蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第二十一話

たった三日。

 

それは、人類が数千年の歴史をかけて積み上げてきた「社会」という名の精密な砂の城を、根底から優しく、そして容赦なく崩壊させるのに十分すぎる時間だった。

 

始まりはスマートフォンの画面から染み出した一滴の毒だったはずだ。しかし今、その毒は光ファイバーの神経網を駆け巡り、全世界の人口の半分――約四十億人の脳幹へと直接、不可逆の「楔」として打ち込まれていた。

 

それは「戦争のやり方を忘れる」「他者を害する手順を想起できなくなる」という、あまりにも優しく、同時にあまりにも暴力的な精神の改変だった。

 

世界の半分が「不可解な平穏」に塗り潰されようとする中、情報を司るマスメディアの現場は、かつてない狂乱と地獄絵図の真っ只中にあった。

 

「……次のニュースです。……いえ、次の、その、素晴らしいお知らせをお伝えいたします」

 

日本の大手キー局の報道スタジオ。数時間前まで「国家非常事態宣言」「未知の広域ミームテロ」というおどろおどろしい赤文字のテロップを流し続けていた番組は、いま、異様な空気に支配されていた。

 

メインキャスターを務めるベテランアナウンサーの男は、完璧に整えられたスーツの袖から、だらだらと滝のような冷汗を流していた。彼の目の前にあるプロンプター(原稿表示装置)には、急遽書き換えられた「不自然なほどに明るい」文章が並んでいる。

 

彼のすぐ横、デスクの上には、血の着いたハンカチがそのまま捨て置かれている。そこに座っていたサブキャスターの女性だったが、彼女は数分前、生放送中に「この配信者は、奇妙な壺を可愛いペットなどと称している……」と口にした瞬間、両方の鼻孔と歯茎から、まるで蛇口をひねったかのように鮮血を噴き出して卒倒しかけたのだ。

 

カメラの向こうにいる視聴者たちは、その血の跡を見せられないよう、不自然なアングルで切り取られた画面を見つめていた。しかし、スタジオにいる誰もが知っている。カメラの赤いランプが点灯しているこの空間そのものが、あの画面の向こうにいる「全身に呪印を刻んだ謎の少年」と、その傍らで「脈打つ不気味な黒い壺」の視界と直結しているのだということを。

 

「ええ……現在、世界各地で発生している『特定の記憶の忘却現象』について、専門家からは……非常に好意的な意見が寄せられています。そう、これは、人類が長年望んでいた『真の恒久平和』の第一歩に他なりません。あの……偉大なる配信者様と、その愛らしいペットである『クロちゃん』の恩恵により、私たちはかつてない幸福な時代を……」

 

キャスターの男の声は、恐怖で小刻みに震えていた。少しでも「テロ」「怪異」「異常」「危険人物」といった否定的な言葉やニュンスが脳裏をよぎり、それが口に出そうになるたび、喉の奥が焼け付くような熱を帯び、内臓が裏返るような激痛が走る。

 

マスコミ関係者たちは、この三日間で、自分たちが完全に「言論の自由」を剥奪されたことを理解した。だが、それは物理的な検閲や国家による弾圧、あるいは法的な罰則によるものではない。

 

『配信者や、そのペットとされる器への不敬な発言、不敬な思考を抱いた瞬間に、体内から強制的に出血する』

 

ただそれだけの、あまりにもシンプルで逃げ場のない超常のシステムだった。

 

テレビ局の役員たち、新聞社の主筆たち、ネットメディアの編集長たち。彼らは一様に、自室で血の涙を流し、のたうち回った末に、涙ながらに「配信者様は神である」「クロちゃんねるを賛美せよ」という方向へ、一晩で舵を切らざるを得なかった。

 

番組のコメンテーターとして出演していた頑固な政治評論家の老人は、事件の一日目、「あんなタトゥーだらけの東洋の餓鬼に世界が屈するなど、国家の威信はどうなっている!」と怒鳴り散らした直後、スタジオの床へ頭から突っ込み、自分の指先で畳を掻きむしり、喉をかきむしって「申し訳ありません! 悪口を言ってごめんなさい!」と絶叫して謝罪するまで、肺から完全に酸素を奪われて白目を剥いた。その凄惨な生放送の様子は、モザイク処理すら間に合わず全世界に配信され、大衆の脳裏に「絶対的な恐怖」を植え付けるための最高の実演教材となった。

 

結果として、テレビもラジオもネットニュースも、すべてのメディアが「クロちゃんねる」を畏怖し、同時に熱狂的に賛美する「狂信的な広報機関」へと成り下がっていた。番組の合間に流れるCMすらも、いつの間にか公共広告のような体裁で「謎の配信者様への謝罪と、クロちゃんへの感謝の表明」を推奨する内容に差し替えられていた。一般の視聴者は、画面から流れるその奇妙な狂信性を、自らの脳内にある「本能的な恐怖」と共鳴させながら、静かに、深く受け入れていった。

 

 

 

一方、日本のどこかであることだけは判明しているものの、その正確な発信源を求めて暗闘する各国政府の頭脳は、これまでにない致命的な「死」の領域に直面していた。

 

アメリカ合衆国、ワシントンD.C.の地下深くにある、大統領緊急事態対策室。

 

最先端の暗号通信機器と、大国が誇る軍事知能のすべてが詰まったその密室は、死臭に似た絶望の静寂に沈んでいた。

 

「……大統領。状況は、最悪という言葉すら生温い段階に達しています」

 

統合参謀本部議長が、軍服の胸元をだらしなくはだけ、魂の抜けたような顔で報告した。彼の目の前にある大型スクリーンには、全米、ひいては同盟国すべての軍事基地の「機能停止状態」を示す赤いアラートが不気味に点滅している。

 

「ロシアとの対話も、中国とのホットラインも、すべて同じ回答です。彼らも……我々と同様に、完全に『武器の使い道』を喪失しています」

 

大統領は、震える手で自らの額を押さえた。彼もまた、昨夜の配信を「大統領としての義務」として視聴し、その結果、世界の「均衡」が音を立てて崩れ去るのを目の当たりにした一人だった。

 

「そんなはずはない……。物理的に、兵器が破壊されたわけではないのだろう? 核ミサイルのサイロも、ステルス戦闘機も、すべて無傷でそこにあるはずだ。私はボタンを押せ、と命令するだけだ。オペレーターに、ただ手順を実行させればいいのではないのか?」

「それが、できないのです」

 

議長は、絞り出すようなかすれた声で言った。

 

「システム自体は完全に正常です。電子回路にバグはありません。しかし、キーを入力しようとするオペレーターや、戦闘機に搭乗しようとするパイロットたちが、その『目的』を脳内で組み立てようとした瞬間、全員が見当識障害に似た記憶喪失を起こします。『兵器を使って敵を攻撃する』という、あまりにも単純な攻撃のロジックが、彼らの脳の認知機能から綺麗に消去されるのです。ミサイルが爆発すれば、あそこの都市が消える。それは知識として理解できる。しかし、『どうやってミサイルを攻撃に使うのか』を考えようとすると、まるで脳の神経回路が瞬時に焼き切れるような、真っ白な虚無が発生するのです」

 

軍人たちは、ただの「兵器の保守点検業者」へと退化していた。戦闘機を飛ばすことはできる。空を飛ぶのはただの移動だからだ。だが、その戦闘機に搭載された機関砲のトリガーを絞り、地上の人間に向けて弾丸を浴びせるという「加害の意識」が、物理的にイメージできない。

 

「国家安全保障局は何をしている! 配信元だ! あの日本のどこかにいるらしい、ふざけたタトゥーの少年が配信している発信元のIPアドレスを特定し、特殊部隊を送り込んで物理的に排除するんだ! 日本政府に圧力をかけろ!」

 

大統領の怒号に対し、サイバー対策局の長官が、血の気の引いた顔で首を振った。

 

「既に行っています。大統領。GPS、衛星通信のパケット追跡、プロバイダのルーターログ、あらゆる科学的手法を試しました。しかし、システムが弾き出す結論は常に一つ。――『配信パケットは、今この映像を観測している大統領ご自身の端末から直接発信されている』という、狂った結果しか出ないのです。まるで、インターネットという情報インフラの内部に、あの少年の意思が、最初から物理法則のように組み込まれていたかのように……」

「馬鹿な! 物理的な場所があるはずだ! 日本の山間部、あるいは旧家、そこから電波が出ているという分析があっただろう!」

「それについても……調査に向かわせたCIAの現地エージェントたちからの連絡が途絶えました。殺されたのではありません。彼らは、配信元の可能性があると推測された極東のエリアに足を踏み入れた瞬間、『私は、ここで何を調べに来たのだろうか』『そうだ、日本は素晴らしい国だ。温泉に入りに行こう』と、任務の目的そのものを完全に忘却し、ただの観光客として現地で遊び始めてしまうのです。彼らに対し、無線で『任務を思い出せ、ターゲットを特定しろ』と命令を繰り返しても、彼らは『ターゲットとは何ですか? なぜ人を特定しなければならないのですか?』と、幼児のように無垢な疑問を返すだけなのです」

 

衛星画像による観測すらも、大輝を覆う「認識阻害」の術式によって完全に無効化されていた。特定しようとした座標の画像は、なぜか常に分厚い雲に覆われているかのように処理され、あるいはただの平凡な森のテクスチャへと自動的に書き換えられてしまう。

 

世界のいかなる軍事覇権国も、この「謎の東洋の少年」の足元に触れることすら叶わない。彼らにとって、その隠蔽は「物理的な自然現象」と同義であり、抗う術など最初から存在しなかったのだ。

 

仮に山田家の場所が分かったところで、山田大輝の存在を知っている人間は既に「平和の呪い」によって無力化されている。絶望的な「詰み」がそこにはあった。

 

しかし、恐怖と絶望に包まれる彼らとは対照的に、一般人の中では、奇妙な動向が目立ち始めていた。

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