転生したらメインクーンだった俺が、獣社会の“歪み”を踏み潰す話 作:微糖コーヒー
都市南部の再開発区は、昼と夜で顔が変わる。
昼間は、未来の匂いがする。
磨かれたガラス。整然と並ぶ工事車両。真新しい看板。行政の広報ポスターには、草食獣と肉食獣が並んで微笑むイラストまで貼られていた。
“新しい共生モデル地区”。
そう銘打たれたその場所は、表向きには理想の縮図だ。
だが――
夜になると、その理想の輪郭は急激に曖昧になる。
工事区画の外れ。
照明が届かない半壊ビル。
資材置き場の影。
使われなくなった仮設宿舎。
そこにいるのは、ポスターの中で笑う側じゃない。
“建てる側”ですらない。
ただ、建てられていく街の足元に押し込まれた、帰る場所のない獣たちだ。
俺は高架道路の上から、その一帯を見下ろしていた。
横にはレゴシ。
少し離れて、ハル。
さらに後方には、今日は珍しくルイもいる。
「……思ってたより、広いな」
レゴシが低く呟く。
「都市計画から漏れた空間は、だいたいこうなる」
俺は双眼鏡を下ろした。
「整備される場所があるなら、その境界に“捨てられる場所”も生まれる」
「ゴミ捨て場みたいに言うね」
ハルが少し嫌そうに眉を寄せる。
「実際、近いだろ」
俺は肩をすくめた。
「余った労働力。余った個体。余った感情。余った恐怖。全部こういう場所に流れる」
「で、今回の“未登録労働”って、その余った獣たちを使ってるってこと?」
「そういうことだ」
ルイが地図を見ながら口を開く。
「表向きの施工会社は三社。だが下請けはもっと多い」
「労働者の記録が曖昧な区画が三つある」
「建前としては、“繁忙期の臨時雇用”だ」
「実態は?」
「無登録の肉食獣、住所不定の草食獣、更生施設帰りの個体、身分証を持たない若年層」
ルイが顔を上げる。
「要するに、“誰が消えても騒がれにくい者たち”だ」
……相変わらず、この赤鹿は言葉の芯を外さない。
「今回の目的は二つ」
俺は簡潔に言う。
「未登録労働の運営主体を掴むこと」
「それと――」
「“帰る場所のない獣たち”を、誰がどう囲ってるのかを見極める」
ハルが腕を組む。
「囲ってる、って言い方がもう嫌な感じ」
「優しい言い方なら、“保護してる”になるな」
「絶対そっちの方が怖い」
「正解だ」
レゴシは黙って下を見ていた。
灰色の目が、暗い工事現場の影を追っている。
「……あそこにいるのって」
「多分、前に言ってた“選ばれなかった側”だよな」
「かなりの割合でそうだ」
「でも……」
レゴシが少し言い淀む。
「全部が悪いやつってわけじゃないんだろ」
「当然だ」
俺は即答した。
「だから、今回は潰す前に“分ける”」
それが、前回との違いだった。
旧食肉処理場では、既に売買と拉致が進行していた。あそこは潰すしかなかった。
だが今回の南部再開発区は、まだ“労働”の形をしている。
違法で、搾取で、構造的に腐ってはいる。
それでも、ここにいる全員が同じ深さまで沈んでいるとは限らない。
ならば――
早い段階で引き剥がす方がいい。
◇
最初の接触は、驚くほどあっさりした。
高架下の仮設炊き出し場。
大鍋から湯気が立ち上り、十数体の獣が静かに列を作っている。肉食も草食も混じっていたが、会話は少ない。互いに関わりたくないわけじゃない。ただ、“余計な視線”を避けることに慣れきっている空気だった。
鍋をよそっていたのは、年配のヤギだった。
やせているが、目は死んでいない。
エプロン姿で、手つきも慣れている。
「新顔かい?」
俺たちを見るなり、そう言った。
「見学だ」
「見学、ねえ……」
ヤギは俺、レゴシ、ハル、ルイの順に視線を走らせ、最後に少しだけ眉を上げた。
「随分と目立つ見学者だ」
「よく言われる」
「お前さんだろうね、一番“言われる”のは」
そこでようやく、相手が俺を知っていることに気づく。
「ビースター猫」
「噂の割に、若い」
「それもよく言われる」
ヤギはふっと笑った。
だが、その目はずっとこちらを測っていた。
「用件を言いな」
「ここを仕切ってるやつに会いたい」
「会ってどうする」
「話す」
「話してどうする」
「必要なら壊す」
周囲の空気が、一瞬だけ固まった。
だが、俺は言い切る。
「逆に、壊さずに済むならそうする」
ヤギはしばらく黙っていた。
鍋をかき混ぜる音だけが響く。
「……本音は嫌いじゃない」
「けど、あんたみたいなのを中に通すと、面倒が増えそうだ」
「既に面倒だろ」
「その通りだ」
ヤギはため息をつき、鍋の横に置いた木杓子で奥を指した。
「仮設宿舎の三番棟」
「今いるかは知らない」
「名前は?」
「聞けば分かる」
それだけ言うと、ヤギはもうこちらを見なかった。
炊き出しの列へ戻り、一体一体に静かに食事を配り始める。
「……あのヤギ、何者だ」
レゴシが小声で聞く。
「たぶん“緩衝材”だ」
「緩衝材?」
「現場の怒りと飢えを、一時的に和らげる役」
「いるんだよ、どこにでも。完全に腐ってはいないけど、構造から降りられなくなったやつが」
ハルがぼそりと呟く。
「その手のやつ、一番厄介なんだよね」
「分かってるじゃないか」
「伊達に面倒見てないからね、色々」
……こいつも、表では測れないものを知っている。
だから連れてきた。
◇
三番棟は、もともと工事関係者用だったらしいプレハブ宿舎だった。
今は外壁が剥がれ、窓ガラスの半分は割れ、扉だけが妙に新しい。
警戒はしている、ということだ。
「私、外見る」
ハルが自然に言う。
「了解」
「何かあったら、二回叩く」
「分かった」
俺とレゴシ、ルイの三人で中へ入る。
廊下は暗く、湿っていた。古い金属の匂い、寝起きの体臭、安酒、薬、埃。色々混ざっている。
一番奥の部屋だけ、灯りがついていた。
俺は扉を二回叩く。
「開いてる」
中にいたのは、狼だった。
ただしレゴシとは違う。
より痩せ、より鋭く、より諦めきっている。
黒に近い毛並み。片耳の先が欠けている。作業着姿で、前足には油汚れ。
年齢は、俺たちとそう変わらないか、少し上くらい。
「……へえ」
そいつは椅子に座ったまま、こちらを見る。
「本当に来たんだ、ビースター」
「知ってるのか」
「そりゃ知るさ」
狼は乾いた笑みを浮かべた。
「最近の街で、お前を知らないはみ出し者はいない」
「褒め言葉として受け取る」
「好きにしろ」
レゴシが隣で少しだけ強張る。
同族特有の何かがあるんだろう。目の奥に、どこか嫌な予感が浮かんでいる。
「お前が仕切りか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「“入口”だよ」
狼は机に肘をつく。
「ここは、住処であって、仕事場であって、逃げ場だ」
「仕切ってるやつは別にいる」
「会わせろ」
「それは無理だ」
「理由は」
「お前らが“選ぶ側”だからだ」
そこで、レゴシが口を開いた。
「選ぶって……」
「助ける価値があるか、ないか」
黒狼はレゴシを見た。
「制度に入れられるか、外に捨てるか」
「そういう目だ、お前らの目は」
レゴシが息を詰まらせる。
……刺さったな。
だが、事実でもある。
「否定はしない」
俺は淡々と言う。
「でも、今ここで他人を使い潰してる連中も選んでるだろ」
「使えるやつと使えないやつを」
「生き残らせるやつと切るやつを」
「なら、何が違う」
黒狼の目が、少しだけ細くなった。
「……少なくとも、俺たちは“救う”なんて顔はしない」
「こっちは正直に、“必要だから集めてる”」
「仕事も寝床も、代わりに従うことも、全部取引だ」
「綺麗事よりはマシだろ」
ルイがそこで初めて口を開いた。
「それで、何を作っている」
「建物」
「違うな」
ルイの声は静かだった。
「それだけなら、ここまで隠す必要はない」
「再開発区で、何を掘っている」
一瞬だけ、黒狼の表情が止まった。
(当たりか)
ルイの勘は相変わらず鋭い。
「……帰れよ」
黒狼が低く言う。
「今なら、まだ話だけで済む」
「話だけで済まないから来た」
俺は一歩前へ出た。
「地下だな」
「何がある」
「知ってどうする」
「止める」
「止められないさ」
黒狼は、今度こそ笑った。
「ここはもう、“街の余り物”だけの話じゃない」
「上が繋がってる」
「上?」
「行政。施工。流通。警備。裏市場」
「全部だよ」
その瞬間、ルイの目つきが変わった。
レゴシも理解したらしい。空気が張り詰める。
「何を掘ってる」
俺がもう一度問う。
黒狼は少しだけ迷い――そして言った。
「旧搬送路だ」
「肉の、な」
……なるほど。
この都市には、昔から“肉”が流れていた。
今の共生社会が整う前、あるいはその裏で。
食肉処理場、更生施設、裏市場、再開発区。
それらが地下で繋がる搬送ルートが、今も残っているとしたら。
(物流網になる)
違法な労働力も、人も、肉も、薬物も。
全部まとめて“見えなく”できる。
「掘り起こしてどうする気だ」
「さあな」
黒狼は肩をすくめた。
「俺たちは、掘れって言われたから掘ってるだけだ」
「言っただろ。取引だって」
「誰に言われた」
「それは言えない」
「言わせるか?」
「やってみろよ」
……そこまで言った瞬間だった。
外から、金属を叩く音が二回。
ハルの合図だ。
「来るぞ」
俺が言うのと、黒狼が舌打ちするのはほぼ同時だった。
「遅かったな、ビースター」
廊下の奥から足音。
一つ二つじゃない。十以上。
しかも重い。統制が取れている。
「レゴシ、ルイ」
「分かってる」
レゴシが一歩前へ出る。ルイは既に横の窓際を押さえていた。
「お前はどうする」
俺が黒狼に問うと、そいつは一瞬だけ笑った。
「選ばれなかった獣はな」
「いざって時、選ぶ側に回れない」
「せいぜい、“どっちに噛みつくか”決めるだけだ」
その言葉の直後。
扉が内側に蹴り破られた。
◇
入ってきたのは、工事作業員風の肉食獣たちだった。
だがただの労働者じゃない。
装備、足運び、視線の配り方。最低限の訓練を受けている。
前に見た“回収班”より質が高い。
先頭は、大型のジャガー。
黄色いヘルメットを被っているのが、逆に不気味だった。
「……おやおや」
ジャガーが俺たちを見て、面倒そうにため息をつく。
「本当に来てたのか、ビースター」
「噂好きが多いな」
「君が目立ちすぎなんだよ」
ジャガーの視線が、黒狼へ向く。
「余計なこと喋ってないだろうね」
「喋ったらどうする」
「処分かな」
その一言で、空気が完全に切り替わった。
交渉じゃない。
“消しに来た”目だ。
「ハル!」
俺は扉の向こうに向かって声を飛ばす。
「分かってる!」
外で何かが倒れる音。こいつ、すでに動いてるな。
「レゴシ、左三」
「うん!」
「ルイ、後方と黒狼確保」
「命令するな」
「でもやるだろ」
「……当然だ」
次の瞬間、乱戦になった。
狭い室内は不利だ。だからこそ、数の優位も消せる。
最初に踏み込んできた犬系二体を、俺はまとめて壁へ叩きつける。顎と鳩尾。無力化。
レゴシは左から来た豹と狐を相手取り、以前よりずっと無駄なく制圧していく。相手を折らずに止める加減を、ようやく実戦で使えていた。
ルイは正面から戦わない。
その代わり、床の工具箱を蹴って進路を潰し、角度を変え、狭い空間での動線を切る。賢い。あいつはああいう使い方が一番強い。
問題はジャガーだった。
「さすがだね」
そいつは軽口を叩きながら、俺の拳を紙一重でかわす。
速い。滑るように動く。重心移動が綺麗すぎる。
(本職か)
警備会社崩れか、軍務経験か。どちらにせよ、今までの相手とは格が違う。
「君、猫にしては強すぎる」
「お前、ジャガーにしては喋りすぎる」
「余裕があるんだよ」
「それはどうかな」
俺はフェイントを捨てる。
こいつには小手先が通じない。なら、感覚の速さと身体性能で押し切る。
右を見せて左膝。受ける。そこへ肘。流された。ならさらに前へ。
至近距離。
互いの呼吸がぶつかる位置で、ジャガーの目がわずかに揺れた。
(入った)
俺は半身を沈め、そのまま肩から体当たりする。壁と俺の間に挟まれたジャガーの呼吸が止まる。
逃がさず、顎へ掌底、こめかみへ前腕。
「が……っ!」
ぐらついたところに、最後は膝で鳩尾。
ジャガーの体が崩れた。
静寂。
いや、完全な静寂ではない。
外ではまだ音がしている。だが、この部屋の中では勝負がついた。
レゴシが最後の一体を床へ押さえ込み、ルイが黒狼の退路を塞いだ。
「終わりだ」
俺が言うと、黒狼は少しだけ自嘲気味に笑った。
「そうでもない」
「どういう意味だ」
「地下を見ろよ」
……嫌な言い方だ。
◇
黒狼を拘束し、残りの連中もヒグマたちに引き渡した後、俺たちはそのまま再開発区の地下区画へ向かった。
黒狼の証言と押収した簡易図面を合わせると、三番棟の床下に隠し搬入口があるらしい。
床板を剥がし、鉄の蓋を開ける。
錆びた梯子。
下から上がってくるのは、冷たい空気と――
覚えのある匂い。
「……まただ」
レゴシが低く言う。
「薬品と、血と……肉」
「搬送路だからな」
俺は先に降りた。
地下は、思っていた以上に広かった。
古いコンクリート通路。ところどころにレールの跡。手押し台車用の溝。
そして新しく増設された照明と簡易エレベーター。
(本格運用する気だったな)
通路の先には、大きな空間があった。
もともとは中継倉庫だろう。そこに今は――
檻。
薬品箱。
資材。
食料。
簡易ベッド。
そして、獣たち。
だが、前回までと違うのは。
ここにいる連中が、“完全な被害者”でも“完全な加害者”でもないことだった。
痩せた若い狼が、工具箱を抱えている。
片脚を引きずるイノシシが、資材を運んでいた。
草食のガゼルが、食料を配っている。
そして、檻の中には確かに数体の拉致被害者もいた。
全部が混ざっている。
「……最悪」
ハルが呟いた。
「綺麗に分けられないやつだ」
「だから現実なんだよ」
俺は低く返す。
こちらに気づいた獣たちが、一斉に凍りつく。
逃げるでもなく、襲うでもなく。
ただ、“どう扱われるのか”を待っている目だ。
ああ、知っている。
この目をしたやつらは、自分で未来を決める権利を、もうほとんど持っていない。
奪われ続けた結果、“次に何をされるか”だけを読むようになる。
「聞け」
俺は、あえて大きな声で言った。
「ここを運営していた上の連中は、もう押さえた」
「これから、お前らを分ける」
「巻き込まれたやつ。従うしかなかったやつ。積極的に売買や拉致に関わったやつ」
「全部、同じには扱わない」
ざわめき。
当然だ。
そんな言葉は、誰も信じない。
制度側の連中はいつも、“ちゃんと見る”と言ってから、雑にまとめて処理する。
「信じなくていい」
俺は続ける。
「でも、今ここで暴れれば、まとめて押さえる」
「逆に、従うなら道を作る」
「選べ」
少しの沈黙のあと。
最初に動いたのは、若い草食のガゼルだった。
両手をゆっくり上げ、一歩前へ出る。
「……私は、配給だけです」
声が震えている。
「連れてこられて……ここで働けって……」
次に、脚を引きずるイノシシ。
「俺は掘削だけだ」
「飯と寝床がいる」
「それだけだ」
そして、もう一体、また一体。
全員じゃない。
だが、少しずつ前に出る。
レゴシが小さく息を吐いた。
ハルは目を細めて、一体一体を見ている。
ルイは既にメモを取り始めていた。
(これだ)
“受け皿”が必要な理由。
潰すだけなら簡単だ。
まとめて拘束し、危険分子として処理すればいい。
でもそれでは、また別の場所に同じものが生まれる。
ここに必要なのは、罰だけじゃない。
分岐だ。
その時。
奥の檻の近くで、一体の狐が突然走った。
逃走か、あるいは混乱に乗じた何かか。
「止まれ!」
俺が声を飛ばすが、止まらない。
そいつは檻の鍵束を掴み、別の通路へ向かおうとする。
「レゴシ!」
「うん!」
灰色の影が飛ぶ。
だが、狐も速い。
通路の角を曲がる寸前で、そいつは振り返りざまに小瓶を投げた。
「危ない!」
ハルの声。
俺は反射で前へ出て、小瓶を払い落とす。
床で割れた液体から、強い刺激臭。
(薬だ)
吸引型か。しかも即効性。
「レゴシ、近づくな!」
しかし、もう遅かった。
微量でも吸ったらしい。レゴシの動きが一瞬だけ鈍る。
「……っ」
その目が、少しだけ揺れる。
来るな。
俺は即座にレゴシの前へ出る。
狐はその隙にさらに逃げようとしたが、今度はルイが横から足場の鉄パイプを蹴り倒し、道を塞いだ。
「甘いな」
赤鹿が低く言う。
狐は舌打ちし、向きを変える。
だがその先にはハルがいた。
「行き止まり」
白いウサギが静かに言う。
狐が一瞬だけ躊躇した、その隙に俺が後頭部を叩き落とした。
床に沈む。
問題は――レゴシだ。
「レゴシ」
俺が呼ぶ。
返事はない。
灰色の狼は、その場で呼吸を乱しながら立っていた。
爪先に力が入り、瞳孔が開いている。
完全な暴走ではない。
だが、境界線の上だ。
「……違う」
レゴシが、自分に言い聞かせるように呟く。
「これは……俺じゃない……」
周囲の獣たちが、一歩ずつ下がる。
当然だ。今のこいつは、誰の目にも危険に見える。
「レゴシ」
俺はもう一度呼ぶ。
「見ろ」
ゆっくりと、灰色の目がこちらへ向いた。
「息をしろ」
「……っ」
「吸うな。吐け」
「吐いて、空にしろ」
レゴシの肩が震える。
だが、呼吸が少しずつ整い始める。
「お前は、自分で選べる」
「今まで訓練してきたのは、そのためだ」
「ここで越えるな」
数秒。
いや、体感ではもっと長かった。
やがてレゴシは、震える前足を強く握りしめる。
「……大丈夫」
掠れた声。
「まだ、大丈夫だ」
その一言で、空気が変わった。
完全じゃない。
でも、“越えなかった”。
また一つ、こいつは境界線の上で踏みとどまった。
◇
地下倉庫の制圧は、その後大きな混乱もなく完了した。
被害者と巻き込まれた労働者、積極加担者、運営中核。
現場で一次分類を行い、狐の部隊へ引き渡す。
だが今回は、安全管理局任せにはしない。
こちらで把握した個体については、学園・裏市・行政の三者で追跡する体制を作る。
逃げ道を閉じるだけじゃない。
戻り道も、最低限は用意する。
撤収後。
朝焼けの中、再開発区の高架下で少しだけ休憩を取った。
ハルは缶入りの温かい飲み物を三本抱えて戻ってくる。
「はい」
「気が利くな」
「珍しく素直」
「褒めてる」
「それも珍しい」
レゴシは少し離れた場所で、まだ呼吸を整えていた。
俺は一本持って、そいつのところへ行く。
「ほら」
「……ありがとう」
受け取る前足が、まだ少し震えている。
「怖かったか」
「……うん」
正直だな。
「でも、前よりは分かった」
「何が」
「“本能”って、自分の外から来るものじゃない」
「中にあるやつを、誰かに無理やり煽られる感じだ」
……言語化としては悪くない。
「それで?」
「だから余計に、嫌だ」
「自分の中にあるのに、自分のものじゃなくなる感じが」
俺は少しだけ空を見た。
「この世界の問題って、だいたいそこだろうな」
「え?」
「肉食獣も草食獣も、“自分の中にあるもの”と“社会に求められるもの”が噛み合ってない」
「だから歪む」
「……」
レゴシは缶を見つめながら、小さく言った。
「じゃあ、どうすればいいんだろう」
「噛み合わせ直すしかない」
「個体ごとに?」
「できる範囲でな」
「面倒だな」
「面倒だ」
少しだけ、レゴシが笑った。
「でも、お前ならそう言うと思った」
「どういう意味だ」
「“全部分かる解”なんてないけど、止まる気はないって顔してる」
……こいつ、たまに妙なところで核心を突くな。
「まあな」
それだけ返す。
◇
今回の南部再開発区の一件は、都市全体に小さくない波紋を広げた。
表のニュースでは“違法労働斡旋拠点の摘発”“未登録危険流通ルートの遮断”といった無難な表現にまとめられたが、実際にはもっと重い意味があった。
つまり。
この社会は、表で共生を語りながら、裏で“居場所を持たない獣たち”を必要としている。
安く、黙って、消えても困らない労働力として。
あるいは物流の潤滑油として。
あるいは、違法な需要の穴埋めとして。
それが、再開発区という“未来の象徴”の地下で起きていた。
笑えない話だ。
だが、嫌いじゃない。
醜い現実ほど、構造が見える。
構造が見えれば、壊し方も組み替え方も分かる。
ビースター室。
数日後、いつもの面子がまた揃っていた。
ハルはソファ。
レゴシは壁際。
ルイは窓際。
俺は机の前。
「南部の件で、市議会が少し揺れている」
ルイが資料を机に置く。
「“無登録個体の再参加支援策”を本格的に議題に上げる動きがある」
「遅いが悪くない」
「反対も強い」
「当然だ」
俺は資料をめくる。
「結局、“帰る場所のない獣たち”を受け入れるってことは、既存の秩序にコストを払わせるってことだからな」
「税金、治安、教育、労働市場……何にでも跳ね返る」
「それを嫌がる連中は多い」
「で?」
ハルが頬杖をつく。
「次は何やるの」
「受け皿を作る」
「またそれ?」
「今度はもっと具体的にだ」
俺は一枚の紙を広げた。
『再参加準備区画 試験運用案』
「……何これ」
レゴシが身を乗り出す。
「言葉通りだ」
「住居、労働、教育、監視、カウンセリング」
「全部を一箇所にまとめる」
「更生施設みたいだな」
ルイが静かに言う。
「違う」
俺は即座に返した。
「隔離じゃない。再接続だ」
「閉じ込めるんじゃなく、戻すための通過地点にする」
ルイは少しだけ目を細める。
「理屈は分かる」
「だが、誰が運営する」
「行政と学園と、裏市だ」
三人が同時にこちらを見る。
「……本気?」
ハル。
「面白いな」 ルイ。
「大丈夫なのか、それ」 レゴシ。
俺は少しだけ口元を上げた。
「大丈夫じゃない」
「だからやる価値がある」
ハルが頭を抱える。
「また面倒が増える……」
「お前、結局来るだろ」
「来るけど!」
レゴシは苦笑しながら、それでも頷いた。
「俺もやる」
「聞いてないが」
「聞かなくても分かるだろ」
……前より図太くなったな。
悪くない。
ルイは窓の外を見ながら言う。
「なら、私は議会と学園上層部を押さえる」
「頼んだ」
「恩着せがましくするつもりはないが」
「分かってる」
少しの沈黙。
だが、居心地の悪いものじゃない。
それぞれが、それぞれの役割を理解している沈黙だ。
俺は窓の外に広がる街を見る。
再開発区。
旧食肉処理場跡。
裏市。
学園。
更生施設。
まだ手を入れるべき場所はいくらでもある。
だが、今回ので一つはっきりした。
“選ばれなかった獣たち”は、ただの残りカスじゃない。
社会が意図的に作り出し、便利に使い、見えない場所へ押し込んでいた存在だ。
なら、その構造ごと引きずり出す。
その上で、“戻れる場所”を作る。
全員は無理だ。
無理だと分かった上で、それでもやる。
それが一番現実的で、一番面倒で――たぶん、一番正しい。
――メインクーンの俺が、帰る場所のない獣たちに、帰る前の場所を用意してやる。