ドイツ軍人になった一夏くん 作:強い一夏すこすこ侍
扉が閉まった瞬間、空気が変わった。
静かで、冷たく、整然としている。
まるで戦場の前線司令部のような緊張感。
一夏は、背筋に薄い刃物を当てられたような感覚を覚えた。閉ざされた空間特有の圧迫感ではない。もっと、意図的に作られた場の気配だ。
一歩踏み込むごとに、空気が層を成して押し寄せてくるようだった。まるでこの部屋そのものが、侵入者を試すために呼吸を潜めているかのように。
楯無は扉から離れ、ゆっくりと室内へ歩く。
薄い照明が天井から落ち、床に長い影を作る。影が楯無の動きに合わせて揺れ、まるでこの部屋そのものが彼女の支配下にあるかのようだった。
影の揺れは、彼女の意思を代弁するかのように滑らかで、冷たかった。光と影の境界が曖昧になり、一夏は自分がどこに立っているのか一瞬わからなくなる。
「さて──ここからが本題よ、副会長候補くん──あ、もう候補じゃないわね」
一夏は無言でついていく。
窓際にあるのが会長席か。
そして、そのすぐ近くには副会長の席。よくよく見れば、すでに一夏の名前があつらえている
そのプレートは光を受けて鈍く輝き、一夏の視線を吸い寄せる。まるで「逃げられない」と告げる鎖のように。
「あなたは世界で唯一の男性IS適性者。その存在は、学園だけでなく、各国の思惑を引き寄せる」
楯無の瞳が鋭く光る。
その光は、獲物を値踏みする捕食者のそれに近かった。だが、同時に、何かを期待している色も混ざっている。
その期待は、温度を持たない。
焚き火のような暖かさではなく、鋼鉄が擦れ合う時の火花のような冷たい光だった。
「実際、フランスからも代表候補生の編入の打診が来ているしね」
一夏の胸に、ざらりとした感情が走る。
軍時代に味わった、上層部の思惑に振り回されるあの感覚が蘇った。
喉の奥が乾く。あの頃と同じだ──自分の意思とは無関係に、周囲が勝手に価値を決めていく。
「学園外からは接触できないなら、中からって事ですか」
「そうね。学園の特記事項はあれど、内部での接触を禁じる事は出来ないわ」
楯無は自身の席に腰を下ろし、扇子を閉じる。
扇子が閉じられる音が、まるで判決のように響く。部屋の空気がさらに一段階、冷たく締まった。
「まずは、副会長の役割から説明するわね」
一夏は黙って頷く。
頷きながらも、一夏の胸の奥では警戒心が静かに膨らんでいた。
彼女の声は柔らかいのに、どこかで刃が潜んでいる。油断すれば切り裂かれる、そんな危うさがあった。
「副会長は、生徒会長の補佐……なんて表向きの説明はどうでもいいわ。本質はもっと単純で、もっと重い」
楯無は指を一本立てる。
「副会長の仕事を簡単に言えば、生徒会長の代行。私が不在の時、あなたが生徒会の意思決定を行う」
その言葉に、一夏はわずかに眉を動かした。
「俺が……ですか?」
「そう。あなたが。学園の安全保障、行事の運営、その他諸々の対応──全部、あなたが判断することになる。もっとも、私が不在って事は早々ないし、その状況でも軍上がりの君ならこなせるでしょう?」
重い。
だが、楯無はそれを当然のように告げる。
彼女は扇子を閉じ、まっすぐ一夏を見る。
「言ってみれば副会長は、生徒会長の
一夏の胸が、どくりと鳴った。
心臓を直接掴まれたような衝撃。拒絶したいのに、逃げ場がない。
「昨日の戦いで言ったでしょう? あなたは
楯無の声は静かだが、確信に満ちていた。
「そのための席が、副会長」
だからこそ、この時期まで副会長の座席は空いていたのだろう。
すべてが最初から決まっていたような気がして、一夏は胸の奥がざわついた。
まるで自分が、彼女の描いた設計図の上を歩かされているような感覚。抗えば抗うほど、足元の道が狭まっていく。
「生徒会には、他のメンバーは?」
「そうね。もう少ししたら来ると思うわ」
おそらく、自分と話をする時間を設けるために遅れて入ってくる様に伝えていたのだろう。
自分が副会長の任を受けると思ったのも計算の内か、と一夏は楯無を見やる。
楯無の表情は、まるで盤上の駒を見下ろす棋士のようだ。
すべてが予定調和で、すべてが彼女の掌の上にある──そんな錯覚を一夏に抱かせる。
「自己紹介は直接会ってからだけど軽く紹介すると、会計が私の幼馴染の三年の虚ちゃんに、彼女の妹の本音ちゃんが書記。彼女は同じクラスじゃないかしら?」
「まだ話した事は無いですけどね」
よくよく考えてみなくても、目の前の少女を除いて、この学園に入って会話を交わした事がある生徒は箒、鈴。それにセシリアくらいだ。
「あとは、私の妹の簪ちゃんが庶務を務めているわね」
「なんというか、家族経営みたいになってませんかね」
冗談めかして言ったつもりだったが、言葉の裏にある
この学園の権力構造は、外から見えるよりずっと閉じている──そんな予感がした。
話を聞く限りでは、更識姉妹と、布仏姉妹のみで構成されている。
それに、この時期で一年生が二人──一夏を含めれば三人も役員に据えられている歪さ。
普通の生徒会ではあり得ない構成だ。だが、この学園は普通とは無縁だというのは、この一週間で嫌と言うほど一夏は理解していた。
「まあ。会長は最強であれ、と決まってるけど、他の人員は私の声一つだしね」
「妹さん二人が入学するまでは、会計の先輩と二人で回してたんですね」
「彼女は優秀だからね」
楯無の声には、揺るぎない確信があった。
三年生が卒業するまでは当然、三年の役員もいたのだろうが、卒業してからは二人のはず。
それで運営出来ていたのだろうから、優秀と言う言葉では表せないほどの傑物だろう。
「もしかして、一年にいる代表候補生の三人の内一人は──」
「──そう。簪ちゃんは日本の代表候補生よ」
やはり、と思うと同時に一夏の内心で疑問が生まれる。
てっきり、楯無がロシアの国家代表なのだから、妹も同じくロシアの代表候補生だと思っていたのだが、日本だと彼女は言う。
姉妹で国籍が違う事、楯無と立ち会った時に感じた雰囲気といい、どこか暗い部分を一夏が抱かせるには十分だった。
(……部隊に調べてもらうか)
諜報部隊ではないが故にどこまで調べられるかわからないが、何もしないよりはマシだ。
と、一夏が内心で考えを巡らせていると扉をノックする音。
ややあって、扉が開いた。
「時間ぴったりね」
「その様子ですと、首尾よく行った様で」
入ってきた少女の足取りは静かで、無駄がない。
まるで音すら計算しているかのような動きに、一夏は自然と背筋を伸ばした。
眼鏡をかけた生徒。
大人びて見えるから会計の虚だろうか。
眼鏡の奥の瞳は冷静で、必要以上に感情を表に出さない。
髪の毛を後ろでまとめ、制服の着こなしも乱れがなくきっちりした印象を受ける。
派手さはないが、確実に仕事をこなす者の空気がある。
「初めまして織斑くん。三年で、会計を務めている布仏虚です」
「よろしくお願いします、布仏先輩」
一夏が手を差し出すと、柔らかく包む。
その握手は短く、必要最低限。だが、手の温度は意外なほど温かかい。
その温度に、一夏は一瞬だけ虚の人間らしさを感じた。
だが同時に、彼女の瞳の奥には計算された距離感があり、簡単には踏み込ませない壁のようなものが見える。
「妹もいますし、私の事は名前で結構ですよ。それに、役職としても敬語は不要です」
「いきなり敬語は難しいんで、そこはおいおいで」
「いえ、おじょ──会長も私より年下ですし、お気になさらず」
にこやかに会話を交わしつつ、一夏は一瞬だけ良い淀んだ言葉に気付く。
(お嬢様と言いかけたのか? 単純な幼馴染の関係ではない?)
その一瞬の綻びは、虚という少女の
彼女の仕草の端々に、主従の名残のようなものが漂っている。
ちらりと楯無を見ても、気にした様子もなくうっすらと笑みを浮かべている。
ここで聞いてもはぐらかされるだけだろう。
「本音。しっかりと自己紹介なさい」
その言葉に一夏が楯無から視線を外すと、虚が後ろにいた少女を自身の前に押しやっているのが目に映る。
虚に本音と呼ばれた少女は、どこか力の抜けた空気をまとっていた。
眠たげに細められた瞳は、柔らかい光を湛え、見つめられるとついこちらまで気が緩んでしまう。
虚の、キッチリとした印象の通り制服を着こなす姿とは対照的に、本音は手が隠れるほどダボッとした制服を着ていた──と言うよりは着せられている印象を一夏は抱いた。
彼女の周囲だけ、空気がふわりと緩む。
緊張の糸が一瞬だけほどけるような、不思議な存在感だった。
まるで、冷たい水の中に落とされた一滴の蜂蜜のようだ、と一夏は思う。
甘く、柔らかく、しかし掴みどころがない。
「布仏本音だよー。よろしくねおりむー」
「……ああ。よろしく、本音」
名前を呼び捨てにしてしまったが、良かっただろうかと束の間考えるが、彼女は気にした様子もなく、伸びきった袖をぶんぶんと振るう。
「ほら、お嬢様もあいさつしよー」
「本音。お嬢様は止めて……」
後ろを振り返った本音が眼鏡の少女を呼び込む。
(更識家に仕える家って感じか?)
布仏姉妹の様子を見て一夏が思う。
楯無の事を考えても、普通の家の生まれではなさそうだ、と。
「更識簪……よろしく」
「一組のイチカ・オリムラだ。よろしく」
小さな声。
どこか影の薄い静けさをまとった少女だった。
姉の楯無のような圧倒的な存在感とは対照的に、彼女の輪郭は柔らかく、光の中に溶けてしまいそうな儚さがある。
姉の楯無が外側に跳ねる癖毛なのに対し、簪の髪は内側へと丸く収まり、控えめな性格をそのまま形にしたようだった。
その瞳の奥には、言葉にできない
怯えでも諦めでもなく、もっと複雑で、もっと深い何か。
その影は、一夏の胸に妙なざわつきを残した。
彼女の沈黙は、ただの内気さではなく、何かを押し殺すための沈黙に見えた。
「簪さん……で良いか?」
「うん……苗字だとお姉ちゃんと被るし……さんも別に付けなくて良い」
「わかった。俺も苗字だと千冬姉と被るし、名前で呼んでくれ」
一通り挨拶を済ませると、楯無が席を立つ。
どこか大仰に腕を広げて口を開いた。
「では、これからよろしくね、副会長」
「ええ。よろしくお願いします。会長」
その瞬間、室内の空気がわずかに震えた。
役職という言葉が、ただの肩書きではなく、鎖のように感じられる。
一夏は、静かに覚悟を固めた。
窓の外で風が木々を揺らし、その影が室内の床に揺れる。
その揺れが、一夏には戻れない境界線のように見えた。
◆◆◆
挨拶を交わした五人はそのまま仕事になだれ込む──なんてことはなく、虚の淹れた紅茶を飲みながら談笑をしていた。
湯気が立ちのぼり、緊張で張り詰めていた空気をわずかに和らげてくれる。
紅茶の香りは落ち着いたアールグレイで、柑橘の香りが微かに鼻をくすぐった。
「会長。副会長就任の知らせはどのようにされますか?」
「仰々しく発表しても良いんだけどね、一夏くんが嫌がりそうだし」
「ええ。お知らせを掲示板に貼っといてくれればそれで十分ですよ」
「……掲示の準備はしておく」
言いながら簪が空中投影型のディスプレイを起動し、何やら打ち込んでいる。
早速、就任のお知らせでも書いているのだろう。
指先の動きは驚くほど滑らかで、迷いがない。
彼女の静けさは弱さではなく、研ぎ澄まされた集中力の表れなのだと一夏は気付く。
「本音。書記の仕事じゃないのか、コレ」
「いーのいーの。かんちゃんがやった方が早いしー」
「本音。与えられた仕事はキッチリこなしなさい。布仏家の品格が疑われるわ」
「……あ、もう終わったから……」
ありがとーと抱き着く本音に表情を歪ませる簪。
まあ、本気で嫌がっている訳ではないだろう、多分。
そのやり取りに、一夏はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「副会長の就任は……まあ、今日中に掲示しておくわ。反応は明日以降ね」
楯無がカップを傾けながら言う。
その仕草は優雅で、しかしどこか結果を楽しみにしているようにも見えた。
「反応って……騒ぎになるほどの事ですかね」
一夏がそう返すと、虚が静かに眼鏡を押し上げた。
「なりますよ。間違いなく。世界唯一の男性適性者が、生徒会の中枢に入る──それは学園の権力構造の変化を意味します」
淡々とした口調。
その言葉は、事実を述べているだけなのに、妙に重く響く。虚は感情を込めない分、言葉の鋭さが際立つ。
「……俺はそんなつもりで生徒会に入ったんじゃないんですけどね」
「あなたのつもりは関係ないわ」
楯無が即答する。
その言葉は鋭いが、どこか優しさすら含んでいた。
「権力っていうのはね、持った瞬間に
一夏は言葉を失う。
それは軍時代に嫌というほど見てきた構図だった。
胸の奥がじわりと重くなる。
逃げられない構造だと知っているからこそ、その言葉が刺さる。
楯無の声は柔らかいのに、逃げ場を塞ぐような圧があった。
「まあまあ、難しい話はそのへんにしてさー」
本音が椅子のもたれかかりながら、伸びきった袖をぱたぱたと揺らす。
その無邪気さが、場の緊張をふっと散らす。もしかしたら彼女の
「おりむーが来てくれたおかげで、仕事が減るんだしー。ね、かんちゃん」
「……減らない。むしろ増える……」
簪がぼそりと呟く。
その声は小さいが、妙に刺さる。
「……一夏くんが転校して来てから、学園内の生徒からの問い合わせが増えてる……」
言いながら、簪はちらりと楯無を見る。
その視線には、姉への信頼と、言葉にできない
(……やっぱり、何かあるな)
一夏の警戒心が、静かに形を成し始める。
この学園は平和な教育機関の皮を被っているが、その裏には国家間の思惑と、個人の力では抗えない流れが渦巻いている──そんな確信めいた感覚が、一夏の背筋を冷たく撫でた。
その時──
「そういえば、一夏くん」
楯無が扇子を軽く叩きながら、思い出したかのように口を。
「あなた、クラス対抗戦はどうするの?」
朝方もそんな話をしたな、と苦笑いを浮かべる。
「オルコットがこなしてくれると思いますよ。俺は応援係ですね」
「あら、代表を取って代わって優勝でも目指さないのかしら」
「流石に、代表と副会長の二足の草鞋を履くつもりはないですよ」
言ってから、簪の存在を思います。
確か、彼女は四組の代表をしている、と。
となると、彼女は一夏の言った二足の草鞋を履いている事になる。
「……まあ、簪と違って俺は器用に二つはこなせないんでね」
「褒めすぎ……私も担がれただけ……」
見るからに押しに弱そうな彼女だ。
代表候補生と言う肩書で、クラス代表に祭り上げられたのは容易に想像できた。
簪の指先が、カップの縁をそっと撫でる。
その仕草は小さく震えていて、彼女が望んでその立場に立ったわけではないことを雄弁に物語っていた。
一夏は、その震えの奥にあるもの──恐れか、諦めか、それとも別の何かか──を読み取れず、胸がざわつく。
「アリーナの使用履歴を見たら、一夏くんはセシリアちゃんと鈴ちゃんの機体は見てるのね。どっちが勝ちそう?」
「どちらも軽い動きしか見てないですし、難しいところですね」
セシリアの駆るブルー・ティアーズにBT兵器の脅威は、身をもって知っている。
逆に、鈴の衝撃砲の実態はまだわかっていない。
それに、セシリアが近接訓練をする様子もなかった……が、それは一夏も同じでまだ手の内を明かしている訳ではない。
「鈴の場合は、性格的にも近接戦を好みそうですし、逆にオルコットは訓練で精度の高い射撃をしてました。それを前提に考えると、近接タイプの鈴と、遠距離タイプのセシリアの構図になります。得意な距離が違う以上、どちらが自分の距離で戦えるか、って感じじゃないですかね」
戦うアリーナの広さを考えたら、若干鈴が有利かもしれない、と一夏は思う。
これが、もっと広いステージで距離のある状態でスタートしたのならばセシリアが完封するだろうとも思ってはいるが。
「あら、思った以上のガチ解説。──本番でもしてみる?」
冗談半分──もとい半分は本気の楯無の声音。
勘弁してくれ、と一夏は首を横に振る。
「止めてください。それに、本気でやるなら会長や、教員がした方が良いと思いますよ」
「あら、残念」
とはいえ、実際に解説を付ける、と言うのは前々からアイディアがあったりはした。
特に一年生であれば、試合を見てもただただ「凄かった」で終わりかねない。
もちろん、一年生のこの時期の対抗戦はレクリエーション的な意味合いも強いのだが、どうせなら実のあるモノにしたいと思っている部分はある。
要検討ね、と楯無は一人思いながら虚の淹れた紅茶をすする。
「お知らせの掲示とかはやらなくてよろしいので?」
「用務員の方にお願いするから大丈夫よ。後は細かい実務は、虚ちゃんと簪ちゃんが教えてくれるわ」
そこに本音は入ってはいないのか、と一夏は束の間思ったが飲み込んだ。
ここまでの様子を見る限り仕事を教えるどころか、やっている形跡すらない。
聞くだけ無駄と言うモノだろう。
「よろしくお願いします。虚先輩」
「こちらこそ。副会長が入ってくれると助かります。ドイツでは尉官階級だったと聞き及んでいます。書類仕事も期待させていただきますね」
虚が微笑む。
その笑みは柔らかいが、一夏が名乗ってもない軍の階級の事を持ち出すあたり、抜け目のなさがわかる。
「じゃあ、そろそろ──」
楯無が立ち上がる。
「副会長席に、座ってみる?」
その瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
虚も本音も簪も、自然と視線を向ける。
まるで儀式のように。
その視線の重さに、一夏の心臓がひとつ強く脈打つ。逃げ場はない。
一夏はゆっくりと立ち上がり、窓際の席へ歩く。
そこには既に、自分の名前が刻まれたプレートが置かれていた。
背後には、生徒会の三人の視線。
そのプレートは、まるで契約書のように見えた。名前が刻まれている以上、もう後戻りはできない。
そして、正面には楯無。
「ようこそ──学園の中枢へ」
その声は、祝福であり、宣告だった。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていく。
その穏やかな景色とは裏腹に、一夏の胸の内には嵐の前の静けさのような緊張が満ちていた。
副会長の席に座った一夏は、深く息を吸い込んだ。
紅茶の香りがまだ室内に残っているのに、胸の奥は妙に乾いている。
「じゃあ、一夏くん。今日のところは軽い仕事からね」
楯無が扇子を閉じ、軽く机を叩く。
「虚ちゃん、例の書類を」
「はい、会長」
虚がタブレットを操作し、空中投影ディスプレイに複数の書類が並ぶ。
淡い青色の光が室内を照らし、一夏の顔に影を落とす。
「まずは、各クラスからの要望書の確認ね。軽いものばかりよ」
「軽いもの……ですか」
「ええ。例えば──」
楯無が指先で一つの書類を拡大する。
『一年三組:アリーナ使用時間の延長に関する要望書』
「こういうの」
「……軽い、ですかね?」
「軽いわよ。だって、却下するだけだもの」
「嘆願書の扱いでしょうし、教員に上げなくてよろしいので」
一夏の疑問に、楯無が笑う。
虚も静かに頷く。
「アリーナの使用は公平性が第一です。特例は認められません。この内容であれば、教師陣に上げる必要もないでしょう」
「……なるほど」
軍での申請書類とは違う。が、そこに流れる空気は似ていた。
誰かの希望を切り捨て、誰かの利益を守り、全体の秩序を維持する──その判断を下す側に、自分が立っているという事実が、一夏の胸に重く沈む。
「じゃあ、一夏くん。これ、却下の理由をまとめて返信しておいて」
虚が補足するように言う。
「文面は簡潔で構いません。必要なのは公平性の維持という一点です」
「了解しました」
虚が小さく微笑んだ。
その微笑みは、どこか試験官のようだった。
一夏がどこまで適応できるか、静かに観察している──そんな視線。
簪は隣で黙々と別の書類を処理している。
本音は……ソファで丸くなっていた。
「本音。仕事」
「むりー……ねむいー……」
「……はぁ」
簪が小さくため息をつく。
そのため息には、諦めと、慣れと、微かな愛情が混ざっていた。
家族のようであり、主従のようでもあり、その関係性は一夏にはまだ掴めない。
なんにせよ、場違いだよな、と一夏は内心で思いながら、与えられた仕事を淡々とこなす事にした。