透き通るような水面は周囲の木々と光を映し込み、青とも紫ともつかない淡い色を揺らし続けていて、風がほとんど吹いていないせいか水面の波も少なく、まるで湖そのものが眠っているような空気さえある。
「……やっぱり、普通の場所じゃないよなここ」
そう呟きながら湖畔へ腰を下ろし、インベントリを開いてルアーを確認する。
【細身ルアー】
【浮遊ルアー】
【重量ルアー】
流れが少ない湖。
昨日見えた巨大な魚影。
そして、水面近くまで浮かんでいた反応。
それらを思い返しながら浮遊ルアーを取り出し、ラインの状態を確認してからゆっくり装着する。
「……あれだけでかいなら、下手に動かしすぎない方が良さそうだな」
そう言いながら立ち上がり、少しだけ位置を変えてからロッドを振り抜く。
ルアーは水面を切って静かに着水し、小さな波紋を広げながら湖の中央付近へ漂っていく。
巻く。
止める。
少し動かす。
川とは違い、水の流れで勝手に動いてくれないからこそ、自分で見せ方を調整する必要があると感じながら、動かしすぎないように意識してゆっくり巻いていく。
しばらく反応はない。
だが、水の奥で何かが動いた気配だけはある。
「……見てる、よな」
視線を凝らす。
水面の下。
淡く揺れる大きな影。
その影がルアーへ近づいたかと思った瞬間、急に反転して離れていく。
「……あ、違うか」
思わず息を吐く。
警戒されている。
そんな感覚があった。
そのまま何投か繰り返し、角度を変えながらルアーの通し方を試していくうちに、湖の中央付近で再び大きな影が動く。
今度は速い。
一直線に近づいてくる。
「……来るか?」
次の瞬間。
手元へ強烈な衝撃が走る。
「……っ、うわ、でかいなこれ!」
反射的に合わせるとロッドが一気にしなり、ラインが勢いよく引き出される。
これまで釣ってきた大型魚とも違う。
重い。
それなのに動きが速い。
魚はヒットした瞬間に横方向へ一気に走り、そのまま湖の中央へ向かって潜るように加速していく。
「……ちょ、待ってくれって、それ速すぎるだろ……!」
ロッドを立てて耐える。
だが止まらない。
ラインが引き出され続ける。
魚は途中で急に方向を変え、水中で暴れるたびにラインへ強い衝撃を与えてくる。
「……これ、今までのと全然違うな……!」
無理に止めれば切れる。
だが逃がしたくもない。
テンションを維持しながらロッドの角度でいなそうとするものの、今使っているセットでは細かい調整が効かず、魚の動きに対して対応が少しずつ遅れていく。
魚が急に潜る。
次の瞬間、一気に横へ走る。
ラインが鋭く引かれる。
「……やば、そっち行くなって!」
反射的にロッドを倒す。
だが、その瞬間だった。
手元の感触が急に軽くなる。
「……え?」
ロッドのしなりが戻る。
ラインが水面へ跳ね返る。
魚影は消えている。
「……切れた、のか?」
しばらく呆然としたまま立ち尽くし、それからゆっくりとラインを巻き戻して先端を確認した瞬間、えびす天丼は小さく眉を寄せる。
「……なんだこれ」
切れている。
だが普通じゃない。
擦れて千切れた感じではなく、まるで刃物で断ち切られたように鋭く切れている。
「……噛み切られた、みたいになってるな」
指先で先端を摘まみながら考える。
岩に擦れた感覚ではなかった。
むしろ、一瞬で断ち切られたような感触だった。
「……歯、かこれ」
そう呟きながら湖へ視線を戻すが、水面は何事もなかったかのように静かで、さっきまで暴れていた気配すら残っていない。
「……普通の魚じゃないのは分かってたけど、これはちょっと想像以上だな……」
そのままもう一度投げるか少し迷う。
だが、仮にまた掛けたとしても今の装備では同じ結果になる可能性が高い。
そう判断すると無理に続けるより、先に準備を整えた方がいいと考えてロッドを下ろす。
「……一回戻って、ちゃんと見直した方が良さそうだな」
そう言って湖をあとにし、サードレマへの道を戻っていく。
街へ入ると樹海窟の静けさとは違う人の気配と喧騒が耳へ戻ってきて、少しだけ現実へ引き戻されるような感覚を覚えながら、そのまま以前調理器具を買った道具屋へと足を向ける。
店の中へ入る。
棚には釣り具や採取道具、調理器具などが並んでおり、以前よりも釣りへの理解が増えたせいか、ロッドやラインの違いまで自然と目に入るようになっている。
「いらっしゃい」
店主が声をかけてくる。
「ちょっと見てほしいんだけど」
そう言いながら切れたラインの先端を見せると、店主はそれを受け取って軽く目を細める。
「……ああ、これ噛み切られてるな」
「やっぱりそう見える?」
「擦れた切れ方じゃねぇな」
その言葉にえびす天丼は軽く息を吐く。
「湖で掛けたやつなんだけど、途中までは耐えられたんだけどな……急に軽くなって」
「どこの湖だ?」
「樹海窟の奥」
その言葉を聞いた瞬間、店主が少しだけ納得したような顔になる。
「なら大物だな」
「そんなに違う魚いるのか?」
「いる時はいる」
そう言いながら店主は奥の棚へ向かい、普段並んでいる初心者向けの道具とは別の場所から、一回り大きいロッドと分厚いラインがまとめられたセットを取り出してくる。
「……おお、だいぶ違うなこれ」
思わずそう漏れる。
ロッドは今使っているものより明らかに太く、リールも重い。
ラインも太く、簡単には切れそうに見えない。
「大型用だ」
「やっぱりそこまで必要になるか……」
「噛み切ってくる相手なら最低でもこれくらいは欲しいな」
そう言われながらセットを手渡され、その重みを確かめるように軽く持ち上げると、今まで使っていた装備とは感覚がまるで違うことがすぐに分かる。
「……これなら、多少強引にやっても耐えられそうだな」
「その代わり細かい操作は重くなるぞ」
「なるほどな……ちゃんと分かれてるんだな」
そう呟きながら再び切れたラインへ視線を落とす。
逃がした悔しさはある。
だがそれ以上に、あの湖にはまだ知らない魚がいるという期待の方が強くなっていた。
「……次は、ちゃんと取れるようにしたいな」
そう言いながら大型用セットを見つめるえびす天丼の頭の中には、既に次に湖へ向かった時のやり取りが浮かび始めていた。