八月、空に塗る【短編集】   作:あおい そら

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第二話『夏の標本』


4-2.夏、君を希う

 

 翌日、俺たちは予定より一時間早く起こされた。

 

 地下にいた頃の起床は、照明が朝の色に変わるだけだった。天井の人工空が薄い青に染まり、空調の流量がわずかに上がり、居住区全体に「午前六時です」という柔らかい合成音声が流れる。それで一日が始まる。けれど地上観測拠点の朝は違った。昇降塔の基部に設営された簡易宿営区には窓があり、その窓の向こうから、本物の光が差し込んでいた。

 

 白い光だった。

 

 朝なのに、もう眩しかった。空は昨日より少しだけ青く見えたが、それでも教育端末で見たような澄んだ色ではない。熱に滲み、塩に濁り、遠くのビル群の輪郭を揺らしながら、何もかもを同じ明るさで照らしている。地下では、朝は人間の生活に合わせて調整されるものだった。地上では、人間の方が朝に合わせなければならない。

 

 朝食は栄養ゼリーと再生水だった。拠点内は冷却されているはずなのに、喉の奥には昨日吸い込んだ熱の名残が張りついていた。透は銀色のパウチを片手で潰しながら、俺の顔を見てにやついた。

 

「昨日の子、また来ると思う?」

 

「知らない」

 

「知らないって顔じゃないけど」

 

「どんな顔だよ」

 

「めちゃくちゃ気にしてる顔」

 

 俺は返事の代わりに栄養ゼリーを飲み込んだ。甘さだけが人工的に整っていて、余計に味気なかった。

 

 昨日、凪と名乗った少女は、観測班の間でちょっとした事件になっていた。地上残留者の存在そのものは、記録上では知られている。地下移住期に移住を拒んだ者。移住枠に入れなかった者。移送途中で共同体から離脱した者。そういった人々が、地上各地に小規模な集落を作ったことは教科書にも載っていた。ただ、ほとんどは二十年以内に連絡を絶ち、以降は無人機による熱源反応が散発的に確認されるだけになっていた。

 

 だから、十代の少女が一人で廃棄都市を歩いているという事実は、管制にとって想定外だったらしい。

 

 昨日の夜、俺たちは一人ずつ事情聴取を受けた。対象の外見、発言、装備、健康状態、敵対意思の有無、同行者の有無。俺は聞かれたことに答えたが、肝心なことは何も言えなかった。彼女がどこから来たのか。なぜ装備なしで歩けるのか。どんな暮らしをしているのか。何も知らない。ただ、夏休みなんでしょ、と彼女が言ったことだけが、耳の奥に残っていた。

 

 午前七時、観測班に新しい指示が出た。

 

「本日より、旧駅前区画および旧市立高校周辺の観測範囲を拡大する。未登録地上残留者、海野凪との再接触があった場合、観測員立ち会いのもと、聞き取りを実施する。ただし、強制連行、接触者への直接的な身体検査は禁止。対象の警戒を招く行動は避けること」

 

 宮代教官は淡々と告げた。

 

「彼女は、地上環境への長期適応例である可能性が高い。君たちの任務は、地上を観測することだ。ならば、地上に残る人間もまた観測対象に含まれる」

 

 観測対象。

 

 その言葉に、胸の奥が少しざらついた。

 

 間違ってはいない。俺たちは観測に来ている。気温も、湿度も、崩れた道路も、錆びた鉄骨も、耐熱化した昆虫も、そして地上に残った人間も、すべて記録すべき対象なのだろう。けれど昨日の凪は、俺の端末の中に収まる数値ではなかった。白く焼けた駅前で、俺たちを見て「変な格好」と言った少女だ。俺の名前を、少しだけ不思議そうに呼んだ少女だ。

 

 それを観測対象と言われると、なぜか嫌だった。

 

 午前八時、俺たちは旧駅前区画へ出た。

 

 昨日よりも暑かった。正確には、昨日よりも暑く感じた。冷却服の内部温度は管理されているし、外気温もまだ四十度を少し超えた程度だと端末は示していた。けれど身体は、地上が危険な場所だと一晩で覚えてしまったらしい。照り返しを浴びるたび、皮膚の奥がこわばる。ヘルメットの外側を、見えない火が舐めているようだった。

 

 駅前ロータリーには、昨日と同じバスが停まっていた。壊れた案内板。白く乾いた横断歩道。ひび割れたアスファルト。どれも変わらない。変わらないのに、昨日とは違って見えた。ここで凪が立っていた、という記憶が、景色の上に薄く重なっている。

 

 観測員が端末を確認する。

 

「未登録熱源、反応なし。班を二手に分ける。相羽、柏木は私と旧市立高校方面へ。残りは駅前構造物の劣化測定を継続」

 

 柏木というのは透の苗字だった。透は通信回線越しに小さく口笛を吹いた。

 

「旧高校だってさ。夏休みっぽくなってきたな」

 

「遠足じゃない」

 

「凪ちゃん理論では夏休みの宿題らしいぞ」

 

「まだ凪ちゃんって呼ぶほど知らないだろ」

 

「お、怒った」

 

「怒ってない」

 

 自分でも分かるくらい、声が平坦になった。透は笑いを堪えるように肩を揺らしたが、それ以上は何も言わなかった。

 

 旧市立高校は、駅前から歩いて十五分ほどの丘の上にあった。

 

 丘といっても、ほとんどは人工地盤だった。海面上昇期にかさ上げされた地区らしく、坂道の両側には古い防水壁が続いている。壁面には、避難誘導の矢印と、すっかり色褪せた落書きが残っていた。誰かが描いた魚。星。意味の分からない相合傘。八十年以上前の誰かの悪ふざけが、世界の終わりを越えて残っている。そのことが、少しだけ可笑しかった。

 

 校門は倒れていた。

 

 門柱には旧市立海浜高等学校という文字が残っている。校舎の窓はほとんど割れ、外壁は塩と砂で白く汚れ、屋上の給水塔は傾いていた。けれど敷地内には、まだ夏の形があった。枯れかけた木々の隙間で、耐熱化した葉が鈍い緑色を光らせている。グラウンドは砂漠のように乾いていたが、白線の痕だけがうっすら残っていた。校舎横のプールには水がなかった。底には風で運ばれた砂が溜まり、プールサイドの影にだけ、名前も知らない草が生えている。

 

 俺は思わず足を止めた。

 

「どうした、相羽」

 

 観測員が振り返る。

 

「いえ。学校って、こういう場所だったんだなと思って」

 

 地下にも学校はある。教室も、廊下も、職員室もある。けれどそこに校庭はない。窓の外に空はない。体育の授業は多目的室で行われ、風でプリントが飛ぶこともなければ、雨で予定が変わることもない。旧地上資料で見た学校は知識としては知っていたが、こうして廃墟になった校舎を前にすると、自分たちの学校が何かの模型だったように思えた。

 

「なあ、悠真」

 

 透が低い声で言った。

 

「俺たち、ずっと地下で学校ごっこしてたのかな」

 

 冗談めかした言い方だったが、返す言葉が見つからなかった。

 

 その時、校舎の方から金属の鳴る音がした。

 

 観測員が即座に手を上げる。俺たちは倒れた門柱の影に身を寄せた。校舎一階、昇降口の奥。割れたガラス戸の向こうで、人影が動いた。

 

 凪だった。

 

 昨日と同じ白いワンピースではなく、今日は色褪せた紺色のシャツを羽織っていた。片手には古い工具箱を持ち、もう片方の手には、どこかから剥がしたらしい銅線の束を抱えている。彼女は俺たちに気づくと、特に驚いた様子もなく、昇降口の段差に腰を下ろした。

 

「本当に来た」

 

 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 

「来ればって言ったのは君だろ」

 

「そうだけど、地下の人って、もっと約束破ると思ってた」

 

「どういう偏見だよ」

 

「だって、地上捨てたし」

 

 軽い口調だった。

 

 けれどその言葉だけは、熱よりも深く刺さった。観測員が俺の前に出ようとしたが、凪は面倒そうに工具箱を持ち上げて見せた。

 

「今日は忙しいんだけど」

 

「海野凪さん。こちらは地下圏環境庁の観測班です。あなたにいくつか質問があります」

 

「さん、いらない。凪でいい」

 

「では凪。あなたはこの学校を拠点にしているのですか」

 

「たまに。ここ、日陰が多いから」

 

「所属共同体は」

 

「もうない」

 

 凪はあっさり答えた。

 

 それきり、昇降口の中が静かになった。遠くで、蝉のような音だけが鳴っている。

 

「もうない、とは」

 

 観測員の声が少しだけ慎重になる。

 

「みんな、ばらばら。死んだ人もいるし、北の方へ行った人もいるし、地下へ行った人もいる。わたしは残った。それだけ」

 

「一人で生活しているのですか」

 

「だいたい」

 

「保護者は」

 

「いない」

 

 透が息を呑む音が聞こえた。俺も同じだった。

 

 凪はそれを気にした様子もなく、銅線の束を足元に置いた。汗が首筋を伝い、シャツの襟を濡らしている。暑くないはずがない。苦しくないはずがない。けれど彼女は、俺たちの驚きの方を不思議がっているようだった。

 

「地上に一人で残るのは危険だ」

 

 俺は言った。

 

 凪は俺を見た。

 

「地下だって危険でしょ」

 

「地下は管理されてる」

 

「管理されてたら危険じゃないの?」

 

「少なくとも、ここよりは生き延びられる」

 

 言ってから、自分の言葉が管制の説明と同じだと気づいた。

 

 凪は少しだけ笑った。馬鹿にする笑いではなかった。何かを諦めた人間の、柔らかい笑い方だった。

 

「生き延びるのが、そんなに大事?」

 

 その問いに、俺はすぐ答えられなかった。

 

 生き延びるのは大事だ。当たり前だ。地下で育った俺たちは、そう教えられている。人類は生き延びるために地下へ行った。暑さから逃げ、水を管理し、空気を濾過し、子供を育てる場所を守った。正しい選択だったはずだ。正しいから、俺はここにいる。

 

 なのに凪の声を聞くと、その当たり前が少しだけ揺らいだ。

 

「大事だよ」

 

 俺は言った。

 

「生きてなきゃ、何もできない」

 

「そうだね」

 

 凪は素直に頷いた。

 

「でも、生きてるだけだと、できないこともあるよ」

 

 観測員が会話を遮るように咳払いをした。

 

「聞き取りは後ほど継続する。先に校舎内の安全確認を行う。凪、あなたがこの施設を利用しているなら、危険箇所を把握しているはずです。案内を頼めますか」

 

「頼む態度じゃないけど、いいよ」

 

「協力に感謝します」

 

「感謝とかもいらない。そこの二人、ついてくる?」

 

 凪は俺と透を見た。

 

 観測員がすぐに首を振る。

 

「生徒の単独行動は認められない」

 

「単独じゃないよ。わたしがいるし」

 

「あなたは監督者ではありません」

 

「面倒だなあ」

 

 凪は本当に面倒そうに立ち上がった。

 

「じゃあ、みんなで来れば」

 

 校舎の中は、外より少しだけ涼しかった。

 

 涼しいと言っても、地下の快適さとは比べものにならない。空気は熱を含み、埃と乾いた木材の匂いがした。廊下の床はところどころ剥がれ、天井板は落ち、壁には古い掲示物の跡が四角く残っている。けれど直射日光が遮られるだけで、身体はずいぶん楽になった。冷却服の駆動音も少し落ち着く。

 

「昼は外を歩かない。金属に素手で触らない。雨の後は低い場所に行かない。影が濃すぎる場所には、たまに蛇がいる。あと、古い自販機の下には手を入れない」

 

 凪は廊下を歩きながら言った。

 

「なんで自販機?」

 

 透が聞く。

 

「涼しいから。虫とか、小さい動物とか、いろいろ入ってる。噛まれると面倒」

 

「それ、地上生活の知恵?」

 

「ただの失敗談」

 

 凪はそう言って、右手の甲を見せた。薄い傷跡がいくつも残っている。透は「うわ」と声を漏らし、すぐに謝った。凪は気にしていないようだった。

 

 教室に入ると、そこには机と椅子がまだ残っていた。

 

 窓際の席は日光で焼け、木目が白く割れている。黒板には、誰かが昔書いた文字の跡がうっすら残っていた。日直。七月十九日。提出物を忘れないこと。たったそれだけの言葉が、やけに眩しかった。七月十九日の翌日、彼らは普通に学校へ来たのだろうか。それとも、その日を最後に誰も来なくなったのだろうか。

 

 凪は教室の後ろに置かれたロッカーを開け、中から古い布袋を取り出した。中には、缶詰、乾電池、劣化したノート、よく分からない基板の欠片が入っている。

 

「ここ、わたしの倉庫」

 

「学校を倉庫にしてるのか」

 

「学校って、元々物が多いから。探すといろいろ出てくるよ」

 

 凪は窓の外を見た。

 

「あと、ここから海が見える」

 

 俺は彼女の隣に立った。

 

 窓ガラスの残っていない窓枠の向こうに、海があった。

 

 遠かった。けれど確かに見えた。白く光る水面が、ビルの隙間の向こうで揺れている。教育端末で見た青い海とは違う。もっとぎらぎらして、もっと巨大で、まるで空の光を砕いて敷き詰めたみたいだった。水平線は熱で歪み、海と空の境目は曖昧だった。

 

「初めて見た」

 

 俺は呟いた。

 

「海?」

 

「本物は」

 

「地下にはないんだ」

 

「映像ならある」

 

「それは海じゃないよ」

 

 凪は即座に言った。

 

 少しだけ腹が立った。けれど否定できなかった。映像の海に、匂いはない。熱もない。遠くで反射する光の痛さもない。窓枠に手をかけた時のざらつきも、潮の混じった風がヘルメットを叩く音もない。

 

「じゃあ、地下の夏も夏じゃないのかな」

 

 俺が言うと、凪は考えるように目を細めた。

 

「地下にも夏ってあるの?」

 

 その質問は、あまりにもまっすぐだった。

 

 俺は答えようとして、言葉を探した。地下にも季節の区分はある。暦もある。夏季節電期間があり、冷却系統の負荷が上がり、教育課程では旧地上の夏について学ぶ。人工空の色も少しだけ明るくなる。食堂には期間限定で氷菓風の栄養デザートが出る。だから、夏はあると言える。

 

 けれど凪が聞いているのは、たぶんそういうことではなかった。

 

「あると思ってた」

 

 俺は言った。

 

「昨日までは」

 

 凪は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、今日から覚えればいいよ」

 

「何を」

 

「夏」

 

 それは、教科書の見出しみたいな言葉ではなかった。

 

 凪はその後、本当に夏を教えるみたいに校舎を案内した。

 

 屋上へ上がる階段は途中で崩れているから使わないこと。保健室にはまだ包帯が残っているけれど、古すぎて信用しないこと。図書室は比較的涼しいが、棚が倒れやすいこと。音楽室のピアノはもう鳴らないが、鍵盤を押すとたまに中から虫が出ること。グラウンドの端にある百葉箱は、誰も見なくなってからもずっとそこに立っていること。

 

 彼女の言葉は、観測記録とはまるで違っていた。

 

 観測端末には、旧校舎一階廊下、気温四十九・六度、湿度三十四パーセント、構造劣化率C、滞在危険度中、と記録される。けれど凪は、廊下の真ん中に午後になると四角い光が落ちることを知っていた。雨が降ると理科室の天井から水が漏れることを知っていた。二階の三年二組の教室だけ、なぜか風が通ることを知っていた。

 

 同じ場所を見ているはずなのに、彼女は俺たちと違う世界を歩いている。

 

 昼前、外気温が危険域に近づいたため、観測班は校舎内で待機することになった。凪は三年二組の教室に俺たちを連れて行った。確かにそこだけ、少し風が通った。割れた窓から入り、廊下側の壊れた扉へ抜けていく風が、熱を含みながらも動いている。地下の循環風とは違う、不規則で、気まぐれな風だった。

 

 凪は窓際の床に座り、持っていた缶を開けた。中身は桃だった。シロップは半分ほど干上がり、実も色が悪くなっている。それでも甘い匂いがした。

 

「食べる?」

 

 凪が俺たちに缶を差し出す。

 

 観測員が即座に止めた。

 

「地上由来の未検査食品の摂取は禁止です」

 

「だって」

 

 凪は肩をすくめ、自分だけ小さな金属匙で桃を食べた。

 

 透が名残惜しそうに見ている。

 

「うまい?」

 

「甘い」

 

「それ、いつの缶詰?」

 

「さあ。わたしより年上かも」

 

「よく食えるな」

 

「食べられるものは食べるよ。地下だと違うの?」

 

「地下は全部管理食。賞味期限切れとか、ほぼない」

 

「つまんなそう」

 

「安全なんだよ」

 

「安全と楽しいは別でしょ」

 

 凪はそう言って、また桃を口に運んだ。

 

 その仕草を、俺はぼんやり見ていた。缶詰の桃を食べるだけなのに、なぜか目が離せなかった。地下で食べるものは、すべて規格化されている。栄養価が表示され、衛生状態が保証され、味も濃すぎず薄すぎず整えられている。食べることは、生きるための管理行為だった。けれど凪は、古い缶詰の桃を本当に美味しそうに食べていた。少し眉を下げて、甘さを確かめるみたいにゆっくりと。

 

 その姿を見て、俺は初めて、地下の食事を寂しいと思った。

 

「凪は、地下に行こうと思ったことはないのか」

 

 俺は聞いた。

 

 観測員がこちらを見たが、止めなかった。聞き取りとして有用だと思ったのかもしれない。

 

 凪は匙を止めた。

 

「あるよ」

 

 意外だった。

 

「あるんだ」

 

「そりゃあるよ。暑いし。水は重いし。夜、機械が壊れると真っ暗だし。熱で眠れない日もあるし。具合悪くなった時は、まあまあ怖いし」

 

「なら――」

 

「でも、行かなかった」

 

 凪は缶の中を見下ろした。

 

「行けなかった、の方が近いかも」

 

「どうして」

 

「地下に行くには、名前がいるんだって」

 

 俺は意味が分からなかった。

 

 凪は笑った。

 

「戸籍とか、移住許可とか、保護責任者とか、所属共同体の登録とか。そういうの。わたしが小さい頃、地下から迎えが来たことがあった。でもその時には、うちの共同体はもう壊れてて、大人たちもほとんどいなくて、書類を持ってる人も死んでた。だから、手続きが難しいって」

 

「そんな理由で?」

 

 声が少し大きくなった。

 

 凪は俺を見た。

 

「地下って、そういう場所でしょ」

 

 何も言えなかった。

 

 違う、と言いたかった。そんなはずがない。人を助けるのに書類が必要なわけがない。けれど地下で生きる俺は知っている。居住区に一人増えるということは、水の配分、酸素の配分、食料の配分、寝床の確保、医療記録、教育登録、すべてに影響する。地下は限られた箱だ。誰かを入れるには、誰かが計算しなければならない。

 

 正しい。正しいはずだ。

 

 けれど、その正しさの外側に、凪は残された。

 

「その後、また連絡は」

 

「来なかった。たぶん忘れられたんだと思う」

 

「忘れられたって」

 

「地上には、忘れられたものが多いよ」

 

 凪は窓の外を見た。

 

 校庭の向こうで、風が砂を運んでいた。白線の痕が一瞬だけ浮かび、すぐに消える。

 

「でも、忘れられたものって、消えたわけじゃないから」

 

 凪はそう言って、缶詰の最後の一切れを食べた。

 

 午後、気温が少し下がるのを待って、俺たちは校舎を出た。

 

 外の光は朝よりもさらに白く、地面の照り返しで足元が揺れて見えた。観測班は安全上、昇降塔方面へ戻る予定だったが、凪が「帰り道なら海の見える方がいい」と言い出したため、観測員はしばらく管制と協議した。結果、旧防潮堤沿いの経路で戻ることになった。観測範囲内であり、海岸側のデータ取得にもなる、というのが表向きの理由だった。

 

 凪は、表向きの理由など気にせず歩き出した。

 

 防潮堤へ向かう道は、かつて商店街だったらしい。シャッターの下りた店が並び、看板の文字はほとんど読めなくなっている。美容室、駄菓子屋、文具店、喫茶店。どれも今の地下にはない形の店だった。地下にも購買所はある。だが、そこに店主はいない。並ぶ商品は配給表で決められ、会話は必要最低限で済む。

 

 凪は文具店の前で足を止めた。

 

「ここ、たまにノートが残ってる」

 

「何に使うんだ」

 

「日記」

 

「日記を書くのか」

 

「悪い?」

 

「いや。意外だっただけ」

 

「地下の人って、全部機械に記録するんでしょ」

 

「だいたいは」

 

「じゃあ、紙に書いた方がいいよ。機械は壊れるけど、紙は焼け残ることがある」

 

 凪はそう言った。

 

 地上の人間らしい言葉だと思った。紙も燃える。水にも弱い。劣化もする。けれど彼女にとって、機械は止まるもので、紙は残るものなのだろう。俺たちとは、信じているものの順番が違う。

 

 防潮堤に着くと、海が近くなった。

 

 風の匂いが変わった。塩と、熱と、どこか生臭い匂い。防潮堤の向こうで、波が鈍い音を立てている。俺たちは階段を上がった。手すりに触れようとして、凪に止められた。

 

「焼けてる」

 

 俺は慌てて手を引っ込めた。

 

「ありがとう」

 

「地上初心者」

 

「悪かったな」

 

「悪くないよ。知らないだけでしょ」

 

 凪は先に防潮堤の上へ出た。

 

 その背中を追って、俺も上がった。

 

 海が広がっていた。

 

 あまりにも広すぎて、少し怖かった。地下では視界の果てには必ず壁がある。廊下の端、居住区の外周、隔壁、天井。人間の生活圏は必ずどこかで終わる。けれど海は違った。終わりが見えない。波が光を砕きながら、遠くまで続いている。空と海の境目は霞み、世界がそのまま溶けていくようだった。

 

 凪は防潮堤の縁に腰を下ろした。

 

「ここ、夕方が一番いいよ」

 

「危なくないのか」

 

「危ないよ。でも綺麗」

 

「危ないなら来るべきじゃない」

 

「地下の人は、すぐそういうこと言うね」

 

 凪は笑った。

 

「危険なものほど、美しかったりするんだよ」

 

 その言葉に、俺は反論できなかった。

 

 観測員たちは少し離れた場所で海岸線のデータを取っていた。透は防潮堤の上から下を覗き込み、すぐに後悔したように一歩下がった。俺と凪の間には、熱い風が吹いていた。

 

「悠真は、夏が好き?」

 

 凪が突然聞いた。

 

「分からない」

 

「分からないって、何でもそう言うね」

 

「昨日初めて見たんだ。好きかどうかなんて、まだ分からない」

 

「じゃあ、嫌い?」

 

「それも分からない」

 

「暑いよ」

 

「知ってる」

 

「眩しいし、喉乾くし、すぐ疲れるし、夜も眠れない日がある」

 

「知ってる」

 

「でも、朝の海は少し冷たいし、夕方の空は赤いし、雨の前は匂いが変わる。プールの底に溜まった砂は、裸足で踏むとさらさらしてるし、花火は古くても、ちゃんと光ってくれる」

 

 凪は指を折るように言った。

 

「だからね、わたしは夏が好き」

 

 俺は彼女の横顔を見た。

 

 日に焼けた頬。汗で額に張りついた髪。乾いた唇。地下の基準で言えば、すべて危険の兆候だった。熱曝露、脱水、栄養不足、皮膚損傷。観測端末なら、彼女をいくつもの警告で囲むだろう。

 

 けれどその横顔は、俺が知っている誰よりも夏に似ていた。

 

「俺も」

 

 言いかけて、やめた。

 

 まだ好きとは言えなかった。好きだと言うには、夏は大きすぎる。暑くて、眩しくて、怖くて、壊れていて、凪をここに縛りつけているものでもある。

 

 代わりに、俺は端末を起動した。

 

 観測記録の自由記述欄を開く。そこには本来、数値化しにくい地形変化や異常所見を書くことになっている。俺は少し迷ってから、文字を入力した。

 

 旧防潮堤上、十五時四十二分。海面反射光、極めて強い。風に塩分を含む。対象URS01、海野凪は、当該地点を「夕方が一番いい」と表現。地上残留者の環境認識は、危険度評価のみでは把握困難。

 

 そこまで書いて、指が止まった。

 

 そして、最後に一文だけ付け足した。

 

 夏は、観測値よりもずっと広い。

 

 保存ボタンを押した瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。冷却服では下げられない温度だった。

 

 凪がこちらを覗き込もうとする。

 

「何書いたの?」

 

「観測記録」

 

「わたしのこと?」

 

「少し」

 

「変なの」

 

「変じゃない。任務だから」

 

「じゃあ、ちゃんと綺麗に書いてね」

 

 凪は海を見たまま言った。

 

「わたし、たぶん地下の記録に残るんでしょ」

 

「……嫌なのか」

 

「嫌じゃないよ」

 

 凪は笑った。

 

「誰かに覚えててもらえるなら、それはちょっと嬉しい」

 

 その言葉は、波の音に混ざって消えそうだった。

 

 俺は何か言おうとした。大丈夫だとか、忘れないとか、地下へ来ればいいとか、そういう言葉がいくつも喉元まで上がってきた。けれど、どれも違う気がした。軽すぎた。凪が立っている場所まで届かない言葉だった。

 

 やがて管制から帰還指示が入った。

 

「本日の観測を終了する。全班、昇降塔へ帰投」

 

 凪は防潮堤から立ち上がり、服についた砂を払った。

 

「じゃあ、また明日?」

 

 彼女は昨日と同じように言った。

 

 昨日よりも、その言葉は近く聞こえた。

 

「明日もここに?」

 

「明日は暑すぎるから、朝だけ。旧プールにいると思う」

 

「プール、水ないだろ」

 

「水がなくてもプールはプールだよ」

 

 凪は当然のように言った。

 

 透が後ろで小さく笑った。観測員も、今度は何も言わなかった。

 

「悠真」

 

 凪が俺の名前を呼んだ。

 

 初めて会った時より、少しだけ自然な発音だった。

 

「明日、地下の夏の話を聞かせて」

 

「面白くないぞ」

 

「それは聞いてから決める」

 

 そう言って、凪は防潮堤の階段を降りていった。白い光の中へ、細い背中が遠ざかっていく。彼女の歩き方は、やはり危なげで、けれど不思議なくらい迷いがなかった。

 

 俺はその背中が商店街の影に消えるまで見ていた。

 

 地上観測任務二日目。記録上の成果は、旧市立高校の構造劣化データ、沿岸部の海面上昇痕跡、地上残留者への初回聞き取り。管制に提出する報告書には、そう書かれるのだろう。

 

 けれど俺にとってその日は、凪に夏を教わった日だった。

 

 暑いこと。眩しいこと。危ないこと。綺麗なこと。忘れられても、消えたわけではないこと。

 

 そして、地下には本当の夏がなかったのかもしれないと、初めて思った日だった。

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