半妖の青年は“五つの異能”で理不尽を覆す。神と悪魔の運命に挑む【SIN】 作:神野あさぎ
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深い森の
豪奢な着物を纏い、艶やかな橙の髪を指先で弄ぶ。手元の報告書が、夜風に煽られて紙音を立てた。
「五つ……ですか。陰陽五行と同じ“五行使い”。その中でも愛用は
女は唇の端だけで妖艶に笑い、背後の漆黒の闇に視線を落とす。
そこには何もない。だが、確かに蠢く誰かの気配がある。
「良いでしょう、この依頼、引き受けます。獲物は――
女の裾が翻り、夜気が凍りついたように冷えた。
◇
日が尾根にかかり、空が茜色から群青へとグラデーションを描くころ。
「はあ……やっぱり、このまま野宿でしょうか?」
涙目で空を仰ぐ凪の前を、辛が黙々と歩く。
山風に青い髪が揺れるだけで、返事はない。
「……そういや、名前知らない!」
今さらの事実に凪が跳ねる。
辛は無言で足を止め、肩越しに涼しい目だけを向けた。
「あ、私は凪って言うの! あんたは!?」
「……辛」
音だけ置いて、また前を向く。
辛い、と書く字だ。名付けた親は未来予知でもできたのかと、凪は心の中で毒づいた。
動揺をごまかそうと、凪は慌ててその後を追う。
「待って! 個性的とは思ったけど馬鹿にはしてないからね! 置いてかないで! おーい!」
小走りで追いつこうとしたその時、崖沿いの細道に、うつ伏せの人影を見つけた。
「わ~、倒れてる~。死体?」
凪は遠慮なく人差し指でつつく。隣では辛が、拾った枝でつつく。
同じ動作でも、辛の方には容赦のない警戒心が宿っている。
生きてはいる。浅い呼吸と、膝に酷い裂傷。
「仕方ない、治してやるか!」
凪は着物の裾を払い、膝をつく。
掌に薄い光を灯すと、温かな波が傷をなぞり、見る間に血が引いていく。
「ん……」
青年が呻き、ゆっくりと上体を起こした。
水色の髪。右側の前髪が長く、右目は完全に隠されている。
「いや~、助かった。ありがとうございます」
青年は爽やかに笑い――迷わず辛の手を強く握った。
「命の恩人ですね!」
「待て! 治したのは私だ!! そっちじゃない!」
凪の鋭いツッコミが山彦となってこだまする。
「オレの名は
凪を完全に無視し、青年――爪戯は辛を見つめる。
「……辛」
「辛!? まさか――」
その反応に、凪の脳内で警報が鳴り響く。
来た。差別の流れだ。「化け物」「関わりたくない」――またそのパターンだ。
「やっぱりそうか! すごっ、本人じゃん? 噂の!」
爪戯は満面の笑みで手を打った。
違う。思ってた反応と違う。
凪がポカンと口を開けて固まるのをよそに、爪戯は辛の周りをぐるぐると回り始めた。まるで珍しい動物を見る子供のように。
「近くで見るの初めてだよ。近付けて光栄? どう見ても人間にしか見えないけどなぁ。周りの連中、見る目ないね」
ひとしきり観察を終えると、今度はぱっと凪に視線を移す。
前髪の下の右眼は、やはり閉じられたままだ。
「で、あんた何? オマケ?」
「何って何よ! 私が治してあげたの! 命の恩人! 治療費請求するからね!」
「ふーん」
興味なし、といった雑な一蹴に、凪は半分怒って半分呆れ、盛大に肩を落とした。
爪戯はすぐに辛へ向き直る。
「何してるの、こんな辺鄙なところで」
「……人探し」
短い。だが揺るぎない芯がある。
その時だった。崖の上で影が揺らいだ。辛の目が、獣のように鋭く細くなる。
「あんたこそ何してたの? 倒れてたけど」
「んー、任務帰り。ちょっとドジっちゃってね」
爪戯が軽い口調で答えた瞬間、頭上の影が裂けた。
大柄の男が、隕石のように天から叩きつけられたのだ。
轟音と共に、男の拳が地面を割り、砂礫が散弾のように弾ける。
辛と凪はとっさに身を翻して避ける――が、衝撃で崖際の岩盤が崩落した。
凪の足場が、ごそっと消える。
「――っ!」
身体が宙に浮く浮遊感。
凪の視界が反転し、底の見えない谷底が口を開けた。
死ぬ。
そう思った刹那。
強烈な力で左手首を掴まれた。
見上げれば、辛が右手で崖の木の根を掴み、左手一本で凪を支えている。
二人の体は、断崖絶壁にぶら下がっていた。
崖の上から、襲撃者の男が下卑た笑い声を降らせる。
「捕まえに来てやったぜ、お姫さ……ま?」
男は標的を見失い、辺りを見回した。
視線の先、崖の縁ギリギリに辛と凪。
「ちっ、しぶといな。……おい、そこの半妖。その手を離せば楽になるぞ?」
男の挑発に、凪の顔色が青ざめる。
辛の腕にかかる負荷は限界に近い。ミシミシと木の根が悲鳴を上げている。
「辛君、このままじゃ二人とも落ちちゃう。その前に手を離して。私のことはいいから――」
凪には目的がある。母の仇を見つけるまでは死ねない。
だが、自分のために辛を巻き添えにするのは違う。そう思った。
しかし、辛は凪の言葉を遮るように、掴む手に力を込めた。痛いほどに。
「断る」
辛は僅かに首を横に振る。
「オレは、ここで手を離したりしない」
「でも!」
「それに――あんた、言ったろ。仲間だから協力しようって」
無表情の奥。
能面のような顔の中で、瞳だけが熱く、まっすぐだった。
凪は昼間の言葉を思い出し、胸の奥がカッと熱くなる。
「……うん。言った」
上から男の舌打ちが聞こえた。
「どうしたもんかね――落とすか? でも女が死んじまうと生け捕りの契約に反するしな」
こいつも昼間のと同じか、と凪が冷ややかに測る。
「なあ、なあ」
男の背後から、間延びした声がかかった。
男が苛立って振り返ると、そこには砂埃を払う爪戯が立っていた。
「あんた、辛を殺したい?」
「あぁ!? かのと? 男の方か? ならそうだよ! 賞金首だからな!」
「そっか。分かった」
「つーか、なんなんだお前――」
男が問い終えるより早く、爪戯の指が鳴った。
鈍い音。
地面から鋭利な
ひび割れる音。血の飛沫。そして、永遠の沈黙。
「オレの推しを殺そうとするなんて、それは嫌だなぁ」
爪戯は笑顔のままつぶやき、死体が転がる崖際に屈み込んだ。
下を覗き込み、呑気に手を振る。
「敵? やっつけたから、上がってきなよ~」
「え?」
凪が目を白黒させた、次の瞬間。
辛が掴んでいた木の根が、生き物のように脈打ち、急激に成長した。
繊維のきしむ音を立て、芯を太らせ、節を突き出し、エレベーターのように二人を一気に崖上へと押し上げる。
「木が……成長した!?」
凪の驚きに、辛は答えない。
五行のうちの
崖上に転がり込んだ凪は、ぜぇぜぇと荒い息を整える。
「た、助かった……辛君と、えっと……誰だっけ? まあ、ありがと」
「あんたのためじゃないよ」
爪戯は即答し、すかさず凪に向き直る。
「名前、覚えろよな」
空は完全に夜の色に染まり、風が冷え込んでくる。
「大分暗くなったけど、宿のあてとかある?」
「ないから、このまま野宿かな、ははは……」
爪戯の問いに、凪は乾いた笑いをこぼす。
「じゃ、うちに泊まっていきなよ。この近くだし。これも縁ってことで!」
ぱっと灯りがともったような、裏のない笑顔だった。
その足元に転がる死体のことなど、まるで忘れているかのように。
「神様……! 救われた。ありがとう、名も分からぬそこの人よ」
凪は手を合わせて拝む。
「爪戯だ」
「つーか、あんたこそ名乗れや!」
「匿名希望です」
「殺すよ?」
凪との軽口の応酬が、闇の中に軽やかに響く。
辛はその二人を横目に見ながら、そっと自分の左掌を握った。
あの一瞬、凪の手首を掴み、放さなかった時の温度が、まだ微かに残っている。
夜気が冷え、風が梢をざわめかせた。
そのときだった。
木々の影が、音もなく立ち上がった。
辛は反応し、無言で振り返る。凪と爪戯には気づけないほどわずかな、しかし肌を刺すような確かな殺気。
闇の奥――女がひとり、冷たい月を背負って立っていた。
白い指先で報告書を弄びながら、唇だけが弧を描く。
「……見つけました。“半妖”の青年」
その声は、風に溶けて辛の耳にだけ届いた。
幻聴かと思うほど微かな、死の宣告。
凪が呼ぶ。
「辛くーん! 早く来てよ! 暗いよ!」
辛は返事をしようと口を開いたが、胸の奥を走ったひやりとした感覚に、言葉が喉にひっかかった。
遠くで、女が報告書を開き、指先で辛の名をなぞるのが見えた気がした。
月が雲間に隠れた。瞬間、すべての影が一層濃く落ちる。
辛は凪たちのほうを見た。
その無邪気な笑い声が、妙に遠く聞こえる。
辛は警戒を解かず、二人の元へ歩き出した。
だが背で、確かに感じた。
自分を放さないあの粘り着くような気配が、ゆっくりと、確実に追ってくるのを。
風が鳴る。闇がほどける。
夜の帳は落ち、獲物の行く手に、きわどく死の影が寄り添い始めた。