八月、空に塗る【短編集】   作:あおい そら

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「おはよう」
『おはようございます、澪』


3.『区域内確認生存数、一名』

 午前七時になると、街はまだ市民がいるふりをする。

 

『本日の天候は快晴。紫外線量は基準値内。現在水位、旧地表面より百四十七メートル。第三区画、第七封鎖区域において隔壁損傷を確認。市民の皆様は係員の指示に従い、速やかに避難してください』

 

 係員なんて、もうどこにもいない。

 

 避難する場所も、たぶん残っていない。

 

 それでも、錆びたビルの屋上に取り付けられた拡声器は、毎朝同じように明るい声を降らせる。海になった通りへ。窓だけが水面から突き出た高層ビルへ。かつて駅だったらしい、魚の寝床になった巨大な鉄骨の穴へ。

 

『区域内確認生存数、一名』

 

 澪は釣り糸を垂らしたまま、舟の縁に頬杖をついていた。

 

 その言葉にも、もう慣れていた。天気や水位と同じだ。晴れ。百四十七メートル。一名。街が毎朝、世界の状態を読み上げているだけで、そこに慰めも悪意もない。都市管制AIに心はない。ただ、壊れていない機械が壊れていない部分だけを動かし続けている。

 

 青空は、今日も腹が立つくらい綺麗だった。

 

 雲一つない空が海面に映って、沈んだ都市の窓硝子と混ざっている。水は深く、青く、その下には道路も信号も店も家も眠っている。ときどき、古代魚みたいに大きな魚影がビルとビルの間を悠然と横切った。鱗は錆びた看板の光を拾って鈍く光り、尾びれが動くたび、舟の下へ遅れた波が届く。

 

 澪はその魚を釣ろうとは思わなかった。あれは食べ物というより、沈んだ街に住みついた神様みたいなものだ。釣るなら、もっと小さくて、骨の少ないやつがいい。

 

「……今日も一人、ね」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いて、澪は糸を巻いた。

 

 古い浄水器のフィルターが限界だった。屋上の貯水タンクに溜めた雨水はそのままだと腹を壊すし、海水を蒸留するにも燃料がいる。予備のフィルターは先月使い切った。だから今日は、第七封鎖区域へ行くしかない。

 

 都市管制AIが立入禁止と決めた場所だった。

 

 決めた理由は、たぶん崩壊前と変わっていない。危険だから。市民の安全を守るため。けれど、守るべき市民はもう一人しかいないし、その一人はそこへ行かなければ水を飲めない。

 

 澪は小型エンジンを叩き起こし、細い舟を水路へ滑らせた。

 

 ビルの屋上から屋上へ渡された古い電線の下をくぐる。水没した信号機の先端に海鳥が止まっていた。遠くのタワーマンションの上層階では、自動清掃ドローンがまだ窓を拭いている。住人のいない部屋を、誰も見ない景色のために磨き続けている。その向こうで、立入禁止区域の警告灯が赤く瞬いた。

 

『この先、第七封鎖区域。一般市民の立ち入りは禁止されています。直ちに退去してください』

 

「はいはい」

 

 澪は返事だけして、壊れた自動改札みたいなゲートの横をすり抜けた。

 

 区域の内側は、外よりも静かだった。水面には剥がれた外壁材や、樹脂製の椅子や、もう読めないポスターが浮いていた。高層商業施設の上半分が、島のように残っている。下層階は完全に水没していて、吹き抜けだった部分に海が入り込み、青い光が天井の裏側で揺れていた。

 

 澪は舟を固定し、酸素ボンベと工具袋を背負った。

 

 水に入ると、世界の音が変わった。

 

 アナウンスも風も消えて、代わりに自分の呼吸だけが耳の内側で響く。沈んだエスカレーターの上を、小さな魚の群れが銀色の布みたいに流れていった。売場の案内板には、婦人服、生活雑貨、キッズフロア、と文字が残っている。全部、魚には関係のない言葉だった。

 

 澪は目的のメンテナンス室へ向かうつもりだった。

 

 けれど、途中で光を見つけた。

 

 水没を免れた上階の、硝子天井の割れ目から真っ直ぐ陽が落ちている。そこだけ海面がきらきらと揺れ、廃墟の奥に青い水の反射が踊っていた。澪はなぜか目を離せなくなって、予定の通路を外れた。

 

 そこは、崩壊前の展示スペースだったらしい。

 

 白い床は汚れ、壁の広告は剥がれ、天井から吊るされていた飾りはほとんど落ちていた。けれど中央に置かれた透明な展示ケースだけは、奇跡みたいに形を残していた。

 

 その中に、女が眠っていた。

 

 いや、人間ではない。近づけばすぐに分かった。頬の端の肌パーツが剥がれて、白い人工筋繊維と銀色の骨格が覗いている。首筋には古い端子があり、左腕の肘から先は外装が砕けていた。それでも、長い黒髪は水に濡れたみたいに艶やかで、閉じた睫毛は本物の人間のものみたいに柔らかかった。

 

 廃墟に差し込む陽光と、青い水面の照り返し。

 

 世界が終わったあととは思えないくらい、綺麗だった。

 

「……部品取り、できるかな」

 

 澪はそう言った。

 

 そう言わないと、触れなかった。

 

 展示ケースは半分壊れていて、ロックも死んでいた。澪は工具で蓋をこじ開け、女型アンドロイドの首元に触れた。冷たい。重い。けれど胸部装甲の奥に、小さな反応があった。完全には死んでいない。

 

 澪はしばらく黙っていた。

 

 浄水器のフィルターは見つかっていない。バッテリーも必要だ。使える部品なら、外して持ち帰るべきだった。そうすれば数日は楽になる。生きているのは自分一人で、街のすべてはもう残骸で、残骸は使うためにある。

 

 それなのに、澪はアンドロイドを舟まで運んだ。

 

 理由は、分からなかった。

 

 家と呼んでいる場所は、旧市役所の屋上階だった。議会室だった部屋を改造して、寝床と作業台と貯水タンクを置いている。壁には古いハザードマップが貼られていて、赤く塗られた浸水想定区域は、もう何の役にも立たなかった。全部沈んでいるからだ。

 

 澪は三日かけて、アンドロイドを修理した。

 

 足りない部品は昔拾った家電から抜いた。焼き切れた回路は迂回させ、劣化した人工皮膚は剥がれたままにした。胸部の補助電源に電流を流した瞬間、アンドロイドの指先が微かに動いた。

 

 澪は椅子から転げ落ちそうになった。

 

 アンドロイドはゆっくり目を開いた。黒い瞳が天井を見て、壁を見て、最後に澪を見た。虹彩の奥で、古い機械の光が一度だけ瞬いた。

 

「おはようございます。現在時刻を取得できません。ネットワーク接続に失敗しました。あなたの保護者はどちらですか」

 

 澪は瞬きをした。

 

「いないけど」

 

「登録保護者不在。周辺成人個体を検索します」

 

「無駄だよ」

 

「検索に失敗しました。周辺に成人個体を確認できません。では、暫定的に私が生活補助を行います」

 

「は?」

 

 アンドロイドは上体を起こそうとして、途中で左腕の不調に気づいたように止まった。それから、壊れた腕を隠すでもなく、澪のほうへ真面目な顔を向けた。

 

「まず、濡れた髪を乾かしてください。体温低下の危険があります」

 

「第一声、それ?」

 

「朝食の摂取状況を確認します」

 

「食べてない」

 

「推奨されません」

 

 澪は少しだけ笑った。

 

 笑った自分に驚いた。

 

 アンドロイドの型番は、胸部の内側に残っていた刻印から読めた。NOA-07。家庭支援用統合生活補助機。旧時代の子育て世帯や高齢者向けに作られた、ありふれた旧モデルらしい。

 

 澪は彼女をノアと呼ぶことにした。

 

 ノアは、ひどく面倒な同居人だった。

 

「潜水後の装備整備が不十分です」

 

「あとでやる」

 

「あとで、は具体的な時刻ではありません」

 

「うるさいな」

 

「睡眠時間が不足しています。十四歳から十七歳の推奨睡眠時間は――」

 

「年齢、勝手に決めないで」

 

「外見、骨格成長率、発声、行動傾向から推定しています」

 

「そういうところが嫌」

 

 澪が釣った魚をそのまま焼こうとすれば、ノアは内臓処理と加熱時間を指示した。澪が濡れた服のまま床で寝ようとすれば、ノアは毛布を持ってきた。澪が夜更けに物資の整理をしていると、照明を落として休息を要求した。

 

 世界が終わってから、そんなことを言う相手はいなかった。

 

 澪は最初、鬱陶しいと思った。次に、腹が立った。沈んだ街の上で、学校だの栄養だの生活習慣だのを説かれることが、ひどく馬鹿らしかった。

 

 けれど、ノアが朝食を作るために錆びた調理器具を磨いている背中を見ると、どうしても怒鳴れなかった。

 

 それは、もうこの世界に必要ないはずの仕草だった。

 

 誰かのために湯を沸かす。誰かのために皿を並べる。誰かのために、危ないからやめろと言う。

 

 そういうものは、海と一緒に沈んだと思っていた。

 

 ある朝、いつものようにアナウンスが鳴った。

 

『本日の天候は快晴。現在水位、旧地表面より百四十七メートル。第七封鎖区域の危険度は継続して高水準。区域内確認生存数、一名』

 

 澪は焼いた魚を箸でほぐしながら、屋上の縁に座っていた。隣にはノアがいた。彼女は食事を必要としないのに、澪の正面に座ることを好んだ。監視しやすいから、という理由らしい。

 

「一名だって」

 

 澪は言った。

 

「私は生存数に含まれません。登録種別は生活補助機です」

 

「知ってる」

 

「訂正申請を行うにはネットワーク接続が必要です」

 

「しなくていいよ」

 

 澪は魚を口に入れた。少し焦げていた。ノアが焼いたものより、ずっと雑な味がした。

 

「一人なのは、変わらないから」

 

 ノアはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙が、機械の処理待ちなのか、それとも何か別のものなのか、澪には分からなかった。

 

「あなたの生活補助を継続します」

 

「そういう話じゃない」

 

「はい。ですが、継続します」

 

 澪は箸を止めた。

 

 ノアは相変わらず真面目な顔をしていた。頬の端の剥がれた肌パーツの下で、細い人工筋繊維が陽を受けて白く光っている。その姿は綺麗で、痛々しくて、どうしてか少し腹が立つ。

 

「ノア、部品が足りてないんでしょ」

 

「日常動作に重大な支障はありません」

 

「嘘」

 

「厳密には、左上肢駆動部、冷却系、補助記憶領域、胸部電源制御器に劣化があります」

 

「重大じゃん」

 

「あなたの生活補助には支障ありません」

 

 澪は顔をしかめた。

 

 その日の午後、澪は一人で第七封鎖区域へ向かった。

 

 ノアには言わなかった。言えば止められるに決まっている。胸部電源制御器に合う旧規格の部品は、たぶんあの商業施設のさらに奥、メンテナンスセンターにある。浄水器のフィルターも、まだ探せていない。

 

 街は快晴だった。

 

 青空はどこまでも高く、水面は眩しかった。だから油断した。封鎖区域の内側で、古い防災システムが動いていることを忘れていた。

 

『第七封鎖区域に不正侵入を確認。市民の安全確保のため、防水隔壁を閉鎖します』

 

「待って、馬鹿!」

 

 叫んだときには遅かった。

 

 施設の奥で、錆びた隔壁が落ちた。水が押し出され、逆に別の通路へ流れ込む。澪は工具袋を抱えたまま、半分水没したバックヤードに閉じ込められた。足元の水位がゆっくり上がっていく。天井まではまだ余裕がある。けれど、出口は隔壁の向こうだ。

 

 都市管制AIの声が、壁のスピーカーから明るく響いた。

 

『安全確保が完了しました。市民の皆様は係員の到着までその場で待機してください』

 

「来ないってば」

 

 澪は隔壁を叩いた。びくともしなかった。

 

 古い制御盤を開ける。錆びている。電源は生きているが、操作には認証が必要だった。澪は工具で無理やり端子を繋ごうとした。指が滑り、火花が散った。水面が足首から膝へ上がる。

 

 怖くないと思っていた。

 

 一人で潜って、一人で釣って、一人で眠ってきた。危ない場所にも何度も入った。自分はそういうふうに生きてきたのだと、澪は思っていた。

 

 けれど、胸が詰まった。

 

 死ぬことよりも、明日の朝またあの声が「区域内確認生存数、零名」と告げることを想像して、急に息が苦しくなった。誰も聞かない報告。誰も悲しまないはずの数字。青空の下で、無機質な街だけが淡々と現状を確認する。その筈なのに、脳裏にはあの世話焼きの姿がよぎった。

 

「……ノア」

 

 呼んでも、届くはずがなかった。

 

 でも、そのとき、隔壁の向こうで音がした。

 

 金属を殴るような、鈍い音だった。一度。二度。三度。次に、警告音が鳴った。隔壁の隙間から水が噴き、歪んだ鋼板が少しずつ持ち上がる。

 

 向こう側に、ノアがいた。

 

 右腕だけで隔壁の非常ハンドルを回していた。左腕はほとんど動いていない。黒髪は濡れ、剥がれた頬の下で赤い警告灯が点滅している。それでも、彼女はいつもの真面目な顔で澪を見た。

 

「外出時刻と目的地の申告がありませんでした」

 

「……今、それ言う?」

 

「非常に重大な規則違反です」

 

「ごめん」

 

「謝罪は救助後に受理します。こちらへ」

 

 澪は笑いそうになった。泣きそうにもなった。

 

 隔壁の隙間をくぐる瞬間、水圧で身体が流された。ノアが右腕を伸ばし、澪の手首を掴む。強い力だった。機械の力。けれどその手は、驚くほど必死に思えた。

 

 直後、天井の一部が崩れた。

 

 濁った水が落ち、視界が泡で白くなる。澪は息を止め、ノアに引かれるまま通路を抜けた。途中で巨大な魚影が割れた窓の外を横切った。青黒い体が廃墟の硝子を擦り、施設全体が低く震えた。

 

 外へ出たとき、空はまだ青かった。

 

 舟の上に引き上げられた澪は、咳き込みながら甲板に倒れた。ノアはその隣に膝をついた。胸部の奥から、焦げたような臭いがした。

 

「ノア、壊れた?」

 

「稼働継続可能です」

 

「本当?」

 

「厳密には、胸部電源制御器の劣化が進行しました。左上肢の使用は推奨されません。補助記憶領域に軽微な欠損があります」

 

「それ、壊れたって言うんだよ」

 

「あなたの生活補助には支障ありません」

 

 澪は濡れた前髪を握った。

 

「なんで来たの」

 

「あなたが帰宅予定時刻を過ぎても戻らなかったためです」

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

「嘘」

 

 ノアは澪を見た。

 

 空の色が、彼女の黒い瞳に小さく映っていた。

 

「区域内確認生存数は、一名です」

 

 ノアは言った。

 

「その一名を失わせることは、許容できません」

 

 澪は何も言えなかった。

 

 帰りの舟は、ゆっくり進んだ。

 

 水没した都市の間を、夕方の光が満たしていた。ビルの窓は金色に燃え、海面の下では魚たちが暗い影になって泳いでいる。遠くで、使う者のいない観覧車の上半分が水面から突き出していた。世界の終わりは、どうしてこんなに綺麗なのだろうと澪は思った。

 

 市役所の屋上へ戻ると、ノアは澪に毛布をかけ、濡れた髪を拭き、温かい飲み物を作ろうとした。胸の奥で警告灯を点滅させながら、当然みたいにそうした。

 

「いいよ、休んで」

 

「私は休息を必要としません」

 

「必要でしょ」

 

「生活補助を優先します」

 

「じゃあ命令」

 

 澪は毛布を握ったまま、ノアを睨んだ。

 

「今日は隣に座ってて。何もしなくていいから」

 

 ノアは少しだけ首を傾けた。

 

「それは生活補助に該当しますか」

 

「する」

 

「了解しました」

 

 ノアは澪の隣に座った。

 

 二人はしばらく黙っていた。街には夜が降りていく。日中だけ鳴るアナウンスは止まり、代わりに波の音と、どこかで軋む建物の音だけが聞こえた。澪は、誰かが隣にいる夜の静かさを初めて知った。

 

 翌朝、午前七時。

 

 街はまた、市民がいるふりを始めた。

 

『本日の天候は快晴。紫外線量は基準値内。現在水位、旧地表面より百四十七メートル。第七封鎖区域の防水隔壁に動作不良を確認。市民の皆様は立ち入りをお控えください』

 

 澪は屋上の縁で釣り竿を直していた。隣ではノアが、片腕だけで器用に釣り針の数を確認している。

 

『区域内確認生存数、一名』

 

 いつもの声だった。

 

 澪は空を見上げた。

 

 青かった。世界が終わる前の青空を、澪は知らない。だから比べようがない。けれど今、自分の上にある空は、廃墟にも、海にも、壊れた機械にも、たった一人の人間にも、同じように光を落としていた。

 

 少し遅れて、拡声器が短い雑音を吐いた。

 

『非登録稼働支援個体、一機を確認。登録情報が不足しています。市民の皆様は最寄りの行政窓口にて手続きを行ってください』

 

 行政窓口なんて、もう海の底だ。

 

 澪は笑った。

 

「だってさ。手続きしろって」

 

「必要書類の取得が困難です」

 

「じゃあ、しばらく非登録だね」

 

「推奨されません」

 

「はいはい」

 

 澪は舟のロープをほどいた。

 

 今日は遠くへ行くつもりはなかった。第七封鎖区域にも行かない。屋上の近くで小さな魚を釣って、昼には戻って、ノアの左腕をもう少しまともに直す。それから浄水器のフィルターを分解して、洗えるところまで洗う。できれば夜は、ノアがうるさいので早めに寝る。

 

 そんな予定があることを、澪は少し不思議に思った。

 

 この前まで、明日はただ来るものだった。今日と同じように、青く、静かで、一人のものだった。

 

 けれど今は違う。

 

「ノア、釣りする?」

 

「経験データがありません」

 

「教えるよ」

 

「危険性はありますか」

 

「たぶん、そんなに」

 

「たぶん、は安全基準として不適切です」

 

「じゃあ、私が生活補助する」

 

 ノアは黙った。

 

 澪は舟に乗り、手を差し出した。ノアはその手を見て、それから澪の顔を見た。壊れかけの旧型アンドロイドは、いつものように真面目な顔で、けれど少しだけ迷うように指を動かした。

 

 やがて、その手を取った。

 

 舟が水面を離れる。

 

 沈んだ都市の間を、朝の光が満たしていく。古いビルの谷間を、巨大な魚がゆっくり泳いでいる。屋上の拡声器はもう黙っていた。それでも澪の耳には、さっきの声がまだ残っていた。

 

 区域内確認生存数、一名。

 

 非登録稼働支援個体、一機。

 

 数字は、世界を救わない。街も戻らない。海は引かないし、沈んだ人たちが帰ってくることもない。

 

 それでも澪は、釣り糸を青い水面へ投げた。

 

 隣でノアが、危険姿勢です、と小さく注意した。

 

 澪は笑って、少しだけ姿勢を直した。

 

 世界が終わったあとの朝は、今日もどうしようもなく綺麗だった。

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