千紫万紅の樹海窟へ足を踏み入れたえびす天丼は、普段通っている川沿いの道をそのまま進むのではなく、今日は探索を優先するつもりで周囲へ視線を巡らせながら歩きつつ、前日に大型の蒼影イワナを釣り上げたことで釣りそのものへの理解が少し深まった感覚を思い返しながらも、同じ場所で同じ魚を狙い続けるだけではなく、まだ見つけていない場所や魚がこの樹海窟には残っているのではないかという期待が自然と強くなっていることを感じていた。
樹海窟の空気は相変わらず湿っており、木々の間に漂う薄い霧が光を柔らかく散らしていることで、昼間であるはずなのにどこか薄暗い印象を残しているが、その静けさが不思議と嫌ではなく、むしろ現実の喧騒から切り離されたような感覚を作り出している。
川の音が遠ざかる。
代わりに聞こえてくるのは、葉が擦れる音と時折どこかで落ちる水滴の音だけで、足元に広がる湿った土と根を踏み越えながら進んでいくうちに、いつの間にか普段の釣り場からかなり離れていることに気づく。
「……思ったより奥まであるんだな」
そう呟きながら周囲を見渡すが、道らしい道はなく、それでも完全な自然というわけではなく、木々の隙間や踏み固められた地面から何かが通った痕跡だけは微かに残っており、それを辿るようにしてさらに奥へ進む。
進むにつれて空気が変わる。
湿度が増している。
そして、妙に静かだ。
樹海窟は元から静かなエリアではあるが、それでも小型モンスターの動く気配や虫の羽音、水の流れる音くらいは常にどこかから聞こえていた。
だが今は違う。
音が少ない。
まるで周囲一帯だけ空気が沈んでいるような感覚があり、その静けさのせいで足音だけがやけに耳へ残る。
「……なんか変だな、この辺」
ロッドを握り直しながら慎重に歩みを進め、木々の間を抜けた瞬間、えびす天丼は思わず足を止める。
「……うわ」
そこに広がっていたのは、樹海窟の奥深くに隠されるように存在していた巨大な湖だった。
透き通った水面。
周囲を囲む白い岩肌。
そして、水面の上を漂うように浮かぶ淡い光。
天井付近の木々の隙間から差し込む光が湖面へ反射し、揺れるたびに青や紫の色を散らしていることで、まるで湖そのものが発光しているように見える。
しばらく言葉が出ない。
ただ景色を眺める。
風が弱く、水面は静かで、耳へ入る音もほとんどない。
それなのに不思議と不気味さはなく、むしろこの空間だけ時間がゆっくり流れているような感覚がある。
「……すごいな、ここ」
自然と声が漏れる。
これまで見てきた川とは空気が違う。
ただ綺麗というだけではなく、この場所そのものが特別なエリアとして存在しているような感覚があり、無意識に歩く速度までゆっくりになる。
湖へ近づく。
足元の石は白く磨かれたようになっており、水辺へ近づくほど透き通って見える。
水を覗き込むと底まで見えるほど透明度が高く、小さな魚影がゆっくりと泳いでいるのが分かる。
「……こんな場所あったんだな」
これまで樹海窟ではずっと川沿いだけを移動していたため、ここまで奥へ来ることはなかったが、普通に探索しているだけではまず気づけない位置にあることを考えると、意識して探さなければ見つからない隠しエリアのような場所なのだと理解する。
湖の周囲をゆっくり歩く。
視線を水面へ向ける。
流れはほとんどない。
川とは違い、水そのものが静止しているような感覚がある。
その中心付近へ視線を向けた瞬間、水の奥で何かが動く。
「……今の」
反射的に目を凝らす。
一瞬だけ見えた影は、これまで釣ってきた中型魚より明らかに大きい。
しかも、光を反射した鱗が淡く青白く輝いていたようにも見えた。
「……かなりでかかったよな、今の」
自然とロッドを握る手に力が入る。
だが同時に、すぐ投げるべきではないという感覚もあった。
未知のポイント。
未知の魚。
そして、この場所特有の静けさ。
下手に動けば、一瞬で警戒される気がする。
「……適当にやる場所じゃなさそうだな」
そう呟きながら一度深呼吸し、湖全体を改めて観察する。
流れがない以上、川と同じ感覚ではいけない。
ルアーの見せ方も変わる。
水面への波紋。
沈む速度。
動かし方。
全部調整が必要になる。
「……浮遊系の方が合うか?」
インベントリを開き、ルアーを確認する。
【細身ルアー】
【浮遊ルアー】
【重量ルアー】
その中から浮遊ルアーへ視線を止める。
「……試すならこれかもな」
そう呟きながら装着するが、すぐには投げず、そのまま湖畔へ腰を下ろして静かな水面を眺める。
光が揺れる。
水面がわずかに波打つ。
遠くで魚影が動く。
景色を見ているだけなのに、不思議と時間が過ぎるのが遅く感じる。
「……なんか、落ち着くなここ」
そう呟いたあと、再び湖の奥で揺れた大きな影へ視線を向けながら、えびす天丼はゆっくりと口元を緩める。
「……絶対、いい魚いるだろ」