にしようとしたときに失敗したの。魔力同士が競合しちゃって、凪君の身体には吸血鬼の因子だけが残ったから」

 凪のダンピール化には二つの段階があった。

 一つ目は零菜が凪の血を吸ったときに、凪を血の従者にしようとして失敗したこと。このときは、幼かった零菜の知識不足により致死量の血を失った凪が危うく死にかけるという事件も起こっていて、それが零菜の吸血嫌いに繋がってしまっていた。

 二つ目はその数ヵ月後、凪が病に倒れ余命幾許もないという状況になったときに、苦肉の策として古城が血の従者にしようとしたときだ。

 凪自身の強すぎる霊力が災いして、肉体を崩壊に導くという科学技術でも対処が難しい問題に、不死の呪いを分け与えることで対処しようとしたのだが、凪の体内に残る零菜の魔力が古城の魔力とぶつかって凪の身体に不可逆の変質を引き起こしてしまった。

 偶然に偶然が重なった末に起こった予測困難な事例だった。

「まあ、そんなとこだろうとは思ってたけどな」

 凪は後頭部を柱につけて、天井を見上げた。

 ダンピール化の原因は、はっきりとしたことは分からないということになっている。とはいえ、自分の身体に起こった現象だ。状況からして、凡その予想はできた。

 零菜が小学校のころのことを未だに引き摺っているのは、その後の態度から明らかだった。あの一件については、凪だけでなく零菜も相当傷ついており、当事者である凪から話しかけるのを躊躇してしまうのも無理からぬことだろう。

 零菜はずっと思い悩んできたことでも、凪自身はさほど気にしていない。

「ああ、むしろこれでよかったよ」

「どうして……?」

「そりゃ、あのとき古城さんの血の従者になってたら今でも子どもの姿だったはずだろ。成長できたんだから、こっちのほうがいい。はっきり言えば、俺がまっとうに生きていくには、ダンピールになるしかなかったんだよ。だから、何の問題もない。むしろ、感謝してるくらいだ」

「そんなの……」

 何と答えたらいいのか、零菜には分からなかった。

 零菜があのとき血を吸っていたから、凪は眷獣の召喚能力を身につけてしまった。人間を辞めることになり、訓練を積んで戦う道を歩みだした。自ら命を危険に晒すという選択肢を凪が選ぶ原因になったのは、間違いなく零菜なのだ。

 しかし、その一方で零菜が血を吸っていなければ、今頃凪は古城の血の従者となっていただろうしそうなれば、幼い姿のままで生活することを余儀なくされていただろう。

 眷獣を使うことによるデメリットを考えなければ、むしろダンピール化はあの時点での最良の結果だったとも言える。

 問題なのは、凪が眷獣の使用を躊躇しないことだ。必要性を感じたら、すぐにその力を利用する。せっかく人よりも長く生きられる可能性を手にしていながら、このままでは人よりも早く寿命を使い果たしてしまうかもしれない。零菜が眷獣を使うなというのは、そんな凪を思ってのことだった。

「……わたし、もう分かんないよぅ」

 弱弱しく零菜は呟いた。

「俺だって分かんねえよ。でも、昔のことを気にしても仕方ないんだって。前向きに捉えるのが一番だろ」

「わたしのこと、嫌ってないの?」

「嫌う理由がないっての」

 凪は即答し、零菜は気恥ずかしさから顔を膝に埋めた。

 つくづく現金な女だと自分でも思う。

 凪に肯定されたことで罪悪感がこうもあっさりと薄れてしまうとは。

「それに、昔話してる場合でもないだろ。ここがあの蜘蛛野郎にばれるのも時間の問題だ」

 この建物に逃げ込む瞬間は見られている。

 相手が執念深く追ってくるのなら、いずれは発見されることだろう。凪の隠蔽は、あらゆる目から逃れられるほど性能の高いものではない。

「今のままだとお互いに立てないし走れないしで見つかったら終わりだ。まあ、俺は眷獣使って抵抗できるけど」

「あ、でも、そ、れは……!」

「抵抗だけだよ。そもそも、あれをぶっ飛ばす火力がない。ジリ貧だ。零菜のほうは……」

「まだ、全然……」

 申し訳なさそうにする零菜を凪は責めない。

 さっきの今で魔力が回復するはずがない。言葉を交わせる程度に体調は回復したようだが、それだけだ。体力も魔力もすっからかんだということに変わりはない。

「どの程度、血が必要になる?」

 凪の問いに零菜は目を丸くして驚く。

「血って、あの……」

「吸血鬼は血を吸えば力を増すんだろ。古城さんは、それで難局を乗り切ってきたって聞いたことがある」

「う、まあ、ママの愚痴にそんな話があったような気もするし、事実だけど」

 現状を打破するのに有効な策ではあると思う。

 零菜が凪の血を吸えば、それだけで零菜は失った魔力を取り戻し、さらに絶好調の状態で敵を迎え撃てる。凪の血の力を考えれば零菜は平時を大きく上回る出力を出すことも不可能ではないだろう。

「でも……」

 零菜にとって吸血は禁忌だ。

 凪にすべてを話してその上で許しを得たからといって、早々に吸血できるわけではない。精神的な枷はまだ残っている。もしも昔みたいに加減を誤ってしまったら、とか色々と考えてしまうし、何よりも子どもだったころとは異なりきちんと性差を認識できる年齢になっている。異性の血を吸うというのは、魔力補給の意味を超えたものになってしまう。

 しかし、本能の部分では凪の血を吸える好機に昂揚している自分がいるのもまた事実だ。

 凪の首のどこをどのくらいの強さで噛めば血を吸えるのか、考えなくても分かる。牙で凪の皮膚を裂き、血管を食い破って熱い血潮で喉の渇きを潤す瞬間を想像して、心臓が跳ね上がるような気持ちすらした。

 吸血を抑制してきた罪悪感の原因を凪は気にしないと言った。

 そして、彼自身からの提案でもある。

 言質は取っているのだ。ならば、この蠱惑的な誘いに乗ってしまっても何も問題はない。何と言っても緊急事態だ。法的にも吸血が認められる状況下で何を迷う必要がある――――。

 長年溜め込んだ様々な不安や不満が欲望の形で渦を巻き、弱りきった肉体の中で膨張していくのが分かった。

「いいの?」

「いいよ。それに、本当に選択肢がほかにねえ」

 零菜を如何に回復させるかということが、何よりも重要だった。

 バリバリと大きな音が響く。

 防音シートが引き裂かれ、大蜘蛛が店内に強引に押し入ってきたのだ。

 考えている時間はもうない。

「うぅ……」

 吸血という魅力的な提案に牙が疼いて仕方がない。その一方で、どうしても最後の一歩を踏み出せないでいるのは、かつての過ちを繰り返してしまうのではないかという不安からだった。牙を突き立てて、それで凪にもしものことがあるのではないかと。

 今となってはそのような失敗は十中八九ないのだが、それでも不安になってしまうのだから仕方がない。

「あ……凪君、手……」

 零菜の視線が凪の手に向かう。

 凪の両腕からの出血は、まだ完全には止まっていない。これなら、牙を立てる必要もないではないか。

 妙案だと思った。

「痛……!」

 零菜が凪の左手を取った。

 放射状に広がった傷は指先にまで達しており、痛々しい血色に染まっている。

「零菜、おまえ」

「噛んだら、また昔みたいになるかもしれないし……!」

 ごくり、と生唾を飲んだ零菜はおずおずとしながら凪の人差し指を口に含んだ。

 確かに血液を摂取できるのであれば、噛み付く必要はない。すでに出血しているのなら、そこから血を啜っても構わないのだ。とはいえ、いくら一番咥えやすいからといって、指を咥えるのは反則だ。

(これは、いろいろと不味いだろ)

 零菜の口の中が想像以上に暖かく、ぬるぬるとしているのが艶めかしい。見ないようにしても、指から伝わる感覚は打ち消せない。零菜の唾液が傷に染みてじわりとした痛みを伝えてくるおかげで理性を保てているようなものだ。

 零菜は零菜で頬と瞳を紅潮させて吸血に耽っている。

 凪の内心の葛藤には気を配る様子もなく、傷口から血を吸い上げ、舌で追い回す。

 血を啜っていたのは、ほんの一分にも満たない時間だった。それでも、異様なまでに長い時間が経過したような気がした。

 我に返ってみると、とてつもなく恥ずかしい。

 零菜と凪は互いに視線を合わせず、そっぽを向く。

「あの、ふ、拭くから!」

 零菜は沸騰したかのように顔を紅くしつつ、ハンカチで凪の指を拭く。手つきが乱暴で、傷が痛む。凪は文句を言わずに、零菜に任せた。

「零菜、身体は?」

「大丈夫。……やっぱり、凪君のはすごいね……すぐに元気になれた」

 零菜ははにかみ、ハンカチを畳んでポケットに仕舞った。

「今なら、負ける気しない」

 立ち上がった零菜の身体から紫電が漏れ出た。

 充溢した魔力が、零菜の身体の内側から溢れ出す。

 零菜は振り返り様に雷光を一閃。

 衝撃波がホールを駆け抜け、背後に迫る泥の触手を跡形もなく消し飛ばした。

「凪君、動ける?」

「動く分には問題ない」

「なら、巻き込まれないようにしてね」

 濁った魔力の胎動を感じる。

 零菜から三十メートルほど離れたフロアの一画が崩落し、そこから大蜘蛛が這い上がってきた。蜘蛛の腹に当たる部分は触手を生やしていて、あたかもヒュドラかヤマタノオロチのような外見になっていた。

 触手の先は二股に裂けていて、捉えた敵を捕食する器官として利用するものだと分かる。

 その触手を、大蜘蛛は零菜に伸ばす。

「それが――――どうした!」

 槍の黄金(ハスタ・アウルム)の一閃が、雷光の刃を飛ばし大蜘蛛の触手を斬り飛ばす。零菜は床を蹴って、一足飛びに大蜘蛛との距離を詰め、顔面に槍を突き込む。穂先が大蜘蛛に突き立つ寸前に、零菜は槍の狙いを変えて床に突き立て、高飛びの要領で宙空に身体を投げ出す。

 大蜘蛛は零菜が正面から槍を突いてくるものと判断して後方に跳躍していた。零菜が跳んだ先に、自ら身体を投げ出す形になったのだ。

「ハアッ!!」

 そして、今度こそ零菜の槍が大蜘蛛の頭を真一文字に斬り裂いた。

 着地した大蜘蛛は体毛を逆立てて零菜を牽制しつつ後ずさりする。上下に分かれた頭は、すぐに再生する兆しを見せない。魔力無効化が効いているのだろうか。傷口から魔力を漏らし、後退していく。

「逃がさないよ」

「零菜、深追いするな!」

 凪が零菜を制止する。その声と同時に、大蜘蛛は全身の毛を膨らませてばら撒いた。その毛は、空中で人間大の蜘蛛と化し、フロアの床や壁に八本の足をつける。

「ひ……」

 零菜が喉を干上がらせる。

 うぞうぞと蠢く蜘蛛の大集団。生理的な嫌悪感は、どうあっても打ち消せない。

 この群れに飲み込まれたら最後、全身に牙を突き立てられて魔力を吸い上げられてしまうことだろう。

 蜘蛛の津波を、零菜が槍の一振りで押し戻す。迸る雷撃と煌く魔力無効化の刃が蜘蛛を打ち払う。

 その零菜の頭上に、泥の糸が飛び交った。

「ちょ……蜘蛛ごと」

 糸を放ったのは親元である大蜘蛛だ。

 己の分身である蜘蛛と纏めて零菜を絡め取るつもりだ。いずれにしても、蜘蛛も糸も大蜘蛛の身体の一部だ。結局帰るところは同じなので、零菜の動きを封じることができればそれでいいのだろう。

 上から迫る糸を、強烈な霊力の斬撃が吹き飛ばした。

「一旦退け、零菜!」

「凪君!」

 凪は呪符を投じて十羽の鷹を生み出して蜘蛛に突っ込ませる。壁として利用することで、零菜の退路を確保するためだ。

 鷹は善戦するも多勢に無勢。あっという間に飲み込まれて取り込まれたものの、零菜が凪の隣まで戻ってくるだけの時間は稼げた。

 蜘蛛の数は見たところ五十匹ほどはいるだろうか。

 槍一本で捌くには難しい数だ。それに、その後ろにはやや体積を小さくした大蜘蛛が控えている。

「来るよ、凪君」

「応、上等」

 槍と警棒を構える二人に向かって、蜘蛛の群れが突撃を開始する。 

 津波を二人で押し戻すようなものだ。

 状況は、悪化の一途を辿っている。

 覚悟を決めたまさにそのとき、二人の視界を金色の雷光が埋め尽くした。

 猛烈な熱と魔力が吹き荒れて、凪と零菜は思わず後退する。

「な……」

 一瞬の雷撃の後には焼け爛れたフロアが残された。蜘蛛の群れは、一撃で半数が削り取られている。

「よかった、零菜も凪君も無事みたいね」

 かつん、と軽妙な音が響く。

 槍の穂先が、床を打った音だ。

「な、ま、ママ……!? なんでここに!?」

 唐突に現れたのは雪菜だった。

 スーツ姿に白銀の槍を携えた出で立ち。槍がなければOLと言われても納得できる格好だが、その身体から溢れる禍々しい魔力と澄み渡る霊力は、常軌を逸した次元にあると言っても過言ではなかった。

「例の怪物がこのあたりに出たって聞いて、南宮先生に転移させてもらったの。間に合ってよかった」

 ほっとしたのだろう。雪菜が笑みを浮かべる。

 助かった、と漏らしそうになるのを零菜は堪えた。母親への反発心半分、活躍の機会を奪われたことに対する抵抗感が半分といったところで、素直にありがたがれなかった。

「ちょ、上!」

 蜘蛛の一匹が、いつの間にか雪菜の頭上に進んでいた。零菜が叫ぶや否や、雪菜に向かって蜘蛛が飛び掛る。死角からの完全なる奇襲は、しかし、雪菜に近付いた途端に身体が霞みのように消えてしまい失敗した。

「零菜、余り騒がないの」

 たしなめるように雪菜は呟く。

 雪菜は、その視線を襲ってきた蜘蛛に向けることすらなかった。

「きちんと普段から槍の黄金(ハスタ・アウルム)の真価を引き出せるように鍛錬を積んでいれば、これくらい、どうということもないでしょうに」

「ちょっと! こんなときにまでお説教とか止めてよ!」

 零菜が悲鳴のような声を上げた。

「それに、アイツはわたしがやるから」

「何言ってるの。あなたにはまだ早いでしょ」

「子ども扱いしないでよ。とにかく、わたしがやるのー!」

 やれやれといった様子の雪菜に食って掛かる零菜は、黄金色の槍を消さずに前に出ようとする。

「協力して、早めに片付ければいいのでは?」

 努めて冷静に、凪が言った。

 雪菜が仕方ないとばかりに頷いた。

「凪君の言うとおりね。言い争っても仕方ない。あれを倒すには核を叩かないとダメみたいだし、わたしが外装を剥ぎ取ったところを零菜が止めね」

「止め、おっけー。で、核って何?」

「あの眷獣(・・)をこの世界に止めている憑り代のこと。あなたたちが見た、白い服の女の子がそれね」

「あれが……」

「五年前に行方不明になった吸血鬼の女の子。魔力を吸収する蜘蛛型の眷獣を使っていたみたいよ。おそらくは、どこかで宿主が亡くなって、眷獣だけが周囲の魔力を吸収して実体化し続けていたってところでしょうね」

 通常は宿主が死ねば眷獣も共に消滅する。この世界に実体を維持するだけの魔力が供給されなくなるからだ。ところが、あの蜘蛛は宿主が死んだ後も、自分の能力を駆使してこの世界に留まっていたというのだ。宿主の遺体を自らの核として魔力が霧散しないようにした上で、外部の生命を襲って力を蓄えていたのだろう。

 よって、外的要因にとって核となる吸血鬼の遺体を破壊されるなどすればあの大蜘蛛は実体を維持できなくなり消滅する。

「じゃあ、やるわよ零菜」

 雪菜が雪霞狼を回し、穂先を蜘蛛に向ける。

「雪霞狼!」

 解き放たれる神格振動波の清純なる輝きが蜘蛛の群れを打ち消し、押し戻す。

「薙ぎ払え、獅子の黄金(レグルス・アウルム)!」

 そして、蜘蛛の群れの中にぽっかりと開いた穴を埋めるように雷光の獅子から抽出された雷撃の魔力が暴威を振るう。

 白と黄金の圧倒的な破壊を前に、蜘蛛の眷獣たちは根こそぎ蹴散らされ、大蜘蛛を守るものが壊滅する。

 雪菜は右手を振り上げ、五指を鉤爪のようにすると大蜘蛛目掛けて振り下ろす。

 その動作に惹かれて異界から呼び寄せられた獅子の腕が、鋭い爪を翳して大蜘蛛の身体を引き裂いた。

 大蜘蛛にとっては不意打ちにも等しい暴力だ。

 虚空から現れた雷撃の爪は、一撃で以て大蜘蛛の身体の七割を削り取り、内部から死相を浮かべた少女を引きずり出した。

「零菜!」

「分かってる!」

 ドン、と零菜が地面を蹴った。

 身体が軽い。 

 蝶にでもなったようで、それでいて力強く地面を蹴りつけて少女の遺体に肉薄する。

 ぞぶり、と少女の遺体が黒い肉の中に沈んでいく。なけなしの肉体で核を守ろうとしているのだろう。

「遅い!」

 零菜は叫び、槍を少女の胸に突き入れた。

槍の黄金(ハスタ・アウルム)!」

 閃電が走り、魔力無効化の刃が少女の内側から大蜘蛛の核としての力を根こそぎ打ち消す。魔力の根幹を破壊された大蜘蛛は、実体を維持できずに消滅した。

 大気中に溢れた澱んだ魔力も母娘の魔力無効化の槍の効果で霧散し、跡形も残らなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。