八月、空に塗る【短編集】   作:あおい そら

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「とりあえず、海でも見に行くか」


1.隕石衝突まで3日を切ったらしい

「セックスしてぇ……」

 

「なんや藪から棒に」

 

 男が二人、肩を並べてゲームをしている。

 そのうちの片方──寝癖の跳ねた髪をそのままに、ずれた眼鏡を雑に掛けた男が、コントローラーを握ったまま唐突にそう言い出した。

 隣にいる、少し小柄で小綺麗な印象の男は、いかにも面倒そうに眉一つ動かし、関西訛りの混じる気怠げな声だけを返す。

 だが、そこから話が発展することもない。再び部屋を満たしたのは、ゲームから垂れ流される銃声と、腐った喉を震わせるようなゾンビの呻き声だけだった。

 二人は淡々と敵を捌き、短い状況報告と指示だけを投げ合いながら、手慣れた操作でステージを進めていく。

 そうしてしばらく沈黙が続いたあと、またしても眼鏡の男──大学二年生の畑山悠が、何でもない調子で口を開いた。

 

「女抱きてぇ……」

 

 己の欲望をそのまま音にしたような言葉だった。しかし悠の呟きはそれで終わらない。僅かに間を置いて、今度は妙な方向へと思考を滑らせる。

 

「……つか、男同士って気持ちいいのかな」

 

 その瞬間、硬いものが床にぶつかる音がした。

 悠が怪訝そうに隣を見ると、『藤崎翔』は露骨な嫌悪を顔いっぱいに滲ませながら、壁際ぎりぎりまで身を引いていた。

 つい今しがた手を滑らせたらしいコントローラーが、ラグの上で無残に転がっている。

 

「マジで気色悪いこと言うんやめぇや。ほんまありえへん」

 

「いやいや、冗談だって。軽い冗談。そんな本気にすんなよ。な? だから怯えんなって。ほら、おいで」

 

「むりむりむりむり! ちょ、おま、マジでこっち来んなって……え、聞いてる? なぁ、やめ、離れろこのど阿呆っ!」

 

 両手をわざとらしくわきわきさせながらじりじり距離を詰める悠に対し、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、翔の平手が容赦なく飛んだ。

 ぱぁん、と乾いた快音が部屋に響いたあと、数瞬遅れて悠の情けない呻き声が続く。

 

「ぅぐぁぇ……いっつ……」

 

「ほんま死ねばええのに」

 

 頭を押さえて悶える悠を、翔は半眼で見下ろしながら吐き捨てた。そのまま付き合うのも馬鹿らしくなったのか、ふと視線を窓の外へ向ける。

 街はひどく静かだった。人通りはほとんどなく、通りに面した店のシャッターは軒並み下りている。生活の跡だけを残して人間だけが綺麗に抜け落ちたみたいな光景だった。

 翔はそのまま視線をさらに持ち上げる。晴れた夏空の只中、昼間だというのに肉眼ではっきり見える黒い点が、空の高みに貼りついていた。しかし点と呼ぶには、それはもうあまりにも大きい。

 

「あんま実感湧かへんなぁ。みんな帰郷やなんや言うて出てったけど、俺はまだ全然危機感あらへんわ」

 

「そうか? 俺は危機感あり過ぎて、生存本能バキバキに刺激されてるけど」

 

 悠が打たれた頭をさすりながら答えると、翔は呆れたように鼻で笑う。

 

「それ単にお前が性欲の権化なだけやろ。生存本能のせいにすなや」

 

 他愛もない応酬を挟みながら、二人は揃ってベランダへ出た。

 季節は夏のはずなのに、肌を撫でる風は妙に冷たい。

 数日前から日本各地で観測され始めた異常なオーロラも、通信障害も、空に浮かぶあの黒い塊も、全部まとめて世界がどこか壊れ始めていることを示していた。

 

「一本頂戴」

 

 差し出された煙草を口に咥え、翔がライターで火を点ける。先端に灯った小さな火種が、風に煽られながら赤く脈打った。

 未成年の大学生が煙草を吸っていたところで、もう咎める大人も法も、以前ほどの意味は持たない。理由は単純明快である。じきに地球が滅ぶからだ。

 

 三日前。そう言われても、未だに現実感は薄い。

 政府だの研究機関だの、そういう普段なら胡散臭く感じる連中が揃いも揃って「高確率で衝突します」と頭を下げ、連日テレビでもネットでも同じ映像ばかり流れていたくせに、いざ生活の輪郭にそれが入り込んでくると、人間の感覚というのは案外鈍いらしい。

 物流は細り、鉄道は止まり、通信網は死に、空には昼間でも黒い染みみたいな隕石が浮いている。

 それでも水は出るし、電気は点くし、コンビニの冷蔵庫は唸っている。街のインフラはとっくの昔に全自動化されていたから、肝心の人間が勝手に取り乱している一方で、機械だけは律儀に平常運転を続けていた。

 食い物だって、有志だか自治体崩れだか知らない連中が炊き出しだの配給だのを回してくれているから、飢えて死ぬほどには困っていない。

 ただ、もう「先の予定」というものが消えただけだった。

 

 なぁ、と悠が煙を吐きながら言う。

 

「海、見に行かね?」

 

「急やな。しかもこのタイミングで」

 

「こういうタイミングだからだろ。終末っぽいじゃん」

 

「言い方が軽いねん、お前は。終末に雰囲気求めんな」

 

 翔は咥え煙草のまま鼻で笑った。

 ベランダの手すりに肘を置き、遠くのビル群の向こうをぼんやり見ている。

 翔はこういう時、妙に冷めた顔をする。怯えていないわけではないのだろうが、取り乱すくらいなら先に呆れる、そういう性分だった。

 対して悠は落ち着きがない。焦りを焦りのまま出すのが恥ずかしいのか、いつもふざけた言い方に変換してしまう癖がある。さっきから下品なことばかり口にしていたのも、たぶんその延長だった。

 

「実家、帰れなかったしさ」

 

 それだけ言うと、悠は煙草を指先で回しながら空を見た。翔も何も言わなかった。

 二人とも地方から東京へ出てきた大学生で、たまたま同じ講義で知り合って、たまたま家賃を折半したら安いという理由で同居して、それがそのまま二年続いている。

 関係の始まりなんてそんなもので、別に劇的でも何でもない。ただ、こういう時に帰る場所を失うと、その「たまたま」が妙に重く感じた。

 

「……海は分かるけど、どうやって行くん」

 

「歩く」

 

「阿呆か。どこまで歩かせる気や」

 

「じゃあチャリ」

 

「一台しかないやろ」

 

「二ケツ」

 

「男子大学生二人で終末に二ケツとか、絵面が最悪や」

 

「でもちょっと青春っぽくね?」

 

「その青春、余命三日やけどな」

 

 結局、その日のうちに行くことになった。

 行かない理由も特になかったからだ。大学は当然休講のまま、そのまま二度と再開しないかもしれない。講義サイトは昨日から繋がらなくなった。

 友人たちの安否確認も、朝のうちに一瞬だけ入った短いメッセージを最後に途絶えがちだった。「今から帰る」「無理だった」「高速やばい」「そっちは?」そんな断片だけがスマホに残っていて、返事を打っても送信中のまま止まる。

 大半の人間は車を出し、あるいは誰かの車に乗せてもらい、少しでも家族のいる方角へ向かったらしい。

 高速道路が軒並み駐車場みたいになっている映像は、昨夜、アナログ放送の臨時チャンネルで見た。

 ヘリからの映像の下に「落ち着いて行動してください」とテロップが流れていたが、そんなものが意味を持つ段階はもう通り過ぎていた。

 

 二人は、長年駐輪場に停めっぱでタイヤが液体の様に地面に垂れた自転車を引っ張り出し、空気を入れ直し、コンビニで残っていたスポーツドリンクと菓子パンを適当に買い込んだ。

 レジは無人のまま動いていた。バーコードをかざすと、いつも通り電子音が鳴る。

 妙に愛想のいい合成音声が「ありがとうございました」と言うその声に、翔が小さく「こちらこそ」と返していたのを、悠は聞かなかったふりをした。

 

 街は静かだった。静かと言っても、無音ではない。遠くでサイレンが鳴るし、上空ではたまに何かの飛行音がするし、見えないところでエアコンの室外機や信号機の駆動音が生きている。

 だが、人の声がとにかく少ない。普段なら雑音として溶け合っているはずの生活音が欠けるだけで、街はこれほどまでに作り物じみるのかと悠は思った。

 交差点では信号が律儀に色を変え、横断歩道には誰もいない。バス停には置き去りのスーツケースが二つ、並んで座っていた。

 風に煽られたポスターが何度も金具に打ちつけられ、ぱたぱたと乾いた音を立てる。

 自転車の籠に入れた飲み物が揺れるたび、ペットボトル同士がこつこつ鳴った。

 

「なぁ、空、見てみ」

 

 悠が片手を上げる。翔が顔を上げると、青白い昼空のさらに高いところを、薄く溶けた絵の具みたいな光が帯になって流れていた。

 オーロラだった。日本でオーロラなんて、ニュースの中だけの現象だったのに、この数日はそれが当たり前みたいに現れている。

 磁場が歪んでいるからだとか、隕石の接近で太陽風との相互作用がどうだとか、専門家の解説は色々聞いた。

 しかし、説明を理解したところで、目の前の異様さが薄れるわけではない。真夏の東京の空に、カーテンのような緑や紫の光が揺れている。

 気味が悪いくせに、綺麗だった。

 

「気持ち悪いな」

 

「ロマンないなぁ」

 

「こんなん見てロマン感じる方がどうかしとるやろ」

 

「終末って感じする」

 

「またそれや。お前はほんま、何でも映画みたいに言う」

 

「だってそうでも思わないと無理じゃん」

 

 翔はそこでちらりと悠を見た。軽口の形をしていても、その声が妙に平たいのが分かる。

 悠はペダルを踏みながら笑っていたが、笑っている口元と目元が噛み合っていなかった。

 翔は何も言わず、自分の自転車の前を少し速めた。こういう時、余計な慰めを口にすると大抵ろくなことにならない。

 だから二人の間では、大体いつも通りにしているのが一番ましだった。

 

 海へ向かう途中、いくつかの配給所を通った。

 公園の一角や小学校の校門前にテントが張られ、簡易机の上に水や保存食が積まれている。

 腕章をつけた連中が名簿も取らず、来た人間に淡々と物を渡していた。

 警察とも自衛隊とも違う、ただの有志なのだろう。彼らの表情には妙な静けさがあった。使命感とも諦めともつかない顔だ。

 悠は一度、自転車を止めてその様子を見た。

 小さな女の子が缶詰を抱えて母親に手を引かれていく。老人が二リットルの水を両手で持ち上げる。誰かが「足りなければまた夕方に来てください」と言う。

 その言葉の中には、やはり明日の話はなかった。

 

「偉いよな、ああいう人ら」

 

 悠がぽつりと言う。

 

「せやな」

 

「俺なら無理だわ。こんな時に他人の面倒まで見れない」

 

「見れんでも別にええやろ。全員が聖人になれる訳ちゃうし」

 

「でも、お前ならやりそう」

 

「絶対やらん。暑いの嫌いやし」

 

「そういうとこだよなぁ」

 

「褒めてへんやろそれ」

 

 海が近づくにつれて、潮の匂いが混ざり始めた。

 途中から道はほとんど車で埋まり、二人は自転車を押して歩くしかなくなった。

 ナンバープレートの地域はばらばらで、西へ向かおうとしたのか東へ向かおうとしたのかも分からない。どの車も途中で諦めたように停まり、忽然と人だけが消えたかの様な、物寂しさを残していた。

 ガソリン切れか、道を変えるために置いていったのか、それともそのまま海の方へ歩いたのか。カーラジオから、途切れがちなアナウンサーの声が流れている車もあった。

「落ち着いて」「安全を確保し」「不要不急の移動は」そんな言葉ばかりが、今更みたいに反復されている。

 

 浜辺に着いた時、陽はだいぶ傾き始めていた。

 海水浴客などいるわけもない砂浜は広く、やたらと空が大きい。

 防波堤の向こうでは、波が一定のリズムで砕けていた。終わりが来るにしては、海は驚くほどいつも通りだ。

 悠はサンダルを脱いで砂の上を歩き、熱の残った粒に足裏を押しつけた。翔は近くの自販機でまだ動いていたものから缶コーラを二本買い、その一本を悠へ投げた。

 

「ほい」

 

「サンキュ」

 

「なんで海やったん」

 

「見たかったから」

 

「答えになってへん」

 

「海ってさ、境目っぽいじゃん。どこまでも続いてて、向こう側がある感じするし」

 

「詩人ぶんなや」

 

「あと、単純にお前と家にいると最後までゲームしてそうだったから」

 

「それはそう」

 

 二人は堤防に腰掛け、缶を開けた。炭酸の抜ける小さな音がした。

 風が吹くたび、空に揺れるオーロラの薄色が少し濃くなる。夕方に差しかかるほど、むしろその光は見やすくなっていった。

 水平線の上には、例の黒い点――もう点とは呼び難い大きさの塊が、確かにいた。肉眼で見えてしまう天体なんて、それだけで十分に恐ろしい。

 

 なぁ、と悠が言った。

 

「俺さ、親にまだ電話できてない」

 

 翔は缶を口元で止めた。

 

「繋がらんのやろ」

 

「うん。でも、なんか、繋がらないことを言い訳にしてる感じもする。もし繋がっちゃったら、何言えばいいか分かんないし」

 

「分からんでええやろ、そんなん」

 

「いや、でも最後かもしれないじゃん」

 

「最後かもしれんからなんやねん。気の利いたこと言おうとしたって、ろくでもないことになるだけや」

 

「それはまあ、たしかに」

 

 悠は膝を抱えた。笑っていない横顔を、翔は初めて見たような気がした。

 普段の悠は騒がしくて、女の話と下ネタとゲームの愚痴で頭の中ができているみたいな奴だった。けれど、本当は違うのだろうと翔は知っている。

 知っているというより、同じ部屋に二年もいれば、嫌でも分かる。夜中、たまに実家からの荷物を開ける時の手つきとか、親からの仕送り額を気にしてバイトを増やしていたこととか、そういう細いところに人間は出る。

 

「お前は?」

 

 悠が訊く。

 

「何が」

 

「親。連絡取れた?」

 

「一昨日、短文だけ来た。『こっちは大丈夫、あんたも気ぃつけや』って」

 

「それだけ?」

 

「それだけ。うち、そんなもんやし」

 

「寂しくない?」

 

「別に。……いや、ちょっとは」

 

 正直に言うと、悠が笑った。

 笑ったが、すぐにその顔が歪む。笑い慣れた顔で泣きそうになると、こんなふうになるのかと思うほど不器用な表情だった。

 

「俺さ、帰れないの、めっちゃダサいなと思ってたんだよ。みんな何とかして帰ろうとしてて、家族のとこ行こうとしてるのに、俺は渋滞のニュース見た時点で諦めちゃって。どうせ無理だしって、部屋でお前とゾンビ撃ってた」

 

「別にダサないやろ。無理なもんは無理や」

 

「でもさ、最後くらい親孝行とか、そういうのあるじゃん」

 

「三日前に思いつく親孝行、だいぶ付け焼き刃やな」

 

「うるせぇ」

 

「それに、お前が帰らんかったの、俺おったからやろ」

 

 悠が顔を上げる。翔は海を見たままだった。

 

「俺、一人になったらたぶん無理やったし。飯とかはどうとでもなっても、こう、じわじわ来るやつ。静かな部屋で空にでっかい石浮いてんの見ながら一人とか、わりと嫌やった。やから、まあ、助かっとる」

 

 それは翔にしてはかなり多く喋った方だった。

 言い終えた途端、言わなければよかった気もした。

 しかし悠は笑わなかった。ふざけもしなかった。ただ、目元をぐしゃっと手の甲で擦って、鼻をすすった。

 

「……そういうの、もっと早く言えよ」

 

「言うか普通」

 

「俺、お前がそういうこと言うとマジで弱いんだけど」

 

「知らんがな」

 

「ちょっと抱きついていい?」

 

「よくない」

 

「ケチ」

 

「さっき何言うてたか忘れたんかお前は」

 

 それでも悠は半ば無理やり肩を寄せ、翔の腕に頭を押しつけた。

 翔は本気で払い除けることはしなかった。汗と潮風と煙草の匂いが混ざる。気持ち悪いはずなのに、妙に落ち着いた。

 こういう時、家族でも恋人でもない相手と一緒にいるのは変な感じだと思う。けれど、それがなんだというのか。

 

 日が沈み始めると、空の色が急速に薄暗く変わっていった。

 オレンジと紫の(あわい)に、緑のオーロラが帯のように重なる。世界の終わりの景色としては、出来過ぎなくらい綺麗だった。

 砂浜には二人以外にも少しずつ人が集まってきていた。家族連れ、老夫婦、学生らしいグループ、一人で座り込むスーツ姿の男。

 誰も大声では喋らず、ただ海と空を見ている。泣いている人もいたし、写真を撮っている人もいた。通信網が死んでいるのに、撮ったところで誰に送るでもない写真を。

 それでも人は記録しようとするらしい。

 

「なぁ悠」

 

「んー」

 

「さっきの、したいってやつ」

 

「セックス?」

 

「わざわざ言い直すな」

 

「え、そこ拾うの?」

 

「いや別に、拾いたなかったけど」

 

「したいよ。そりゃまあ。だって二十歳そこそこで人生終了とか、あまりに理不尽じゃん。色々未経験すぎるだろ」

 

「まあ、それは……分からんでもない」

 

「だろ?」

 

「でもお前、たぶん仮に明日世界が終わらんくても同じこと言うてるで」

 

「それはそう」

 

 翔は少し笑った。悠もつられて笑う。

 その笑いが落ち着いたあと、悠は不意に真面目な声で言った。

 

「でも、たぶん俺、本当に欲しかったの、そういうのじゃないかも」

 

「何やねん、急に哲学始めるな」

 

「誰かに『一緒にいてよかった』って思われる感じ。ああいうの。死ぬ前にさ、せめて一人くらい、俺がいた方がよかったって思ってくれる人がいるといいなって」

 

「おるやろ」

 

「誰が」

 

「俺」

 

 今度こそ、悠は黙った。

 口を開きかけて、やめて、また空を見た。目の縁が赤い。

 翔は缶の残りを一気に飲み干し、空になったそれを足元に置いた。言ってしまえば案外あっけない。だが、言葉にしたことで、曖昧だったものに輪郭がついた気がした。

 

「……反則だろ、それ」

 

「知らん」

 

「お前、ほんとこういう時だけずるい」

 

「普段お前がアホすぎるから、差し引きちょうどええねん」

 

 潮風が少し強くなった。

 遠くで誰かの笑い声がして、すぐ止んだ。

 空の黒い塊は、昼間より明らかに大きく見える。気のせいではないのだろう。時間が進んでいるのだと、あれは嫌でも教えてくる。

 

 明日も来る? と悠が言った。

 

「海?」

 

「うん」

 

「チャリしんどい」

 

「じゃあ途中まで歩いて、しんどくなったら引き返す」

 

「雑やな」

 

「でも、部屋にいるよりいいかも」

 

「……せやな」

 

 翔はポケットから煙草を取り出し、一本くわえた。

 風が強くて火がつきにくい。悠が体を寄せ、両手で囲うようにしてライターの火を守る。小さな炎が二人の間に灯り、すぐに消えた。

 煙が夜気に溶ける。オーロラがゆっくり揺れ、海が暗く波打っている。

 世界は確かに終わろうとしているのに、その手前にはまだ夜があり、風があり、隣にいる相手の体温があった。

 

「なぁ翔」

 

「ん」

 

「最後まで一緒にいて」

 

「今さら何言うてんねん」

 

「ちゃんと言ってほしかった」

 

「なんやそのメンヘラ彼女みたいな……」

 

「なぁ」

 

「……おるよ」

 

 その一言だけで十分だった。悠はそれ以上何も言わず、ただ隣に座っていた。肩と肩が触れ合ったまま、二人で海を見る。

 三日後には隕石が落ちるらしい。空は壊れ、通信は途絶え、帰るはずだった故郷は高速道路の向こう側に取り残された。

 それでも今、この瞬間だけは、自分たちはちゃんとここにいるのだと分かる。潮騒の一定した音の中で、悠はふと思った。

 世界が終わる直前に必要なのは、壮大な答えでも救済でもなく、案外こういうことなのかもしれない、と。

 どうしようもなく頼りなくて、妙にぬるくて、それでも確かにひとりではないと分かる、その程度のこと。

 空では終末の光が揺れていたが、二人はしばらく、ただ黙って海を見ていた。

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