転生したらメインクーンだった俺が、獣社会の“歪み”を踏み潰す話   作:微糖コーヒー

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第三十九話:外で測る者たち

 

 

 基準は、内側だけに置いているうちは守りやすい。

 

 壁がある。門がある。記録がある。

 

 誰が入ったか、誰が出たか、誰が何を見て、何を壊しかけたか。

 

 測れる。

 

 だが、外は違う。

 

 街は記録を残さない。

 

 路地は嘘を吐く。

 

 通行人は見て見ぬふりをする。

 

 商店は客の顔を覚えていても、余計なことは言わない。

 

 行政は“把握していない”と言えば、それで責任の半分を逃がせる。

 

 裏市場は、初めから記録など作らない。

 

 

 

 だからこそ──

 

 

 

 外で測るには、こちらも“外のやり方”を覚える必要がある。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 朝。

 

 ステイ区画、詰所。

 

 ホワイトボードには、昨日描いた同心円の図が残っていた。

 

 内圏。

 

 中圏。

 

 外圏。

 

 そこに俺は、新しく一本の線を足した。

 

 

 

 前圏。

 

 

 

「……また増えた」

 

 ハルが露骨に嫌そうな声を出す。

 

「増やさなければ詰まる」

 

「便利な言葉」

 

「事実だ」

 

 

 

 レゴシが図を覗き込む。

 

「前圏って、どこだ」

 

「ここに来る前の場所だ」

 

「つまり、街?」

 

「街全部じゃない。流れが集まる地点だけだ」

 

 

 

 俺はペンで三つ丸をつける。

 

 

 

 一つ目、南部再開発区の外れ。

 

 二つ目、旧搬送ヤード周辺。

 

 三つ目、東側商店街の裏通り。

 

 

 

「ここに“前段階の測定点”を置く」

 

 

 

 ルイが目を細める。

 

「測定点、か。施設ではないな」

 

「まだな」

 

 俺は答える。

 

「施設にすると目立つ。目立てば奪い合いになる。今必要なのは、“来る前に見つける場所”だ」

 

 

 

 イオリが静かに頷いた。

 

「接触所ではなく、観測所ですね」

 

「そうだ」

 

 

 

 ハルが少し不安そうに言う。

 

「それって、誰がやるの? 職員?」

 

「職員じゃ遅い」

 

「じゃあ誰?」

 

 

 

 俺はボードの横に、名前を書いた。

 

 

 

 黒狼。

 

 ノエル。

 

 ミナ。

 

 ザク。

 

 

 

 レゴシの眉が動く。

 

「利用者を外に出すのか」

 

「全員じゃない。役割を持てる個体だけだ」

 

「危険だ」

 

「危険だな」

 

「じゃあ──」

 

「だが、外を見るには外を知っている目がいる」

 

 

 

 レゴシは言葉を詰まらせた。

 

 

 

 優しいやつだ。

 

 だからこそ、すぐに“守る”側へ考えが寄る。

 

 悪くない。

 

 だが、今はそれだけでは足りない。

 

 

 

「ここに来る個体は、来た時点ですでに削れている」

 

 俺は続けた。

 

「なら、来る前に拾う。拾えなくても見る。見て、流れを読む」

 

 

 

 ルイが腕を組む。

 

「そして、流れを握る」

 

「そうだ」

 

 

 

 ハルが小さくため息をついた。

 

「また世界征服みたいなこと言ってる」

 

「世界征服じゃない」

 

「じゃあ何」

 

「流通管理だ」

 

「余計怖い」

 

 

 

 イオリが、淡々と補足した。

 

「しかし、必要です。現在のステイ区画は“集まってきたもの”に対応しているだけです。前段階で変化を掴まなければ、常に後手になります」

 

 

 

 レゴシが、ゆっくりと息を吐く。

 

「……分かった。でも、条件がある」

 

「言え」

 

「外へ出すなら、戻れる導線を絶対に切らない」

 

 

 

 いい。

 

 それをお前が言うのは意味がある。

 

 

 

「当然だ」

 

 

 

 俺は答えた。

 

「前圏は“戻るための外”だ。捨てるための外じゃない」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 最初の前圏観測は、その日の夕方に行われた。

 

 場所は東側商店街の裏通り。

 

 表通りは穏やかだ。青果店、パン屋、古い雑貨店、小さな喫茶店。

 

 草食獣の家族連れも多い。

 

 一見すれば、共生社会の成功例みたいな街区だ。

 

 だが、一本裏へ入ると、空気は変わる。

 

 配送用の細い路地。

 

 古い勝手口。

 

 廃棄物置き場。

 

 使われなくなった倉庫。

 

 そこには“表に出したくない流れ”が沈殿する。

 

 

 

 俺、レゴシ、黒狼、ノエル、イオリ。

 

 今回はこの五体で動く。

 

 ハルはステイ区画でミナとリナのケア。

 

 ルイは議会と住民監視委員会の対応。

 

 ザクはまだ外圏対応には早いと判断した。

 

 

 

「……ここ、嫌な匂いがする」

 

 レゴシが低く言う。

 

「肉か」

 

「肉だけじゃない。古い油と、薬と……怖がってる匂い」

 

 

 

 黒狼が鼻で笑った。

 

「商店街の裏なんて大体そんなもんだ」

 

「慣れてるのか」

 

「慣れたくなくてもな」

 

 

 

 ノエルは黙って周囲を見ていた。

 

 視線の動きが以前より安定している。

 

 “全部を見る”のではなく、“人の動きだけを見る”。

 

 それを守っている。

 

 

 

「どうだ」

 

 俺が聞くと、ノエルは短く答えた。

 

「遅い個体がいる」

 

「どれだ」

 

「あそこ」

 

 

 

 指差した先。

 

 裏口の前に、一体の若い草食が立っていた。

 

 ヤギ。

 

 荷物を抱えている。

 

 一見、ただの配達手伝い。

 

 だが、動きが遅い。

 

 正確には、命令を待ってから動く個体特有の遅れがある。

 

 

 

「黒狼」

 

「分かってる」

 

 

 

 黒狼が自然な足取りで近づく。

 

 威圧しない。

 

 だが逃げ道は塞ぐ。

 

 

 

「手伝いか」

 

 黒狼が声をかける。

 

 ヤギはびくりと肩を震わせた。

 

「え、あ……はい」

 

「誰に頼まれた」

 

「店の人に」

 

「名前は」

 

「……」

 

 

 

 遅い。

 

 

 

 黒狼はそれ以上詰めない。

 

 ただ一歩下がり、俺を見る。

 

 

 

(黒寄りの灰色)

 

 

 

 俺はヤギへ近づいた。

 

「荷物を見せろ」

 

「え……」

 

「見せろ」

 

 

 

 ヤギは迷った。

 

 それだけで十分だった。

 

 

 

 レゴシがわずかに前へ出る。

 

 ヤギの手が震え、箱が落ちる。

 

 中身が転がった。

 

 

 

 薬瓶。

 

 小型の音響装置。

 

 そして、複数の識別札。

 

 

 

 イオリの目が細くなる。

 

「ステイ区画で使われた干渉装置と同系統ですね」

 

 

 

 やはりか。

 

 

 

 ヤギは泣きそうな顔で後退する。

 

「知らない……中身は知らない……運べって言われただけで……!」

 

 

 

 黒狼が小さく舌打ちした。

 

「よくあるやつだな」

 

「そうだな」

 

 

 

 使いやすい個体に運ばせる。

 

 中身は知らせない。

 

 捕まれば切る。

 

 古典的だが有効だ。

 

 

 

「お前、戻る場所はあるか」

 

 俺が聞くと、ヤギは首を横に振った。

 

「じゃあ仕事は」

 

「……これだけ」

 

「ならステイに入れる」

 

 

 

 ヤギが顔を上げる。

 

「え?」

 

「ただし一次保護じゃない。前圏保留だ。中には入れない。外で測る」

 

 

 

 レゴシがこちらを見る。

 

「そんな枠、あったか?」

 

「今作った」

 

「またか……」

 

 

 

 イオリが淡々と頷いた。

 

「妥当です。ステイ内へ即時流入させるには不確定要素が多い。しかし放置すれば再利用される」

 

 

 

 ノエルが小さく言う。

 

「じゃあ、外で止める」

 

「そうだ」

 

 

 

 ヤギは、まだ怯えている。

 

 だが、完全に崩れてはいない。

 

 

 

 なら測れる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 前圏保留。

 

 

 

 それはその場で生まれた新しい枠だった。

 

 施設に入れる前の状態。

 

 完全に自由でもない。

 

 完全に保護でもない。

 

 

 

 俺たちは東側商店街の古い喫茶店を一時拠点にした。

 

 店主は年配のロバ。

 

 ルイが以前から接触していた協力者だ。

 

 表向きは閉店後の店を貸しているだけ。

 

 実際には、ステイ区画の前段階観測所になる。

 

 

 

 店内は薄暗い。

 

 古い木のテーブル。

 

 少し苦い珈琲の匂い。

 

 派手さはない。

 

 だが、落ち着く。

 

 

 

 ヤギを奥の席に座らせる。

 

 名前はコル。

 

 年齢十七。

 

 家はない。

 

 商店街で雑用をしながら寝床を転々としていた。

 

 荷物の運搬は三日前から。

 

 頼んできたのは“灰色の帽子をかぶった狐”。

 

 

 

「顔は?」

 

 イオリが聞く。

 

「よく見てません……見ない方がいいって言われて」

 

「報酬は」

 

「食事と、寝る場所」

 

 

 

 ハルがいれば嫌な顔をしただろう。

 

 俺も嫌な気分ではある。

 

 だが、よくある。

 

 金ではなく、最低限の生存を餌にする。

 

 それは貧しい個体を使う一番効率のいい方法だ。

 

 

 

「自分が何を運んでると思ってた」

 

「薬か……肉だと思ってました」

 

「怖くなかったか」

 

「怖かったです」

 

「なら何でやった」

 

 

 

 コルは俯いた。

 

「……断ったら、寝る場所がなくなるから」

 

 

 

 沈黙。

 

 

 

 これだ。

 

 ステイ区画に来る前の個体は、たいてい“選択肢があるように見えて、実際にはない”。

 

 だから自制や関与を測る前に、まず選択肢を作る必要がある。

 

 

 

「今夜はここで寝ろ」

 

 俺は言った。

 

「え」

 

「ただし、逃げるな。明日の朝、もう一度聞く」

 

「何を……」

 

「ここに残るか、別の場所へ行くか」

 

 

 

 コルは混乱した顔をした。

 

 当然だ。

 

 今まで命令しか受けていない個体に、いきなり選択肢を渡せばそうなる。

 

 

 

 黒狼が壁にもたれたまま言う。

 

「分かんなかったら、分かんねえって言えばいい」

 

 

 

 コルは、そちらを見た。

 

 黒狼は続ける。

 

「俺も最初、だいたい分かんなかった」

 

 

 

 数秒後。

 

 コルは小さく頷いた。

 

 

 

「……分かりません」

 

 

 

「なら、それでいい」

 

 俺は答えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の夜、ステイ区画へ戻ると、詰所にはハルとルイがいた。

 

 ハルは報告を聞くなり、腕を組んで難しい顔をした。

 

「それ、もう施設増えてない?」

 

「増えてない」

 

「増えてるよ。喫茶店、完全に前線基地じゃん」

 

「観測所だ」

 

「言い方」

 

 

 

 ルイは落ち着いていた。

 

「だが合理的だ。正式施設化する前に、街区ごとの協力拠点を作るのはいい」

 

「問題は?」

 

「協力者の安全だな」

 

 

 

 その通りだ。

 

 喫茶店がステイ区画の前圏観測所だと知られれば、店主が狙われる。

 

 

 

 イオリが端末を操作しながら言った。

 

「公式には“地域安定協力店”として登録できます」

 

「そんな枠があるのか」

 

「ありません。作ります」

 

 

 

 ……こいつもだいぶこちら側に染まってきたな。

 

 

 

「いいだろう」

 

 俺は頷く。

 

「前圏観測所は、表向きには地域協力店。実態は外部測定点」

 

「数は?」

 

 ルイが聞く。

 

「最初は三つ。東側、南部、旧搬送ヤード」

 

 

 

 ハルが溜息をつく。

 

「また増える……」

 

「増やす」

 

 

 

 レゴシが静かに言った。

 

「でも、これで来る前に止められるなら……いいと思う」

 

 

 

 ハルはレゴシを見て、少しだけ笑った。

 

「レゴシが言うと説得力あるね」

 

「そうか?」

 

「あるよ。守りたいだけじゃなくて、ちゃんと動かす側に回ってる感じ」

 

 

 

 レゴシは困ったように耳を伏せた。

 

 

 

 ……今のやり取り、悪くない。

 

 読者が望んでいるというレゴシとハルの関係性を、本編で出すならこういう形がちょうどいい。

 

 恋愛を主軸にはしない。

 

 だが、互いの成長を見ている関係として置く。

 

 それが、この物語には合う。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌朝。

 

 東側喫茶店から連絡が入った。

 

 コルは逃げなかった。

 

 

 

 だが──

 

 

 

『灰色の帽子の狐が、店の外に来ている』

 

 

 

 報告者は店主のロバ。

 

 声は落ち着いていたが、緊張がある。

 

 

 

「早いな」

 

 俺は端末を閉じた。

 

 

 

 レゴシが立ち上がる。

 

「行く」

 

「行くぞ」

 

 

 

 今回は、俺、レゴシ、イオリ。

 

 ハルは同行を希望したが、ステイ区画側に残ってもらう。

 

 ミナの外部接触訓練がある。

 

 そしてハルがいないと、あのあたりの空気が固くなりすぎる。

 

 

 

「気をつけてね」

 

 ハルがレゴシに言う。

 

「うん」

 

「無茶しない」

 

「しない」

 

「ほんとに?」

 

「……たぶん」

 

「そこは言い切って」

 

 

 

 レゴシが少し笑う。

 

「分かった。無茶しない」

 

 

 

 ハルはそれで満足したように頷いた。

 

 俺は何も言わない。

 

 今はそれでいい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 東側喫茶店。

 

 

 

 表通りはまだ朝の支度で穏やかだった。

 

 パン屋から香ばしい匂いが流れ、草食の親子が通学路を歩いている。

 

 そのすぐ裏で、個体が売買され、薬が運ばれ、壊れる前の獣が使われている。

 

 この世界の矛盾は、いつも近い。

 

 

 

 喫茶店の裏口に回る。

 

 灰色の帽子。

 

 狐。

 

 いた。

 

 

 

 細身で、年齢は三十前後。

 

 作業服に見えるが、生地がいい。

 

 つまり“現場に見せたい管理側”だ。

 

 

 

「コルを返してもらおう」

 

 狐がこちらを見ずに言った。

 

 

 

「所有物じゃない」

 

「彼は仕事中だ」

 

「未成年に薬物運搬をさせるのが仕事か」

 

「中身は知らなかったはずだ」

 

「お前は知ってた」

 

 

 

 狐が、ようやくこちらを見る。

 

「君が例のメインクーンか」

 

「そうだ」

 

「話は聞いている」

 

「悪い噂だろ」

 

「有用な噂だ」

 

 

 

 イオリが一歩前に出る。

 

「所属は」

 

「答える義務は?」

 

「今ならあります」

 

 

 

 イオリの声は静かだが、鋭い。

 

 狐は少しだけ目を細める。

 

「監査局か」

 

「外部調整官です」

 

「なるほど。なら話が早い」

 

 

 

 狐は懐から書類を出した。

 

「コルは地域労働補助契約下にある。本人同意あり。よって君たちが拘束しているなら不当介入だ」

 

 

 

 ……やるな。

 

 書類を作っている。

 

 しかも、完全な偽造ではない。

 

 たぶん一部は本物だ。

 

 

 

 イオリが受け取り、流し見る。

 

「形式は整っています」

 

「だろう」

 

「ですが無効です」

 

 

 

 狐の笑みが一瞬止まった。

 

「理由は?」

 

「対象が契約内容を理解していない。報酬が食事と寝床のみ。業務内容が不明確。さらに危険物運搬の可能性あり」

 

 

 

 イオリは書類を返さなかった。

 

「加えて、現在コルは前圏保留対象です。本人の状態確認が終わるまで、移動は認めません」

 

 

 

 狐の目が冷たくなる。

 

「そんな制度は聞いたことがない」

 

「昨日作りました」

 

 

 

 ……本当に染まってきたな。

 

 

 

 狐は数秒沈黙し、そして笑った。

 

「無茶苦茶だな」

 

「必要なので」

 

 

 

 その返し方まで似てきた。

 

 

 

 レゴシが狐を見つめる。

 

「コルは戻りたくないかもしれない」

 

「君が決めることではない」

 

「そうだ。だから本人に聞く」

 

 

 

 狐は、ほんの少し嫌な顔をした。

 

 

 

 そこだ。

 

 こいつらは“本人に聞く”のが嫌いだ。

 

 なぜなら、本人の選択が入ると、運搬物ではなく個体になる。

 

 個体になれば、扱いが面倒になる。

 

 

 

「なら聞こう」

 

 狐は言った。

 

「今ここで」

 

「駄目だ」

 

 俺が即答する。

 

「なぜ」

 

「お前がいると答えが歪む」

 

「随分だな」

 

「事実だ」

 

 

 

 狐は笑みを消した。

 

「では、こちらも手段を変える」

 

 

 

 その瞬間。

 

 レゴシの耳が動いた。

 

 

 

「後ろ!」

 

 

 

 裏路地の奥から、二体の肉食が飛び出す。

 

 犬系と豹。

 

 速い。

 

 だが、奇襲としては雑だ。

 

 

 

 レゴシが犬系を止める。

 

 正面から受けず、横へ流し、腕を取って壁へ叩きつける。

 

 いい制圧。

 

 

 

 豹は俺へ来た。

 

 俺は一歩踏み込み、攻撃の内側に入り、肘を腹へ入れる。

 

 浅い。

 

 だが十分。

 

 次に膝裏、顎、肩。

 

 崩す。

 

 

 

 数秒で終わった。

 

 

 

 狐は逃げようとしたが、イオリがすでに退路を塞いでいた。

 

 

 

「外部調整官って、戦えるのか」

 

 俺が言うと、イオリは淡々と答える。

 

「必要なので」

 

 

 

 ……便利だな、それ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 狐を押さえた後、喫茶店の中でコルに会った。

 

 彼は奥の席で、まだ不安そうに座っていた。

 

 

 

「来たの、あの人ですか」

 

「そうだ」

 

「戻らないと……」

 

「戻りたいのか」

 

 

 

 コルは口を開き、閉じた。

 

 そして、長い沈黙の後。

 

 

 

「分かりません」

 

 

 

 昨日と同じ答え。

 

 だが、少し違う。

 

 

 

 昨日は本当に分からないだけだった。

 

 今日は、“戻る以外の選択肢があるかもしれない”と知った上で分からないと言っている。

 

 

 

 それは進歩だ。

 

 

 

「なら、まだ保留だ」

 

 

 

 俺は答える。

 

「今すぐ選ばなくていい」

 

 

 

 コルの肩から、少しだけ力が抜けた。

 

 

 

 黒狼がいたら、多分こう言っただろう。

 

 “分かんねえなら、分かんねえで止まっとけ”。

 

 

 

 あいつの言葉は、結構使いやすい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 狐の持っていた書類から、東側商店街の内情が見えてきた。

 

 地域労働補助契約。

 

 表向きは、身元不安定な若年層や住居不定個体へ一時的な仕事を与える互助制度。

 

 実際には、商店街の裏側で雑用・運搬・夜間作業をさせるための抜け道だった。

 

 草食獣は軽作業。

 

 肉食獣は力仕事。

 

 どちらにも、契約書の理解など求められていない。

 

 報酬は金ではなく、食事や寝床、あるいは“次の仕事への紹介”。

 

 

 

 つまり、現代的な首輪だ。

 

 

 

 ルイは報告を聞くと、露骨に不機嫌そうな顔をした。

 

「合法の顔をした搾取だな」

 

「よくある」

 

「それを潰すか」

 

「全部は潰せない」

 

 

 

 俺は地図を広げた。

 

「これは地域経済の下に食い込んでる。いきなり潰せば、働いている個体ごと路上に出る」

 

「では?」

 

「置き換える」

 

 

 

 イオリが頷く。

 

「地域労働補助契約を、前圏保留制度に接続する」

 

 

 

 ハルが顔をしかめる。

 

「それ、つまり今まで搾取してた仕組みを、こっちの制度に取り込むってこと?」

 

「そうだ」

 

「気持ち悪い」

 

「同感だ」

 

 

 

 だが、気持ち悪いから使わない、では現実は変わらない。

 

 既にそこにある流れは、折るより曲げる方が早い。

 

 

 

「条件を変える」

 

 俺は言った。

 

「契約には本人説明を義務化。寝床と食事だけを報酬にする形は禁止。危険物運搬は即摘発。前圏保留対象に該当する個体は、地域協力店へ移す」

 

 

 

 ルイが目を細める。

 

「商店会が反発するぞ」

 

「させる」

 

「どういうことだ」

 

「反発するやつを見つけるためだ」

 

 

 

 ルイは数秒黙り、そして笑った。

 

「相変わらずだな」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の夜、ステイ区画ではミナの外部接触訓練が行われていた。

 

 相手は住民監視委員会のガゼル。

 

 会話時間は五分。

 

 距離は二メートル。

 

 ハルが同席。

 

 

 

「眠れてる?」

 

 ガゼルが聞く。

 

 質問としては悪くない。

 

 だが、ミナの指先が少し震える。

 

 

 

 ハルがすぐに割って入る。

 

「それ、ちょっと直球すぎる」

 

「あ、ごめんなさい」

 

「大丈夫です」

 

 ミナが小さく言う。

 

「少しは眠れてます」

 

 

 

 ガゼルは、申し訳なさそうに頷いた。

 

「そう。よかった」

 

 

 

 ミナは、しばらく黙った後、自分から言った。

 

「外は、まだ怖いです」

 

「はい」

 

「でも、怖いって言えるようになったので……前よりは、少しマシです」

 

 

 

 ハルが横で、ほんの少しだけ笑った。

 

 

 

 それをモニターで見ながら、レゴシがぽつりと言う。

 

「……ハル、すごいな」

 

「何が」

 

「空気の戻し方」

 

 

 

 確かに。

 

 ハルは、崩れかけた会話を“日常”に戻すのがうまい。

 

 イオリのように理論で整えるのではなく、本人も相手も傷つきすぎないところへ落とす。

 

 

 

「お前も覚えろ」

 

 俺が言うと、レゴシは苦笑した。

 

「俺には難しい」

 

「そうだな」

 

「否定しないんだな」

 

「お前には別の役割がある」

 

 

 

 レゴシは少しだけ黙り、やがて頷いた。

 

「……うん」

 

 

 

 こいつも、もう分かっている。

 

 全員が同じことをやる必要はない。

 

 それぞれ違う線を引くから、場所が保つ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日。

 

 東側商店街の商店会に通達を出した。

 

 

 

『地域労働補助契約の実態調査』

 

『危険物運搬および未成年労働の確認』

 

『前圏保留制度との接続要請』

 

 

 

 反応は早かった。

 

 

 

 反発。

 

 抗議。

 

 説明要求。

 

 

 

 そして──

 

 

 

 裏の連中の動き。

 

 

 

 ノエルがボードに書いた。

 

 

 

『外 東 動きが割れた』

 

 

 

 短い。

 

 だが意味は明確。

 

 

 

 東側商店街の裏側で、勢力が割れ始めている。

 

 こちらに乗る者。

 

 グレイ側に流れる者。

 

 まだ様子を見る者。

 

 

 

 流れが曲がっている証拠だ。

 

 

 

「成功か」

 

 ルイが聞く。

 

「まだだ」

 

 俺は答える。

 

「割れた流れは、必ず争う」

 

 

 

 レゴシが拳を握る。

 

「止めに行くのか」

 

「全部は無理だ」

 

「じゃあ」

 

「一番重要な流れだけ取る」

 

 

 

 ハルが嫌そうな顔をする。

 

「また選ぶんだ」

 

「そうだ」

 

 

 

 この世界はいつもそうだ。

 

 全部救う物語なら楽だった。

 

 だが、これはそういう話じゃない。

 

 肉食と草食。

 

 社会と裏。

 

 制度と感情。

 

 全部が絡んで、全員が少しずつ加害者で、被害者で、利用者で、資源だ。

 

 

 

 その中で、俺がやるのは一つ。

 

 

 

 流れを読む。

 

 曲げる。

 

 必要なら切る。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜。

 

 屋上。

 

 

 

 街の灯りが、昨日よりも少しだけ違って見えた。

 

 東側商店街。

 

 南部再開発区。

 

 旧搬送ヤード。

 

 それぞれに、点が生まれ始めている。

 

 

 

 施設ではない。

 

 けれど、流れを測る目。

 

 

 

 前圏観測所。

 

 地域協力店。

 

 前圏保留。

 

 

 

 言葉が生まれれば、制度になる。

 

 制度になれば、流れが変わる。

 

 

 

「ここから先は、もっと広がります」

 

 イオリが隣で言った。

 

「だろうな」

 

「管理しきれなくなります」

 

「全部は管理しない」

 

「では?」

 

「基準だけ管理する」

 

 

 

 イオリは、少しだけこちらを見た。

 

「危険ですね」

 

「知ってる」

 

「でも、合理的です」

 

「だろ」

 

 

 

 少しの沈黙。

 

 

 

 その後、イオリが静かに言った。

 

「あなたのやり方は、冷たい」

 

「よく言われる」

 

「ですが、熱を捨ててはいない」

 

 

 

 ……珍しい言い方をする。

 

 

 

「何が言いたい」

 

「だから、私が調整できます」

 

 

 

 なるほど。

 

 

 

 こいつは俺を止めるために来たのではない。

 

 俺が切りすぎないように、切る線を整えに来た。

 

 

 

「好きにしろ」

 

「許可と受け取ります」

 

「勝手にしろ」

 

 

 

 イオリはわずかに笑った。

 

 本当にわずかに。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その頃。

 

 街の外側。

 

 

 

 グレイは、古い倉庫の屋根から東側商店街を見下ろしていた。

 

 

 

「やっぱり動かしてきたか」

 

 隣のキツネが言う。

 

 

 

 グレイは笑う。

 

「当然だろ。あいつはそういう猫だ」

 

「どうする」

 

「乗る」

 

「潰さないのか」

 

「潰すには惜しい」

 

 

 

 グレイは目を細める。

 

「基準が広がれば、外も変わる」

 

「それは困るんじゃないのか」

 

「困る連中もいる。だが、得する連中もいる」

 

 

 

 キツネが眉をひそめる。

 

「お前はどっちだ」

 

 

 

 グレイは、楽しそうに笑った。

 

「勝った方だ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌朝。

 

 ステイ区画の門前に、一通の封筒が置かれていた。

 

 差出人なし。

 

 

 

 中には、地図。

 

 南部再開発区のさらに奥。

 

 旧地下搬送路の未確認支線。

 

 

 

 そして、一文。

 

 

 

『本当に外で測る気なら、ここを見ろ』

 

 

 

 ハルがそれを見て、顔をしかめた。

 

「罠だよね」

 

「罠だな」

 

 レゴシが言う。

 

 

 

 ルイが地図を見ながら低く言う。

 

「だが、情報でもある」

 

 

 

 イオリが頷く。

 

「無視はできません」

 

 

 

 全員の視線が俺に集まる。

 

 

 

 答えは決まっている。

 

 

 

「行く」

 

 

 

 ハルがため息をついた。

 

「言うと思った」

 

「だろうな」

 

 

 

 レゴシは、もう何も言わずに立ち上がった。

 

「俺も行く」

 

「当然だ」

 

 

 

 イオリも静かに続く。

 

「同行します」

 

「好きにしろ」

 

 

 

 ルイは地図を折りたたむ。

 

「私は表を押さえる」

 

「頼む」

 

 

 

 ハルは少しだけ迷った後、言った。

 

「私は残る。ミナたちを見る」

 

 

 

 いい判断だ。

 

「そうしろ」

 

 

 

 ハルはレゴシを見た。

 

「無茶しない」

 

「しない」

 

「今度は“たぶん”って言わないんだ」

 

「言わない」

 

 

 

 短いやり取り。

 

 だが、前より自然だ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 外で測る。

 

 

 

 その意味は、もう単なる観測じゃない。

 

 外の流れに踏み込む。

 

 地下搬送路。

 

 商店街の裏契約。

 

 回収屋。

 

 グレイ。

 

 行政。

 

 企業。

 

 

 

 全部が一本の線で繋がり始めている。

 

 

 

 なら、その線の先を見る。

 

 

 

 罠でもいい。

 

 情報でもいい。

 

 

 

 俺にとっては、どちらも同じだ。

 

 

 

 使えるなら使う。

 

 邪魔なら切る。

 

 

 

 そうやって、この世界の価値の流れを、少しずつこちらへ曲げていく。

 

 

 

 ──メインクーンの俺が、外で測る者たちごと、この世界の裏側に踏み込んでやる。

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