半妖の青年は“五つの異能”で理不尽を覆す。神と悪魔の運命に挑む【SIN】 作:神野あさぎ
冷たい風が崖の上から吹き下ろし、三人の髪を揺らした。
戦いの後、血の匂いがまだ残る大地の上で、
叔母だったものを貫いた感触が、指先にこびりついている。
「……上から水を流したい」
唐突に言った彼に、
「え? 血を洗うために? マジで?」
そんな軽いやりとりの中でも、三人の背後では枯れ葉が乾いた音を立てて風に舞い、次の嵐を予感させていた。
しばしの沈黙。
凪が自身の頬を叩き、拳を握りしめる。
「……次こそは、頑張る!」
その声には、先ほどまでの迷いや、操られていた時の弱さが消えていた。
爪戯が半眼で見つめ、呆れたように言う。
「マジでいいの? 本気で行くよ?」
次の瞬間、地面が低く呻くように震えた。
森の奥から、湿った重い足音が近づいてくる。
巨大な黒い影が姿を現す。四肢に岩のような異様な装甲をまとい、額には不気味に光る「幼」の印。
「死んでしまうとは、何事よぉ……」
唸るようなしゃがれ声。
だが口元には、赤黒い液体がべっとりと滴っている。
その足元には、先ほど辛が倒した叔母の亡骸――いや、食い荒らされた残骸があった。
妖は共食いをしていたのだ。
「……食ってる!?」
凪が青ざめて叫ぶ。吐き気を催す光景。
「見た目は人間なのに、不味いねぇ」
妖は下品に喉を鳴らして
次の瞬間、その獣のような身体が低く構える。
空気が一気に張り詰めた。
「ってわ――人間がいる!」
その叫びと同時に、妖が口から桃色の甘い煙を吐く。
光が炸裂し、視界を覆うほどの土煙が上がった。
視界が真白に染まる中、辛は息を飲む。世界が、急速に巨大化していく感覚に襲われたのだ。
煙が晴れたとき、三人は互いを見つめ合って絶句した。
目線が低い。着物がぶかぶかだ。
三人は幼い姿になっていた。
現実感がなく、声すら出ない。
「あっ……」
辛が慌てて自分の腕を見る。細く、頼りない子供の腕。
凪も同様に、自分の小さな手を確認して顔を上げた。
爪戯が反射的に顔を触る。
前髪に隠れていたはずの右眼も、幼少期の状態に戻っていた。
だが、驚きは束の間だった。
「へっへぇ……人間を食うなら、やっぱり子どもだよなぁ!」
妖が狂ったように笑い、涎を垂らして巨大な牙を開いた。
辛は咄嗟に腕を構える。
右手のひらの感覚が変わる。金属の結晶が一瞬で走り、掌から白い光がほとばしった。
しかし、情けない音がして、光が消える。
不発だ。
身体だけでなく、能力の出力までもが未熟な子供時代に戻されている。
しかし音もなく、目の前の妖が凍りついた。
凪と辛が目を見開く。
「……凍った……!」
爪戯の氷だ。
氷の彫像となった妖は、そのまま静止していた。
「二人とも、無事?」
息を切らしながら、子供姿の爪戯が駆け寄る。
「うん、なんとか……」
しかし次の瞬間、氷の表面に亀裂が走った。
甲高い砕け音が響き、氷像が内側から爆ぜた。
「――あー、冷たっ!」
飛び散る氷片の中から、再び妖の影が姿を現した。ダメージはほとんどない。
「いやー、幼くなって能力の練度も戻っちゃったぽいね。甘かったかぁ」
「これ、氷使いでおなじみのやつだ!」
爪戯の軽い言葉に、凪が必死に突っ込む。
「……って、あんた殺されたいの?」
爪戯が鋭く返す。
辛は小さな手を握りしめる。
先ほど金属を放った感覚、うまくいかなかった違和感を思い出しながら呟いた。
「練度が関係してるなら……利き手で――」
辛は左手を構える。
その瞬間、妖の目が鋭く光った。
額の「幼」の文字が黒く脈打つ。
凪が息を呑む。
空を切る音がした。
一枚の葉。風に舞っただけのように見えたそれが、辛の能力によって硬化し、まるで刃のように鋭く閃いた。
そして何故か妖の動きがぴたりと止まる。
凪が見上げた。
空の向こう、何かの気配。
風が鳴る。
次の瞬間。
辛の生成した長刀が風を裂いた。
子供の身体とは思えぬ速度。鋭い金属音が響き、妖の身体が一刀両断される。断末魔もなく、黒い霧が弾け、森の静寂が戻る。
「うおおお! やった! 辛君が!」
凪が両手を上げて歓声を上げ、隣で爪戯もつられるように拳を突き上げた。
「すげえ……やっぱ辛って強いな! 子供でも関係なしかよ」
けれど当の本人は、無言で両手を見つめていた。
何かを確かめるように、掌を見つめ、ただ黙り込む。
今の攻撃の手応えに、違和感を覚えているかのように。
「あれ? 今回もいいところなし?」
「え? オレ、居る意味ある?」
凪と爪戯が同時に肩を落とし、力なくうなだれる。
その光景に、森の殺伐とした空気が少しだけ和らいだ。
◇
気がつけば、三人は幼い姿から元の姿へ戻っていた。
妖の消滅と共に術が解けたのだ。
霧も晴れ、昼の陽ざしが穏やかに流れている。
「次行こ! 次!」
凪が明るい声を上げて手を振る。
その背中を追って、爪戯が軽く手をポケットに突っ込みながら歩く。
辛は一番後ろ。無言のまま、左手を見つめていた。
その表情が、ふと険しくなる。
殺気。血の匂い。それに、この感じは。
風の流れが変わった。
辛は即座に立ち止まる。
「辛?」
爪戯が振り返り、首をかしげる。
だが辛は応えず、周囲を鋭く見回した。
あの妖たちの時もそうだった。感知が遅れている。
辛は特殊な感知能力を持つ。
しかし、いま自分の感覚が鈍っている、あるいはノイズが走っていることに気づいた。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
一方その頃、凪も同じように違和感を覚えていた。
あれ……この感じ……なんだろう?
次の瞬間。
後方にいた辛の身体が、糸が切れたようにふいに崩れ落ちた。
「辛君!?」
凪と爪戯が同時に駆け寄る。
地に膝をついた辛の呼吸は荒く、額には脂汗が滲んでいた。
ただの疲労ではない。内側から何かが食い破ろうとしているような、異様な気配。
凪は必死に思考を巡らせる。
この感じ、どこかで知ってる。確か、身近なところで。
「ちょっと待って……多分──」
言いかけたその時、辛がかすれた声で言った。
「オレのことは放っておいていい」
地面を強く握りしめ、歯を食いしばる。
全身に力が入らず、それでも立ち上がろうとする姿に、凪の胸が締めつけられた。
「何言ってんだよ!」
爪戯の怒声が響く。
だが辛は、焦点の定まらない目で静かに首を振った。
「まともに動けそうにない……それに……外れそうなんだ……」
言葉が途切れる。
その瞬間、辛の脳裏に鮮烈に蘇ったのは――母親の妖の気配だった。
あのおぞましくも懐かしい、闇の匂い。
血の匂い。
あのときと同じ、妖の気配が確かに漂っていた。