翌日、えびす天丼はサードレマの宿を出た直後から、新しく買った大型用の釣りセットを肩に掛けたまま通りを歩きつつ、昨日あの湖で噛み切られたラインの感触と、水面の下で暴れていた巨大な影を思い返していたが、悔しさだけが残っているわけではなく、むしろ“今ならやれるかもしれない”という感覚の方が強くなっていることに気づき、そのまま寄り道をせず樹海窟へ向かう。
朝のサードレマはまだ静かで、開き始めた店から漂う匂いや遠くで聞こえる話し声だけが石畳へ広がっている中、えびす天丼は歩きながらロッドケースへ軽く視線を向ける。
昨日まで使っていた装備より、明らかに重い。
だが、それだけ頼りなさも消えている。
実際に触った時の感触を思い返しても、あの魚とやり合うなら必要だったのはこれくらいの準備だったのだと納得できる。
「……今日は、ちゃんと釣れるといいんだけどな」
そう呟きながら樹海窟へ入ると、湿った空気と薄暗い木漏れ日が周囲を包み込み、川の音が徐々に遠ざかっていく。
もう湖までの道は覚えていた。
木々の隙間を抜け、白い岩肌が見え始める。
その先に、あの静かな湖が広がっていた。
今日も変わらず静かだ。
透き通る水面。
淡く揺れる青紫の光。
風がほとんど吹いていないせいで、湖面は鏡のように周囲を映している。
「……やっぱり、何回見てもすごい場所だなここ」
そう言いながら湖畔へ近づき、新しく買った大型用ロッドを取り出す。
握る。
重い。
だが安定感がある。
昨日まで使っていた初心者向けのセットとは違い、ロッドそのものに余裕がある感覚があり、少なくとも“一方的に壊される側”ではなくなったような安心感があった。
ラインを確認する。
ルアーを取り出す。
昨日使った浮遊ルアー。
あの魚は確実に反応していた。
だから大きく変える必要はない。
「……問題は掛けたあと、なんだよな」
そう呟きながらゆっくり立ち位置を決める。
昨日より少し横。
魚が走った時に、岩場へ直線で向かいにくい角度を意識する。
一度深呼吸。
それからロッドを振り抜く。
ルアーは静かに着水し、小さな波紋を広げながら湖面を漂っていく。
巻く。
止める。
少し沈める。
大きく動かしすぎない。
警戒されないよう、水の中へ自然に馴染ませる感覚を意識しながら操作していく。
しばらく反応はない。
だが焦らない。
昨日見た影は、この湖に確実にいる。
そう思いながらルアーを通していくと、水面の奥でわずかに光が揺れる。
「……来たか?」
目を凝らす。
水の下。
ゆっくり動く巨大な影。
昨日と同じだ。
いや、昨日より近い。
影はルアーを追うように動きながら、一度距離を取り、そこから急に加速する。
「……っ!」
次の瞬間、水面が爆ぜる。
手元へ強烈な衝撃が走る。
反射的に合わせる。
ロッドが限界までしなる。
「……うわ、やっぱり重いなこれ……!」
魚はヒットした瞬間に湖の中央へ向かって突っ込み、そのまま水中で激しく暴れることで巨大な波紋を広げる。
だが昨日とは違う。
ラインが耐える。
ロッドも余裕を残している。
「……よし、まだ大丈夫だ」
ロッドを立てすぎず、テンションを維持しながら力を逃がす。
魚が横へ走る。
だがラインは切れない。
潜る。
それでも耐える。
「……これなら、ちゃんとやり合えそうだな……!」
魚は再び方向を変え、昨日と同じように岩場の方へ向かおうとするが、えびす天丼はロッドを横へ倒しながらラインの角度を変えることで進路をずらし、完全に潜り込まれる前に無理やり向きを変えさせる。
水面が大きく揺れる。
魚が暴れる。
重い。
だが止められないほどではない。
「……そっちは行かせないって……!」
踏ん張る。
テンションを維持する。
無理には引かない。
だが逃がさない。
少しずつ距離を詰めていくうちに、魚の動きが徐々に鈍くなり始める。
時間をかける。
焦らない。
主導権を渡さない。
そう意識しながら寄せ続け、水面近くまで浮かび上がった瞬間、えびす天丼は思わず目を見開く。
「……なんだこれ」
巨大だった。
細長い魚体。
青白く光る鱗。
そして、口元から並ぶ鋭い牙。
昨日ラインを噛み切った理由が、一目で理解できる。
魚は最後まで暴れながら再び潜ろうとするが、えびす天丼はロッドを支えながら踏ん張り、逃げ場を与えないように少しずつ湖畔へ引き寄せる。
「……よし、あと少しだから暴れないでくれよ……!」
水面が揺れる。
湖畔へ近づく。
そして最後の抵抗を押し切るようにして引き上げた瞬間、視界の端へ表示が現れる。
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【ネームドモンスターを釣り上げました】
【湖喰いのルミナスガル】
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「……ネームドだったのか、これ」
思わずそう漏れる。
地面へ横たわるその魚は、近くで見るとさらに異様だった。
鱗は淡く発光し、牙は短剣のように鋭い。
普通の魚というより、湖そのものが生き物になったような存在感がある。
「……そりゃラインも切れるよな……」
そう呟きながらロッドを下ろし、大きく息を吐く。
腕は重い。
疲労感もある。
だが、それ以上に達成感の方が強かった。
ただ大きい魚を釣ったわけじゃない。
逃げられて、準備を整えて、もう一度挑戦して、それでようやく届いた。
その積み重ねが、今目の前に結果として転がっている。
「……いや、これはちょっとテンション上がるな……」
そう言いながら改めてルミナスガルを見下ろし、えびす天丼は自然と口元を緩めていた。