世界は、目に見えない霊的なネットワークによって、かつてない密度で結ばれていた。
日本の片隅、山田家の祭壇の間から放たれた「一滴の毒」は、光ファイバーの網を伝い、衛星の電波に乗り、瞬く間に国境という名の防壁を無効化していった。
大陸、半島、島々。文化も言語も異なる地において、しかし「視える」者たちが共通して感じ取ったのは、天を突くほどの巨大な黒い柱が、日本の中心から立ち昇っているという戦慄のビジョンだった。
一般人がそれを「未知のサイバーテロ」と呼び、科学的な解決策を求めて奔走する一方で、世界の影を司る者たちは、自らの肌に突き立てられた「死の予感」に凍りついていた。
中国、北京。古の風水に基づき、龍脈の力を一点に集束させた「陰陽師」たちの最高意思決定機関「龍穴」の地下最深部では、普段は静寂に包まれているはずの祭壇が、断末魔のような軋み声を上げていた。
「……信じられん。これは、何だ」
重鎮の一人、白髪の陰陽師が震える手でタブレットの画面を指した。画面には、昨夜の配信のアーカイブが映っている。再生ボタンすら押していない。ただサムネイルが表示されているだけで、部屋を取り囲む数千の護符が、黒い火に焼かれたように端から炭化し始めていた。
「蠱毒、だと……? いや、そんな生易しい言葉で収まるか。確かにあれは壺であり、その理は我らも知るところだ。だが、これほどの規模、これほどの純度はありえない。一人の少年が養えるような代物ではないぞ。あれは、既に怪異と呼べるような存在ですらない。異形の、神そのものではないか」
彼らの周囲にある結界を維持するための呪符は、内側から黒い煤にまみれて燃え落ちていく。彼らは、自分たちが守ってきた歴史も、積み上げてきた法力も、この画面の向こう側の「何か」にとっては、蟻が築いた砂の城に過ぎないことを、本能的な恐怖と共に悟らざるを得なかった。
陰陽師の一人が、せめてこの映像を遮断しようと印を結ぼうとしたが、印を結ぼうとした瞬間、彼はまるで天地がひっくり返ったような感覚に襲われ(傍から見るとひとりでに)地面に向かって突進する羽目になった。
「……手、を出すな。見るだけで精一杯だ。我らにできるのは、ただ、この災厄が過ぎ去るのを待つことだけだ」
彼らはただ、恐怖に震えながら、東から訪れた新しい「天災」の顔を仰ぎ見る。
彼らが千年以上守り続けてきた術理、皇帝の治世を支えた秘儀。それらすべてが、画面の中の「クロちゃん」という名の歪な胎動の前に、塵芥のように瓦解していく。重鎮たちは、数千年の歴史を持つ自負をへし折られ、ただ暗い地下室で、互いの歯の根が合わない音を聞きながら、震え続けることしかできなかった。
イタリア、バチカン市国。
教皇庁のさらに裏側に位置する「異端審問特別局」
そこでは、現代の「エクソシスト」たちが、揃って十字を切っていた。彼らは、画面の中に映る「クロちゃん」という、吐き気を催すほどに不浄な壺を、悪魔の化身として断罪しようとしたのだ。
「主の名において命ずる! 穢れたるものよ、地獄へと退け!」
一人のエクソシストが、銀の十字架を高く掲げ、モニターに向かって激しい祈りを捧げた。しかし、次の瞬間、彼の叫びは喉の奥で悲鳴へと変わる。
彼が握っていた純銀の十字架が、まるでインクを吸い込んだかのように、根本からじわりとどす黒く変色していったのだ。それは、神の守護がこの少年の「悪戯」に屈したことを意味していた。
『不敬だぞ、君たち』
誰の声だ。
音響設備からは何も聞こえない。だが、部屋にいた全員の鼓膜を、少年の嘲笑うような声が突き抜けた。
同時に、十字架を掲げていた者の全身が、見えない糸で吊るされたように跳ね上がる。彼の眼窩からは血が噴き出し、聖水で満たされていた器は、瞬く間に泥水へと変化した。
「……ああ、主よ、お赦しください!」
プライドを捨て、謝罪を口にすると、ようやく異変は収まった。解放された彼らは、荒い呼吸を繰り返しながら、自分たちが直面している存在の異常性を痛感していた。
「……あれは、手を出すべきではない。サタンですら、これほど無邪気に人を呪ったりはしない」
「あれは、神のようにこちらを見つめ、その恐怖を啜っている。我々ができることは、もはや祈りではない。ただの屈服だ」
絶望の静寂が、バチカンの地下を支配した。
その頃、大西洋を挟んだ英米の「ウィザード」たちの組織は、他国とは一線を画す対応を見せていた。
秘匿組織「ヘルメス」アメリカの戦略的な資本と、イギリスの歴史ある魔術体系が融合した、世界最大の霊的防衛組織である。
「日本は、おそらく既にあの壺の怪異の手に堕ちている。だが、我々が動けばまだ間に合う」
金髪の壮年、組織の指揮官である男が、傲岸不遜な声で命を下した。彼らにとって、これまでの他国の失敗は「術の未熟さ」によるものに見えていた。自分たちの総力を結集すれば、いかなる怪異も理論的に分解できると信じて疑わなかった。
「これより、総力を挙げて対象、クロちゃんと名乗る――」
しかし、指揮官の言葉は、最後まで続かなかった。
「……ッ、ごぼっ」
彼の口から、言葉の代わりに、ドロリとした粘り気のある「黒い泥」が吹き出した。
喉に詰まった泥を吐き出そうと男が悶絶する中、防護服を着た職員たちが悲鳴を上げる。高度な魔術遮蔽壁に囲まれていたはずの、完全な密室。その中心、呆然とする一同の影から、一人の少年が「染み出す」ように現れた。
山田大輝。
灰色の和装に、びっしりと刻まれた黒い呪印。
その少年――山田大輝は、最新鋭のサーバーラックに背を預け、まるで友人の家に遊びに来たかのような朗らかな笑顔を浮かべていた。
「やぁ皆さん。こんばんわ。勝手にお邪魔させてもらってるよ」
その言葉は、流暢な英語であり、同時にロンドンの訛りさえ完璧に模倣した、洗練された言語だった。
「な! い、 いつから、いや、どこから入った!」
ウィザードたちが一斉に杖や銃を取り出そうとするが、彼らの指先は氷のように凍りつき、一ミリたりとも動かすことができなかった。空間そのものが、少年の存在によって「固定」されていた。
「僕もつい最近気付いたんだけどね。恐怖心ってのは1か0で表せるようなものじゃないんだ。」
大輝は、質問に答えるように、一歩、また一歩と、泥を吐き出しながら膝をつく指揮官に近づいた。その足音は、死刑宣告の鐘のように室内に響く。
「グラデーションみたいなものでね、考える内容によって、どれだけ恐怖しているかが変わるんだ」
大輝は指揮官の前に立つと、そこで一度言葉を切り、指揮官の男の目線に合わせるかのように膝をついた。
「……君たちは、僕らの姿を頭に
大輝はそう言って、言葉を失って固まる指揮官に向けて微笑んだ。
「……別に、命まで取ろうって訳じゃないから、大人しく諦めてね。僕がしたいのは家族の自慢であって、君たちとの戦争じゃないんだから。でも、邪魔をするなら……次はお仕置だけじゃ済まないよ?」
大輝は、金縛りで動けなくなった指揮官の肩を、ポン、と優しく叩いた。
その瞬間、室内を支配していた絶対的な霊圧が、一気に霧散した。
大輝の姿は、影の中に溶けるようにして消え去り、あとには泥まみれの床と、再起動を繰り返す虚しいモニターの光だけが残された。
「……馬鹿な。我々の結界を、認識すらさせずに通り抜けたというのか」
「影に潜んでいたのではない。彼は、インターネットという情報の海を通じ、我々の『意識』の中に直接現れたんだ……」
「見られているというのか……今、こうしている間も……」
指揮官は、泥を拭うことすら忘れ、少年が触れた自分の肩を呆然と見つめた。
彼らは理解した。あの男は、既に人知を超えた高みにあり、自分たちは彼の舌の上で転がされている、ただの観客に過ぎない。
銃も、魔術も、核兵器さえも、あの少年を傷つけることはおろか、その視界に「敵」として入ることさえできない。
敵対心を抱いたその時点で、即座に呪われる?
そんな存在をどのようにして倒すと言うのか。
世界中の「救済者」たちが、一晩にして「無力な傍観者」へと成り下がった。
デジタルという最新の祭壇に降臨した神は、もはや信仰を必要としなかった。ただ「恐怖」という名の、最も純粋な認知さえあれば、彼はどこまでも肥大し、全人類を飲み込んでいく。
世界はかつてないほどの、静謐で、かつ狂気的な「平和」に包まれていた。
逆らえば呪われ、謝れば助かる。
単純明快な暴力による秩序。
もはや、立ち向かう者はいなかった。
世界中の霊能者たちが、ただスマホやモニターの前で、血の涙を流しながら「神」の言葉に耳を傾ける。
デジタルという最新の祭壇。
その上で、山田大輝という名の毒は、全人類の意識を一つの「蠱毒の器」へと閉じ込め、ゆっくりと、しかし確実に、その蓋を閉ざそうとしていた。
海外の霊能者の方々
呼び方や扱う術に差はあれど、日本の霊能者と同じような存在。今回で見事に大輝くんに屈服した。その秘匿性ゆえに、アメリカとイギリス以外はお互いの存在について知らない。「まぁ多分我々と同じような存在は他国にもいるんやろなあ」くらいの認識。多分今後は出てこない。