処女はお姉様に恋してる 季節外れの迷子(フェアリー)   作:パオパオ

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七月
第8話 七月上旬、運動と私。


 七月。旧暦で云えば文月に当たる、梅雨明けの月。七夕などの夏祭りを始めとして、男女の仲を進展させる様々な機会に満ちた季節だ。

 先日、世間での海開きに先んじて、我らが聖應女学院ではプール開きが行われた。体育の授業も水泳に移行し、楽しみで胸が熱くなる。

 ……別に、彼氏(おとこ)が居ないからって僻んでいる訳では無い。無いったら無い。極一部のクラスメイトが幸せそうに語るお付き合いの話になんて、全然興味を抱いていないのだ。

 

 ……嘘じゃないよ?

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 走る。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 走り続ける。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 一定のペースを保ったまま、公園の中を駆け抜ける。

 

「はっ、はっ、はっ、はぁっ! ……ふぅっ、はぁっ、ふぅーっ……」

 

 切れ切れになった呼吸を、ゆっくりと整えていく。足に溜まった乳酸が、心地良い疲労を感じさせる。流れ落ちる汗が唇に入り込み、塩辛さに顔がにやける。

 やはり、この運動特有の感覚は堪らない。ありとあらゆる要素が、私をどんどん興奮させてくれる。

 

「はぁーっ! やっぱ、本気で体力、落ちてるなっ。まだ三十分も、走ってないのに、もうバテかけてる、よっ!」

 

 運動から離れていたのはかれこれ一月弱だが、自分でも驚く程に身体能力が落ち込んでしまっている。以前なら一時間は優に走り続けられたし、そのペースも速かった。露骨に解るのはそれ位だが、実際は他にも影響が出てしまっているだろう。

 

「あれだな。一日休んだら、三日頑張らないと、って云うし。今は地道に、努力の時だ」

 

 持参した水筒の蓋を開け、程良く冷えた水を飲む。水分が体中に浸透するような感覚を覚える。ただの水道水が、どんなジュースよりも美味しく感じる瞬間だ。

 

「っぷはぁっ! ……あ、おはようございまーす! そちらもジョギングですかー?」

 

 通りがかった青年に挨拶する。眼鏡をかけた、知的な感じのするイケメンさんだった。きっと大層おモテになっていることだろう。

 

「ん、ああ、おはよう。俺はそうだが……あんたもジョギングか?」

 

 持っていたタオルで汗を拭きながら、眼鏡のイケメンさんはハスキーな声をかけてくる。怜悧な印象に似合った、低い美声だった。

 

「はい! 最近この辺りに越して来まして、ここ暫く体動かしてなかったから、また始めようかなって思ったんですよ。眼鏡のお兄さんも、よく体動かしたりするんですか?」

 

 眼鏡のイケメンさんは少しだけ考える素振りを見せた後、また元の表情に戻って云った。

 

「お、良い心掛けだな。俺は体が資本の仕事してるからよ、毎日体動かしてないと鈍っちまうんだ。ま、精々三日坊主にならないようにしろよ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

「おう、それじゃあな」

 

 そのまま走り去っていく眼鏡のイケメンさんを、見えなくなるまで見送った。その場に残る汗の匂いが、私の鼻を刺激した。

 

「いやあ、格好良い男の人だったな……さて、休憩終わり! 丁度良い時間だし、早く帰ろっと」

 

 腰を下ろしていたため少し固まった筋肉を、軽く解していく。木漏れ日の中から照り付ける夏の陽射しへと、自らの体を飛び込ませる。じりじりと肌が焼かれるような感覚を振り切るように、軽快なペースで走り出した。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「水泳、かぁ。久し振りだなあ。実際いつ振りだろう? 確か……一昨年の夏に、幼馴染み達と海に行って泳いだのが最後か。いやあ、あれは今思うと何やってたんだろうと思うな。受験勉強の息抜きに三泊四日のお泊まりを決行するとか、馬鹿みたいだったよなぁ……」

 

 学園でプール開きが行われてから二日後。遂にやって来た水泳の授業を前に、私は傍目からでも解る程に興奮していた。

 

「ちょっとは落ち着きなよ、梓。今日の体育は一年の後輩と一緒なんだから、少しは先輩の威厳を見せないと」

 

 苦笑気味に淡雪が声をかけてくる。流石に、少しはしゃぎ過ぎていたらしい。それにしても、気にかかる言葉があった。

 

「威厳……? 何それ、私のどこにそんなものがあるの?」

 

「それって自分で云うこと? うーん……体育に関してカリスマ染みてるところとか? 一年の間じゃ結構噂になってるみたいだよ」

 

「うわぁ……それは、また」

 

 云いながら、口元が引きつるのを自覚する。授業で目立ったことがまだ尾を引いているとは思わなかった。思わず足を止めると、淡雪が何かを思い出したように声を張った。

 

「あ、そう云えば聞いたよ! 梓さあ、最近運動系の部活を荒らして回ってるんだって? 豪気だよねえ」

 

「……は? それって、何の話?」

 

 一瞬、絶句した。しきりに目を瞬かせる私に、淡雪は逆に驚いたように訊ねてきた。

 

「え? バスケ部を皮切りに、次々に球技系の部活に体験入部して、そのレギュラー達と互角かそれ以上の結果を残して去っていってる、って。新聞部の娘(こ)から気合い入れて取材してるって話を聞いたんだけど……」

 

「……ああ、確かにやった覚えがあるかも。とは云ってもここの球技系の部活、軒並み弱小なんだよね。まあ、運動部もまだ陸上部とかソフト部とか、有望そうなところは残ってるから良いんだけど」

 

 バスケ部の他に、既にいくつもの部活の体験入部を済ませていた。その結果は散々だったが。やる気の無さがどこも顕著だったのだ。

 

「そうそう、一部じゃ『部活(クラブ・)荒らし(パニッシャー)』なんて呼び名もあるらしいよ?」

 

「何よその称号は……」

 

 頭の悪い二つ名を聞かされ、軽い偏頭痛に襲われた。淡雪はからからと笑っている。

 

「うん、センス無いよねえ」

 

「いや、そういう話じゃなくてさ」

 

「そういう話だって。否応無しに知名度が上がるのは前から解ってたことじゃない。そうなったら二つ名もいずれ付くことになるだろうし、だったら良さそうな二つ名が付けられる方が良いでしょ?」

 

「そう、かな? 正直云って、いまいち理解出来てないんだけど……」

 

 うむむ、と考え始めた私の腕を、淡雪は三度突っついた。

 

「とりあえず、今は急ごうか。話してたせいで着替える時間もギリギリだよ」

 

「っと、そうだね。あ、走ると怒られるんだったっけ? だったら早歩きとも云える位の速さにしておこうか」

 

「シスターさんに見つかったら説教確実だからね」

 

 適当な軽口を交わしながら、更衣室へと向かう足を速めた。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 ……この学院内の建物は総じて新しくて綺麗だから、薄々そうじゃないかとは思っていたけど。

 

「うっわぁ……広いなぁっ! その辺の市民プールとか目じゃないでしょ、これ!」

 

 二十五メートル六レーンのプール。無駄にしか思えないガラス張りの天井。そして全体的に、広過ぎると云える程にゆとりのある空間。

 全部で一体どれだけのお金がかかっているか、想像も出来ない。いや、寧ろしたくない。寄付金の正しい使い道と云えばそうなのだろうけど。

 

「学校の設備とは思えないよね。と云うか本当に、何故にここまで広いのか。プールが狭い訳じゃないのに、対比で小さく見えてくるから不思議だ」

 

「消毒の臭いとか懐かしいなー。うーん、一年振り位かな?」

 

 プールサイドで立ち尽くす私の背後から淡雪が近付いてくる。ぐっと伸びをして自主的に体を解している辺り、やはり楽しみにしていたのだろう。

 

「それにしても、梓の肌って結構焼けてるね。健康的な感じが梓らしくて良いと思うけどさ。体もかなり引き締まってる感じがするし」

 

「ん? ありがと。これでも色が薄くなったんだけどね。ここ一ヶ月は外で体動かしてなかったからさ」

 

 小麦色、と呼ぶには些か茶味が足りていない肌を晒す私とは対照的に、淡雪の肌は新雪のように白かった。まあ、周りはお嬢さまばかりなので、私のように陽に焼けている方が少ないのだが。

 それでも淡雪の白さは周りと一線を画していた。金色の髪と同様にどこからか西洋の血でも紛れ込んでいるのか、黄色人種(モンゴロイド)の日本人にしてはありえない白さを誇っている。

 

「淡雪の肌、滅茶苦茶綺麗だよねー……何なのその驚きの白さ。某攻撃の洗剤でも使ったみたいじゃない」

 

「あー、そこまで気合い入れてケアしてる訳でも無いんだけどね。それはまあ乙女ですから、最低限のことはしてますけれども」

 

「むぅ、これが白色人種(コーカソイド)の余裕か……やっぱ妬ましいわ」

 

「……本当の白色人種(コーカソイド)の人達はもっと白いんじゃない? 欧米の人とかテレビで見るとそう思うんだけど」

 

 苦笑しながら云う淡雪の言葉は、謙遜なのか事実なのか判別しにくい。最近はテレビもご無沙汰だし。

 

「そんなものかな? ……どっちにしろ、淡雪の白さが羨ましいことに変わりは無い!」

 

「声を張って断言することかなあ……?」

 

 無駄に叫んだせいで、先にプールサイドに集まっていた生徒達が奇異の視線を向けてきている気がする。流石に恥ずかしい。

 

「ほら、そこの注目を集めてる二人組。そろそろ並ばないと遅れるよ」

 

「あ、ごめん。今行く――」

 

 返事をしながら振り返ると、そこには唯一の褐色肌のクラスメイトが立っていた。その肉付きの良い体を惜しげも無く晒せるのは、日本人特有の過剰な慎みとやらが無いせいか、それとも恥じるような体ではないと云う自負でもあるのか。

 どんな理由にしろ、眼福であることに変わりは無かった。言葉を失った私がじろじろと観察しているのに、隠そうとする素振りも見せない。生唾を飲み込む時に、喉が鳴らないように注意を怠ることはしなかった。

 

「……うわ、ケイリのスタイル凄いね」

 

「そうかい? それはありがとう。そう云うとても淡雪も均整のとれた体つきをしていると思うよ」

 

「あはは、ありがとね。ともかく、行こうか」

 

 ぺたぺたとクライスメイト達の方へ歩いていく二人を、私はその場で見送った。見送ったと云うよりも、見惚れていたの方が正しいだろうが。

 ……ああ、二人の水着姿が是非とも見たい。今のぴっちりと張り付いているタイプの学院指定の水着も捨てがたいが、ここはやはり個性と肌の出る私服|(?)の水着姿が見たくてたまらない。夏休みにプールに行く計画でも立てるべきか……?

 何とは無しに自分の貧相な体を見下ろす。胸も、お尻も、腰回りも、この二人に勝てる要素が見当たらない。隣の芝は青く見えるものらしい。我が家の芝はまだ伸びきっていないと信じているが……。

 内心で溜め息を吐きながら、数歩遅れて二人の背中を追った。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 ピーッ!

 

「そこまで! それじゃあ準備運動も終わったことだし、体を慣らす意味で二十五メートルを好きに一本泳いで貰うわ。二十五メートル泳げない娘(こ)も、足を付いても良いから何とか泳ぎきってね。あ、二年生は一年の娘(こ)をいじめたりしちゃ駄目よ? ……それでは、順番に始めて下さい」

 

 笛がもう一度鳴ると同時に、各列の先頭の生徒達が入水して思い思いに泳ぎ始めた。後ろから眺めている分には、皆それなりに泳げるように見える。毎年こうしてプールの授業があるなら、それも当然かと納得する。カナヅチの生徒だって、幼い頃から授業を受けていればそれなりに泳げるようになる筈だ。

 そう云えば、体育の授業が選択式では無いことにも、前の高校との違いを感じて驚かされた。体育教師が出来る種目が少ないからだろうか。理由は解らない。

 

「次、行くよー!」

 

 高らかに笛が鳴り、私の前に並んでいた淡雪が壁を蹴って泳ぎ出す。と、横で並んでいた二年D組の生徒が勢い良く飛び込んだ。他にした人が居なくて解らなかったが、どうやら飛び込みで始めても良いらしい。

 まあ、まだ肩慣らしの段階だから飛び込みをする人が居なかったのかもしれないが。ともかく、飛び込みをして良いのならするまでだ。

 

「さて、と。適当に頑張りましょうか」

 

「その適当は適切という意味かな?」

 

「イエスと答えておくよ、ケイリ」

 

 ニヤリとした私の横で、私と同じように台に上って飛び込む準備をしているケイリ。その顔にはどこか挑戦的な笑みが浮かんでいた。

 

「次ー!」

 

 号令がかかった瞬間、ケイリは勢い良く水の中へ飛び込んだ。ケイリを見ていて反応出来なかったが、一拍遅れて私も飛び込む。先に水に浸かっていた人達も順に壁を蹴っていくのが見えた。

 大きく水飛沫を上げて私の体が水の中に潜り込む。久し振りでうろ覚えだったせいか、飛び込みのやり方を失念してしまっていたようだ。水面に打ち付けた体がじんじんと熱を帯びている。

 

「ぷはぁっ!」

 

 潜水の状態から顔を出して、失った酸素を吸い込む。その際にちらと横目で見たケイリは、私より五メートルは先を泳いでいた。

 

「……っ!」

 

 負けず嫌いを発揮して、私も全力で泳いでいく。足は水面を力強く打ち、両の手は我武者羅に水を掻く。力の限り動作を速くして、ケイリとの差を徐々に詰めていく。

 

「ごほっ、はっ」

 

 バシャバシャと水柱を立てながら追い縋ろうとするが、始めに出来た五メートルの差は大きかった。結局追いつけないまま、私とケイリは二十五メートルを泳ぎきった。

 

「ぜっ、はっ、はっ、はっ……」

 

「……ふぅ。大丈夫かい、梓? 適当とか云っておきながら、かなり無茶な泳ぎ方をしていたようだけど」

 

 水に浸かったまま呼吸を整えることに必死な私を、プールサイドに上がったケイリは心配そうに見守っている。落ち着きを取り戻すにつれて、私は自分の泳ぎ方を思い出して頭が痛くなっていた。

 

「……あー、色々と思い出してきた。水泳って力尽くでやる競技じゃなかったね。力を込めるよりも寧ろ脱力の方が大事でしょうに。それに勝てなかったし。だー、もう、無駄に疲れたー!」

 

 ぶんぶんと頭を振る私を見て、ケイリは苦笑していた。段々勢いが弱まっていく私とは逆に、ケイリの笑みは深まっていく。私は羞恥で紅潮した頬を隠すように、ひっそりと水の中に潜った。

 

「――――!? ――――!!」

 

 何やらケイリの声が聞こえるが、水中ではその正確な内容は聞き取れない。どこか慌てたような感じだが、まあ気のせいだろう。ぶくぶくと口から泡を吐いていると、突然後頭部に激痛が走った。

 

「がぼぼっ!?」

 

 肺の中に残っていた空気が一気に鼻と口から飛び出す。酸素を失って息苦しさを感じる前に、後頭部に残る鈍い痛みが私の意識を混濁させた。訳も解らないまま、私は反射的に失った酸素を取り戻すために口を大きく開いていた。

 

「ごはっ!?」

 

 水の中でそんな事をすれば、当然大量の水が口の中に入り込んでくる。意図せずして大量の水を飲み込み、息苦しさが加速する。パニック状態に陥った私は、立つという簡単な行為すら出来なくなっていた。

 

「――――っ! ――――さぁっ!」

 

 誰かの叫び声と近くへ飛び込んでくる音を最後に聞いて、私の意識はブラックアウトした。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 思い浮かぶのは、母の顔。

 艶のある長い黒髪に、痩け気味の頬。必要以上の外出をしないために病人のようでさえある体の線の細さ。いつもどことなく陰のある笑みを浮かべているところが、男性の琴線に触れるのだ、とは私の幼馴染みの言だった。彼女に何が解ったのかは知らないけれど。

 

 母は、強くて弱い。

 私が物心付いてすぐの頃に血縁上の父親が亡くなったために、母は私を自分一人で育てなければいけなくなった。

 最愛の人を失った悲しみに浸る時間も無かっただろう。尤も、父の遺体は原型を留めていなかったそうだし、現実味が無かったから大丈夫だったのかもしれない……いや、それは無いか。

 実家を頼るという選択肢もあった筈だが、母は資金的な問題以外で連城の家を頼ることは無かった。その理由を訊ねたことはない。

 聞かなくとも、お金のことで昔から融通をして貰っていたのに、それ以上の負担を連城の家にかけたくないという思いがあったのだと推測できる。もしかしたら違うかもしれないが、昔から会話の端々にそれを予期させる言葉はあったので、大筋では合っているだろう。

 やれ連城の子会社が一つ潰れただの、やれ分家の長男がどこそこの女性と駆け落ちしただの、やれ誰々という幹部が夜逃げしただの、と。子供には解るまいと散々に愚痴っていたが、意外と記憶には残っているものだ。

 今でこそ連城の家もある程度盛り返してきたが、数年前まではいつ破産してもおかしくはなかったらしい。そんなところに余計な心配をかけまいとした母の心情は、少なからず理解出来る。

 それからの十年間、女の細腕一つで私を育て上げてきたのは執念と云っていいだろう。何せ育児の傍らで、かつて父が行っていた家業の一部も行っていたのだ。当時の母を知る人は、今の母を見ると変わったという言葉をまず云う位だし。

 だからこそ、今の義父(ちち)と再婚した後の母は弱くなったと云える。張り詰めていた糸が千切れてしまったかのように、今の母はのほほんとした雰囲気を崩さない。穏やかになったと云えば聞こえはいいが、単に覇気を失っただけではないかと思っていた時期もある。

 どこかの企業の社長の次男だったという義父は、その出自が真実であることを実績を以て証明した。傾いていた連城の家を立て直したのは、紛うこと無く義父のおかげなのだ。

 数年振りに安定を取り戻した連城の家には、経済界の重鎮達もそれなりに驚いたらしい。珍しく酔っ払う程に酒を飲んだ母から喜色満面にそう伝えられただけなので、事実かどうかは知らないが。

 義父の働きによってようやく家業から完全に離れることが出来た母は、それまで以上に私に構うようになった。それと同時に、母は義父に対して何か意見を述べることは減っていった。意識的にか無意識になのかは判断が付かないが、それは家族内でのカーストを決定付ける要因になった。

 義父が家庭内暴力を振るわない人であったのは幸いだった。しかし、義父の存在は私にとって煩わしくなっていく一方だった。私のなすことに一々口を挟み、また母もそれを止めようとしないため、義父に干渉される日々は私にとって面倒で仕様が無かった。

 義父は確かに出来た人なのだろう。けれどそれは公人としてだけであって、私人としての義父は駄目な人だ。結婚したてなのに家には帰ることすら稀で、帰ってきた時ですら母と二言三言話しただけで仕事場に戻っていってしまっていた。昔は私のことを気にかける素振りも無かった。

 そんな、家庭を蔑ろにする義父は、わたしにとってどうでもいい人へと変化していた。母は義父に感謝しきりだったが、自分の生活に関係ない相手が親だと云われても、実感なんて微塵も生まれてこない。母の部下だという若い人の方が、まだ私と母が暮らす場所に来る機会が多かった。

 それが私の反抗期と時期が重なってしまったこともあって、その頃は家のことが鬱陶しくて堪らなくなっていた。休日は家から離れる口実を作るために、どこぞのスポーツクラブに顔を出して夜まで帰らず、鬱屈した感情を吐き出すように汗を流していた。また義父が家に居るようになった最初の頃は、子供らしい稚拙な反抗心で幼馴染み連中の家を泊まり歩いたりもした。

 そうしているために義父からはまた叱られ、母はそれを見て陰で悲しむだけで何もしない。義父が本格的に家業を継ぐために、出向して家から離れるまで、私は母との関係改善を図る気すら無かった。

 

 

 ……そろそろ目が覚めるらしい。ふわふわと深くを漂っていた意識が、遠くに輝く光源に引っ張られるような感覚がある。

 引っ張られる間に一瞬だけちらついた義父の後ろ姿を深く考えないようにしながら、私の意識は光へ向かって飛んでいった。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 胸への強烈な圧迫感を受けて、私の意識は急速に浮上していった。骨が折れるんじゃないかと思う程重い衝撃に、私は咳き込まざるを得なかった。

 

「がっ! ごっ、ほっ! ごほっ、ぐふっ」

 

「先生! 梓さんの意識が戻ったみたいです!」

 

「解っています……ああ、良かった」

 

 淡雪のものらしき悲痛な声が耳に届いた。酷く重たい目蓋を開けると、何十人という生徒がこちらの様子を窺っている。何故だか解らないが、彼女達は総じて安堵しているようでもあった。

 

「何、が……ごほっ」

 

 込み上げてくる異物感、と云うより凄まじい吐き気をどうにか抑えつつ、自分が横になっているということを理解する。現状を把握しようと努めるが、酸素の足りていない頭では満足な思考が出来ない。

 

「連城さん、楽な姿勢で構いませんから、聞いて下さい。今がプールの授業中だということは解りますか?」

 

 口を動かすのも億劫なので、首を小さく縦に振る。それを確認すると、先生は話を続けた。

 

「それでですね、貴女は先程まで溺れて意識を失っていました。事の推移を見ていた人達によると、どうやら貴女の後に泳いだ生徒が、まだプールサイドに上がっていなかった貴女に勢い良くぶつかってしまったようなのです」

 

 ……つまりは、ケイリとのお喋りに興じていた私の自業自得なのだろう。水場での事故は特に気を付けないといけないものだと知っていても、それを実践出来ないようでは意味が無い。

 

「あ、あの、すみません! い、一年の宮藤陽向(くどうひなた)と云います。さっきは私、その、先輩に――」

 

 見覚えのない短い茶髪の女子が一人、こちらを向いて何度も頭を下げていた。起き抜けの頭は彼女の言葉を日本語に翻訳してくれない。と云うかそろそろ、今まで堪えてきた体調不良が深刻なレベルになってきている。

 

「……あ、の」

 

「は、はい! 何でしょう!?」

 

 ビクッ! と跳ねるように顔を上げた茶髪の女子の顔は、見てるこっちが可哀想になる程に蒼白だった。別に私が死んでしまった訳じゃ無いんだから、そこまで怯えなくともいいと思うんだけど。だって自業自得だし。

 

「……謝罪は、もう、いいから。それより、誰か、トイレまで、肩、貸してくれない……? ここで、吐く訳には……ぉえっ」

 

 いい加減に限界が近かった。息も絶え絶えに、か細い声で言葉を紡いでいく。云い終える前に、私の体は上方に力強く引っ張り上げられた。

 

「私も原因の一端は担っていましたから、責任を持って彼女を連れていきますね。先生、それで構いませんか?」

 

 首を傾けると、褐色の肌が視界に入る。その細腕からは想像も出来なかったが、ケイリも結構力はあるようだ。それなりに重い筈の私の体がしなだれかかっているのに、ちっとも辛そうにしていない。

 

「……それと、一応保健室までもお願いします。時間は短かったとは云え、意識が無かったんですから。もし何か問題があってはいけませんし、ちゃんと送り届けて下さい」

 

「はい、解りました。それじゃあ行こうか、梓」

 

 そう云って私の体を支え直すと、力強く一歩を踏み出した。危なげないその姿に、下級生達が微かに騒がしくなる。私は不謹慎だとは思わないが、同級生達から向けられる視線で下級生達の声は静まった。

 

「……次は、負けないよ?」

 

 プールサイドから出る直前になって、無意識に言葉が口から零れる。そんな私に、ケイリは呆れたように苦笑する。

 

「……程々にしておいてくれるとありがたいけどね。また今回のような事態になっては堪らないからさ。まあ、そんなことが云えるってことは大丈夫かな。私も貴女のことは好きだから、とても心配だったので」

 

「……ありがと」

 

 さらりと恥ずかし気も無くそう云ったケイリから顔を逸らすように、私はますます体を預ける。密着した体から伝わる肉体の温度が、冷えた私の体には心地良く感じる。顔だけではなく、体も熱を帯びていく。

 まるで全て解っているとばかりにクスクスと笑い続けるケイリの温かさを感じながら、私は保健室へと運ばれていった。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 保健室の扉を開く音で、微睡んでいた頭が平静を取り戻す。

 

「失礼します」

 

 返答は無い。どうやら、養護教諭は席を外しているらしい。

 

「……先生は居ないようだね。となると、どうしたものかな」

 

 ケイリは私の体を支えたまま僅かに逡巡すると、保健室の中に入っていった。一直線にベッドの並ぶ区画へと向かい、閉ざされていたカーテンをおもむろに開ける。先客が居ないことを確認して、そのまま私をベッドに寝かせた。

 養護教諭の許可無くベッドを使用して良いのかと不安がる私に気付いて、ケイリはクスリと微笑した。

 

「心配しなくても大丈夫だよ。今の梓を見れば病人じゃないなんて思えないし、置いてある紙に必要事項を書いておけば問題無いからね」

 

「……顔に出てた?」

 

 自分の顔にペタペタと触れながら訊ねるが、ケイリは余裕のある態度を崩さない。

 

「どうだろうね?」

 

 はぐらかすようにそう云うと、ケイリは私に背を向けて保健室の中を見回した。何か探しものでもしていたのか、事務机の方に向かい、程無くして紙とペンを持って戻ってきた。

 

「さて、それじゃあ書いていこうか。順に質問していくから、眠る前にちゃんと答えてね」

 

 私は無言で頷きを返した。

 

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 簡単な質疑応答を数度繰り返して用紙の空欄を埋めた後、私は不意に口を開いた。

 

「これで、私の威厳も無くなった、かな」

 

「何の話だい?」

 

 用紙を事務机に置きに行っていたケイリの耳に入ったようで、近付くなり興味深そうに私の顔を覗き込んでくる。造りの良い顔が迫ってきて、何となく恥ずかしくなった

 

「んー……いや、ちょっとね。全然大した話じゃないんだけどさ。プールの前に、淡雪とそんな話してたの。だらけてた私を見て、淡雪がそんなんじゃ先輩としての威厳がどうのこうの、って」

 

「ふうん、成る程。それで?」

 

 どこか楽しそうに話の続きを求めてくるケイリに、首を横に振ることで応える。

 

「……それだけ?」

 

「それだけ」

 

 軽く呆然としているケイリの顔が、いつもと違っていて少し面白く感じた。飄々としているケイリの驚いた顔は、私も初めて見るものだった。

 ばつが悪そうに頬を掻くケイリに、私は別の話題を振った。

 

「ところでさ、私が病人っぽいって話があったでしょ」

 

「うん?」

 

 いきなりの話の転換に、何のことか解らないと首を傾げるケイリ。私も云い方が悪かったかと思って云い直す。

 

「ほら、今の私は誰が見ても病人に見えるとか、そんな感じにケイリが云っていたじゃない」

 

「ああ、そうだったかな。それがどうかしたのかい?」

 

「いやさ、実際、今の私ってどうなってるのか気になって」

 

「うーん……どう云えば良いのかな」

 

 ベッドに横たわる私の横で、小声で唸りながらケイリは考え込んでいる。良い表現が思い浮かばなかったのか、端的な解決策が提示された。

 

「言葉で云い表すのは少しばかり難しいかな……そうだ、鏡でも見てみますか?」

 

「ん、お願い」

 

 ゴソゴソと懐を探ってコンパクトミラーを取り出すと、ケイリはそれを私に向けた。そこには、げっそりと血色の悪い、青紫色の唇をした少女の顔が映っていた。

 

「……これは、確かに病人だね。自分じゃないみたい」

 

「病気の時なんてそんなものでしょう。正確には病気という訳でも無いと思うけれど、一度病院に行った方が良いんじゃないかな」

 

「ご忠告ありがとう……ちょっと、眠くなってきたかも。私は少し寝るから、ケイリも体が冷える前に戻ったら?」

 

「そうだね、そうしようか。それじゃあお休み、梓」

 

「うん、ここまでありがとう」

 

 静かに保健室を出ていくケイリを見送る。廊下を遠ざかっていくケイリの足音が聞こえなくなるのを待って、私は口元を押さえた。保健室に来る前に寄ったトイレで一度吐いてきたが、まだまだ吐き気は残っていた。

 

「あ゛あ゛ー、きっつ。先生戻ってきたら早退させて貰おう」

 

 込み上げてくる嘔吐感を何度も送り返しながら、授業の終わりを知らせる鐘の音を聞いていた。

 養護教諭が戻ってくるまでの三十分が、私には無限の時に思えた。

 

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