ドイツ軍人になった一夏くん   作:強い一夏すこすこ侍

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胸の奥で燃えるもの

 アリーナから楯無が出ていった瞬間、空気が変わった。

 静寂。

 だが、その静寂は自然なものではない。

 アリーナを照らす照明が、まるで呼吸を止めたかのように光を固める。空気が薄くなったような錯覚すらあった。

 空気が、まるで熱を奪われたかのように冷え、観客席の影が一層濃く沈んで見える。

 砂埃がまだ舞っているのに、音だけが消えていた。

 一夏は、まるで世界が一瞬だけ停止したような錯覚に囚われる。

 自分の呼吸音だけが、やけに大きく胸の内側で反響するような感覚。

 汗が皮膚の上で冷え、背筋に沿って細い線を描くように流れ落ちていく感覚が生々しく意識に浮かび上がった。

 

(……見られてるな)

 

 一夏は背筋にわずかな緊張を覚えた。

 戦闘の余韻がまだ身体に残っている。

 汗が乾ききらないうちに、別の気配が近づいてきた。

 足音は一つ。

 だが、その一歩ごとに空気が締まる。

 足音は規則正しく、まるで軍靴のように硬質で、アリーナの地面に反響しては一夏の鼓動と重なる。

 その足音は、ただの接近ではなかった。

 音が近づくたびに、一夏の胸の奥に沈んでいた熱がざわりと揺れ、戦闘で昂ぶった感覚が再び呼び起こされる。

 まるで戦場の空気が、足音に引きずられて戻ってくるようだった。

  

 

「……随分と派手にやってくれたな」

 

 低く、冷たい声。

 そして、聞き慣れた声。

 

「千冬姉……」

 

 振り返ると、そこには千冬が立っていた。

 黒いスーツを身に纏い、腕を組んでいる。

 表情は無表情。

 だが──その無表情の奥に、わずかな怒気(・・)が滲んでいた。

 千冬の影が長く伸び、アリーナの中央にいる一夏の足元まで届く。その影の濃さが、彼女の感情の温度を物語っていた。

 千冬の影が触れた瞬間、一夏は背筋に冷たいものが走るのを感じる。

 影はただの影ではなく、彼女の感情そのものが形を持って伸びてきたように思えた。

 怒りと不安が混ざった重い気配が、影を通して足元からじわりと染み込んでくる。

 

(怒ってる……よなあ)

 

 理由は分かる。

 いや、分かりすぎる。

 千冬がアリーナの床を見下ろす。

 地面は抉れ、蜘蛛の巣状に亀裂が走っている箇所もある。

 人間同士が素手で戦って残る痕ではない。

 ISを部分展開と言えど、使いながら戦った何よりの証拠。

 

「……更識め、また勝手なことを」

 

 吐き捨てるような声。

 だが、その怒りは楯無だけに向けられているわけではない。

 

「一夏」

「……はい」

「お前もだ」

 

 千冬の視線が突き刺さる。

 軍で何度も浴びた教官としての視線。

 だが、今はそれだけではない。

 その視線には、教官としての冷徹さと、家族としての焦燥が入り混じり、複雑な色を帯びていた。

 一夏はその重さに、喉が自然と鳴る。

 千冬の視線は、ただ叱責するためのものではなかった。

 そこには失うことへの恐怖が微かに滲んでいた。彼女が普段絶対に見せない種類の感情。

 その気配を感じ取った瞬間、一夏の胸に鈍い痛みが走る。

 

「なぜ、あそこまでやった」

 

 一夏は言葉に詰まる。

 理由はある。

 だが、それを言葉にするのは難しい。

 

「……手を抜ける相手じゃなかった」

「だからといって、殺し合いの域に踏み込む必要はない」

 

 千冬の声は低い。

 怒っている。

 だが──その怒りの奥に、別の感情がある。

 

(……心配、か)

 

 千冬の肩がわずかに上下する。怒りの呼吸ではない。胸の奥に押し込めた不安が、呼吸の隙間から漏れ出していた。

 千冬が一歩近づく。

 距離は近い。

 だが、その距離が妙に遠く感じられる。

 千冬の足音が近づくたび、一夏の胸の奥に沈んでいた熱がざわつき、戦闘の余韻と混ざって不安定な震えを生んだ。

 戦闘で研ぎ澄まされた感覚がまだ消えず、千冬が纏う気配に反応してしまう。

 

「一夏。ここは戦場ではない。分かっているな?」

「……分かってる」

「なら、なぜ殺意を纏った」

 

 一夏は息を呑む。

 やはり、千冬は見抜いていた。

 

(千冬姉には隠せない、よな……)

 

 千冬は続ける。

 

「踏み込み、呼吸、視界の狭め方……全部、更識を殺す為に」

 

 一夏は黙る。

 否定できなかった。

 

「ここは学園だ。誰かを殺す為の技術を使う事は許されない」

 

 その言葉は叱責ではない。

 警告でもない。

 ──祈りに近かった。

 千冬の声は、普段の鋼のような響きではなく、どこか脆さを含んでいた。その揺らぎが、一夏の胸に刺さる。

 彼女がどれほどの恐怖を抱えているのか、その一端が声色に滲んでいた。

 

「……でも、千冬姉」

 

 一夏は言葉を選びながら続ける。

 

「生徒会長は、本気で殺しに来てたぞ」

 

 千冬の眉がわずかに動く。

 怒りではない。

 驚きでもない。

 

「……あいつは、そういう女だ」

 

 千冬はため息をつき、額に手を当てた。

 その仕草は、教師ではなく姉としてのものだった。疲労と諦念、そして弟を守れなかった悔しさが滲んでいた。

 千冬の指先が額に触れた瞬間、その肩がわずかに落ちる。

 強さを装っていた鎧が、ほんの一瞬だけ外れたように見えた。

 その姿は、一夏にとって胸が締め付けられるほど痛々しい。

 

「最強の座にいる者は、常に次の強者を探す。だから厄介なんだ」

 

 そして、一夏を見据える。

 

「そして──お前は、その()と見られた」

 

 千冬は続ける。

 

「だから、お前に言っている。お前は自覚しろ。一歩間違えれば、今日の試験で死人が出ていた」

 

 その言葉は重い。

 だが──一夏は視線を逸らさない。

 

「……でも、だからって俺は負けたくなかった」

 

 千冬の目が細くなる。

 

「負けたくなかった、か」

 

 その言い方は、呆れでも怒りでもない。

──理解してしまった者の声。

 

「……やはり、お前は私の弟だな」

「え……?」

 

 一夏は目を瞬く。

 

「千冬姉?」

「強者を前にすると、血が騒ぐ。戦いの中で成長する。相手が強ければ強いほど、心が燃える」

 

 千冬は一夏の胸を指で軽く突く。

 

「それは才能(・・)だ。だが──同時に呪い(・・)でもある」

 

 その指先は冷たかったが、触れた瞬間、一夏の胸の奥に沈んでいた熱が揺れた。まるで千冬の言葉が、心の奥底に隠していた本能(・・)を暴き出すような感覚。

 自分が戦いに惹かれてしまうことを、誰よりも千冬が理解している──その事実が、一夏の胸を締め付ける。

 一夏は言葉を失う。

 千冬は一歩近づき、一夏の肩を掴む。

 その手は強い。

 だが、震えていた。

 

「お前がまた戦場に戻らないように。戻されないように。……自分から戻ろうとしないように」

 

 一夏は息を呑む。

 

(……千冬姉……)

 

 千冬の手の震えは、彼女の恐れそのものだった。

 弟を守りたいという願いと、弟が戦いに惹かれてしまう現実。

 その二つの間で揺れる千冬の心が、手の震えとなって表れていた。

 千冬は手を離し、背を向ける。

 

「今日の件は、私が処理する。更識には私から話す」

「……ごめん」

「謝るな。悪いのはあいつだ」

 

 千冬は歩き出す。

 だが、出口の前で立ち止まり、振り返らずに言った。

 

「一夏」

「ああ」

「……強くなるなとは言わない。お前はそういう子だ」

 

 千冬の声は、ほんのわずかに震えていた。

 

「だが──強さに飲まれるなよ」

 

 その言葉を残し、千冬はアリーナを去った。

 一夏はしばらく動けなかった。

 戦闘の疲労ではない。

 千冬の言葉が、胸に重く沈んでいた。

 

(……強さに飲まれるな、か)

 

 その言葉の意味を、一夏はまだ理解しきれていない。

 アリーナに残された静寂は、先ほどとは違う重さを帯びていた。

 砂埃がゆっくりと落ちていく音すら聞こえそうなほどの静けさ。その中で、一夏は自分の胸の奥に残る熱と、千冬の残した言葉の冷たさが混ざり合い、奇妙な温度差を生んでいるのを感じていた。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 試験が終わったその日の午後。

 生徒会室は静かだった。

 静寂は、まるで音そのものが逃げ出したかのように深く、机や椅子の輪郭すら曖昧にしている。

 だが、その静けさは嵐の前のものだ。

 窓から差し込む光は薄く、室内の空気は張り詰めている。

 光は白く冷たく、埃の粒がゆっくりと漂うたびに、部屋の緊張が可視化されるようだった。

 楯無は扇子を閉じ、机に置く。

 その動作一つで、空気が変わる。

 

「──不在となっている、生徒会副会長の席を埋めるわ」

 

 その言葉に、生徒会で会計を務める少女──楯無の幼馴染でもある布仏虚が目を見開く。

 虚の心臓は一拍遅れて跳ね、背筋に冷たい汗が伝う。

 

「おじょ──会長。それはつまり」

「ええ。虚ちゃんの思っている通り」

 

 楯無の声は柔らかい。

 だが、その柔らかさは絹の手袋のようなもので、中に潜む鋼の意志が透けて見える。

  楯無は微笑む。

 その微笑みは、慈愛ではなく支配のそれだった。光を受けた瞳は冷たく輝き、獲物を見定める捕食者のような。

 虚はその視線に射抜かれ、幼馴染であるはずの距離が一瞬で遠くなるのを感じた。 

 

「一夏くんを──生徒会副会長に据えるわ」

 

 予感していたはずの言葉なのに、実際に聞くと逃げ場がなくなる。

 

「けれど彼はまだ転校してきたばかりで……」

 

 楯無は椅子に深く腰掛け、脚を組む。

 その姿勢は王座に座る女王のようで、部屋の中心に重力が生まれたかのように視線が吸い寄せられる。

 

「彼は学園最強の土俵に立つ資格がある。なら、生徒会に入ってもらうのが自然でしょう?」

「しかし彼は軍上がりで、扱いが難しいという話もありますが、よろしいので?」

「扱えないなら、扱う側に回ってもらえばいいのよ」

 

 楯無の声は静かだ。

 だが、その静けさは支配者のもの。

 虚はその言葉の端々に、楯無が既に複数の手を打っている気配を感じ、背筋がさらに冷えた。

 

「それに──」

 

 扇子がぱちんと鳴る。

 その音は小さな破裂音に過ぎないのに、虚の心臓に直接響くような鋭さがあった。

 

「一夏くんは、学園にとっても大事な戦力よ。軍で鍛えられたその身体に、実戦経験、そして──あの潜在能力」

 

 楯無の瞳が細くなる。

 その目は、未来の盤面をすでに見通している者の目だった。

 

「放っておくなんて勿体ない。だから、生徒会で囲い込む」

「──っ」

 

 虚が息を呑む。

 その音すら、静まり返った部屋では大きく響いた。

 楯無は立ち上がり、窓の外──アリーナの方向を見る。

 夕陽がアリーナを赤く染め、その光が楯無の横顔を照らした。影が長く伸び、彼女の存在をさらに大きく見せる。

 虚は一瞬、楯無の背後に巨大な影が羽を広げる幻を見た気がした。

 

「一夏くんは、私が育てるわ。織斑先生の()ではなく──」

 

 扇子が静かに開かれる。

 その動きは儀式のようで、決意を形にする宣言のようでもあった。

 

「学園最強の後継者(・・・)として」

 

 まるで見えない風が吹き抜けたかのように、室内の温度が一瞬下がった。虚は背筋を震わせ、楯無の決意の重さを理解する。

 虚は思わず腕を抱きしめ、背筋を震わせた。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 夜。

 寮の廊下は静まり返り、まるで世界から音が消えたようだった。

 一夏は部屋の灯りを落とし、窓際に立って外を見下ろす。

 夜風がカーテンを揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。昼間の熱気は完全に消え、代わりに夜特有の湿り気が肌にまとわりつく。遠くで虫の声がかすかに響き、静寂をより深く際立たせていた。

 

(……眠れない)

 

 ベッドに横になっても、瞼を閉じても、胸の奥の熱だけが消えない。

 むしろ、夜の静けさがその熱を際立たせていた。

 アリーナでの戦闘の残像が、暗闇の中で何度も蘇る。踏み込みの感触、空気の裂ける音、楯無の気配──それらがまるで今も背後に立っているかのように鮮明だった。

 

(強かった……)

 

 その事実が、一夏の心をざわつかせる。

 恐怖ではない。

 興奮でもない。

 もっと曖昧で、もっと危うい感情。

 胸の奥で渦巻く熱は、理性の形をしていない。言葉にできない衝動が、静かに、しかし確実に一夏の内側を叩いていた。

 

(俺は……何を求めてるんだ)

 

 窓の外には、学園の敷地が薄暗く広がっていた。

 アリーナの照明はすでに落ち、闇の中に沈んでいる。

 その闇は、まるで底の見えない深淵のようで、一夏はそこに自分の影が吸い込まれていく錯覚を覚えた。

 戦場の夜を思い出す。

 あの時も、こんな風に静かで、こんな風に自分の心だけが騒いでいた。

 

(戻りたくない……はずなのに)

 

 胸の奥の熱が、否定を嘲笑うように脈打つ。

 その脈動は、まるで「お前はまだ終わっていない」と告げる声のようだった。戦場の記憶が、身体の奥底に刻まれた反応が、夜の静けさに呼び起こされていく。

 一夏は窓から目を離し、机の上に置いたヴァイスリッターのネックレスに視線を落とした。

 月明かりがネックレスの金属面に反射し、淡い光を返す。その光は冷たいはずなのに、一夏にはどこか温かく見えた。まるで自分の内側の熱に呼応しているかのように。

 

(……俺は、強くなりたいだけだ)

 

 そう言い聞かせる。

 だが、その言葉は夜の空気に溶けて消えた。

 強さ(・・)という言葉の輪郭が曖昧になる。強さの先にあるもの──それは守るための力なのか、あるいは戦うための力なのか、それすら分からなくなっていく。

 その時、端末が震えた。

 楯無からのメッセージ。

 

『また今度、続きをしましょうね?』

 

 一夏の心臓が跳ねる。

 

(……また、戦える)

 

 その瞬間、胸の奥の熱が一気に膨れ上がった。理性が押し流されるような感覚。自分の中に潜む何かが、静かに、しかし確実に笑った。

 一夏は端末を伏せ、深く息を吐いた。

 夜の空気は冷たいはずなのに、呼吸は熱を帯びていた。胸の奥のざわめきは収まらず、むしろ夜が深まるほどに強くなる。まるで闇がその衝動を育てているかのようだった。

 

(……俺は、どうすればいい)

 

 答えは出ない。

 ただ、夜だけが静かに一夏を包み込んでいた。

 その静けさは優しさではなく試すような沈黙。強さに飲まれるのか、それとも抗うのか──夜は何も言わず、一夏の選択を待っていた。

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