「オリビアちゃん。こっちのテーブルにも来てくれよ。」
いつものおじさんが私にかまってくる。
「はいはい。また後でね。」
私は適当にあしらって、給仕の仕事を続ける。
彼と出会ってから数週間。結局あれから何が起こったわけでもなかった。私の日々はこうやって波風たたずに過ぎていく。
駅からは少しだけ離れた場所。入り組んだ路地の先に、私たちの店はある。立地的にはあまりよくないけれど。それでも夜中から明け方にかけて、多くの客がやってくる。だから日々の客の顔を覚えているだけで精一杯で、あの人の顔なんて覚えていなかった。
「精が出るねぇオリビア。」
「いいえ、働き足らないくらいです。」
心にもないお世辞をおかみさんに言って、わたしは厨房にまわった。
「最近どうだい。」
「何のことですか。」
「あの狼とのことさ。」
「えー。あれきりですよ。特に変わったことはありません。」
「そうかい。最近、オリビアちゃんがよく笑うようになったって、客の間じゃ話題だよ。」
「何言ってるんですか。所詮はビジネススマイルです。」
「でも。あたしからみても、雰囲気が変わったように見えるんだけどねぇ。」
分からない。なんで今日はこんなにも、彼のことを思い出すんだろう。もう顔すら覚えていないのに。彼、どんな顔だったっけ。
たしか、ふさふさの耳に、控えめのマズル。ても、牙は立派だったかな。あとはあの鋭い瞳に…
「やあ。オリビア。」
「え。」
そこには、さっきから思い出していた顔があった。
「なんでここにいるの、ユージン。」
「なんでって、君に会いたいからじゃダメか。」
「またそんなこと言って。そういう軽いノリ好きじゃないんだけど。」
周りの目線がこっちに集まってくる。ユージンだってなんでこんな目立つかな。さっきまでだれも注目してなかったのに。
「一緒にご飯でも食べに行こう。」
「ちょっと待って。私今仕事中なんですけど。」
「お金は出すから。」
「あーもう。おかみさん。」
私は急いで厨房に駆け込んだ。
「いいよいいよ。今日は早退ってことで。」
「ちょ、おかみさんまで。」
「さ、行ってきな。」
言われるがまま、仕事を早退してしまった。
都会の道は、いつだって明るい。月明かりなんて比じゃない位に。満天の星空みたいに、私たちをぼんやりと照らす。
店を抜け出して、2匹そろって、街灯の光の中を歩く。あの日と違って、あまり多くをしゃべることが出来なかった。
改めてみると、素敵な顔をしている。毛並みは前と違って整っていて、王子様だって簡単にわかるくらい。街で見かけた、綺麗な絵本に出てくる挿絵みたいで。教会で見つけたステンドグラスみたいで。なんだかきらきらしすぎてる。それが、真新しい服を着ているのだから目立たないはずがなかった。街ゆく人々がみんな彼を見つめている。まるで私とは反対みたいに。
「私の顔に何かついているか。」
「あ、ううん。そうじゃないの。」
私としたことが、ユージンをじろじろ見つめていたみたいだ。
「…なんで今日。急にきたの。」
「それは、さっきも言っただろ。君に会いたいから。」
「そうじゃなくて。なんで今日まで来なかったの。」
「それは、」
少し言いよどんだ後、彼は話をつづけた。
「仕事が忙しかったんだ。すまないな。」
「男の人って、いつもそういうのね。」
「それは、」
「ふふ。なんてね。ありがとう。来てくれてうれしい。」
「……そうか。」
なんでだろう。彼と会うと。いつもの顔ができなくなる。子供のころから練習してた、一歩引いた笑顔が。この街で身に着けた、貼り付けたこころが。それが、全部解けていくようで。自然と、彼のための表情に置き換わっていく。
なにをしているんだろう。私は。いつもの私じゃないみたい。
「にしても目立ちすぎよ。特にその服。」
「変…だろうか。近くの店で一式買いそろえたんだが。」
「変じゃないけど、妙に高そう。この辺工場で働いている人多いからさ。目立つと思う。」
「そうか。オリビアは嫌か。こういう服。」
「いいえ。嫌じゃない。」
2匹の影が、街灯の光に溶けていった。