八月、空に塗る【短編集】   作:あおい そら

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「また、君の話を聴かせて」


2.52Hzの夏

「あっついな……」

 

 手のひらを太陽に翳していると、温い風が背後へ流れて行った。

 蝉時雨は今日も止むことを知らず、夏の風物詩は俺だと言わんばかりにけたたましさを日に日に増していく。

 はた迷惑な隣人だとぼやくも、それで静かになんてなるはずもない。ハァと、重い溜息が出てしまうのも仕方の無い事実だった。

 

 人類が滅亡したと、電波越しに報らされて早数年。

 コンクリートジャングルは緑に呑まれ、なんなら水にも呑まれ、かつての栄華は容易く自然に淘汰されていた。

 こうして自転車を漕ぐ事が出来る大地なんて、今ではもう珍しいぐらいで。

 あと、何年こうして自転車に乗れるのかも分からない。そんな時勢で、今日も日課の回収に出向く。

 

 そこは、以前は地元の住民に愛された古き良き総合商業施設。今では、看板の半分が潮風に削られ、残り半分は蔦に縫い止められている。

 入口の自動ドアは当然のように動かない。硝子の片側は割れていて、もう片側には誰かが残したらしい避難指示の紙が、白く褪せたまま貼りついていた。

 

 避難してください。

 高台へ。

 落ち着いて行動を。

 

 そんな言葉だけが、未だに律儀な顔をして残っている。

 

「落ち着いて、ね」

 

 呟いて、俺は自転車を横倒しにした。錆びたスタンドは去年の秋に折れた。修理する気はあった。部品も多分、探せばどこかにある。ただ、直したところで何かが劇的に変わるわけでもないので、そのままになっている。

 

 割れた自動ドアの隙間を抜けると、むっとした熱気と埃の匂いが喉に貼りついた。中は外より少し暗い。天井の一部から陽が落ちて、床に生えた名も知らない草を照らしている。

 レジの上には鳥の糞が落ちていて、かつて特売のポップが吊られていた場所では、細い蜘蛛の巣が風もないのに揺れていた。

 

 最初の頃は、この場所に来るたびに胸の奥が変な感じになった。

 ここにはあの日以前の手触りが多すぎる。錆びた買い物カート。倒れたガチャガチャ。中身の溶けたアイスケース。誰かの財布。誰かの靴。誰かが最後まで握っていたらしい、子供用の菓子袋。

 

 けれど、何度も来ていると慣れていった。

 ……いや、慣れるというより、感情が摩耗して、何も感じない程にに薄くなって。どんどん、どんどん薄くなって。日課になった。

 日課になれば、悲しいことも面倒臭いことも、ただの作業に近づいていく。息をするのに何の感傷を抱かないのと同じで、生きるための行動に、人は感情の漏出という無駄な行為は起こさない。

 

 保存食の棚はだいぶ寂しくなっていた。缶詰はもう大体取り尽くした。乾麺も湿気っているものが多い。レトルト食品は賞味期限なんてとっくに過ぎているが、膨らんでいなければ食べる。腹を壊したら運が悪かったというだけだ。運が悪いことには、もう慣れている。

 

 リュックに鯖缶を三つ、パックの米を二つ、粉末スープをいくつか詰める。飲料水の棚は空だったが、奥の従業員用通路に残っていた備蓄の段ボールから、ペットボトルを一本だけ見つけた。中身は少し濁っていた。

 振ると、夏の光を薄く溶かしたみたいに揺れた。

 

「まあ、煮ればいけるか」

 

 いける、という言葉ほど信用ならないものもない。けれど、今の世界では大体のものが、いけるか、無理か、死ぬかの三択だった。

 

 帰り際、ゲームセンターの前を通った。シャッターは中途半端に開いている。昔はうるさかったのだろう。音楽とか、電子音とか、子供の声とか、そんなものが混ざって、きっとここはひどく騒がしかったはずだ。

 今は、天井の穴から入り込んだカモメが一羽、古いクレーンゲームの上に立ってこちらを見ているだけだった。

 

 目が合う。

 

「なんだよ」

 

 カモメは答えず、馬鹿にしたように鳴いて飛んで行った。

 

 外へ出ると、太陽はまだ容赦なく白かった。国道は草に沈み、センターラインの黄色はところどころしか見えない。停止した信号機が交差点の上で傾いている。赤でも青でもない、ただ死んだ眼みたいな黒い硝子が、誰も渡らない横断歩道を見下ろしていた。

 

 自転車の前かごに荷物を括りつけ、俺は海沿いの道へ戻った。左手には崩れかけたコンクリートビルが並んでいる。どれも低層階は水に浸かっていて、窓からは蔦や草が溢れ出していた。

 右手には防波堤。その向こうに、やけに青い海。昔より近くなった海。町を少しずつ舐め取りながら、知らない顔をして光っている海。

 

 人間がいなくなっても、海は綺麗だった。そこが一番、腹立たしいと思う。

 

 夕方までに電波塔へ戻る。町の外れに立つその塔は、父さんが昔働いていた施設のひとつだった。正式な名前はもっと長い。何とか中継局とか、何とか送信設備とか、そんな感じだ。

 覚えていない。覚えている必要もない。今の俺にとっては、屋根があって、雨を凌げて、発電機を置けて、海が見える場所。それだけで十分だった。

 

 発電機の燃料を確認し、ソーラーパネルに積もった砂と鳥の糞を布で拭う。蓄電池の残量は少ない。無駄遣いはできない。昼間は使わない。夜になってから、最低限だけ電気を回す。

 ラジオと、小さなライトと、時々は扇風機。扇風機は贅沢品なので、本当に死にそうな夜にだけ使う。

 

 日が落ちるまで、俺は塔の足場に座って海を見ていた。遠くで雷が鳴っている。雨は多分、ここまでは来ない。水平線の上に積もった雲だけが青黒く膨らみ、時折、その腹の内側が白く光った。

 

 蝉はまだ鳴いている。昼も夜も関係ないみたいに鳴いている。耳鳴りみたいだった。あるいは、この町そのものが発しているノイズみたいだった。

 

 夜になって、俺は送信室に戻った。机の上には、父さんの工具と、俺がいじり回したラジオがある。外装は外れ、配線はむき出しで、つまみは別の機械から流用したものだ。見た目はひどい。けれど、まだ動く。ひどい見た目で、まだ動く。俺と似ている。

 

 発電機を回すと、低い唸りが床を震わせた。ライトが点き、薄暗い送信室の輪郭が浮かぶ。壁には古い地図。机の横には水の入ったポリタンク。隅には寝袋。何年も同じ場所で眠っているせいで、床の埃に俺の形だけが残っている。

 

 ラジオの電源を入れる。

 

 ざあ、と音がした。

 

 波の音に似ている。けれど、海よりずっと近い。耳の内側で、砂嵐が降っているみたいな音。俺はつまみを少しずつ回した。短波。中波。FM。何度もなぞった周波数の海を、今日も意味もなく泳がせる。

 

 誰かの声を探しているわけじゃない。もういない。何年も前に分かっている。

 

 ただ、完全に静かな夜は、少しだけ息が詰まる。

 

 ざざ、ざ、ざああ、とノイズが揺れる。時々、どこかの自動放送みたいなものが混ざる。途切れた警報。天気予報の断片。言葉にならない外国語。全部、過去から剥がれ落ちた皮みたいなものだ。今の誰かが、今の声で喋っているわけじゃない。

 

 だから、その声が入った時も、最初はそういうものだと思った。

 

『……誰か』

 

 指が止まった。

 

 蝉の声が、急に遠くなる。

 

『誰か、いますか』

 

 女の子の声だった。年は俺と同じくらいか、少し下か。酷く掠れている。ノイズに削られて、ところどころ輪郭が欠けている。それでも、確かに声だった。

 

 俺はしばらく何も言えなかった。喉が乾いていた。心臓が、嫌な音を立てている。

 

『聞こえていたら、返事をください。こちらは、海浜第三避難所、臨時コミュニティFM局です』

 

 海浜第三避難所。

 

 知らない名前じゃなかった。隣町の方にあったはずだ。海沿いの小学校を使った避難所。多分、もう水没しているか、半分くらい海に持っていかれている。

 

 俺はマイクに手を伸ばした。伸ばして、途中で止めた。

 

 どうせ録音だ。そう思った。何年も前の放送が、電離層だか何だかに跳ね返って、今さら迷い込んできただけ。父さんなら説明できたかもしれない。俺には無理だ。ただ、今さら誰かが生きているなんて、そんな都合のいいことがあるはずがない。

 

『お願いです。誰か、生きてる人がいるなら』

 

 声が、そこで少し震えた。

 

『返事をください』

 

 俺は息を吸った。

 

 馬鹿みたいだと思った。録音に返事をして、どうする。壊れた機械に話しかけるのと同じだ。そうやって自分に言い聞かせたのに、指は送信機のスイッチを押していた。

 

「……聞こえる」

 

 自分の声が、あまりにも久しぶりに誰かへ向けられた声だったので、ひどく不自然に聞こえた。

 

 ノイズが揺れた。

 

 数秒、何もなかった。

 

 やっぱり録音だ。そう思った瞬間、ラジオの向こうで、小さく息を呑む音がした。

 

『……ほんとうに?』

 

 俺は、マイクを握り締めたまま動けなくなった。

 

『ほんとうに、そこにいるの?』

 

 夏の夜が、送信室の窓の外でじっと息を潜めていた。蝉が鳴いている。海が鳴っている。遠雷が、死んだ町の向こうで低く転がっている。

 

 俺は何度も口を開き損ねたあと、ようやく答えた。

 

「いる。多分、まだ」

 

 ノイズの向こうで、女の子が笑った気がした。泣きそうな声だった。

 

『よかった』

 

 それだけで、送信室の中の空気が少し変わった。何年も閉じたままだった窓が、ほんの少しだけ開いたような気がした。

 

『また、君の話を聴かせて』

 

 俺は、返事の仕方を忘れていた。だから、少し迷ってから、ただ短く言った。

 

「ああ」

 

 その夜から、俺の夏は少しだけ終わらなくなった。

 

 女の子は、決まって夜にだけ現れた。

 日中にどれだけ周波数を合わせても、俺の手元に戻ってくるのは砂嵐みたいなノイズだけで、夕方の薄明かりの中でも、彼女の声は掠りもしなかった。

 それなのに、日が沈み、海の表面が黒い硝子みたいになり、遠くの雷が死んだ町の向こうで低く転がる頃になると、ラジオの奥でふっと息をするように彼女の声が浮かび上がる。

 

『聞こえてる?』

 

「ああ」

 

『よかった。今日も生きてた』

 

「そっちもな」

 

『うん。生きてた』

 

 そういう遣り取りを、俺たちは何度もした。

 

 名前を聞くのには、少し時間が掛かった。

 俺は元々、そういうことを率先して聞く性格ではなかったし、聞いたところで何が変わるのかも分からなかったからだ。

 向こうも向こうで、最初の頃は俺が本当にいるのか確かめるだけで精一杯みたいだった。

 だから俺たちはしばらくの間、名前も知らないまま、暑いとか、蝉がうるさいとか、今日拾った缶詰が不味かったとか、そういうどうでもいい話だけをした。

 

『ねえ、そっちは今日も暑い?』

 

「暑い」

 

『こっちも。扇風機が欲しい』

 

「あるだろ。避難所なら」

 

『あるけど、電気が勿体ないから。君のところは?』

 

「ある。けど、使わない」

 

『なんで?』

 

「勿体ない」

 

『同じじゃん』

 

 ラジオの向こうで、彼女が笑う。

 

 その笑い声があるだけで、送信室の熱気は少しだけ軽くなった。

 実際には、夏は何も変わっていない。汗は首筋を流れるし、蚊はどこからでも入り込んでくるし、発電機は低く唸り続けている。

 けれど、同じ暑さでも、誰かと文句を言える暑さは少しだけ別物だった。

 

「名前、聞いてなかった」

 

『あ、ほんとだ』

 

「今さらだけど」

 

『今さらだね。わたしは、凪』

 

「海の凪?」

 

『そう。風が止まるやつ。変でしょ。こんなに潮風の強い町で、凪って』

 

「別に」

 

『君は?』

 

「律」

 

『りつ?』

 

「規律の律」

 

『真面目そう』

 

「名前だけな」

 

『じゃあ、律くん』

 

「くんはいらない」

 

『じゃあ律』

 

 それだけのことなのに、自分の名前が誰かの声で呼ばれるのは久しぶりすぎて、俺は少し黙った。

 

『あれ、嫌だった?』

 

「いや」

 

『よかった』

 

 凪は、海浜第三避難所の臨時コミュニティFM局にいると言った。

 小学校の放送室を改造して、避難所にいる人間へ向けて連絡事項を流していたらしい。

 けれど避難所は長く保たなかった。病気が出て、食料が尽きて、水位が上がって、ある日を境に人が少しずついなくなった。移動した人もいた。死んだ人もいた。行方が分からなくなった人もいた。

 

『最後は、わたしと、おじいちゃんと、あと二人くらいだったかな』

 

「今は?」

 

『今は……まあ、うん』

 

 そこで凪は少しだけ言葉を濁した。

 

 俺も、それ以上は聞かなかった。この世界でそういうのはよくある話で、それが分からないほど俺は幼くなかった。

 

 代わりに、俺は自分のことを少し話した。父親が元無線技師だったこと。電波塔の管理棟をねぐらにしていること。スーパー跡の保存食がそろそろ尽きそうなこと。妹がアイスの当たり棒を大事に集めていたこと。母さんがよく、海に近い家は洗濯物がすぐ潮臭くなると文句を言っていたこと。父さんは世界がこうなる少し前から、ずっと空の調子がおかしいと言っていたこと。

 

『お父さん、すごい人だったんだね』

 

「ただの機械いじりだよ」

 

『でも、律もラジオ直せるんでしょ?』

 

「暇だったから」

 

『暇って、すごいね。わたし、暇だと寝ちゃう』

 

「寝ればいい」

 

『嫌。寝たら夜が終わるじゃん』

 

 凪は、夜が終わることを本当に惜しんでいるように言った。

 

 俺はその感覚を少し不思議に思った。俺にとって夜は、ただ一日の終わりだった。

 発電機を止め、ライトを消し、寝袋に潜り、暑さと湿気と蚊の羽音に耐えながら目を閉じるだけの時間だった。明日も同じように起きるための、面倒な中断でしかなかった。

 

 けれど、凪と話すようになってから、夜は少しずつ形を変えた。

 

 昼間、俺はスーパー跡へ行く。崩れた総合商業施設の中で、缶詰や電池や使えそうな布を拾う。途中で錆びた自販機の横を通る。停止した信号の下を抜ける。草に沈んだ国道を自転車で進む。水に浸かった低層ビルの窓から、蔦が内臓みたいに垂れているのを見る。津波避難タワーの階段にカモメが群れているのを横目に、今日も誰もいないなと思う。

 

 そして夕方になると、少し急いで帰るようになった。

 

 急ぐ理由ができたことに気づいた時、俺は自分で少し驚いた。

 

『今日、何してた?』

 

「スーパー行った」

 

『また?』

 

「飯がないと死ぬ」

 

『それはそう』

 

「あと、古いアイスのケースを見た」

 

『アイス?』

 

「中身はない。溶けて腐った跡だけ」

 

『うわ、言い方』

 

「好きなアイスってあるか」

 

『急に?』

 

「聞いてなかった」

 

『ソーダ味かな。棒に当たりって書いてあるやつ』

 

「一緒かよ」

 

『律も?』

 

「ああ」

 

『じゃあ、わたしたち、そこだけ気が合うね』

 

「そこだけか」

 

『今のところはね』

 

 そう言って、凪はまた笑った。

 

 彼女の背後では、いつも蝉が鳴っていた。夜なのに、ひどく鮮明だった。

 最初は避難所の近くに山があるからだろうと思っていた。あるいはマイクが窓際にでも置かれていて、外の音を拾っているのだと。

 けれど、ある夜、俺の町に強い雨が降った。塔の外では、雨粒が鉄骨を叩き、海と空の境目が消えるほどの土砂降りになっていた。蝉もさすがに黙っていた。カモメも消えた。世界中が打ち付ける水の音だけになった。

 

 それでも、凪の声の向こうでは蝉が鳴っていた。

 

「そっち、雨降ってないのか」

 

『え?』

 

「こっちは土砂降り」

 

『うそ。こっちは晴れてるよ。月が出てる』

 

「近いんじゃないのか。隣町だろ」

 

『そう、だと思うけど』

 

 ノイズが揺れる。

 

『でも、海の近くって天気変わりやすいし』

 

「そうか」

 

『うん。そういうことにしよ』

 

 凪は明るく言った。俺もそれで済ませた。済ませたかった、という方が正しい。

 

 それから、少しずつ変なことが増えた。

 

 凪は日付の話を嫌がった。

 

「今日何日だっけ」

 

『八月だよ』

 

「八月の何日」

 

『夏休みって、日付分かんなくならない?』

 

「なるか」

 

『なるよ。宿題やってないと特に』

 

 彼女はそうやってはぐらかした。

 

 天気の話も曖昧だった。俺が昨日の遠雷について話しても、凪は知らないと言った。俺が港の倉庫が崩れたと言っても、そんな音は聞かなかったと言った。

 彼女は毎晩、確かに今そこで喋っているように受け答えをするのに、どこか時間の端が合っていない。噛み合っているようで、微妙にずれている。

 

 同じ話をすることもあった。

 

『律は好きなアイス、何?』

 

「前にも聞いた」

 

『そうだっけ』

 

「ソーダ味」

 

『あ、わたしも』

 

「知ってる」

 

『じゃあ、そこだけ気が合うね』

 

 その言い方も、その笑い方も、前とほとんど同じだった。

 

 俺は返事をしながら、机の端に置いた古いノートを見た。父さんが残した無線関係のメモ帳だ。そこには、電離層、スポラディックE層、異常伝播、反射、混信、そういう単語が雑に並んでいた。

 父さんは昔、夏になると普段届かない遠くの電波が届くことがあると言っていた。見えない声が、空の鏡で跳ね返るのだと。

 

 それから、何かの雑誌を見せながら、五十二ヘルツの鯨の話をしたことがある。

 

 普通の鯨とは違う高さで鳴くから、仲間に届かない鯨。誰も聞いてくれない周波数で、ずっと歌っている鯨。父さんはそれを少し楽しそうに話していたが、幼い俺は、そんなものは寂しいだけじゃないかと思った。

 

 今なら、少し分かる。

 

 誰も聞かない声でも、出さないよりはましなのだ。

 

 たとえ届かなくても、声を出している間だけは、自分がまだここにいると思えるから。

 

 八月の終わりに近いある夜、凪が言った。

 

『今年も花火大会、あると思う?』

 

 俺は答えに詰まった。

 

 あるわけがない。花火を作る人間も、打ち上げる人間も、見上げる人間も、交通整理をする人間も、屋台で焼きそばを売る人間も、浴衣の帯を直してやる誰かも、もういない。河川敷も半分は水没して、花火大会のポスターなんて数年前のものが白く剥がれたまま、掲示板に貼りついているだけだ。

 

 けれど、それをそのまま言うのは、何故か嫌だった。

 

「どうだろうな」

 

『ないかな』

 

「多分な」

 

『そっか』

 

 凪の声は、思っていたよりも静かだった。

 

『一回でいいから、ちゃんと見たかったな』

 

「見たことないのか」

 

『いつも人が多いからって、お母さんに駄目って言われてた。音だけは聞こえるんだけどね。窓からちょっとだけ光が見えて、それで終わり』

 

「そうか」

 

『律は?』

 

「何回か」

 

『いいな』

 

「人が多いだけだ」

 

『それでも、いいな』

 

 その夜、俺はあまり眠れなかった。

 

 翌日、ホームセンター跡へ行った。

 

 国道のさらに先、海から少し離れた場所にある大型店だった。駐車場は草で埋まり、軽トラックが一台、入り口に突っ込んだまま錆びていた。台風の時に飛んできたのか、看板は半分折れている。店内は蒸し風呂みたいに暑く、園芸用品売り場には本物の草が棚を飲み込むように繁っていた。

 

 花火なんて残っているわけがないと思っていた。

 

 けれど、季節用品の棚の奥、倒れた虫取り網と空気の抜けた浮き輪の下に、ビニール袋に包まれた手持ち花火のセットがいくつか残っていた。湿気を吸っている。使えるかは分からない。ライターも探した。チャッカマンは駄目だったが、古いマッチが工具売り場のレジ裏から出てきた。

 

 帰り道、自転車の前かごで花火の袋がかさかさ鳴った。

 

 それだけで、馬鹿みたいに心臓が軽かった。

 

 夜、防波堤へ行った。ラジオと送信機と小型バッテリーを抱え、波打ち際に近いコンクリートの上に腰を下ろす。港は暗い。係留された漁船は黒い塊になって眠っている。遠くの津波避難タワーの上で、カモメが一羽だけ鳴いた。空には雲が薄く広がっていて、星は少ししか見えなかった。

 

『今日は外?』

 

「ああ」

 

『海?』

 

「防波堤」

 

『いいな。でも、夜の海、怖くない?』

 

「慣れた」

 

『わたしは怖い。見えないところから何か来そうで』

 

「何も来ない」

 

『それも怖いね』

 

 俺は花火の袋を開けた。湿気た紙の匂いがした。手持ち花火を一本取り出し、マッチを擦る。一回目は失敗した。二回目も折れた。三回目で小さな火が点き、俺は慌てて導火線に近づけた。

 

 しばらく何も起きなかった。

 

『何してるの?』

 

「待ってろ」

 

 じ、という音がした。

 

 次の瞬間、花火の先から白い火花が吹き出した。

 

 俺は思わず少し腕を引いた。火花は夜の防波堤の上で、細く、頼りなく、けれど確かに光っていた。赤。白。緑。ぱちぱちと音を立てながら、数年前の夏が俺の手の先で燃えている。

 

『え、なに?』

 

「花火」

 

『うそ』

 

「本当」

 

『見えない』

 

「音だけ聞いて」

 

 俺は送信機のマイクを花火へ向けた。火花の弾ける音が、波の音に混じる。凪はしばらく何も言わなかった。聞こえているのか不安になって、俺はマイクを持ち直した。

 

「聞こえるか」

 

『聞こえる』

 

 凪の声は、小さく震えていた。

 

『すごい。ほんとに、花火の音だ』

 

「しょぼいけどな」

 

『しょぼくないよ』

 

「打ち上げじゃない」

 

『それでもいい』

 

 次の花火に火を点ける。今度は橙色の火が、少し長く伸びた。風に煽られて、火花が横へ流れる。俺はそれを一人で見ていた。ラジオの向こうで、凪が息を潜めているのが分かった。

 

『ねえ、律』

 

「なんだ」

 

『ありがとう』

 

「別に」

 

『別にじゃないよ』

 

「見えてないだろ」

 

『でも、聞こえてる』

 

 花火が短くなっていく。火花が弱まり、最後に赤い点だけが残り、それも夜の中でぽとりと消えた。

 

『わたし、今、目閉じてる』

 

「なんで」

 

『見えないから、音だけで想像してる。目を瞑ると鮮明に想像できるでしょ? 防波堤で、律が一人で花火してて、海が真っ暗で、風が吹いてて、ちょっと煙くて、それで、たぶん蚊に刺されてる』

 

「刺されてる」

 

『やっぱり』

 

「あと、花火が湿気ってる」

 

『それは想像したくないな』

 

 俺は少し笑った。

 

 久しぶりに、自分の笑い声を聞いた。

 

 最後の一本は線香花火だった。袋の底に一本だけ残っていた。紙縒りは少し曲がっていて、火薬の玉も頼りなかった。

 マッチを近づけると、小さな火が灯る。最初は静かに丸い光を作り、それから細い火花を散らし始めた。

 

『線香花火?』

 

「ああ」

 

『落とさないでね』

 

「無茶言うな」

 

『落としたら負け』

 

「誰と勝負してるんだよ」

 

『夏と』

 

 その言い方が妙に凪らしくて、俺は黙った。

 

 線香花火はしばらく耐えていた。小さな光の玉が、潮風に揺れながら、ぱち、ぱち、と火花を飛ばす。世界が終わったあとに残された、馬鹿みたいに小さな太陽だった。俺は息を殺して、それを見ていた。

 

 やがて、光の玉は落ちた。

 

「あ」

 

『負けた?』

 

「負けた」

 

『そっか』

 

 凪は笑った。

 

『でも、いい夏だったね』

 

 その言葉を聞いた時、胸の奥が少し痛んだ。

 

 いい夏だった。まるで、もう終わるみたいな言い方だった。

 

 花火の夜から、俺は凪に会いたいと思うようになった。

 

 それは多分、最初からどこかで考えていたことだった。隣町なら、行けない距離ではない。道路の状態は悪いし、水没している場所もあるだろうが、自転車と徒歩を組み合わせれば何とかなる。食料を持って、バッテリーを持って、地図を頼りに進めば、数日で着くはずだ。

 

 だが、俺は行かなかった。

 

 会うのが怖かったのだと思う。

 

 もし凪が本当にいたら、俺はもう一人でいることに戻れなくなる。もし凪がいなかったら、それはそれで何かが完全に終わると思う。どちらにしても、俺の日課は壊れる。生きる理由なんてないと思っていたくせに、いざ少しでも理由みたいなものが生まれると、それを確かめることが怖くなった。

 

 そんな俺の都合など知らず、凪はいつものように言った。

 

『また、君の話を聴かせて』

 

 ある夜、その言葉がノイズに混じって二度繰り返された。

 

『また、君の話を聴かせて』

 

「今、言ったぞ」

 

『え?』

 

「同じこと」

 

『そうだっけ』

 

 凪の声が少し遠くなる。

 

『ごめん。最近、なんか変なんだ。寝不足かな』

 

「寝ろよ」

 

『嫌だって言ってるじゃん。寝たら夜が終わっちゃう』

 

「終わっても、また来る」

 

『……そうかな』

 

「来るだろ」

 

『そうだよね。夏だもんね』

 

 その翌日、俺は行くことを決めた。

 

 準備には半日掛かった。保存食、水、電池、小型バッテリー、工具、ナイフ、雨具、父さんの地図。ラジオは持っていく。送信機も小型のものだけ持った。大きな機材は塔に置いていくしかない。発電機は止めた。管理棟の扉に鍵を掛けたところで、鍵を掛ける意味なんてもうないことに気づいたが、そのままにした。

 

 町を出る時、停止した信号の下を通った。

 

 錆びた自販機の前を通り、草に沈んだ国道を進み、津波避難タワーの脇を抜けた。タワーの上から海を見ると、かつて町だった場所がところどころ水面の下に沈んでいた。屋根だけが島みたいに出ている家。半分だけ見える歩道橋。水の中で揺れている電柱。カモメがその上に止まって、まるで昔からそういう景色だったみたいに鳴いている。

 

 初日はまだ自転車で進めた。二日目には道路が切れていた。橋は落ち、迂回路は水に沈んでいた。俺は自転車を置いて、荷物を背負って歩いた。膝まで水に浸かりながら進む場所もあった。夏の水はぬるく、底の見えないところを歩くのは嫌だった。何かを踏む。沈んだ看板。折れた枝。多分、骨。見なかったことにした。

 

 夜は、廃校になった中学校の二階で眠った。眠る前にラジオをつけると、凪の声は少しだけ入った。

 

『聞こえてる?』

 

「聞こえる」

 

『今日、遠いね』

 

「移動してる」

 

『どこへ?』

 

「そっち」

 

 ノイズが、一瞬だけ鋭くなった。

 

『え?』

 

「会いに行く」

 

『……駄目』

 

 凪の声が、今まで聞いたことのないくらい強くなった。

 

「なんで」

 

『駄目。来ないで』

 

「なんでだよ」

 

『分からない。でも、駄目』

 

「理由になってない」

 

『お願い』

 

 その声は、泣いているようだった。

 

『来ないで。律は、そっちにいて』

 

「もう出た」

 

『戻って』

 

「嫌だ」

 

 自分がそんな風に言うとは思わなかった。俺は大抵のことをすぐ諦める。無理ならやめる。危なければ引く。欲しいものが手に入らなくても、そういうものだと思って済ませる。それなのに、その時だけは戻る気になれなかった。

 

『律』

 

「明日も繋げる」

 

『待って』

 

「またな」

 

 俺はラジオを切った。

 

 暗い教室で一人になると、急に足が震えた。机も椅子も残っている教室だった。黒板には、誰かが最後に書いたらしい文字が残っている。あきらめない。チョークの白い線は湿気で滲み、もう半分消えていた。

 

 笑いそうになった。

 

 世界が終わったあとでも、そういう言葉だけは妙にしぶとい。

 

 三日目の夕方、海浜第三避難所に着いた。

 

 そこは、元々小学校だったらしい。校門は傾き、校庭は膝丈の草と海水の溜まりで斑に沈んでいる。体育館の壁には、避難所と書かれた横断幕がまだぶら下がっていた。白地は灰色に汚れ、赤い文字は潮風で薄くなっている。窓硝子はほとんど割れ、教室の中から蔦が外へ伸びていた。

 

 人の気配はなかった。

 

 当然だ。分かっていた。それでも、俺は何度も周囲を見た。誰かが出てくるのを待つみたいに、体育館の入口や校舎の窓や、給食室らしい建物の影を見た。

 

 誰もいなかった。

 

 コミュニティFM局は校舎の三階にあった。元は放送室か視聴覚室だったのだろう。廊下には段ボール箱が積まれ、床には空き缶やペットボトルが転がっている。

 壁には避難者名簿が貼られていた。名前の横に、移動、死亡、不明、という文字がいくつも書き込まれている。その中に、凪という名前を探したが、名字が分からないので見つけようがなかった。

 

 三階の一番奥。

 

 扉には、手書きで「臨時FM局」と書かれた紙が貼ってあった。

 

 俺はしばらく、その扉の前に立っていた。

 

 ここを開ければ、ひとつの終わりを迎える。

 

 そんな臆病さが顔を出した。

 

 それでも、俺は開けた。

 

 室内は、ひどく暑かった。閉め切られた夏の匂いが、何年も腐らずにそこへ溜まっているみたいだった。

 机の上には小さなミキサー、マイク、ヘッドホン、ノートパソコン、乾電池式のラジオ、紙の束。窓際には枯れた鉢植えが置かれている。壁の時計は、八時五十二分で止まっていた。

 

 床には空き缶が積まれていた。栄養補助食品の袋。薬の空き箱。水のボトル。毛布。

 

 そして、椅子にもたれるようにして、一人の少女だったものがいた。

 

 夏服だけが、まだ彼女の形を覚えていた。

 薄く褪せた布の内側で、白い骨が乾いた音も立てずに沈黙している。肩のあたりに残った髪は潮風と埃に絡まり、顔はもう誰のものでもない白い輪郭だけになっていた。

 それでも、膝の上に置かれた手の骨は、マイクのケーブルを掴もうとした形のまま固まっている。片耳から外れたヘッドホンが首元に引っ掛かり、まるで最後の放送を終えたあと、そのまま少し眠ってしまっただけみたいだった。

 

 ただ、眠っていると言うには、あまりにも長い時間が過ぎていた。

 

 俺は吐かなかった。吐けなかった。

 ただ、息の仕方が分からなくなった。

 

「……凪」

 

 答えはなかった。

 

 机の上のノートを開いた。几帳面な字で、放送記録が残っていた。

 

 八月三日。十九時より放送。応答なし。

 

 八月四日。十九時より放送。応答なし。

 

 八月五日。発熱。咳。放送短縮。応答なし。

 

 八月六日。薬残り少ない。応答なし。

 

 八月七日。おじいちゃん死亡。応答なし。

 

 八月八日。誰か生きてる人がいるなら返事をください。応答なし。

 

 八月九日。声が出にくい。応答なし。

 

 八月十日。また明日。応答なし。

 

 そこで記録は途切れていた。

 

 ノートの隅に、別の文字で小さく書かれていた。

 

 また、君の話を聴かせて。

 

 俺はその文字を見て、ようやく膝から力が抜けた。

 

 床に座り込む。埃が舞う。窓の外では蝉が鳴いている。あのラジオの向こうで聞こえていたのと同じ、やけに鮮明な蝉の声だった。何年も前に止まったはずの夏が、ここだけでまだ鳴っているみたいだった。

 

 発電機を探した。

 

 隣の準備室に、小型のものが置かれていた。燃料は空だった。コードは抜けている。バッテリーも死んでいた。ノートパソコンは起動しない。送信機材も、電源が入る状態ではなかった。

 

 つまり、今の凪が喋れるはずはなかった。

 

 録音なら、まだ分かる。だが録音ではなかった。彼女は俺の名前を呼んだ。俺の話に答えた。花火の音を聞いた。来るなと言った。録音にそんなことができるはずがない。

 

 俺は父さんの言葉を思い出した。

 

 見えない声が空を渡る。

 

 空の鏡で跳ね返る。

 

 誰も聞かない周波数で、歌い続ける鯨。

 

 でも、それでは説明にならない。説明にならないことが、この部屋には静かに座っていた。夏服の少女の形をして。止まった時計の針の下で。もう何年も前に終わったはずの夜を、まだ抱えたまま。

 

 俺は、凪を埋めなかった。

 

 埋める場所も、道具も、体力もなかった。何より、その椅子から彼女を動かしてしまうことが、ひどく間違っているように思えた。だから毛布を掛けた。机の上に散らばっていた紙を整え、マイクを元の位置に戻し、ヘッドホンをそっと机に置いた。

 

 それだけだった。

 

 その夜、俺はFM局の床でラジオを抱えていた。

 

 繋がるわけがないと思った。

 

 凪はここにいる。もう喋らない。何年も前に死んでいる。発電機は止まっている。送信機材は死んでいる。なら、声は出ない。出るはずがない。これ以上、何を期待しているのか、自分でも分からなかった。

 

 それでも、夜になれば、俺はラジオの電源を入れた。

 

 ざあ、とノイズが流れた。

 

 波の音に似ていた。

 

 蝉の声が混じる。

 

 俺は膝を抱え、額を腕に押しつけた。

 

 数分なのか、数十分なのか分からない時間が過ぎた。

 

 そして。

 

『……聞こえてる?』

 

 俺は顔を上げた。

 

 心臓が止まるかと思った。

 

『律?』

 

 声は、いつもの凪だった。

 

 ノイズに削られて、ところどころ掠れていて、それでも確かに、俺の知っている凪だった。

 

「聞こえてる」

 

『よかった。今日、遠かったから』

 

「……ああ」

 

『ちゃんと帰れた?』

 

 俺は部屋の中を見た。毛布を掛けられた椅子。止まった時計。空き缶。マイク。もう動かない発電機。

 

 喉の奥が痛かった。

 

「まだだ」

 

『そっか』

 

 凪は少し黙った。

 

『ねえ、律』

 

「なんだ」

 

『わたし、何か忘れてる気がする』

 

「……そうか」

 

『大事なことだった気がする。でも、思い出そうとすると、ノイズがひどくなるの』

 

「無理に思い出さなくていい」

 

『いいの?』

 

「ああ」

 

『じゃあ、律の話を聴かせて』

 

 俺は答えられなかった。

 

 いくらでも話せるはずだった。ここまで来る途中に見た水没した道のこと。廃校の黒板のこと。津波避難タワーから見た海のこと。凪のいた部屋のこと。ノートのこと。花火のこと。父さんが昔話していた五十二ヘルツの鯨のこと。

 

 でも、どれも声にならなかった。

 

『律?』

 

「俺は」

 

 言葉が詰まる。

 

「俺は、会いに来た」

 

『うん』

 

「でも、会えなかった」

 

 ノイズが深くなる。

 

『そっか』

 

 凪の声は、静かだった。

 

『ごめんね』

 

「謝るな」

 

『でも、ごめん』

 

「謝るなって」

 

『うん』

 

 ラジオの向こうで、凪が少しだけ笑った。

 

『律は優しいね』

 

「違う」

 

『違わないよ』

 

「違う。俺は、もっと早く行けばよかった」

 

『それは違う』

 

 凪の声が、はっきりした。

 

『律が返事してくれた夜、わたしはちゃんと嬉しかったよ』

 

「でも」

 

『花火も聞けた』

 

「でも、お前は」

 

『わたしは、たぶん、ずっと一人で喋ってたんだと思う。誰も返事しなくて、それでも、誰かいるかもしれないって思って、毎晩喋ってたんだと思う』

 

 蝉の声が、ノイズの奥で鳴っている。

 

『だから、律が聞いてくれたなら、それでいいよ』

 

 俺は唇を噛んだ。

 

 泣いたのかもしれない。自分ではよく分からなかった。ただ、目の奥が熱くて、喉が苦しかった。

 

『また、君の話を聴かせて』

 

 その言葉だけが、いつもと同じだった。

 

 翌朝、俺はFM局を出た。

 

 帰り道は、行きより長く感じた。荷物は少し軽くなっていたのに、体は重かった。水没した道を戻り、廃校で一晩眠り、落ちた橋の横を迂回し、草に沈んだ国道へ出る。俺の町が見えた時、何故か安心した。何も変わっていない町だった。停止した信号。錆びた自販機。蔦に蝕まれた建物。夜を待つ港。潮風。カモメ。遠雷。誰もいないのに、自然音だけが大きい町。

 

 電波塔の管理棟へ戻ると、鍵は掛かったままだった。

 

 俺は扉を開け、荷物を置き、しばらく床に座った。

 

 生きる理由は、相変わらずよく分からなかった。

 

 ただ、死ぬ勇気がないだけ、という言い方は、少し違う気がした。

 

 夜、防波堤へ行った。

 

 ラジオを膝に置き、送信機を横に置く。潮風が肌に張りつく。遠くで雷が鳴っている。港の倉庫の影は濃く、海は黒い。蝉はまだ鳴いていた。八月の終わりのくせに、夏は往生際が悪かった。

 

 ノイズ。

 

 波の音。

 

 蝉。

 

 ざあ、ざざ、とラジオが揺れる。

 

 俺は空を見上げた。

 

 雲の切れ間から、星が見えた。昔より空は暗い。人間の明かりが減ったせいで、星だけは馬鹿みたいによく見えるようになった。皮肉な話だと思う。世界が壊れて、ようやく空が綺麗になった。

 

『ねえ』

 

 凪の声がした。

 

「なんだ」

 

『そっちは、まだ夏?』

 

 俺は少しだけ笑った。

 

「……ああ。まだ終わってない」

 

『そっか』

 

 ノイズが柔らかく揺れた。

 

『こっちも、蝉が鳴いてる』

 

「知ってる」

 

『うるさいよね』

 

「うるさい」

 

『でも、静かよりいいね』

 

「そうだな」

 

 遠雷が低く鳴った。水平線の向こうで、雲の腹が白く光る。風はぬるい。花火の煙はもうどこにもないのに、あの夜の匂いが少しだけ残っている気がした。

 

「凪」

 

『なに?』

 

「また話す」

 

『うん』

 

「明日も」

 

『うん』

 

「その次も」

 

『うん』

 

 少し間があって、凪が笑った。

 

『律、急に喋るじゃん』

 

「悪いか」

 

『悪くないよ』

 

 空に、光が走った。

 

 一つ。二つ。三つ。

 

 誰も見ていないのが惜しいほど綺麗な流星群だった。あとで考えれば、時期外れのオリオン座流星群だったのかもしれない。季節も、暦も、もう俺には正確に分からない。ただ、その瞬間だけ、終わった世界の空を、いくつもの光が音もなく流れていった。

 

「流れ星」

 

『見えるの?』

 

「ああ」

 

『いいな』

 

「説明する」

 

『うん。聴かせて』

 

 俺は空を見ながら、流星の数を数えた。どの方角から来て、どれくらい明るくて、どれくらいすぐ消えていくのかを、できるだけ丁寧に話した。凪は時々、うん、と相槌を打った。見えないはずの光を、彼女はきっと目を閉じて想像している。

 

 ラジオの向こうで、少女が笑った気がした。

 

 その声は遠く、ひどく遠く、けれど確かに届いていた。

 

 誰にも聞こえない周波数で鳴いていた鯨が、ようやく一度だけ返事をもらったみたいに。

 

 八月の風は、まだぬるかった。

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