転生したらメインクーンだった俺が、獣社会の“歪み”を踏み潰す話   作:微糖コーヒー

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第二十話:眠れない獣たち

 

 壊れる前の場所を作る。

 言うのは簡単だ。

 だが、実際に“壊れる前”の個体を扱うのは、壊れた後の個体を扱うより難しい。

 

 壊れていれば、まだ分かりやすい。

 眠れない。

 怯えている。

 攻撃的だ。

 食えない。

 あるいは逆に、何も感じていない。

 

 だが――

 

 壊れる前のやつは、外から見ると“まだ平気そう”に見える。

 笑うこともある。

 会話もできる。

 働けることもある。

 

 そのくせ、夜になると急に呼吸が浅くなる。

 音に過剰反応する。

 匂いだけで吐く。

 誰かが戸を閉めた音で、前足が震える。

 

 そして一番厄介なのは――

 

 本人が、“自分はまだ壊れていない”と思い込んでいることだ。

 

 

 ◇

 

 

 一次保護区画――通称“ステイ区画”は、住民説明会から六日後に試験開所した。

 

 名称は直前まで揉めた。

 保護区画では露骨すぎる。

 待機施設では弱い。

 診療所の再利用を前面に出した“地域安定支援センター”案も出たが、嘘くさすぎて却下した。

 

 最終的に落ち着いたのが、“ステイ区画”。

 止まるための場所。

 留まるための場所。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 旧市立診療所を最低限改修し、まずは八床だけ開ける。

 医療室二。隔離気味の個室三。共有部屋三。簡易調理場。面談室。見守り用の小さな詰所。

 

 八床。

 

 少なすぎる。

 だが、最初から広げすぎると回らない。

 

(まずは動線の確認だ)

 

 運営は三系統で回す。

 医療・初期対応は診療所側に残っていたネットワークを狐が再接続した。正規の医師までは常駐できないが、看護経験のあるヤギと、非常勤の小型肉食獣の医師が交代で入る。

 生活管理と警備は、裏市から選抜した“威圧しすぎないやつ”をヒグマが出した。

 再接続評価と進路選定は、リレー区画側――つまり俺たちだ。

 

 書類上は、共同運営。

 実態としては、綱渡り。

 

 

 ◇

 

 

 初日の夜。

 

 最初の受け入れ個体は、三体だった。

 

 一体目は、草食の若いラマ。

 南西の旧搬送ヤードから保護された。表情が薄く、質問には答えるが、自分からは何も言わない。手首に古い縛創痕あり。睡眠薬なしでは眠れないと自己申告。

 

 二体目は、肉食のアナグマ。

 未登録労働現場から引き上げたが、薬物の影響は軽度。問題は依存よりも過覚醒だ。ずっと周囲を見ている。座っても、背中が椅子につかない。

 

 三体目は――

 

「……入るぞ」

 

 レゴシが面談室の前で低く言う。

 

 中にいるのは、若い草食のシマウマだった。

 名前はミナ。二十歳前後。再開発区近くの住居型斡旋から抜かれた。書類上は飲食補助スタッフ。実態は、深夜帯の接待と違法搬送の手伝い。自分では“手伝い”と言っているが、逃走履歴が二回ある。

 

 俺とレゴシ、ハルが中に入る。

 ルイは今日は表の調整で不在。狐は診療室側にいる。

 

 ミナは椅子に座っていた。

 姿勢はいい。毛並みも整っている。怪我も少ない。

 外から見れば、“そこまで深刻には見えない”タイプだ。

 

 だが、目が死んでいる。

 

 いや、死んでいるというより――

 

(切ってるな)

 

 必要な感情だけ残し、それ以外を切り離している目だ。

 

 

「体調は」

 

 俺が聞く。

 

「平気です」

 

「眠れるか」

 

「眠れます」

 

「嘘だな」

 

 

 ミナの瞳が、わずかに動いた。

 

「……」

 

「まばたきの間隔が長すぎる」

 

「今もずっと、廊下の音に意識を向けてる」

 

「眠れるやつの反応じゃない」

 

 

 ハルが横目でこちらを見る。

 えげつない、という顔だ。知るか。

 

「……眠れないです」

 

 ミナが小さく言う。

 

「たまに、です」

 

「毎晩だろ」

 

「……」

 

 

 レゴシが少しだけ前に出る。

 

「無理に強がらなくていい」

 

 

 ミナは一瞬だけレゴシを見る。

 灰色の狼。

 多分、こいつの存在そのものに緊張している。

 だがレゴシはもう、その視線を受け止められる。

 

「ここ、何もしない」

 

 レゴシは静かに言った。

 

「少なくとも、いきなり何かをさせたりはしない」

 

「……本当に?」

 

「本当だ」

 

 即答。

 

 

 ミナの喉が、小さく動く。

 

「寝たら……」

 

 そこで止まる。

 

「寝たら、起きた時、別の場所にいるかもしれないって思うんです」

 

 

 ……そういうことか。

 

 寝ることが“移送”と結びついてる。

 薬、睡眠、車、搬送。よくある壊れ方だ。

 

「今日は個室にしろ」

 

 俺はハルに向けて言う。

 

「扉、閉めない方がいい?」

 

 ハルが聞く。

 

「半開き。光は細く。足音の少ない部屋」

 

「了解」

 

 

 ミナが少しだけ目を見開いた。

 

「……選べるんですか」

 

「最初のうちはな」

 

 俺は答える。

 

「扉を閉めるか。灯りを消すか。誰が部屋に入るか。全部とは言わないが、最初の選択肢はできるだけ残す」

 

「その方が壊れにくい」

 

 

 ミナは何も言わなかった。

 だが、わずかに肩の力が抜けた。

 

(これで一晩もてばいい)

 

 まずはそれだけだ。

 

 

 ◇

 

 

 初日の夜は、当然ながら平穏では終わらなかった。

 

 午前一時。

 第三詰所のモニターに、一つの部屋が映る。

 アナグマのベッドが空だった。

 

「……早いな」

 

 俺は小さく呟く。

 

 逃走というより、巡回だ。

 眠れない個体が、静かに施設内を歩き回るのは珍しくない。

 

 問題は、どこへ行くかだ。

 

「レゴシ、東廊下」

 

『うん』

 

「ハルは西」

 

『了解』

 

 

 俺は中央階段を降りる。

 薄暗い廊下。夜間灯だけが細く床を照らしている。

 診療所だった頃の名残で、床材は意外と柔らかい。足音は響きにくい。

 

 その代わり、匂いは残る。

 

(いたな)

 

 消毒薬の薄い匂いに混じって、獣臭が漂う。

 

 処置室前。

 

 アナグマは、扉の前にしゃがみ込んでいた。

 

「何してる」

 

 俺が声をかけても、すぐには反応しない。

 数秒遅れて、びくりと肩を震わせる。

 

「……寝れなくて」

 

「だからって処置室の前に来るか?」

 

「……消毒の匂いがするから」

 

 

 なるほど。

 

 安心材料か、あるいは逆に“見張りがいる場所”として落ち着くか。壊れ方によって違う。

 

「戻るか」

 

「嫌だ」

 

「理由は」

 

「部屋だと、静かすぎる」

 

 

 静かすぎる。

 それもよくある。

 静寂が“次の暴力までの間”だった個体には、無音そのものが恐怖になる。

 

「椅子出せるか」

 

 通信機に入れる。

 

『出せるよ』

 ハルだ。

 

「処置室前に二脚」

 

『りょーかい』

 

 

 数分後、ハルが折り畳み椅子を持ってきた。

 

「ほら」

 

 アナグマは戸惑いながら椅子を見る。

 

「ここで座ってろ」

 

 俺は言う。

 

「朝までか?」

 

「今日はな」

 

「毎日は駄目だ」

 

「何で」

 

「癖になる」

 

 

 アナグマは不満そうな顔をしたが、座った。

 

 ハルも隣に腰掛ける。

 

「眠れないの?」

 

「うるさいと平気なんだけど」

 

「ここ、静かすぎるよね」

 

 

 ……雑談みたいに聞こえるが、これはハルなりの“足場作り”だ。

 

 俺にはできない。

 レゴシにも多分、違う形になる。

 こいつにしかできない領域だ。

 

 

 ◇

 

 

 午前三時。

 今度は、ミナの部屋だった。

 

 扉は半開きのまま。ベッドにいる。だが様子がおかしい。

 呼吸が浅い。目は閉じている。前足が小刻みに震えている。

 

(夢か)

 

 いや、もっと悪い。

 覚醒と夢の境目が崩れている。

 

「ハル」

 

「いる」

 

「灯り」

 

 ハルがすぐに細い携帯灯を点ける。眩しくない角度で、部屋の壁を照らす。

 

「ミナ」

 

 俺は低く呼ぶ。

 

 反応なし。

 

「レゴシ」

 

 廊下から入ってきた灰色の狼が、部屋の入口で止まる。

 それ以上近づかせない。今の状態で肉食の気配は刺激が強いかもしれない。

 

「ミナ」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 今度は、わずかに目が開いた。

 焦点が合わない。

 

「……やだ」

 

「ここだ」

 

 俺は短く言う。

 

「どこ……?」

 

「ステイ区画。個室二」

 

「車じゃない。檻でもない」

 

「今、ここにいる」

 

 

 言葉は、こういう時は位置情報になる。

 概念じゃなく、場所だ。

 

「……扉」

 

「開いてる」

 

「灯り……」

 

「ついてる」

 

「誰……」

 

「俺と、ハルと、レゴシだ」

 

「嫌なら狼は外に下げる」

 

 

 レゴシが少しだけ目を見開くが、すぐに何も言わず一歩下がった。

 正しい。

 

 ミナの視線がゆっくりと扉へ向く。

 レゴシが廊下側に下がったのを見て、ようやく呼吸が少しずつ整い始める。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝るな」

 

 俺は即答した。

 

「起きたかっただけだろ」

 

 

 ミナは目尻を濡らしながら、小さく頷いた。

 

「……寝たら、起きた時に、また誰かに値段つけられる気がして」

 

 

 その言葉に、ハルの顔がわずかに強張る。

 こいつも、多分、別の形で似たものを知ってる。

 

「今日は寝なくていい」

 

 ハルが先に言った。

 

「え?」

 

「無理に寝なくていいよ」

 

「寝なきゃってなると、余計怖いし」

 

「朝まで起きてても、別に死なない」

 

 

 ……それも一つの正解だ。

 無理に正常へ戻そうとすると、かえって悪化する。

 

「温かいの持ってくる」

 

 ハルが立ち上がる。

 

 ミナは呆然と、その背中を見ていた。

 

「……そんなのでいいんですか」

 

「最初はそれでいい」

 

 俺は答える。

 

「次に寝ることは、次に考える」

 

 

 ◇

 

 

 朝。

 

 誰も完璧には眠れなかった。

 

 だが、誰も壊れなかった。

 

 それで十分な夜だった。

 

 

 食堂で、俺たちはひどい顔をしていた。

 ハルはあくびを隠そうともしない。レゴシは眠そうだが立っている。俺は多分、顔色が悪い。

 

「……これ、毎日?」

 

 レゴシが呟く。

 

「毎日じゃない」

 

「でも初日はだいたいこうなる」

 

「面倒すぎる」

 

「知ってる」

 

 

 そこへ、診療所側のヤギ看護師がトレイを持ってきた。

 

「顔が死んでるよ、全員」

 

「生きてる」

 

「それも怪しいねえ」

 

 

 トレイには、薄いスープと柔らかいパン。

 一次保護では、食事も刺激を減らす。

 強い匂い、硬い食感、量の多さ。そういうものが負担になる個体もいる。

 

「ミナは?」

 

「食べてるよ」

 

「アナグマは?」

 

「椅子でうとうとしてる」

 

「黒狼は?」

 

「もう加工所行った」

 

 

 ……元気だな、あいつ。

 

 

 ハルがスープをすすりながら言う。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「昨日ので分かった」

 

「何が」

 

「一次保護って、“保護する場所”っていうより、“普通に戻そうとしすぎない場所”なんだね」

 

 

 少しだけ考える。

 

「そうかもな」

 

「戻らせるんじゃなく、急に戻さない」

 

「その方が近い」

 

 

 レゴシがパンをちぎりながら言う。

 

「でも、それって時間かかるだろ」

 

「かかる」

 

「議会とか住民って、待ってくれるのか?」

 

「待たせる」

 

「また簡単に言うな……」

 

「簡単じゃない」

 

 

 だが実際、ここが次の山だ。

 

 一次保護は成果が数字になりにくい。

 眠れた、少し食えた、夜中に逃げなかった、呼吸が整った――そういう変化は大きいが、外には伝わりにくい。

 

 黒狼のような“分かりやすい一歩”が出るまでに、時間がかかる。

 

 その時間を、どう社会に説明するか。

 そこが勝負だ。

 

 

 ◇

 

 

 そして、その勝負は想像より早く来た。

 

 開所四日目の午後、ステイ区画の正面に報道陣が現れたのだ。

 

「……誰が呼んだ」

 

 門前に並ぶカメラを見て、俺は露骨に眉を寄せた。

 

 マイク。腕章。中継車。

 

 しかも、ただの地域紙じゃない。市内でも影響力のある局が混ざっている。

 

「情報漏れてるね」

 

 ハルが言う。

 

「漏らしたんだろ」

 ルイ。

 

「開発推進室の残党か、保安統制課か、その辺だ」

 

「どうする?」レゴシ。

 

「追い返すのは悪手だ」

 

 俺は短く答えた。

 

「隠してるように見える」

 

「じゃあ出るの?」

 

「出る」

 

 

 狐にも連絡を入れるが、向こうは向こうで別件対応中らしい。

 役に立たないわけじゃないが、今回は自前で捌くしかない。

 

 正面へ出ると、案の定、マイクが一斉に向く。

 

「ビースター、質問を!」

 

「この施設に危険個体が収容されているのは事実ですか!」

 

「住民側からは不安の声も上がっていますが!」

 

「一次保護という名目で、更生施設の焼き直しではないかという指摘も――」

 

 

 ……うるさい。

 だが、悪くない。

 

「一個ずつにしろ」

 

 俺は言う。

 

「あと、“収容”じゃない」

 

「じゃあ何ですか」

 

「保護と評価の一次停止区画だ」

 

「言い換えているだけでは?」

 

「違う」

 

 俺はカメラの正面を見る。

 

「ここは、“もう少し早ければ壊れなかった獣”を、一回止める場所だ」

 

「壊れたあとに放り込むんじゃない」

 

「壊れる前に、眠らせる。食わせる。怯えを抜く。その後で、次を決める」

 

 

 記者の一人が食い下がる。

 

「しかし実際には、違法労働や未登録流通に関わった個体もいるのでは?」

 

「いる」

 

 即答。

 

「じゃあ危険では?」

 

「危険かどうかを分けるための場所だ」

 

「危険だから外へ捨てる、ではまた見えないところで流通に戻る」

 

「だから止める」

 

 

 別の記者。

 

「住民へのリスクは?」

 

「ゼロじゃない」

 

「それでも作るのは、今この街に既に同じリスクが拡散してるからだ」

 

「ここに置けば、監視できる。追える。責任も取れる」

 

「見えないままにするよりは、よほどマシだ」

 

 

 何人かがメモを取る手を止めた。

 刺さっている。

 

 その時――

 

「ちょっと、あの子……」

 

 後ろでハルが小さく言った。

 

 

 振り向く。

 

 施設の玄関脇。

 ミナが立っていた。

 

 個室からここまで来たのか。

 目の前のカメラ群に完全に固まっている。

 

(まずい)

 

 光。人数。視線。全部刺激だ。

 

「下がれ!」

 

 俺が記者たちに言うより早く、シャッター音が一斉に鳴った。

 

 最悪だ。

 

 ミナの呼吸が止まる。

 目が見開く。

 前足が、がくりと震えた。

 

「ミナ!」

 

 ハルが駆け出す。

 だが近づき方を間違えれば、逆に追い詰める。

 

「レゴシ、記者を下げろ!」

 

「うん!」

 

 灰色の狼が一歩前に出るだけで、記者たちの足が止まる。便利だな、お前。

 

「下がって!」

 

 レゴシが低く言う。

 

 その声にはもう、怯えさせるだけの鈍さがない。必要な圧だけを出せている。

 

 一方で、ハルはミナに近づかない。

 数歩手前で止まり、しゃがみ込み、目線を下げる。

 

「見なくていいよ」

 

 静かな声。

 

「こっち見なくていい」

 

「音だけ聞いて」

 

 

 ミナの肩が激しく震える。

 

「……無理」

 

「うん、無理だよね」

 

 ハルは即座に同意した。

 

「じゃあ一個だけやろ」

 

「私の声だけ探して」

 

 

 ……上手い。

 

 俺には無理だ。

 正論も指示も、この状態の個体には刃になる。

 

「歩ける?」

 

「……」

 

「歩けなくてもいい。こっち来なくていい」

 

「でも、今そこはしんどいよね?」

 

 

 ミナの目から、涙が一気にこぼれた。

 呼吸は乱れたまま。だが、完全には切れていない。

 

「じゃあ、一歩だけ横」

 

 ハルが言う。

 

「前じゃなくて横でいい」

 

 

 ミナの足が、わずかに動いた。

 

「そう、それでいい」

 

 

 その瞬間、記者の一人が小さく何かを言いかけた。

 

 俺はそいつを見た。

 

「今、撮るな」

 

 低く言う。

 

「……取材の自由が」

 

「知るか」

 

 俺は一歩前へ出る。

 

「今それをやれば、“保護”と“追い込み”の区別もつかない三流だって自分で証明するだけだ」

 

 

 記者は口を閉じた。

 カメラも止まる。

 

 

 ハルが、ミナをゆっくり建物の陰へ誘導する。

 完全には支えない。触らない。だが、声は切らさない。

 

 ミナが陰に入った瞬間、ようやく肩が大きく上下した。

 

(持ったな)

 

 

 ◇

 

 

 報道対応は、その後めちゃくちゃになった。

 当然だ。

 現場で保護個体のパニックを起こした以上、こっちは“施設の脆さ”も“必要性”も同時に晒したことになる。

 

 だが――

 隠すよりはマシだ。

 

 俺はそのまま記者たちに言った。

 

「今見た通りだ」

 

「ここに来る個体は、見た目より脆い」

 

「だから一次保護がいる」

 

「だから無神経な取材は害になる」

 

「そして、こういう状態の個体を“危険か無害か”の二択でしか見ない社会そのものが問題なんだよ」

 

 

 会見としては、最悪に近い。

 だが内容としては、本質を見せた。

 

 狐が後から合流してきて、ため息混じりに言った。

 

「もう少し穏やかに言えませんか」

 

「無理だな」

 

「でしょうね」

 

 

 ただ、狐自身も分かっていた。

 あの一件は、広報上の事故であると同時に、一次保護区画の必要性を可視化する映像でもあったことを。

 

「編集次第ですね」

 

「何が」

 

「世論です」

 

 狐は冷静に言った。

 

「“危険個体が取り乱した”と切り取られるか、“壊れかけた個体に配慮が必要だ”と見られるか」

 

「その綱引きになります」

 

「なら、勝て」

 

「あなたも協力してください」

 

「面倒だな」

 

「いつものことでしょう」

 

 

 ……本当に余計な返しを覚えたな、この狐。

 

 

 ◇

 

 

 その日の夜。

 ミナは落ち着きを取り戻したが、自己嫌悪が強く出た。

 

「ごめんなさい」

 

 ベッドの端に座ったまま、何度もそれを言う。

 

「迷惑かけた」

 

「施設に傷がついた」

 

「私のせいで――」

 

「違う」

 

 俺は短く言った。

 

「今日のは、お前のせいじゃない」

 

「でも……」

 

「でもじゃない」

 

 

 ハルが横から、少し柔らかく言う。

 

「びっくりしたんでしょ」

 

「普通だよ」

 

「ここ、外と切れてるようで切れてないし」

 

「そういうの、急に来ると無理だから」

 

 

 ミナが唇を噛む。

 

「……私、戻れないかもしれない」

 

 

 その言葉に、レゴシがわずかに反応した。

 だが、すぐには何も言わない。

 

 

 俺は少しだけ考えてから答えた。

 

「今の段階で“戻れるかどうか”を決めなくていい」

 

「え……?」

 

「ステイ区画は、その判断を先延ばしにするための場所でもある」

 

「今決められないなら、決めないままでいい」

 

「それでも止まってることには意味がある」

 

 

 ミナは、呆然とした顔でこちらを見ていた。

 

 多分、今までの人生でそんなことを言われたことがないんだろう。

 決めろ、従え、動け、役に立て、黙れ。

 そういう言葉ばかり浴びてきた顔だ。

 

「……そんなの、ありなんですか」

 

「ありにするために作ってる」

 

 俺は答える。

 

「今までなかったからな」

 

 

 レゴシが、そこでようやく口を開いた。

 

「俺も、最初はずっと決められなかった」

 

 

 ミナが顔を上げる。

 

「何を」

 

「……色々」

 

 レゴシは苦く笑った。

 

「自分が何なのかとか、何をしたいのかとか、どこまで怖がっていいのかとか」

 

「だから、今決めなくていいって言葉は……多分、本当だよ」

 

 

 ……悪くない。

 昔なら、こいつはこういう言葉を出せなかった。

 自分の迷いを、人に渡すことができるようになったんだな。

 

 

 ◇

 

 

 翌朝。

 例の映像は、やはりニュースになった。

 

 だが、想定より悪くなかった。

 

『一次保護施設の現場で見えた“脆さ”』

『危険か無害かで測れない保護対象』

『再発防止と配慮の両立が課題に』

 

 

 もちろん、批判もある。

 

『こんな不安定な個体を住宅地近くに置くのか』

『やはり危険だ』

『現場管理が甘い』

 

 だが同時に、ミナのような個体の存在そのものが、“見えないまま使い潰されていた獣たち”の象徴として伝わり始めた。

 

 ……悪くない。

 

「勝った?」

 

 ハルが朝食のパンをちぎりながら聞く。

 

「引き分けだな」

 

「それ、負けてない?」

 

「負けてない」

 

「どこで判断してるの」

 

「議会の反応」

 

 俺は端末を見せる。

 

『一次保護区画の受け入れ枠拡張について、条件付きで審議継続』

 

「閉鎖じゃない」

 

「なら上等だ」

 

 

 ルイが後ろから現れて、紙の束を机に置いた。

 

「追加条件が来た」

 

「何だ」

 

「住民監視委員会の定期見学」

 

「メディア取材時の事前同意手順」

 

「保護個体ごとの可視化できる経過報告」

 

 

 ……面倒だな。

 

「全部受ける」

 

「即答か」

 

「嫌なら切ればいい」

 

「何を」

 

「向こうをだ」

 

 ルイが小さく笑った。

 

「やはり狂っている」

 

「知ってる」

 

 

 だが本心では分かっている。

 

 この条件は、面倒だが必要だ。

 見せることも、今後は構造の一部になる。

 ただし、晒すんじゃない。

 “どう扱っているか”を見せる。

 そこを間違えると、ステイ区画はまた別の見世物になる。

 

 

 ◇

 

 

 その日の午後。

 黒狼が加工所から戻ってきた。

 最近は週の半分を外で働き、残りをリレー区画で過ごしている。

 

「どうだった」

 

 俺が聞くと、黒狼は少しだけ口元を上げた。

 

「今日、初めて任された」

 

「何を」

 

「資材の受け渡し表」

 

「数字、間違えたら怒られるやつだ」

 

 

 ……地味だが大きいな。

 

「で?」

 

「間違えなかった」

 

「当たり前だ」

 

「お前、褒める気あるのか?」

 

「ある」

 

 そこで少しだけ間を置く。

 

「よくやった」

 

 

 黒狼が一瞬だけ黙り、そして小さく息を吐いた。

 

「……そういうの、たまにちゃんと言うんだな」

 

「毎回言うと安くなる」

 

「何がだよ」

 

 

 レゴシが横で笑っている。

 ハルは“出た”みたいな顔をしていた。

 

 

 黒狼はふと、真顔に戻った。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「一次保護の方、増やすんだろ」

 

「増やす」

 

「そしたら……俺みたいなやつ、また来るのか」

 

「来る」

 

「もっとひどいのも?」

 

「来る」

 

 

 黒狼は少しだけ目を伏せた。

 

「じゃあ」

 

 ゆっくりと言う。

 

「俺も、そっち回る」

 

 

 沈黙。

 

「何?」

 

 ハルが思わず聞き返す。

 

「夜の見守りとか、最初の案内とか」

 

 黒狼は言葉を選びながら続けた。

 

「“最初の感じ”は、多分、俺の方が分かる」

 

「狼だからって意味じゃなく」

 

「“外側から来た時の目線”って意味で」

 

 

 ……なるほど。

 

 それは、こいつにしかできない役割だ。

 職員でもない。住民でもない。行政でもない。

 “戻りかけた側”にしか立てない位置。

 

「受ける」

 

 俺は即答した。

 

「早っ」

 ハル。

 

「適任だ」

 

 黒狼は少しだけ目を丸くし、やがて苦く笑った。

 

「……だろうな」

 

 

 レゴシが静かに頷く。

 

「いいと思う」

 

「お前もそう思うか」

 

「うん」

 

「最初に会うやつが、“最初からこっち側だったやつ”じゃない方が、多分話しやすい」

 

 

 その言葉に、黒狼は一瞬だけレゴシを見た。

 

 敵意ではない。

 比べる視線でもない。

 ただ、“分かる”って顔だった。

 

 

 ◇

 

 

 その夜。

 俺は一人で、ステイ区画の中庭に立っていた。

 

 診療所だった頃の小さな木が、まだ残っている。

 手入れはされていない。だが枯れてもいない。

 

 眠れない獣たち。

 戻れないかもしれない獣たち。

 戻る前に止まる必要のある獣たち。

 

 そういう連中を扱う場所は、どうしても“成果”が遅い。

 数字にもなりにくい。

 外から見れば、手間ばかりに見えるだろう。

 だが――

 

(必要だ)

 

 ここがなければ、壊れた個体はまた流れる。

 流れて、使われて、磨り減って、いずれ誰かを壊す。

 その前で止める。

 止めた上で、まだ次があるかどうかを見極める。

 

 黒狼のように戻る者もいる。

 ミナのように、まだ止まるだけで精一杯の者もいる。

 どちらも必要だ。

 どちらも、“制度の内側”で扱えるようにしなければ意味がない。

 

 俺が空を見上げると、冷たい夜気が肺に入った。

 

 面倒だ。

 相変わらず。

 この世界は、手を入れれば入れるほど、もっと奥の歪みが見えてくる。

 でも、それでいい。

 歪みが見えれば、次にどこを壊して、どこを支えればいいか分かる。

 

 そして今は――

 

 眠れない獣たちに、“今夜だけは壊れなくていい”と言える場所が、ここにある。

 

 

 ――メインクーンの俺が、眠れない獣たちに、まず一晩ぶんの明日を用意してやる。

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