夏という言葉を、俺たちは映像でしか知らなかった。
地下第七居住区の教育端末に保存されている旧地上資料では、夏は青いものとして記録されていた。
青い空、青い海、白い雲、緑色の山、風に揺れる向日葵、蝉の声、溶けかけた氷菓子、夕立の匂い、制服の袖をまくった少年少女たち。
どれもこれも、硝子越しに見せられる水槽の魚みたいに遠かった。
俺たちはそれを歴史の一部として学び、喪失の記録として暗記し、試験では「二十一世紀中期以降、急激な地表温度上昇と水資源循環の破綻により、人類の主要生活圏は地下へ移行した」と書けば点がもらえた。
だから、夏が暑いということは知っていた。けれど知っているだけだった。
冷却管の走る天井の下で暮らす俺たちにとって、暑さとは空調設備の故障であり、警報であり、管理局に通報すべき異常値だった。
汗をかくことは体調不良の前触れで、日焼けは教科書の写真に載っている昔の人類の特徴で、空というものは厚さ六メートルの隔壁と人工照明のさらに向こうにある、取り戻す予定のない概念だった。
その年の六月、地下暦八十七年、俺たちの学年に地上観測任務の通達が降りた。
「地上観測任務、ですか」
教室の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
担任の宮代教官は、いつも通り表情を変えずに電子黒板の前へ立っていた。
背後の画面には、白く劣化した沿岸都市の衛星写真と、赤い文字で表示された警告文が並んでいる。
地表平均温度、紫外線量、熱傷危険指数、呼吸可能時間、滞在許容範囲。
数字だけを見れば、そこは人間が行く場所ではなかった。
「観測期間は七月二十日から八月三十一日まで。対象は旧関東沿岸部、第三湾岸廃棄都市群。参加者は適性検査の上、各クラスから二名。君たちは、地下都市移行後の世代として初めて、そしておそらく最後に、夏季地上環境を有人観測することになる」
最後、という言葉に何人かが息を呑んだ。
俺は机の下で、手のひらを握った。怖かったわけではない。感動したわけでもない。
ただ、その言葉があまりにも綺麗に聞こえたことが、少しだけ嫌だった。
最後の地上。最後の夏。最後の観測。大人たちはいつも、終わっていくものに名前をつけるのがうまい。そうすれば、それが失敗や撤退ではなく、何か意味のある儀式みたいに見えるからだ。
「希望者は本日中に申請を出すように。なお、観測任務は進学評価にも反映される。危険はあるが、地下圏環境庁の全面管理下で実施されるため、過度な心配は不要だ」
その言い方が、いかにも地下らしかった。
危険はある。けれど管理されている。世界は壊れた。けれど記録されている。人類は地上を捨てた。けれど撤退とは言わない。俺たちはいつだって、言葉と扉と冷却装置に守られて生きている。
授業が終わると、教室は急に騒がしくなった。
「行く? お前、行く?」
「いや無理だろ。地上だぞ。普通に死ぬじゃん」
「でも進学評価つくって。環境庁の推薦枠、これほぼ確定じゃない?」
「本物の空、見れるんだろ」
誰かがそう言った瞬間、空気の質が変わった。
本物の空。
その言葉だけは、地下の子供にとって特別だった。
俺たちは人工空を見て育つ。居住区の天井には時間帯に応じて空色の映像が映し出され、朝には薄青く、昼には白く、夜には星が投影される。けれど
それは照明で、天井で、設備だった。雨は配水管の中を流れ、風は循環装置から吹き、星は電力消費量に応じて明るさを落とす。
俺は窓のない教室で、天井の青を見上げた。そこに映っている雲は、三十年前から同じ形をしている。
「悠真」
名前を呼ばれて振り向くと、隣の席の透が椅子の背に顎を乗せてこちらを見ていた。
「お前、行きそうな顔してる」
「どんな顔だよ」
「自分では興味ないふりしてるけど、あとでこっそり申請出す顔」
「そんな顔はない」
「ある。お前、旧地上資料好きだろ」
「好きじゃない。見てただけ」
「それを好きって言うんだよ」
透はそう言って笑った。俺は何も返さなかった。否定するには、少しだけ時間がかかりすぎていた。
その日の夜、俺は居住区の共有端末から申請書を提出した。
理由欄には「有人観測記録の精度向上に貢献したいため」と書いた。
我ながら薄い言葉だった。けれど本当の理由なんて、もっと薄かった。
空を見てみたい。海を見てみたい。夏というものが、本当に青いのか知りたい。ただ、それだけだった。
適性検査は三日続いた。
耐熱訓練、呼吸補助装置の装着、冷却服の緊急交換、地上生物への対応、旧都市構造物の崩落予測、熱射病の初期症状、帰還命令への絶対服従。
最後の項目だけが、やけに強く念を押された。
「任務中、管制より帰還命令が下った場合、観測中の対象、同行者の意向、未回収データの有無にかかわらず、即時撤収すること。これは規則ではなく、生存条件だ」
宮代教官は俺たちを一人ずつ見た。
「地上では、人間の判断より環境の変化が早い。迷えば死ぬ。助けようとしても死ぬ。記録を残そうとしても死ぬ。だから帰れと言われたら帰る。それだけは覚えておけ」
その時はまだ、その言葉の意味を俺はほとんど理解していなかった。
七月二十日、地上行き昇降塔の前には、選抜された生徒十二名と引率官、環境庁の観測員たちが集められていた。
昇降塔は地下第七居住区の端にあり、普段は三重の隔壁で封鎖されている。
壁面には古い標語が残っていた。地上は過去であり、地下は未来である。誰が考えたのか知らないが、ひどく寂しい言葉だと思った。
冷却服は重かった。背中の循環装置が低く唸り、首筋に触れる冷媒管が皮膚の熱を奪っていく。
透明なヘルメット越しに見る仲間たちの顔は、宇宙服を着た歴史資料の人間に少し似ていた。
俺たちは地上に行くのではなく、別の惑星に降り立つみたいだった。
「緊張してる?」
隣で透が言った。彼も選抜に通っていた。
「少し」
「正直でよろしい」
「お前は」
「めちゃくちゃしてる。今なら帰っても笑わないでほしい」
「笑う余裕があったら笑う」
「性格悪いな」
透の声は軽かったが、指先が微かに震えていた。
俺も同じだった。怖いというより、これから触れるものの大きさが分からなかった。
生まれてから一度も出たことのない世界の外側へ行く。そんなことを、人間の体はうまく想像できない。
警告灯が黄色から青へ変わった。昇降床がわずかに震え、足元から低い駆動音が響く。
「地上観測班、昇降開始」
管制の声が聞こえた。
隔壁が閉じる。地下の光が遮られる。胸の奥で、何かがゆっくりと沈んだ。
昇降塔は長かった。数分なのか、十数分なのか分からない時間、俺たちは無言で上昇し続けた。
壁面の表示が、地下百二十メートル、八十メートル、四十メートルと減っていく。
気圧調整の音が耳の奥で鳴り、冷却服の内側に汗が滲んだ。
人工照明が少しずつ弱まり、代わりに天井の隙間から白い光が差し込んできた。
最初、それを光だとは思わなかった。
あまりにも強すぎた。白く、硬く、まるで世界そのものが発熱しているようだった。
地下の照明は人間のために調整されている。目を刺さず、影を作りすぎず、眠りを妨げない。
けれど地上の光は違った。こちらを気遣うつもりなど少しもなく、ただそこにあるだけで、圧倒的だった。
最後の隔壁が開いた。
熱が来た。
ヘルメット越しでも分かった。
冷却服の数値が跳ね上がり、背中の循環装置が唸りを強める。
喉の奥が反射的に縮み、目の前の景色が一瞬だけ白く潰れた。
俺は反射的に腕を上げ、遮光バイザーの濃度を上げた。
そこに、空があった。
青い、とは言えなかった。
白に近い青だった。焼けた金属の表面みたいに眩しく、遠くへ行くほど色を失い、雲は輪郭を崩して光の中に溶けていた。
けれど、それでも空だった。天井ではなかった。
照明でも映像でもなかった。どこまでも上があり、手を伸ばしても届かず、終わりが見えない。俺はその広さに、軽い吐き気を覚えた。
「これが……」
誰かが言った。
その先は続かなかった。
地上は、静かだった。
旧湾岸都市は海から吹く熱風に晒されて、建物の表面を白く褪せさせていた。
高層ビルの窓はほとんど割れ、道路には砂と塩が積もり、信号機は黒く焦げたまま傾いている。
遠くの高架線は途中で途切れ、線路の上には枯れた蔦が絡んでいた。
人間のいなくなった街は廃墟というより、巨大な標本に見えた。かつて生活だったものが、熱と光でゆっくり乾かされ、透明な箱に入れられたみたいだった。
それでも、夏だけは残っていた。
どこかで蝉が鳴いていた。
実際には蝉に似た耐熱昆虫の音かもしれないと観測員が説明していたが、俺にはどうでもよかった。
耳の奥を痺れさせるその声は、旧地上資料で聞いたものよりずっと荒く、ずっと近く、そして信じられないくらい生々しかった。
アスファルトの割れ目からは背の低い草が伸び、バス停の屋根の下には乾ききった落ち葉が溜まっている。
錆びた自動販売機の側面に、古い飲料広告の少女が笑っていた。
色褪せた彼女の頬には、誰かが昔貼ったらしい星形のシールが残っていた。
「相羽悠真、バイタル確認」
管制の声で我に返る。
「心拍上昇。呼吸数、許容範囲内。応答しろ」
「相羽、問題ありません」
「視界異常は」
「ありません」
「初回曝露による眩暈の可能性がある。三分間、地点Aで待機」
俺は指示通り、昇降塔の影に入った。影の中ですら暑かった。
地上の熱は、空気の温度だけではなかった。壁も、道路も、錆びた手すりも、街そのものが昼の間に吸い込んだ光を吐き続けている。
地下では熱は取り除かれるものだった。ここでは熱が、世界を構成している。
観測任務の初日は、昇降塔周辺の安全確認と基礎データの取得だけで終わる予定だった。
生徒たちは三班に分けられ、旧駅前区画、海岸側防潮堤、学校施設跡の順に観測地点を巡る。
俺と透は、旧駅前区画の担当になった。
「なあ、悠真」
「何」
「すごいな」
透はそれだけ言って、しばらく黙った。
俺も同じだった。
言葉にすると全部小さくなる気がした。
暑い。眩しい。怖い。綺麗。壊れている。残っている。どれも合っていて、どれも足りなかった。
旧駅前のロータリーには、誰も乗らないバスが一台だけ停まっていた。
窓ガラスは白く曇り、車体には塩の跡が浮いている。案内板には旧暦の時刻表が貼られたままで、そこには毎時六本のバスが来ると書かれていた。もう八十年以上、一本も来ていないのに。
観測端末に数値を入力していると、ノイズ混じりの警告音が鳴った。
「地点A三、未登録熱源反応。距離、八十メートル」
管制の声が硬くなる。
「全員停止。観測員は確認態勢。生徒は遮蔽物後方へ移動」
俺たちは崩れたバス停の裏へ下がった。
透が小さく息を呑む音が通信越しに聞こえる。
観測員の一人が前に出て、携行センサーを構えた。
旧商店街の入口。半分落ちたアーケードの影。そこに、何かが動いた。
最初は、白い布だと思った。
熱風に揺れる、古いカーテンか何か。
けれど違った。影の中から現れたそれは、人間の形をしていた。
細い腕。膝の少し上で切られた薄いワンピース。日に焼けた脚。肩まで伸びた黒い髪。背中には小さな布袋を背負い、片手には錆びた金属棒を持っている。
ヘルメットも、冷却服も、呼吸補助装置もない。
少女だった。
彼女は俺たちを見て、驚いたように立ち止まった。
けれど逃げなかった。ただ眩しそうに目を細めて、白く焼けた街の真ん中で、地下から来た俺たちを見ていた。
「未登録民間人を確認。地上残留者の可能性あり。対象、年齢十代半ば。熱防護装備なし。生体反応安定」
観測員の声が、信じられないものを見たように震えていた。
俺は何も言えなかった。
その少女は、夏の中に立っていた。
俺たちが警報と数値と防護服越しにしか触れられない熱の中で、まるでそこが自分の居場所だとでもいうように、裸の肌を光に晒していた。
汗で額に髪が張りつき、頬は赤く、唇は乾いている。
それなのに、彼女は倒れなかった。苦しそうにも見えなかった。むしろ俺たちの方が、透明な殻に閉じ込められた弱い生き物みたいだった。
やがて少女は、金属棒を肩に担ぎ直した。
「地下の人?」
通信ではない、生の声だった。
熱に揺れる空気を通って届いたその声は、思っていたより低く、かすかに掠れていた。俺たちは誰も答えなかった。
答える権限があるのかどうか、分からなかったからだ。
少女は少しだけ首を傾げた。
「変な格好」
透が、隣で小さく笑いかけて、すぐに息を止めた。
笑っていい場面なのか分からなかったのだと思う。俺も同じだった。
観測員が前へ出て、慎重に声をかける。
「こちらは地下圏環境庁所属、夏季地上観測班です。あなたはこの区域の住民ですか。氏名と所属共同体を申告してください」
少女は面倒そうに眉を寄せた。
「そういうの、まだあるんだ」
「質問に答えてください。現在、この区域は高危険度観測対象に指定されています。民間人の滞在は認められていません」
「認められてないって、誰に?」
「地下圏環境庁です」
「じゃあ関係ないよ。わたし、地下の人間じゃないし」
観測員が言葉に詰まった。
俺はそのやり取りを聞きながら、変なことを思った。
彼女の声には、天井がなかった。地下の声はいつも壁に反響して、どこか狭い。けれど彼女の声は、空へ抜けていく。
言葉が言葉のまま、熱い風に乗って、どこまでも散っていくようだった。
「君、名前は」
気づいた時には、俺が言っていた。
観測員がこちらを振り向く。透も驚いた顔をした。
管制から何か注意が飛んだ気がしたが、うまく聞こえなかった。
少女の視線が、まっすぐ俺に向く。遮光バイザー越しなのに、目が合った気がした。
「凪」
彼女は短く答えた。
「海野凪。そっちは?」
「相羽悠真」
「ふうん」
凪は俺の名前を口の中で転がすみたいに一度だけ繰り返し、それから駅前の焼けた広場を見渡した。
「夏休み?」
「え?」
「地下の子たち、ぞろぞろ来てるから。遠足かと思った」
「任務だよ。地上観測任務」
「じゃあ、夏休みじゃん」
「違う」
「違わないよ。夏に、知らないところへ来て、みんなで記録つけて、先生に怒られながら帰るんでしょ。それ、夏休みの宿題みたいなものじゃない」
何を馬鹿なことを、と言うべきだったのだと思う。
けれど俺は言えなかった。
地上観測任務。人類最後の有人夏季観測。教育端末に保存されるべき重要記録。
そんなふうに大人たちが硬い名前をつけたものを、彼女はあっさり夏休みと言った。
その軽さが、不思議と腹立たしくはなかった。むしろ、どこか救われるような気がした。
凪は背中の布袋から、古びた缶を一つ取り出した。
表面の印刷はほとんど剥げていて、中身が何かは分からない。彼女はそれを俺たちに見せるように軽く振った。
「駅の向こう、まだ日陰があるよ。ここ、昼になると床が焼けるから立ってると危ない」
「君はどうするんだ」
「帰る。拾い物の途中だったし」
「どこへ」
凪は答えなかった。
ただ、旧商店街の奥を指さした。そこには崩れたアーケードが続き、その向こうに、白い光と濃い影が縞模様になって落ちていた。
人類が捨てたはずの地上に、まだ誰かの帰る場所がある。そのことが、俺にはうまく飲み込めなかった。
管制の声が戻ってくる。
「相羽、対象との接触を中止しろ。観測員の指示に従い、地点Aへ後退」
俺は返事をしようとして、凪を見た。
彼女はもうこちらに背を向けていた。細い背中。焼けた髪。裸足ではないが、靴底の薄そうなスニーカー。冷却服なしで歩くには危険すぎる道路を、彼女は当たり前みたいに踏んでいく。
「凪」
呼ぶと、彼女は振り返った。
「また会える?」
透が隣で「おい」と小さく言った。
観測員が何か叫んだ。
管制の警告音が鳴った。
けれど凪は、少しだけ笑った。
それは、旧地上資料に残っていたどんな夏の映像よりも、ずっと眩しかった。
「夏休みなんでしょ」
凪は言った。
「だったら、明日も来れば」
そうして彼女は、焼けた街の影の中へ消えていった。
俺はしばらく、その場所を見ていた。
観測端末には未入力の数値が並び、冷却服は警告音を鳴らし続け、管制は繰り返し俺の名前を呼んでいた。
地表温度四十七度。湿度二十九パーセント。紫外線量、危険域。滞在残存許容時間、十五分。
それが、俺の知っていた地上のすべてだった。
けれどその日から、夏は数字ではなくなった。
夏は、白く焼けた駅前でこちらを見ていた少女の名前になった。
数話ほど続きます。