ドイツ軍人になった一夏くん   作:強い一夏すこすこ侍

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最強の試験官

 日曜日の朝。

 空は薄く引き伸ばされた水彩のように淡く、陽はまだ柔らかく校舎の角を撫でている。

 学園は平日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。静けさは重く、まるで時間が息を潜めているかのように感じられた。

 まるで、今日という日を試験のために整えたかのような静けさだ。

 一夏は、胸の奥に小さな石を飲み込んだような感覚を覚えていた。

 静けさが深まるほど、心のどこかがざわつく。

 戦場に出る前、風が止まり、音が消え、世界が自分だけを置き去りにしたように感じる、あの瞬間に似ている。

 一夏は寮を出て、指定されたアリーナへ向かう。

 人気のない校舎の廊下は、足音がやけに響いた。

 その足音は、まるで自分の鼓動が外に漏れ出しているかのように規則正しく、しかしどこか乱れていた。

 廊下の空気は冷たく、肌に触れるたびに緊張を研ぎ澄ませる。

 壁に並ぶガラス窓には、誰もいない教室が映り込み、そこに自分の影だけが揺れていた。

 廊下の蛍光灯が淡く揺れ、壁に映る自分の影がいつもより長く伸びているのを一夏は無意識に見た。心の中の緊張が、足音と同じリズムで高鳴る。

 

(……静かだな)

 

 静けさは、時に刃物より鋭い。

 音がないというだけで、世界が自分を試しているように感じる。

 軍にいた頃、訓練前の空気はもっとざらついていた。

 ここは平和だ。だが、その平和が逆に落ち着かない。

 アリーナに近づくにつれ、空気がわずかに変わる。

 風が止み、音が消え、視界が開ける。

 そこに──彼女はいた。

 更識楯無。

 制服を着こなし、扇子を片手に、まるで散歩の途中のような軽さで立っていた。

 陽光を受けて、彼女の水色の髪が淡く輝く。

 その姿は、静かな朝の風景の中で異質だった。

 美しい──だが、それ以上に危険(・・)な匂い。

 彼女の周囲だけ、空気がわずかに張り詰めているように感じられた。

 強者(・・)の気配が、景色の中で浮いている。

 その気配は、周囲の空気を引き締めるように存在していた。見る者の心拍を静かに攫う、冷たい磁力のようなもの。

 一夏は、喉の奥がわずかに乾くのを感じた。

 視線を合わせた瞬間、背筋に細い針が触れたような感覚が走る。

 

「おはよう、一夏くん。時間ぴったりね」

「……そちらは、早いですね」

「試験官が遅刻じゃ、カッコつかないしね」

 

 楯無は笑う。

 向けられた視線は、まるで薄い膜越しに心の奥を覗き込むようだった。

 笑っているのに、目だけが獲物を観察する猛禽類のように鋭い。

 一夏は、背中に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。

 

「じゃあ、始めましょうか。準備はいい?」

「問題ありません」

 

 昨夜、一夏は眠れなかった。

 軍にいた頃から、強敵と戦う前は目が冴えて眠れない。

 眠れなかった夜の記憶が、まるで薄い幕のように胸に残っている。眠れぬ時間に反芻した自分の動きが、身体に微かに宿っているのを感じた。

 深呼吸をしても、胸の奥の熱は消えなかった。

 

「ふふっ、いい返事ね。じゃあ──」

 

 楯無は扇子を軽く振る。

 

「まずは、あなたの素の力を見せてもらうわね」

 

 その瞬間、アリーナの空気が変わった。

 風が止む。

 音が消える。

 視界の端で、砂粒が浮いたように見えた。

 空気が、まるで水のように重くなる。

 一夏は肺の奥が圧迫されるような感覚に、思わず呼吸を浅くした。

 戦場で、死が近づいた瞬間にだけ漂う気配の変質──それと同じだ。

 

(……気配が消えた?)

 

 楯無は確かに目の前にいる。

 だが、存在感が薄い。

 まるで、そこに立っていないかのような錯覚。

 視界に映っているのに、脳が「いない」と判断する矛盾。

 その違和感が、背骨を冷たく撫でていく。

 一夏は、無意識に拳を握りしめていた。

 ISを使った試験ではないのか、と言う疑問は既に一夏の脳内からは消え去っていた。

 

(……これが、学園最強。千冬姉と同じ……いや、違う。質が違う)

 

 千冬の動きと比較する自分に、胸の奥で小さな違和感が芽生える。

 似ているが、根底にあるものが違う──それが直感として伝わってくる。

 千冬の強さは例えるならば、絶対的な壁──見上げるモノだ。

 だが楯無の強さは、底の見えない深淵に近い。

 どこまで落ちるのか分からない恐怖と、覗き込みたくなる好奇心が同時に湧く。

 一夏は呼吸を整え、右足を半歩引く。

 

「どうしたの? 構えていいのよ?」

「……構えてますよ」

「それ、構えてるって言わないわよ?」

 

 挑発だ。

 だが、乗ったら終わりだ。

 足裏から伝わる砂の感触が、やけに鮮明だった。

 一歩踏み出せば、死ぬかもしれない。

 だが、一歩踏み出さなければ、何も掴めないのを一夏は知っている。

 楯無は、緊張感を持ちつつも、わずかに笑みを浮かべた一夏の表情を見て、満足げに頷いた。

 

「……じゃあ、行くわよ?」

 

 扇子が、ふわりと揺れた。

 次の瞬間──楯無の姿が消えた。

 

(来る──!)

 

 一夏は反射で横へ跳ぶ。

 直後、さっきまで立っていた場所に、楯無の影が落ちた。

 影が落ちるまで、音は一切なかった。

 ただ、空気が一瞬だけ震えた。

 その震えが、刃物のように皮膚を切り裂く錯覚を生む。

 

「へえ……避けるんだ?」

「避けないと死ぬ気がして」

「ふふっ、正解」

 

 楯無の声は楽しげだが、動きは容赦がない。

 その速度は、一夏の反射神経でもギリギリ追えるかどうか。

 動きの一つ一つが、まるで計算された舞のように無駄がない。視界の端で光る扇子の軌跡が、冷たく美しい。

 

「じゃあ、次はどう避ける?」

 

 楯無が再び消える。

 

(速い──!)

 

 風圧だけが、一夏の頬をかすめた。

 だが、一夏は踏み込み、逆方向へ跳ぶ。

 その動きに、楯無の扇子が空を切った。

 扇子が空を裂く音は、まるで氷が割れる瞬間のように鋭かった。

 ほんの数ミリずれていれば、頸動脈が切れていた様に感じる。

 その事実に一夏は、喉の奥がひりつくほど乾くのを感じた。

 

「……本当に、面白いわね」

 

 楯無のその瞳は、まだこちらの力を測る様な色が強い。

 

(……この人、まだ本気じゃない)

 

 それが分かる。

 分かってしまう。

 本気を出されたら、自分は何秒持つのか。

 そんな計算が脳裏をよぎり、すぐに振り払う。

 考える暇があれば、動け──嫌と言うほどに叩き込まれた教訓が身体を動かす。

 扇子が閉じられ、楯無の気配が一瞬だけ濃くなる。

 空気が震え、一夏の頬を、冷たい汗が流れる。

 自身にかかる重力が増したような錯覚。

 肌の表面に、細い針が無数に触れたような感覚が走る。

 世界の色が一段階、暗く沈んだように感じた。

 視界の端がわずかに歪み、音が遠のく。

 まるで、楯無を中心に重力の井戸が形成されているかのようだった。

 その中心に立つ彼女は、微笑んでいるのに、どこか人ならざる静けさをまとっている様に感じる。

 

(……来る)

 

 楯無は微笑んでいる。

 だが、その微笑みの奥にある何か(・・)が、景色を歪ませる。

 その何か(・・)は言葉にするのは難しく、見る者の内面を覗き込むような力を持っていた。

 いうなれば、心の奥底にある弱さを、静かに炙り出すような視線。

 一夏は、胸の奥に隠していた恐怖(・・)という名の小さな影が、じわりと浮かび上がるのを感じた。

 それは一夏が戦場では何度も押し殺してきた感情。

 それを、楯無はただ立っているだけで引きずり出してくる。

 

「──少しだけ、ギアを上げようかな」

 

 その声と同時に、楯無の足がわずかに沈んだ。

 ほんの数ミリ。

 だが、その沈み込みは跳躍(・・)でも踏み込み(・・・・)でもない。

 戦場で嫌と言うほど見た、殺しに行く為の動き。

 一夏の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。

 頭で考えるよりも先に、身体が反応する。

 次の瞬間、楯無の姿が消えた。

 風切り音すらない。

 ただ、一夏の視界からいなくなった(・・・・・・)

 

(速い……! いや、違う。速いだけじゃない──気配も消してるのか!?)

 

 三年間、鍛えに鍛えた反射神経が、かろうじて反応する。

 一夏は右へ跳ぶ──が、それすら遅い。

 背後に、気配。

 

(後ろ──!)

 

 一夏は反射で身を沈める。

 直後、楯無の扇子が、彼の頭上を静かに通り過ぎた。

 音はない。

 ただ、空気が裂けた。

 空気が裂けた瞬間、耳の奥でキン、と金属音のような残響が鳴った。

 その一撃が、もし頭蓋に触れていたら──想像しただけで背筋が凍る。

 一夏は、砂の匂いを強く感じた。地面に伏せた瞬間の、生々しい匂い。

 

「へえ……避けるんだ?」

 

 背後から聞こえる、先ほどと同じセリフ。

 だが、先ほどとは違うのは一夏の状況。

 彼女のセリフに、言葉を返す様な余裕はなくなっていた。

 

(次──!)

 

 楯無の気配が、再び消える。

 消える、というより溶ける(・・・)に近い。

 存在が空気に溶け込み、境界が曖昧になる。

 一夏は、視覚ではなく、砂の動き、風の流れ、皮膚の感覚──ISを部分展開することによって、ハイパーセンサーから何まで使えるすべてを総動員して位置を読む。

 

(この動き……ただの踏み込みじゃない。重心移動がほぼゼロ。身体の軸を崩さず、最短距離で移動している……!)

 

 人が動くとき、身体のどこかに必ず予兆が現れる。

 それは、視線であったり、筋肉の動きだったり、多岐に及ぶ。

 だが、楯無の動き出しにはそう言った気配がまるで読めない。だからこそ、相手に消える(・・・)と錯覚させるのだ。

 視界の端で、砂が舞う。

 その砂の動きで、一夏は位置を読む。

 

(左──!)

 

 一夏は左へ転がり込む。

 その直後、楯無の足が地面を軽く叩いた。

 けれど、その軽さとは対照的に響くのは重い音。

 その一撃は地面に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。

 砂が跳ね、細かな粒が一夏の頬に当たる。

 その痛みが、逆に自分はまだ生きている、という実感を与える。

 地面に走った亀裂は、まるで巨大な獣が爪を立てた跡のようだった。

 一夏は、喉の奥で乾いた息を呑む。

 

(……冗談だろ)

 

 おそらく、ISを部分展開し、放った一撃。

 あれを食らえば、ただでは済まない。

 その事実が一夏の背中を凍らせる。

 だが同時に、胸の奥で熱が膨らむ。

 「この人と戦える」という事実が、恐怖と同じくらい強い興奮を呼び起こす。

 戦場で生き残った兵士だけが知る、あの生の実感(・・・・)

 

「ふふっ、いい反応ね。一夏くん」

 

 楯無は楽しげに笑う。

 その笑みは、完全に戦闘を楽しんでいるのが一夏に伝わった。

 

「じゃあ──次はどう避ける?」

 

 楯無が再び消える。

 

(避けるだけじゃ、終われねぇ……! 反撃しないと、永遠に試される側のまま!)

 

 一夏は息を吸い、地面を蹴る。

 今までと違って、逃げるのではない。

 自分から踏み込む。

 砂が爆ぜ、足裏に伝わる反動が骨を震わせる。

 逃げる動きと攻める動きでは、世界の見え方が違う。

 視界の中心に楯無の気配(・・)が浮かび上がり、周囲の景色が薄く霞む。

 戦場で何度も経験した、集中の狭窄が訪れる。

 楯無の気配が背後に現れる瞬間──

 

(ここ──!)

 

 一夏は振り返りざま、拳を突き出した。

 狙いは、楯無の肩。

 殺傷ではなく、牽制。けれど、力を込めた一撃。

 拳を突き出す瞬間、空気が裂けるような感触が腕を伝う。

 自分の拳が武器(・・)として機能する感覚──軍で叩き込まれた動きが、身体の奥から蘇る。

 一夏は、拳が届く前から当たる(・・・)と確信していた。

 しかし──

 

「甘いわね」

 

 楯無は扇子一本で、その拳を受け止めた。

 ぶつかった様な音はない。

 ただ、空気が震えた。

 扇子に触れた瞬間、拳に伝わるのは硬さ(・・)ではなく流れ(・・)

 力を吸い取られ、逸らされるような奇妙な感覚。

 まるで、拳が水面に触れたかのように衝撃が消える。

 一夏は、背筋に冷たいものが走る。

 

(……受け流された!? こんな細い扇子で!?)

 

 理解できない、と呆然とする一夏に楯無は微笑む。

 

「でも、──反撃するって判断は、正解よ」

 

 次の瞬間、楯無の膝が一夏の懐に滑り込む。

 膝が動いた瞬間、空気が押し出されるような圧が生まれた。

 その動きに、視覚よりも先に皮膚が察知する。

 一夏は、反射で腕を交差させようと動くより早く、身体が死の予感(・・・・)に反応していた。

 

(まず──い!)

 

 一夏は腕を交差する。

 だが、楯無の膝は寸前で止まった。

 ほんの数センチ。

 止まった膝から、熱が伝わる。

 その熱は、攻撃の余熱ではなくこれから本気を出す準備の熱。

 楯無が囁く。

 

「ねえ、一夏くん。あなた……まだ本気じゃないでしょう?」

 

 その声は甘く、しかし刃のように鋭い。

 一夏の背筋に、冷たい汗が流れる。

 囁きが耳元に触れた瞬間、心臓の鼓動を乱す。

 甘い声なのに、その言葉は逃げ場を奪う。

 本気じゃないと言われた瞬間、一夏の胸の奥に隠していた焦りが露わになる。

 楯無は一歩下がり、扇子を軽く開いた。

 

「さあ──次はあなたの番よ。一夏くん」

 

 風が吹き、砂が舞う。

 アリーナの空気が、一気に熱を帯びる。

 砂が舞い上がるたび、光が乱反射し、楯無の輪郭が揺らぐ。

 その揺らぎが、まるで幻のように、彼女はここに居ないのではないか、と錯覚させる。

 一夏は、呼吸を整えながらも、胸の奥の熱がさらに強くなるのを感じた。

 深く息を吸い、構えを取り直した。

 構えは変えていない。変えたのは意識だ。

 訓練ではなく、相手を殺すための切り替え。

 本来、学園では必要ないはずの思考。

 だが──今は必要なのだと、本能が呼びかける。

 一夏の視界が狭まり、楯無だけが中心に浮かび上がった。

 心拍がゆっくりと落ち着き、代わりに筋肉が熱を帯びる。

 

「──行きます」

「ええ、来なさい。一夏くん」

 

 楯無が一歩下がり、扇子を軽く開いた。

 その姿は優雅で、まるで舞踏会の始まりを告げる令嬢のようだった。

 だが──一夏には、違うものに見えていた。

 

(……誘ってる)

 

 挑発でも余裕でもない。

 いうなれば観察(・・)だ。

 相手の最初の一撃で、その者の戦い方の全てを読み取る──それは、相手の一撃を受け止められるという技量があって、初めてなせる技。

 楯無の立ち姿は一見すると、隙だらけに見えてその実、隙がない。

 肩の力は抜け、呼吸は浅く、視線は柔らかい。

 だが、彼女が醸し出しているその全てが()だと一夏の本能は理解していた。

 一夏は、目の前の相手が自分の動きをただただ楽しみにしていることを、肌で感じ取る。

 深く息を吸い、肺の奥まで空気を満たす。

 心拍が落ち着く。

 視界が狭まり、楯無だけが中心に浮かび上がる。

 

(距離は三メートル。踏み込みの一歩で詰められる距離じゃない。だが──跳ぶなら)

 

 一夏は、足裏に力を込める。

 地面がわずかに沈み、筋肉が収縮する。

 その瞬間、世界が静止したように感じた。

 音が消え、風が止み、楯無の瞳だけが鮮明に見える。

 相手の反応速度を上回るための、最短で最速の一撃。

 一夏は地面を蹴った。

 砂が爆ぜる。

 空気が裂ける。

 踏み込みの瞬間、足裏から脊髄へと衝撃が駆け上がる。

 身体が矢のように前へ飛び、景色が線となって流れる。

 楯無の姿が、まるで()のように大きく見えた。

 

(──ここ!)

 

 繰り出すのは拳ではない。

 掌底。

 殺傷を避けつつ、最大の衝撃を与えるために。

 狙いは、楯無の胸元。

 まともに入れば呼吸を奪える。

 掌底を突き出す瞬間、手のひらに熱が集まる。

 空気が圧縮され、掌の前に()ができるような感覚。

 その壁を破る勢いで、一夏は全身の力を掌に乗せた。

 だが──

 

「ふふっ」

 

 楯無は笑った。

 次の瞬間、一夏の掌底は空を打った。

 

(……避けられた!?)

 

 掌が空を切った瞬間、腕に走る虚無感が一夏の心臓を冷やす。

 確実に捉えたはずの距離。

 反応できるはずのない速度。

 それを、楯無はまるで散歩の途中で道を避けるような自然さでかわしてみせた。

 

「いいわね、その踏み込み。ちゃんと仕込まれてる(・・・・・・)って感じ」

 

 楯無の声が、耳元で響く。

 

(耳元──!?)

 

 一夏の背筋が跳ねる。

 掌底を放った直後の死角(・・)に、楯無は当然のように入り込んでいた。

 その動きは、視覚ではなく気配の移動としてしか一夏は捉えられていない。

 一夏が振り返るより早く、楯無の扇子が肩口に触れた。

 軽い。

 だが、その軽さが逆に恐ろしい。

 

(……完全に読まれてるワケか!)

 

 扇子が触れた瞬間、肩に冷たい電流が走る。

 攻撃ではない。

 当てようと思えば、当てられるという無言の宣告。

 

「でもね──」

 

 楯無は扇子を軽く押し当てる。

 

「相手の呼吸を奪いたいなら……こうやってやらないとね」

 

 その瞬間、楯無の気配が爆発した。

 空気が震える。

 視界が揺れる。

 一夏の身体が、反射で後退する。

 追従する様に楯無は一歩踏み込み──扇子が、一夏の喉元へ一直線に走る。

 一夏の肺が一瞬だけ掴まれた(・・・・)ように感じた。

 呼吸が止まり、胸の奥で熱と冷たさが同時に弾ける。

 楯無の纏う気配は、ただ強いだけのソレではない──込められた殺意の質(・・・・)が明確に違う。

 戦場で死にかけた瞬間にだけ漂う、あの圧が一気に押し寄せてきた。

 

(速い──!)

 

 反射で腕を上げる。

 だが、間に合わない。

 

(……死ぬ──!)

 

 時間が伸びる。

 扇子の軌跡が、光の線となって視界に焼き付く。

 その線が自分の喉元へ吸い込まれるように迫り、皮膚が先に切られる感覚を錯覚させる。

 一夏は、心臓が一拍遅れたような感覚に襲われた。

 その瞬間──扇子は、寸前で止まる。

 数値に表せばほんの一センチほど。

 その距離で、楯無は微笑む。

 

「ね? これがお手本」

 

 一夏は息を呑む。

 汗が背中を伝う。

 止まった扇子の先端が、まるで境界線(・・・)のように見えた。

 一歩踏み込めば死ぬ。

 一歩退けば逃げになる。

 その狭間に立たされている感覚が、一夏の心臓を強く締め付ける。

 

(この人は……この人もやはり千冬姉と同じ)

 

 一夏の胸の奥で、何かが熱く燃えた。

 恐怖と興奮が混ざり合い、血が沸騰するような感覚が広がる。

 生きている(・・・・・)という実感が、骨の髄まで染み渡る。

 戦場でしか味わえなかったあの感覚が、今、楯無によって呼び起こされていた。

 

(……面白ぇじゃねえか)

 

 一夏は歯を食いしばり、再び構えを取る。

 構え直す腕が震えているのは、恐怖ではない。

 身体が戦いたい(・・・・)と叫んでいる証拠だった。

 楯無の前では、弱さも強さもすべて剥き出しになる。

 

「次は……当てます」

「ふふっ、戦場に次は無いんじゃないかな。一夏くん?」

 

 砂煙が薄く漂うアリーナ。

 その空気はすでに試験(・・)の域を超えていた。

 楯無は扇子を軽く回しながら、一夏を見つめる。

 その瞳の奥に、先ほどまでなかった()が宿っていた。

 興味。

 好奇心。

 その色は、強者が同類(・・)を見つけたときにだけ宿る光だった。

 楯無の視線は、もはや試験官(・・・)のソレではない。

 かといって、獲物を見る目でもない。

 ただ純粋に──戦いたい相手を見る目だ。

 一夏は肩で息をしながらも、視線を逸らさない。

 

(……まだ距離がある。詰められない。いや、詰めさせてもらえない……!)

 

 一夏は、楯無との距離は三メートル、という単純な数値では表せないではないことを理解していた。

 その間には、技量、経験、殺意、そして()が横たわっている。

 それを越えなければ、攻撃は届かない。

 楯無が一歩、砂を踏む。

 その足音は軽いのに、空気が震えた。

 その一歩は、ただの移動ではない。

 一夏に()をかけるための一歩。

 戦場で敵の心を折るために使う、心理的踏み込み。

 一夏は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。

 

「最初はね、あなたの反応を見るだけのつもりだったのよ?」

 

 楯無の声は柔らかい。

 だが、その柔らかさの奥に、わずかな()が混じり始めていた。

 その熱は、戦闘狂のそれではない。

 もっと静かで、もっと深い──強さへの渇望に近い。

 楯無は、強者として孤独だったのだと、一夏は直感した。

 楯無は扇子を閉じ、腰を落とす。

 その姿勢は、先ほどまでの遊び(・・)の様な気配ではない。

 

(……気配が変わった)

 

 空気の色が変わるように感じた。

 まるで景色のコントラストが上がり、世界の輪郭が鋭くなったようだ。

 うるさいくらいに鳴らす心臓の鼓動が耳に届く。

 楯無の周囲の空気が、わずかに沈む(・・)

 その沈みは、重力が増したような錯覚を生む。

 一夏は、呼吸のリズムを乱されないよう必死に整えた。

 

「あなた、本当に面白いわね」

 

 楯無の足が沈む。

 砂がわずかに跳ねる。

 

(来る──!)

 

 一夏は反射で横へ跳ぶ。

 だが、楯無はそれを追う──ところに一夏の拳が飛んでくる。

 一夏の拳は、先ほどまでとは違う()を帯びていた。

 無駄がなく、迷いがなく、ただ当てるため(・・・・・)だけに研ぎ澄まされた拳。

 軍で叩き込まれた殺意の形が、表に出始めている。

 楯無は一夏の拳を扇子で受け流し、逆に足払いを仕掛けた。

 一夏はそれを跳躍して避ける。

 その一連の攻防が、ほんの一秒。

 一秒の中に、あらゆる動きが詰め込まれていた。

 拳、扇子、足、跳躍──すべてが最短距離(・・・・)で交錯する。

 砂が舞い、風が唸り、二人の影が重なっては離れる。

 

「ふふっ……やっぱり、あなたは戦場でも戦える子ね」

 

 楯無は楽しげに笑う。

 だが、それは先ほどまでの余裕からくる笑みとは違う。

 そこには、わずかな高揚(・・)が混じっていた。

 楯無が本気で楽しんでいる証拠。

 一夏は、その変化を見逃さなかった。

 

「はじめは、ただの転校生。軍上がりで、ちょっと反応がいいくらいだと思ってた」

 

 楯無は扇子を肩に乗せ、軽く首を傾げる。

 

「でも──」

 

 その瞳が、一夏を射抜く。

 

「気付いてる? あなた、最初より動きの質が変わってるわよ」

 

(……認められた、のか?)

 

 一夏の胸の奥が熱くなる。

 軍で何度も求められた評価とは違う。

 これは──強者(・・)からの評価だ。

 その言葉は、一夏の中の何か(・・)を確実に刺激した。

 恐怖でも、緊張でもない。

 もっと原始的で、もっと純粋な──戦いたい(・・・・)という衝動。

 それが、胸の奥で静かに燃え上がる。

 

「だから、もう少しだけ本気を出すわね?」

 

 楯無の気配が、ふっと変わる。

 軽さが消えた。

 柔らかさも消えた。

 残ったのは──強さ(・・)だけ。

 圧倒的な、純粋な、研ぎ澄まされた強さ(・・)だ。

 空気がわずかに震え、景色の輪郭が鋭くなる。

 一夏は、目の前の相手が段階をひとつ上げたことを、言葉より先に身体で理解した。

 その変化は、音も光も伴わないのに、世界の密度だけが増したように感じられる。

 

「一夏くん。あなたの強さ……もっと見せて?」

 

 一夏は拳を握り直す。

 呼吸を整える。

 視界が狭まり、楯無だけが中心に浮かぶ。

 

「行きます」

「ええ、来なさい」

 

 先ほどと同じやり取りを交わす。

 しばらくの静寂、それを裂くように一陣の風が吹いたその瞬間──互いの距離が、一気にゼロへと縮まった。

 踏み込みの瞬間、砂が弾け、空気が圧縮される。

 互いの動きは、もはや見える(・・・)というより感じる(・・・)領域に近い。

 一夏は、楯無の気配が自分の周囲を滑るように移動するのを、肌で追った。

 砂が爆ぜる。

 風が唸る。

 二人の影が交錯する。

 互いの攻撃を躱し、あるいは受け止め、その攻防はすでに十合を超えていた。

 一夏の掌が空気を押し、楯無の扇子が軌跡を描く。

 その軌跡は、紙のように薄いのに、触れれば確実に何か(・・)を奪うと分かる鋭さを持っていた。

 一夏は、自身が攻撃を放つたびに、楯無の読み(・・)が自分の動きを先回りしているのを感じた。

 楯無の扇子が空を裂き、一夏の拳、あるいは掌底が風を切る。

 そのたびに砂が舞い、地面に細かな跡が刻まれていく。

 

(……速い。けど──見える)

 

 一夏の視界は、極限まで研ぎ澄まされていた。

 楯無の重心の揺れ、呼吸のわずかな変化、足裏の沈み──その全てが次の動きのヒントになる。

 楯無の足が砂を踏む。

 その瞬間、一夏は逆方向へ跳ぶ。

 扇子が一夏の頬をかすめる。

 紙一重。

 頬をかすめた風が、冷たく鋭い。

 その一瞬の冷気が、むしろ一夏の集中をさらに深める。

 まだいける(・・・・・)と本能が告げていた。

 

「ふふっ……本当に避けるのね」

 

 楯無は笑っていた。

 だが──その笑みは、先ほどよりわずかに薄い。

 薄くなった笑みの奥に、読み切れないものへの高揚が見えた。

 楯無にとって、一夏はすでにただの転校生ではない。

 未知(・・)として扱われ始めている。

 楯無が踏み込む。

 その速度は、先ほどより明らかに速い。

 一夏が拳を突き出すが、楯無は扇子で受け流す。

 その瞬間──互いの視線がぶつかった。

 

(この距離なら──!)

 

 同時に動いた。

 一夏の掌底が、楯無の胸元へ突き出される。

 楯無の扇子が、一夏の喉元へ延びる。

 互いの急所を狙った、最短、最速で繰り出される一撃。

 

 そして──互いが動きをピタリ、と止めた。

 

 時間が凍りついたような静寂。

 砂の一粒が落ちる音すら聞こえそうなほど、世界が静まり返る。

 掌底は楯無の胸元、わずか一センチ。

 扇子は一夏の喉元、紙一重。

 楯無の表情から、笑みが消えた。

 楯無の赤い瞳が、静かに揺れる。

 驚愕でも、怒りでもない。

 

「……ここまでやるとは思わなかったわ」

 

 楯無の声は、先ほどまでの軽やかさを失い、静かな深みを帯びていた。

 その声音は、強者が予想を超えられた時にだけ漏れるもの。

 一夏は、互いの間に漂う緊張がゆっくりとほどけていくのを感じた。

 だがその奥には、まだ消えきらない熱が潜んでいる。 

 一夏は掌を引き、楯無も扇子を下ろす。

 砂が風に流れ、静寂が戻る。

 止まった瞬間の静けさが、耳鳴りのように長く残った。

 胸の鼓動がゆっくりと戻り、周囲の世界が再び色を取り戻していく。

 一夏は、自分の呼吸がわずかに乱れていることに気づく。

 だが、それは疲労ではなく昂ぶり(・・・)の余韻だった。

 楯無の視線がまだ自分を捉えていることが、妙に心地よい緊張を生む。

 

「試験は──これで十分ね」

 

 楯無は息を吐き、扇子を開く。

 そこには『合格』の文字。

 扇子に記された文字が、陽の光を受けて淡く輝く。

 その瞬間、一夏の胸の奥にあった重石のような緊張が、静かに溶けていく。

 だが同時に、別の熱が生まれる──もっと強くなりたいという衝動。

 

「一夏くん。あなたは学園最強(・・・・)の土俵に立つ資格がある」

 

 一夏は肩で息をしながらも、視線を逸らさない。

 

「……ありがとうございます」

「お礼なんていらないわ。むしろお礼をいいたいくらいよ──これからが楽しみになったもの」

 

 楯無の瞳に宿る光は、ただの興味ではなかった。

 強者が強者を見つけたときの、静かな歓喜。

 その光を向けられたことが、一夏の胸に熱を灯す。

 

「じゃあ、今日はここまで。続きは……また今度ね?」

 

 楯無の声は、戦闘の余韻など感じられないほどの柔らかさを帯びていた。

 だがその柔らかさの奥には、まだ消えきらない熱が潜んでいる。

 一夏は、その熱が自分にも移っていることを自覚した。

 

「ISを使った試験は、よろしいので?」

 

 一夏の疑問に、楯無は肩をすくめて応える。

 

「そうね。最初は打鉄で相手するつもりだったんだけど……」

 

 言って楯無は目を細める。

 

「一夏くん相手に、借り物を使うのは勿体ないな、ってね」

 

 勿体ないという言葉が、一夏の胸に深く刺さる。

 それは侮辱ではなく、むしろ逆──あなたにはもっと相応しい舞台があるという意味。

 楯無の視線は、まるで一夏の未来を見通しているかのようだった。

 楯無が扇子をぱちんと閉じる。

 その仕草は軽い。だが──その軽さの奥に、別の意味が潜んでいた。

 扇子が閉じられた瞬間、アリーナの空気がわずかに緩む。

 だが一夏は、その緩みが終わり(・・・)ではなく始まり(・・・)の合図であることを直感した。

 楯無の背筋から漂う気配は、まだ完全には消えていない。

 一夏の胸に、わずかな緊張が走る。

 楯無はその反応を見て、楽しげに目を細めた。

 

「そう。あなたに負けたら、生徒会長の座も譲らないとだしね?」

 

 その言葉に、空気がわずかに震えた。

 アリーナの静けさが、別の色を帯びる。

 冗談めかした口調なのに、言葉の奥には本気(・・)が潜んでいる。

 一夏は、楯無が軽口の裏にどれほどの覚悟を隠しているかを理解した。

 

(……今日の動きで、専用機を使われたら……)

 

 想像しただけで、背筋に冷たい汗が流れる。

 だが──同時に胸の奥が熱くなり、無意識に口角が上がる。

 

(……面白い)

 

 恐怖と興奮が混ざり合い、胸の奥で渦を巻く。

 勝てるかどうか(・・・・・・・)ではなく、挑みたいかどうか(・・・・・・・・)──その問いに、身体が先に答えていた。

 楯無の前では、理性よりも本能が強くなる。

 彼女は一夏のその変化を見逃さなかった。

 扇子を顎にあて、軽く笑う。

 

「あは……やっぱり、そういう顔をするのね」

「……どんな顔ですか」

「戦うのが好きな子の顔よ」

 

 その言葉に、一夏の胸がわずかに跳ねる。

 否定しようとした瞬間、喉の奥で言葉が止まる。

 自分が戦い(・・)に惹かれていることを、楯無は見抜いていた。

 楯無が一夏に一歩近づく。

 距離が縮まった瞬間、空気の密度が変わる。

 楯無の気配は、戦闘時ほどではないが、それでもどこか底知れない深さを持っていた。

 その深さに触れた一夏は、思わず息を呑む。

 

「ねえ、一夏くん」

 

 声が低い。

 先ほどまでの軽さとは違う、芯のある声。

 

「あなた、戦場の空気を知ってるわね?」

 

 一夏の呼吸が止まる。

 楯無は続ける。

 

「動きの癖、踏み込みの質、呼吸のリズム……全部生き残る(・・・・)ためのもの。訓練じゃなく、実戦で学んだ動き」

 

 楯無の言葉は、まるで薄い刃のように一夏の胸の奥へ滑り込んだ。

 その刃は痛みを与えるためではなく、真実を切り出す(・・・・・・・)ためのもの。

 一夏は、隠していた影を照らされるような感覚に襲われる。

 戦場の記憶──砂の匂い、金属の音、焦げた空気──が一瞬だけ脳裏をかすめた。

 一夏は視線を逸らさない。

 逸らしたら負けだと、本能が告げていた。

 

「軍にいた頃、戦場に出た事があるんじゃない?」

 

 楯無の声は柔らかい。

 その柔らかさは、責めるための聞いている訳ではない事を、言外に告げている。

 一夏は、胸の奥に沈めていた重い石が、わずかに揺れるのを感じた。

 

「……箒や鈴には言わないでくださいよ」

「うん。昔からの友達には知られたくないわよね」

 

 一夏は以前、箒と鈴の二人には、戦場に出たことは無い、と言った。

 戦場に出ていた事を知られたら、二人にどう思われるかが怖かったのだ。

 怖い(・・)という感情を自覚した瞬間、一夏は自分がまだ普通の少年(・・・・・)であることを思い出す。

 戦場で生き残った兵士であっても、友人の前ではただの一夏でいたい──その矛盾が胸を締め付ける。

 楯無は扇子をくるりと回し、軽く笑った。

 

「でも、一夏くん。隠してても、見る人には伝わると思うケドね」

「……そうですか」

 

 楯無の言葉は、責めるでも慰めるでもない。

 ただ事実(・・)として告げられた様な雰囲気。

 楯無はまた一歩、砂を踏む。

 その足音は軽いのに、空気が震えた。

 

「あなたには、もっと強くなってもらわないと困るの」

「……困る?」

「ええ。だって──」

 

 楯無の瞳が、一夏を射抜く。

 その赤い瞳は、先ほどまでよりも深い色を帯びていた。

 

「私が本気で戦える相手、そうそういないもの」

 

 その言葉は、告白に近かった。

 強者としての孤独。

 誰にも届かない場所に立つ者だけが抱える、静かな渇き。

 楯無は、それを隠そうともせず一夏に向けていた。

 一夏は息を呑み、楯無は微笑む。

 その微笑みは、強者が強者にだけ向けるもの。

 

「だから、一夏くん」

 

 扇子が、ぱちんと開かれる。

 そこに書かれている文字は『求』の一文字。

 

「あなたには──もっと強くなってもらいたいわね」

 

 ()の文字が、まるで楯無の本心そのもののように見えた。

 強さを求めるのではなく、強い相手(・・・・)を求める。

 その願いが、一夏の胸に静かに火を灯す。

 自分もまた、強さを求めている──その事実を認めざるを得なかった。

 一夏は拳を握り、静かに答える。

 

「……言われなくても、強くなりますよ」

「ふふっ、そうじゃないと困るわ」

 

 楯無の微笑みは、先ほどまでの挑発的なものではなく、どこか満足げだった。

 その表情は、一夏の言葉が口先(・・)ではなく覚悟(・・)から出たものだと理解している証。

 一夏は、自分の胸の奥に灯った熱が、もう消えないことを悟る。

 楯無は踵を返し、アリーナの出口へ向かう。

 その背中は軽い。

 だが──その軽さの奥に、確かな熱があった。

 歩き去る背中から漂う気配は、戦闘時の鋭さとは違う。

 だが、どこか期待のようなものが混じっていた。

 一夏は、その期待が自分に向けられていることを、はっきりと感じ取る。

 

「じゃあ、一夏くん」

 

 振り返らずに言う。

 

「次は──ISを使ってやりましょうね」

 

 一夏は息を呑む。

 だが、胸の奥で燃えるものがあった。

 

(……でも、それがいい)

 

 その言葉は、挑戦状であり、約束でもあった。

 一夏の胸の奥で、戦闘の余韻とは違う熱が静かに膨らむ。

 ()がある──その事実が、一夏の心を強く揺さぶった。

 戦いの続きが約束されることが、こんなにも嬉しいと感じる自分に驚く。

 砂が風に流れ、アリーナに静寂が戻る。

 だが、一夏の胸の奥には、先ほどまでとは違う熱が残っていた。

 その熱は、恐怖でも緊張でもない。

 もっと純粋で、もっと前向きな──強くなりたいという衝動。

 楯無の言葉が、その衝動に火をつけた。

 一夏は、静かに拳を握り直す。

 

(……次は負けない)

 

 その決意は、誰に向けたものでもなく、自分自身への誓いだった。

 アリーナの静けさの中で、一夏の心だけが確かに燃えていた。

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