その夏、山田家の広大な敷地を支配していたのは、脳を焼くような蝉の鳴き声と、うだるような暑さだった。
地方都市の郊外に建つ山田家は、周辺でも名の知れた旧家である。漆喰の壁に囲まれた敷地内には、幾つもの瓦屋根が連なり、庭園の池では丸々と太った錦鯉が、淀んだ水面を揺らしていた。六歳の山田大輝にとって、この家は遊び場の全てであり、同時に退屈の牢獄でもあった。
大輝は、その生まれ持った温厚すぎる気質ゆえに、同年代の子供たちのように泥だらけになって駆け回ることは少なかった。彼はどちらかといえば、日当たりの良い縁側に座り、何も考えずに蟻の行列を眺めているような子供だった。周囲からは「おっとりした跡取り息子」と評されていたが、その実、彼の行動原理には常に「面倒か、そうでないか」という極めて単純なフィルターが存在していた。
「……自由研究、なにかやらなきゃ」
夏休みも終盤に差し掛かったある日、大輝は畳の上で寝転びながら、ふと思い出した。学校の宿題という「面倒なこと」を片付けるためには、何か一つ形にしなければならない。だが、朝顔の観察日記は水をやるのを忘れて枯らしてしまったし、工作をするにも道具を揃えるのが億劫だった。
「ネタ探し」のために、彼はふらふらと、家の北側に位置する「倉」へと足を向けた。
代々の当主が蒐集した骨董品や、用途不明の古道具が眠るその場所は、冷んやりとした空気と、古い紙の匂いに満ちている。埃が陽光に反射してキラキラと舞う中、大輝の目に止まったのは、棚の隅に置かれた一冊の和綴じの書物だった。
表紙は擦り切れ、文字は現代の人間には判読不能な崩し字で書かれている。しかし、好奇心だけは一人前だった六歳の彼は、最近買ってもらったばかりのスマートフォンを手に取った。覚えたばかりの「画像検索」という魔法。
画面をタップし、レンズを向ける。検索結果に表示された不気味な漢字三文字。
「こ……ど……く?」
画面には、無数の虫を一つの器に入れ、最後の一匹になるまで食い合わせるという、古の呪術の説明が並んでいた。大輝はそれを読み、少年らしい好奇心を発揮した。
「これなら、虫を集めるだけでいいし、かっこいいかも」
深い考えはなかった。ただ、夏休みの自由研究として「最強の虫を作る」という、男の子らしい単純な動機が、彼を突き動かした。
大輝は器となる物を探して倉の奥を探し回った。
十分後に汗だくになりながら倉の奥から引きずり出したのは、高さが五十センチ、横幅は1番太い部分で直径が三十センチほどもある、黒い大きな陶器の蓋付き壺だった。
表面には何らかの儀式を思わせるような、禍々しくも精緻な文様が彫り込まれている。ずっしりと重いその壺を、大輝は幼い体で懸命に抱えるようにして動かした。
しかし、その瞬間。
「あ……」
不器用な指先が滑り、壺の口が近くにあった石の台座に激突した。パキン、という硬質な音と共に、壺の口の縁が数センチほど欠け、小さい穴が空いてしまった。
「……まあ、いいか。蓋は閉まるし」
大輝は欠けた破片を拾うことさえ面倒に思い、そのまま作業を続行した。
それからの数日間、大輝の「収集」が始まった。
庭の草むらで捕まえたトカゲ、石をひっくり返して見つけたムカデ、雨上がりに現れたガマガエル、そして真っ黒なクモや毒々しい色の毛虫。山田家が所有する家の近くの山に入り込んで見つけた蛇。
彼はそれらを、何の慈悲も、そして何の悪意もなく、ただ「材料」として黒い壺の中に放り込んでいった。
「最後まで生き残ってたやつがチャンピオンだからね。頑張ってね」
大輝は微笑みながら、最後の一匹――鋭い顎を持つカマキリ――を投入し、蓋を被せ、倉に転がっていた麻縄で蓋を縛った。
縛り方はスマートフォンで調べて見様見真似でやったが、大輝はこういう手先の器用さだけは人一倍あった。
壺の口には、先ほど自分が作ってしまった欠け穴が空いている。だが、大輝はそれを「これなら空気穴になるから窒息しないや」と考えた。
夏休みが明け、登校日がやってきた。
大輝は朝起きて、倉の隅にある黒い壺を眺めた。数多の小動物が詰められているはずの壺の中からは、不思議と何の音もせず、本来あるはずの臭いも無い。しかしそれは、蠱毒の儀式が成功していることを意味していた。
「……どうやって持ってくか考えてなかったな……」
六歳の少年の力で、この巨大な壺を抱えて学校まで歩くのは不可能に思えた。様々な生き物を詰め込んだ壺は、既に自分の手に負える重さではなくなっていた。
親か、家の使用人たち、それら大人に頼めば何とかなるだろう。しかし、あの書物には、蠱毒は製作者以外が触れると「障り」があると書いてあった。なので大輝は、この壺のことを誰にも話した事は無かった。
「もういいや。ここに置いとこう」
ことなかれ主義の種芽が、この時すでに花開いていた。大輝は自由研究の提出をあっさりと諦めた。宿題を忘れたと叱られる方が、この重い壺を運ぶ苦労よりも遥かにマシだったからだ。
結果として、壺は山田家の倉に残り続けた。
大輝はあれからも蠱毒について書かれた書物を読み進めていた。その中の記述には「蠱毒の殺し合いが長引くほど、より強力な蟲となる」という一文があった。
大輝はそれを真に受けて、「なら新しいやつを継ぎ足し続けたら無敵になるじゃん」と考えた。
それから、この壺は大輝の秘密のペットのような存在となった。
彼は毎日、倉を訪れては、欠けた穴から「エサ」を投げ込んだ。近所で捕まえた生きた虫、夜店で取ったはいいものの、すぐに死んでしまった金魚、さらに、喉が渇かないようにとストローで水を注ぎ込んだ。
大人たちは大輝が最近、倉の方で何かしている事には気付いていたが、大輝が見たことないような笑顔で外へ遊びに出かけるようになったのを見て、深く追求することはなかった。
「今日も元気? クロちゃん」
大輝はその不気味な黒い壺に、安直な名前をつけた。
蓋を閉められ、暗闇の中で凄惨な殺し合いを演じているであろう怪物たち。生き残るために隣者を喰らい、その毒を、怨念を、生命力を一つの肉体に凝縮させていくプロセス。
だが、大輝にとっては、それはただの「可愛いペット」だった。
欠けた穴から差し込まれる一筋の光が、壺の底で蠢く「何か」の輪郭を照らす。それはもう、虫でも爬虫類でもない、この世の生物の法則を逸脱した歪な塊へと変貌していた。
大輝は、何も考えていなかった。
この壺が、どれほどの禍根と呪いを孕んでいるのか。
そして、この無垢な継続が、やがて世界をどのような形で侵食していくのか。