ドイツ軍人になった一夏くん 作:強い一夏すこすこ侍
放課後、一夏がアリーナの申請の為に職員室に来ていた。
担当教諭は真耶だったようで、一夏は申請書を真耶に提出する。
「アリーナの使用申請はこの時間でも問題ないでしょうか」
「はい。問題ありませんよ。今の時間なら、第二アリーナが良いと思います。今日はオルコットさんと、凰さんの使用申請しかありませんので、気兼ねなく使えますよ」
「ありがとうございます」
「なお、模擬戦をする際は、アリーナの担当の先生に申告してから行って下さいね」
アリーナの使用には通常、申請が必要になり、直前で「これから使います」という生徒は少ない。
もっともそれは、一般の生徒はアリーナの使用申請と併せて訓練機の申請を行う必要があるため、という事情もあっての話だ。
一夏を筆頭に、専用機を与えられている生徒は、直前の申請でも通るケースが多い。
「わかりました。ありがとうございます」
案内に従って、一夏は第二アリーナに向い男子更衣室に入る
制服を脱ぎ捨てる。
更衣室の空気は、わずかにドイツに居た頃を思い出させてくれた。
戦場の前線基地を思い出させ、一夏の胸に微かな緊張を呼び起こす。
平和な学園のはずなのに、身体は戦闘前の準備を勝手に始めてしまう。
ドイツからは、毎日ISを運用しろとは命令をされている訳ではない。だが、積み重ねた習慣か、一夏は自然とISを動かそうと思っていた。
身体が、戦場での
むしろ、ISを動かしている時だけが、自分が
五月のこの時期はまだ、一年生のカリキュラムでは座学の実習が中心だ。
六月からは実技が始まり、そうなるとアリーナも一年生が使う頻度が高くなる。
操縦になれない生徒が増えると考えると、どこで訓練するか考えないといけないな、と一夏は頭の片隅で考えながら、ISスーツに着替える。
水着と思うほどに薄いソレも、小口径の拳銃であれば防いでくれる程度には防弾性に優れている。
とはいえ、衝撃は殺せないし、そもそもがここで拳銃に撃たれる心配はそこまでないだろう。
(えーと、鈴とオルコットが使ってるって言ってたっけ)
ピットに出ると、アリーナの状況が良く判る。
鈴はアリーナの上空で、機体を動かすのを重視しているのか、縦横無尽に飛び回っている。
赤と紫の機体。その肩の
機体の名を
上空で旋回する甲龍の軌跡は、まるで空に赤紫の爪痕を刻むようだった。
鈴の操縦は荒々しくも鋭く、彼女の性格そのものが機体に乗り移ったかのようだ。
(第三世代兵装が確か、衝撃砲だったか。少佐のレーゲンのAICに近い技術を使っているらしいが……)
ラウラの駆るシュヴァルツェ・レーゲンの第三世代兵装はPICを応用した、いわば停止結界。
鈴の甲龍の衝撃砲も、PIC由来だとすれば、ある程度どんな兵装かは予想がつく。
地上に目をやれば、セシリアがライフル──スターライトMkⅢを構え、円形のターゲットに対して狙撃を行っていた。
ある程度打合せをしていたのか、上空を鈴。地上をセシリア。と言った感じに別けて使っている様だ。
セシリアの姿勢は美しく、無駄がない。
まるで射撃という舞を踊っているかのようで、風に揺れる金髪が光を反射していた。
その静と動の対比が、アリーナ全体に独特の緊張感を生んでいる。
「鈴、オルコット。俺も邪魔していいか?」
通信をした時点で、邪魔をしてしまっているが、気にせず一夏は声をかける。
「え? 一夏?」
ピットから飛び出した一夏に気付いた鈴が、上空から機体を降下させる。
自然と、セシリアが射撃を行っていた地点に三人は集まることになった。
「うわー映像で見てたけど、ほんとにフルフェイスで全身装甲なのね」
「まあ、こうでもしないと俺が男だってのがバレるしな」
「ソレ、顔だけでも無くせないの?」
視線が合わないのが落ち着かないのか、鈴が自身の顔を指さしている。
別に、出来ない事はないので部分展開の応用で、一夏は顔部の装甲を消す。
頭部を覆われていても、ハイパーセンサーを介して映像は届けられる都合上、直接見る必要はないのだが、それでも頭部が露わになることによって、ある種の解放感を一夏は感じていた。
「……なんか、顔だけ出てて、身体はしっかり覆われているのはバランス悪いわね……」
「お前が見せろって言ってきたんだが?」
ジト目で鈴を睨んでやると、肩をすくめて受け流される。
「で、織斑さんはどういった要件でこちらに?」
「あ、もしかしてあたしに会いに来てくれた?」
鈴のからかう様な声──半分、本気で期待している──を半ば無視するように、一夏が口を開く。
「いや、俺もISを動かしたくて申請に行ったら、ここを勧められてな。多分、使用人数が少ないとか、訓練機がいないとかそんな理由だとは思うが」
本当の理由は分からないが、訓練機が多い環境だと流れ弾にも注意しないとならないだろうし、何より、男性操縦者に気を取られて事故が起きました──なんて事が起こらない様にそう言った配慮があったのだろうと一夏は思っていた。
「でしたら、ご自由にどうぞ。わたくしは下で射撃訓練。鈴さんは上で機動訓練をしてますので」
「一緒にどう? 一夏。IS版鬼ごっことか」
こちらも、半ば本気の鈴の誘いだ。
それを知ってか知らずか、一夏は顎に手をやって少し考える。
ややあって、口を開く。
「悪いがオルコット。邪魔するけど良いか?」
セシリアが返事をするよりも早く、鈴が口を開く。
「なんでセシリアの方に行くのよ! あたしとやろうよ!」
なぜ自分じゃなく、セシリアを選ぶのか。
鈴からすれば、訓練とはいえ想い人が他の女性の方に行くのは面白く思わないのは当然だった。
が、一夏は悪びれた風もなく、肩をすくめる。
「機体を動かすのは昨日やっちまったしな。それに、本国の方からコイツの使用感を報告する様に求められてるんだよ」
言いながら、右手に武器を
身の丈を超える銃に、鈴が一瞬身じろぐ。
銃、と言うよりは槍の様な印象を与える。
砲口が一つではなく、二つあるのがセシリアの目についた。
「確か、オクスタン・ランチャーでしたか」
「流石、詳しいな」
公開されている情報とは言え、他国の武装を良く知っているものだ、と一夏は素直に感心する。
本人の気質か、あるいは別の事情か。
「実弾と、エネルギー弾を使い分けできると聞き及んでいますわ」
「そう。つっても、まだまだ試作段階だがな」
一夏が軽く肩を回しながら言うと、オクスタン・ランチャーの砲身が低く唸り、内部のエネルギーコンデンサーが起動する微かな振動が手に伝わる。
その振動は、まるで生き物の鼓動のようだった。
扱いを誤れば牙を剥く──そんな危うさがあった。
「試作……ということは、まだ安定していないのですの?」
「まあ、反動制御と照準補正が甘い。特にエネルギー弾の方が、PICとの同期がまだ不完全らしい」
言いながら、一夏はランチャーを軽く構えてみせる。
その動作だけで、セシリアの表情がわずかに引き締まった。
彼女は銃器の扱いに慣れている。だからこそ、武装の癖を見抜く目を持っている。
「……なるほど。照準補正が甘い、というより
「お、分かるか」
「ええ。わたくしのスターライトMkⅢも、初期型は似たような問題を抱えていましたもの」
セシリアが微笑む。
その横で、鈴が頬を膨らませていた。
鈴の視線は、嫉妬の色を帯びていた。
その感情は隠しきれず、彼女の甲龍の装甲がわずかに震えるほどだった。
「ちょっと! 二人で武器談義して盛り上がらないでよ! あたしも混ぜなさいってば!」
「いや、鈴は銃を使っての戦いよりぶっちゃけ近づいて殴る方が得意だろ」
「失礼ね! あたしだって飛び道具くらい使えるわよ!」
鈴が鼻息を荒くして怒るが、その声にはどこか楽しげな響きがあった。
一夏は苦笑しつつ、セシリアに視線を戻す。
「というわけで、オルコット。悪いが、少し射撃の場所を借りるぞ。こいつのデータを取らないといけない」
「もちろん構いませんわ」
セシリアはスターライトMkⅢを下げ、少し距離を取る。
その動作は優雅で、しかしIS操縦者ととしての警戒を忘れない。
彼女の動きは、まるで舞踏会の貴婦人と狙撃手が同居しているようだった。
そのギャップが、一夏には妙に印象的だった。
「じゃ、あたしは上にいるから、終わったら一緒にやろうね、一夏!」
言いながら鈴が軽やかに上空へと舞い上がった。
その背中を見送りながら、一夏は深く息を吸う。
(さて……本国に送るデータ、しっかり取らないとな)
オクスタン・ランチャーを構え、ヴァイスリッターに接続。
そして、ターゲットに照準を合わせる。
ハイパーセンサーが距離を読み、PICが機体を安定させるために働く。
視界に補正情報が流れ込む。
「……行くぞ」
引き金を絞る。
瞬間、砲口から黄色い閃光が走り、空気が震えた。
エネルギー弾が一直線に飛び、ターゲットの中心付近を抉るように貫通する。
続けて、二射、三射と重ねるてその全てがターゲットの中心付近を貫く。
だが――
「……やっぱり、右に流れるな」
照準点からわずかに逸れた着弾。
セシリアが小さく頷く。
「反動制御が、発射後に一拍遅れて働いていますわね。補正が追いついていません」
「だよな。俺もそう感じてた」
一夏がセシリアの分析を聞く。
彼女の観察眼は鋭い。
その洞察力も、狙撃手に求められる要素だ。
「……オルコット。悪いが、少し付き合ってくれ」
「え?」
「お前のスターライトで、同じ距離を撃ってみてくれ。細かい違いはあるだろうが、同じエネルギー兵装だ。比較データが欲しい」
セシリアの青い瞳が、ぱちりと瞬く。
「承知しましたわ──それと、その比較データはわたくしもいただきますわね」
シレっと付け加えられた一言に一夏が「抜け目ないな」と呟いている間にも、スターライトMkⅢを構えたセシリアは静かに息を整える。
その姿は、まるで儀式のように美しかった。
彼女の呼吸は深く、静かで、まるで湖面のように揺らぎがない。
その集中力は、一夏がドイツで何度か見てきた、熟練の狙撃手そのものだった。
「では……」
セシリアが引き金を引く。
青い光が走り、ターゲットの中心に寸分違わず命中した。
「流石、イギリス代表候補生の名前は伊達じゃないな」
「まあ、こちらはわたくし様にチューニングされてますしこれくらいなら当然ですわ」
言葉とは裏腹に、得意げに胸を張るセシリア。
その様子を、上空の鈴がジト目で見下ろしていることには、一夏はまだ気付いていなかった。
上空からじとりとした視線を送っていた鈴が、ついに堪えきれず通信を開いた。
「ねえ一夏。アンタ、セシリアと二人で盛り上がってるけどさ……あたし、完全に置いてけぼりなんだけど?」
声は軽い調子だが、わずかに震えている。
その揺らぎを、ハイパーセンサー越しでも一夏は感じ取った。
鈴の声の奥には、焦りと不安が絡み合っていた。
なぜ、という思いを抱きつつ、一夏が口を開く。
「悪い。データ取りが終わったら、そっちに行くからさ」
「……ほんとでしょうね?」
鈴の問いは、冗談めかしているようでいて、どこか本気の色が混じっていた。
セシリアがちらりと上空を見上げ、ふわりと微笑む。
「鈴さん。そんなに気にしなくても、織斑さんは逃げませんわよ?」
「そ、そういう問題じゃないの!」
鈴が慌てて否定するが、その反応が余計に図星を突かれたように見えてしまう。
一夏は苦笑しつつ、オクスタン・ランチャーのエネルギー残量を確認する。
「さて……次は実弾モードだな。エネルギー弾より反動が強い分、制御の癖が出やすいんだよな」
一夏は深く息を吸って構える。
照準を合わせる動作は、もはや身体の一部のように自然だ。
銃口を向けた瞬間、世界が静かになる。
戦場で染みついた集中のスイッチが、今も変わらず作動する事に、一夏は少しだけ安堵した。
一拍置き、引き金を引く。
轟音。
空気が裂け、反動が自身の身体に届く。
ターゲットが大きく揺れ、中心部に深い穴が穿たれた。
「……やっぱり、初速の段階で右に跳ねるな」
機体の補正が追いつく前に、反動が先に来る。
そのズレが、着弾の微妙な偏りとして現れていた。
反動の重さが腕に残り、一夏は無意識に息を整える。
この
だからこそ、安心する自分がいる──その事実が、少しだけ怖かった。
その後、一夏は時間の許す限り、オクスタンランチャーの射撃と調整を繰り返していた。──上空の、鈴の視線に気付かないフリをしながら。
◆◆◆
「結局、セシリアとだけ楽しく訓練しちゃってさ」
頬を膨らませ、一夏を睨む鈴。
夜の食堂の照明が、鈴の頬をわずかに赤く照らし、その怒りが本気なのか照れなのか判別しづらくしていた。
鈴の瞳には、怒りよりも置いていかれたような微かな寂しさが揺れており、一夏はそれに気づけないまま戸惑いだけを抱えていた。
一夏はなぜ自分が怒られているのか、と釈然としないまま口を開く。
「悪かったって。ここは奢ってやるから許してくれ」
「食堂のご飯なんてたかが知れてるでしょ! それなら週末にレゾナンスでパフェ奢りなさいよ!」
訓練を終えた三人は、時間ギリギリに食堂に飛び込み食事を摂っていた。
窓の外はすでに完全な夜で、校舎の外灯がぼんやりと芝生を照らし、ガラス越しにその光が揺れている。
夜風がガラスに触れるたび、わずかな振動が光を揺らし、まるで三人の会話に合わせて呼吸しているかのようだった。
食堂内は夕食のピークを過ぎ、まばらな生徒たちのざわめきが遠くで反響していた。
そのざわめきは、どこか柔らかく、一夏の耳に心地よく染み込んでいく。
結局、一夏はオクスタンランチャーのデータ取りと調整に終始し、鈴と訓練をする事は出来なかった。
それが鈴としては面白くないようで、鼻息荒く一夏に迫っていた訳だ。
「申請出して、許可が貰えたらな」
「言ったわね! 約束よ!」
はいはい、とあしらいつつ、一夏は実際は許可は貰えるのか半信半疑なところはあった。
世界で唯一、ISを動かせる男性操縦者として、顔写真も公表されてしまっている。
この状況で、街中においそれと出歩けるかは怪しいところだ。
「流石、男性ですわね」
と、話の流れを変えるように、セシリアが口を開く。
視線の先は、一夏のトレイの上の食事に向けられていた。
メインのハンバーグに、から揚げ定食と、二人分の食事が置かれていたからだ。
「女子向けだからか、一人前だと量が少ないからな」
「でもアンタ、昔は夜は健康の為に少なくて良いとか言ってなかったっけ?」
食事に限らず、スポーツドリンクは冷やした物より、ぬるめにしていたりと一夏は健康志向だったのに、と鈴が口を挟む。
そういえば昔はそんな生活をしてたな、と一夏は当時を懐かしむ。
その懐かしさは、夜の静けさと相まって胸の奥にじんわりと広がる。
ドイツでの訓練の日々が、ふとした拍子に蘇り、今との落差が妙に際立つ。
「結局、食える時に食うのが一番なんだよ。三食決まった時間に食えて初めてバランスがって言えるんだし」
実際、ドイツの訓練ではサバイバルの実地訓練もあった。
あの環境で、三食のバランスをなんて言っている余裕はない。
「今は三食決まった時間に食べれるんだから、バランスも考えなさいよ」
「まあ、一理あるが……」
口ではそう言いつつも、習慣は変えられないだろうな、と一夏は思う。
それに、この後もランニング等で身体を動かすつもりで、食べないともたないのが正直なところだ。
そういえば、と一夏が口を開く。
授業の事を二人に聞きたかったのだ。
「授業の内容って普段からあんな感じか?」
二人とも、代表候補生としてここにいる。
鈴は一年間と短いが、セシリアのキャリアは自分と同じくらいだろう、と一夏は思っていた。
それゆえに、普段の授業についてどう思っているのか率直に気になったのだ。
一夏の問いに、鈴とセシリアは一瞬だけ視線を交わした。
その
夜の食堂の空気が、ふと静まり返ったように感じられる。
蛍光灯の白い光が二人の横顔を照らし、その影がテーブルに長く伸びていた。
「普段の授業……ですか」
最初に口を開いたのはセシリアだった。
「わたくしたち代表候補生にとっては、正直……物足りませんわね」
「だよな」
一夏は素直に頷く。
今日の授業は、基礎の基礎。
ISの構造、歴史、PICの基礎理論──ドイツで叩き込まれた内容と比べれば、あまりにも平和的だ。
「まあ、一般生徒に合わせてるから仕方ないんだけどね」
鈴が一夏の唐揚げをつまみながら言う。
その声には、どこか慣れた諦めが混じっていた。
「一年の前半は特にそうよ。実技が始まるのは六月からだし、それまでは基礎の座学ばっかり」
「代表候補生は別枠で訓練とかしてるんじゃないのか?」
「してるわよ。でも、それは今日みたいに放課後とか休日とか。授業は普通の生徒と同じ」
「……なるほどな」
一夏は納得したように息をつく。
その吐息は、夜の空気に溶けるように静かだった。
ドイツでの緊張感に満ちた日々が、まるで別世界の出来事のように思えてくる。
「織斑さんは……どう感じましたの?」
セシリアが静かに問いかける。
その青い瞳は、ただの興味ではなく、一夏の本音を知ろうとする色を帯びていた。
その視線は、戦場で向けられる敵意とはまったく違う。柔らかく、けれど逃げ場のない真剣さがあった。
一夏は少しだけ考え、正直に答える。
「まあ……正直、退屈だったしぬるいと思ったよ」
「やっぱりね」
鈴が苦笑する。
セシリアも、どこか納得したように微笑んだ。
「代表候補生でなくとも、織斑さんは、すでに実戦レベルの訓練を積んでいますものね。基礎の授業が退屈に感じるのは当然ですわ」
「でも、まあ……」
一夏はフォークを置き、少しだけ視線を落とす。
「これが普通、なんだろうな」
その言葉に、鈴とセシリアが同時に瞬きをした。
「普通……ですか」
「ああ。なんていうか……こういうのが日常ってやつなんだろうなって」
ドイツでは味わえなかったもの。
戦場では絶対に手に入らないもの。
ただ机に座り、教師の話を聞き、時には居眠りして、誰かがノートを忘れて怒られる──そんな当たり前の光景。
その当たり前が、自分にはどれほど遠かったか。胸の奥に、言葉にならない渇きのようなものが広がる。
「……一夏」
鈴の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
その声音には、彼女なりの気遣いと、言葉にしない心配が滲んでいた。
「ずっと軍にいたからこそ、あたしはアンタにこういう日常を楽しんでほしいと思う」
一夏は鈴の言葉に、どう返せばいいのか分からず、ただ苦笑するしかなかった。
「……まあ、授業は退屈でも、こうして飯食ってる時間は悪くないな」
「それは同意しますわね」
「うん。こういうのが一番大事なんだから」
三人の間に、自然と穏やかな空気が流れた。
訓練の疲労も、今だけは遠くに感じられる。
一夏は──この日常が、どれほど脆く、どれほど貴重かを、誰よりも知っていた。
「ドイツにいた頃は……毎日が訓練で、毎日が次の戦いの準備だった。でも今は、授業受けて、飯食って、寝て……それが普通なんだよな」
言葉にすると、胸の奥が少しだけざわつく。
普通を口にするたび、自分がそこに馴染めていない事実が浮かび上がり、心が揺れる。
「普通の生活が、逆に落ち着かないってこと?」
鈴が、少しだけ優しい声で言う。
「……まあ、そんなところだ」
水を一口飲む。冷たい水が喉を通る感覚が、妙に鮮明で、今の自分が戦場ではない場所にいることを改めて実感させた。
「ならさ」
鈴が、唐揚げをつまんだまま言う。
「一夏アンタさ……もっと頼っていいんだからね」
「頼る?」
「そうよ。アンタが普通の生活に慣れないなら、慣れるまで付き合ってあげるわよ。あたしも……箒も」
一夏は言葉を失った。
胸の奥に温かいものが広がり、夜の冷えた空気が逆に心地よく感じられる。
「……ありがとな」
その一言は、短いが、確かな重みを持っていた。
鈴が照れ隠しのようにそっぽを向き、セシリアは微笑ましそう口元を緩める。
その瞬間、食堂のざわめきが少しだけ遠く感じられた。
──だが。
「でもパフェは奢ってもらうからね!」
「そこは譲らないんですのね……」
「いや、そこは譲れよ……」
三人の声が重なり、テーブルに小さな笑いが生まれた。
夜の食堂に響くその笑い声は、静かな校舎に柔らかく溶けていき、まるで日常そのものが三人を包み込んでいるようだった。
一夏にとって、それは戦場の緊張とは無縁で、けれど何よりも救いに近い温度を持っていた。