蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第十四話

「……っ、はぁ、はぁ……。大輝くん、聞こえる? 今から始めるわよ」

 

斉藤香澄は、喉の奥までせり上がってくる嘔吐感を、幾重にも重ねた防御術式で無理やり抑え込んでいた。

 

彼女の周囲には、斉藤家秘蔵の「清浄の理」を刻んだ数珠が十数本、結界を維持するために異常なほどの光を放ち、摩擦音を立てて砕け散る寸前だった。

 

目の前の光景は、端から見れば異様の一言に尽きた。

寝室の広大な布団の上。十四歳の少年、山田大輝は、一切の衣類を纏わぬ全裸の姿で、無防備にうつ伏せで寝そべっている。

 

 

 

事の始まりは二日前、香澄が必死の思いで大輝に持ちかけた「相談」だった。

 

 

 

阿宗家という巨大な「栄養」を摂取したクロちゃん。そしてそこに繋がる山田大輝。彼の住まう山田家の屋敷を包む空気は、もはや静謐な絶望を通り越し、生存そのものを拒絶する絶対的な「死」の領域へと変貌していた。

 

廊下を歩けば、壁の木目が苦悶に歪む顔のように見え、天井からは実体のない黒い煤が雪のように降り積もる。斉藤香澄は、玄関に足を踏み入れた瞬間に肺を圧迫するような重圧を感じ、思わず膝をつきそうになった。

 

「……っ、何なのよ、この圧力は……。数日前よりも、ずっと濃くなっている……」

 

彼女は震える手で懐から数枚の呪符を取り出し、自身の霊的な障壁を強化する。しかし、そんな付け焼き刃の加護など、大輝から漏れ出す「存在の暴力」の前では、荒波に洗われる砂の城も同然だった。このままでは、勉強を教えるどころか、彼の側に五分と留まることすらできない。

 

大輝自身は、その自覚がまるでない。彼にとっては、ただ少し体が火照り、世界がより鮮やかに見えるようになった程度の変化でしかないのだ。

 

「大輝くん、このままじゃダメよ。あなたの力は、もう普通の人間が耐えられる閾値を越えてしまっているわ。こうなったらもう、あなたの肌に直接、呪印を刻んで、クロちゃんの部屋と同じような結界を展開して、邪気を中に封じ込めるしかないわ」

 

香澄の必死の説得に対し、大輝は最初、ひどく面倒そうな顔をした。

 

「ええ……。全身に入れ墨なんて、痛そうだし嫌ですよ。それに三日もかかるんでしょう? めんどうだなぁ」

 

彼は縁側で欠伸をしながらそう答えたが、香澄は一歩も引かなかった。

 

「いい、大輝くん。よく聞いて。今のあなたは、自分でも気づかないうちに世界を毒しているの。使用人の人たちはもう、あなたの部屋の近くを通るだけで鼻血を出して倒れているわ。私も、このままだとあなたの家庭教師を続けられない。……あなたが、これからも『人間』としてここで暮らしたいなら、その溢れ出す力を、あなたの肌という『器』の境界線で封じ込めるしかないの」

 

香澄は、震える手で彼の肩を掴んだ。

 

「このままだと、あなたは一人きりになっちゃう。誰も、あなたの傍にいられなくなるのよ」

 

その言葉に、大輝は一瞬だけ、寂しげな子供の表情を見せた。

 

「……それは、ちょっと困るかも」

 

大輝は渋々といった様子で、その提案を受け入れた。

 

 

 

そしてそれから二日後の今日、大輝の私室は、厳粛な「工房」へと変貌していた。

 

中央の布団の上には、全裸になった大輝がうつ伏せで横たわっている。十四歳の少年の、まだ細い背中。しかしその肌の下では、どす黒い呪力の奔流が脈打っており、視認するだけで精神が汚染されそうな錯覚に陥る。

 

その傍らには、東宮家から派遣された専属の彫り師*1の男がいた。男は、霊的な加護を何重にも施された針を手に、死刑台に登る囚人のような青ざめた顔で座っている。

 

「……斉藤様、頼みましたぞ。あなた様の守護が無ければ、私は数分と持たんでしょう」

 

彫り師の震えを、香澄は叱咤した。

 

「東宮家の看板を背負っているのでしょう。しっかりしなさい。私が結界を維持するわ。あなたはただ、術式を正確に刻むことだけを考えればいいの」

 

香澄は印を結び、大輝の周囲を囲うように防御術式を展開した。しかし、一人でその猛烈な邪気を防ぎ続けるのは、暴風雨の中で一本の傘を差すような苦行だった。額に汗が滲み、視界がチカチカと明滅し始める。

 

香澄がこの術式を維持出来るのは、長く見積っても一時間程度だろう。やはり、予定していた通り、三日間に分けての長丁場になる。そう香澄が覚悟を決めた時だった。

 

 

 

「あら、随分と苦戦しているみたいじゃない」

 

冷ややかな、しかし凛とした声と共に、和室の襖が開いた。現れたのは、間宮家当主・間宮零である。彼女は、山田家の家紋の入った浴衣を身につけて(ピアスや指輪などは相変わらず大量に身につけているが)勝手知ったる我が家のような気軽さで部屋に入ってきた。

 

実は、彼女はあの日以来、屋敷の主である大輝が何も文句を言わないのを良いことに、山田家に住み着いていた。

 

大輝という「特異点」を間近で観測するため、そしてその異常なまでの生存圏に惹かれるように。

 

「間宮様……。なぜここに」

「決まっているでしょう。彼は今の呪術界において、一番の観察対象よ。無理をしてでも、近くでその存在を記録する義務があるわ」

 

零はそう言いながら、香澄の隣に座り、淀みない動作で印を結んだ。瞬間、香澄の負担が劇的に軽くなる。零の放つ氷のような冷徹な霊力が、大輝の熱を帯びた邪気を中和していく。

 

「……助かります」

「勘違いしないで。私がこの子の側に居やすくするために手伝うだけよ」

 

二人の霊能者による、空前絶後の「保護術式」が完成した。これならば、休憩なしでの連続作業が可能だ。

 

 

 

作業が始まって数分もしないうちに、大輝は高密度の邪気が渦巻く中で「すー……すー……」と、春の陽だまりにいるかのような穏やかな寝息を立て始めた。

 

「……この状況でよく寝られるわね、このバグ野郎は」

 

香澄の隣で、不機嫌そうに、しかしその瞳に隠しきれない熱狂を宿して零が毒づく。

 

本来、肉体に直接呪印を刻み込むこの行為は、魂に手を加えるのと同義である。その苦痛が耐え難いものであるところは、知識としても、実際に自分の肉体へ刻印した経験もある零は、よく知っている。

 

東宮家から派遣された彫り師の男は、開始して数分も経たないうちに、既に精根尽き果てた顔をしていた。

 

彼とて東宮家の経験豊富な霊能者の一人だが、これまでの長いキャリアの中で、これほどまでに「命の危険」を感じる仕事はなかった。

 

大輝の肌に針が触れるたび、そこから逆流してくる「深淵の重圧」が、彼の魂を削り取ろうとする。

 

横の二人が交代で展開する守護術式がなければ、彼は最初の一彫りで狂死していたかもしれない。

 

必死でその手の震えを抑えながら、背部の『大扉』から、側腹部の『巡礼路』へと繋げる呪印を刻もうとしたその時。

 

 

 

「待ちなさい」

 

零が鋭く制止した。彼女は彫り師の手を掴まんばかりの勢いで身を乗り出す。

 

「……そこの呪印は龍の位相の逆位置にした方がいいわ。正位置だと力の流れを一本に絞る事になって経絡が持たない」

 

彫り師の男は、その言葉に一瞬手を止めたが、一理あると納得して零の言う通りにした。

 

しかし、そこからも零の「ダメ出し」は止まらなかった。

 

「その順番で刻印していくなら、次は柊の成分を取り入れて刻むといいわ。東宮家の古臭いやり方じゃ効率が悪すぎる」

「……しかし、これは一族の秘伝で……」

「黙って私の言う通りにしなさい! 東宮家の結界術は確かに優れているけれど、私たち間宮が研鑽してきた術理だって負けてないのよ」

 

零の横槍は、次第に熱を帯びていった。彼女の自信に満ちた「横やり」が、彫り師の伝統的な手法を非効率として切り捨て、自らの膨大な知識に基づいた最適な術式を強制的に組み込んでいく。

 

「……なんでそこでその記号を刻むのよ。そこは『山』の記号にしときなさい。この子の名字は山田なんだから、その結びつきを利用しなさい」

「あの、間宮様、流石に……」

 

香澄が口を挟もうとしたが、零の勢いは止まらない。

 

「……あぁもう! 違うわよ! まどろっこしい! 貸しなさい! もう私が彫るわ!」

 

とうとう零は、彫り師から針を奪い取ると自分の手で呪印を刻み込み始めた。

 

呆然とする彫り師をよそに行われる、間宮家当主による、手ずからの刻印。

 

彼女が針を動かすたび、大輝の白い肌には、見る者の理性を狂わせるほどに複雑で、同時に幾何学的な美しさを湛えた「黒い蔦」のような文様が広がっていく。

 

香澄は、零のあまりの熱量に呆れ果てながらも、交代で保護術式を編み上げ続けた。

 

当初、休息を挟みながら三日に分けて行うことになると見られていた重作業は、零の異常なまでの効率化と、専門外のはずの芸術的な手捌きによって、驚異的な速度で進んでいった。

 

数時間が経過し、日が沈み始めた頃。

 

大輝の頭皮や顔から四肢、そして足の裏に至るまで、びっしりと、隙間なく「封印の呪印」が刻み込まれた。

 

最後の一針が終わり、零が荒い呼吸と共に針を置いた瞬間。

 

部屋を埋め尽くしていた、あの悍ましい邪気の霧が、吸い込まれるように大輝の体へと収束していった。

 

 

静寂。

 

 

つい先ほどまで、この世の終わりを予感させていた重圧が、嘘のように消え失せた。

 

そこにあるのは、全身を黒い、おどろおどろしいまでの紋様に覆われた、ただの十四歳の少年の肉体だった。

 

空気は清浄になり、歪んでいた空間の解像度が正常に戻っていく。大輝から漏れ出していたあの悍ましい邪気は、今や彼の肌の表面で、刻まれた呪印の中に完全に封じ込められていた。

 

「……これで、とりあえずは『人間』のフリができるはずよ」

 

零は額の汗を拭い、達成感に満ちた顔で大輝を見下ろした。

 

「……終わった、のね」

 

香澄は結界を解き、泥のように畳に座り込んだ。

 

全身から力が抜け、指一本動かすのも億劫だ。隣では、零が魂を使い果たしたような顔で、しかし満足げに大輝の背中を見つめている。

 

「……完璧だわ。私の人生で、最も美しい『作品』になった……」

 

呪印の隙間から見える大輝の肌は、以前よりも透き通るように白く見え、入れ墨の威圧感を除けば、どこにでもいる華奢な少年の姿そのものだった。

 

「……こうやって、気配が消えて、静かに寝ているのを見ると、案外可愛い顔をしてるのね」

 

香澄は無意識のうちに、大輝の柔らかそうな髪に手を伸ばし、優しく撫でた。生徒を慈しむような、あるいはもっと根源的な愛着のような温かな眼差し。

 

「……あら、もしかして貴女、そういう趣味なの?」

 

後ろから、零の冷ややかな、それでいて楽しげな声が飛んできた。

 

「なっ……! 違っ、これは別に……!」

 

香澄は弾かれたように手を引っ込め、顔を真っ赤にして弁明した。

 

「別に否定しなくてもいいわよ。この子、顔は良いしね。それに霊能者は本能的に強い雄を求めるものよ。気持ちは理解できるわ。……まあ、私はただ、彼という『特異点』の情報を研究したいだけだけれど」

 

零は不敵に微笑み、眠る大輝の傍らに腰を下ろした。

 

 

 

夏の終わり、山田家の屋敷。

 

全身に禁忌の鎖を刻まれた少年は、二人の美しき霊能者に見守られながら、穏やかな眠りの中で、さらなる深淵へとその魂を沈めていた。

 

外では、秋の虫が鳴き始めている。その音さえも、この部屋に届く頃には、どこか不自然な静寂を伴っていた。

*1
物や人に対して、結界術の応用による呪印を直接刻み込み、加護や退魔の術式を付与する事を生業とする人間のこと

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