蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第二十三話

静寂は、かつてこれほどまでに重苦しいものだっただろうか。

 

都心の喧騒から隔絶された斉藤家の本邸。その最奥に位置する、幾重もの霊的断熱材と破魔の結界に囲まれた地下の密室。かつては数々の怪異を滅するための策が練られ、一族の最高機密が交わされてきたその部屋は、いまや、巨大な怪物の胃袋の底と変わらない、冷たい沈黙に支配されていた。

 

卓を囲むのは、日本の呪術界を支える三家の当主たちである。

 

斉藤一成は、古びた文机に深く肘をつき、組んだ両手の隙間から虚空をじっと見つめていた。その表情には、千年の歴史を誇る名門の長としての威厳は欠片もなく、ただ、刻一刻と迫り来る終末を待つ受刑者のような諦念だけが張り付いている。

 

その対面に座る東宮隆臣は、さらに酷い有様だった。

彼の指先は、小刻みな震えを止めることができず、膝の上に置かれた手の爪の隙間には、未だに薄黒い汚れが残っている。それは二週間前、大輝の「お仕置」を受けた際に、自身の眼窩と歯茎から噴き出した血の凝固した跡だった。どれほど洗っても、霊的な傷がもたらしたその痕跡は消えず、彼は今や大輝の姿を思い浮かべることすら、脳裏に走る激痛に怯える始末だった。

 

「……一成殿。我々は、どこで掛け違えたのだ」

 

隆臣の掠れた声が、湿った地下の空気に溶けていく。その声は、極限まで抑えられていた。

 

「隆臣殿、恐怖心を抑えよ。あまり怖がりすぎると、思考まで読まれるぞ」

 

彼らが今、最も注意しなければならないこと。それは、声の「指向性」と、その背後にある「意志」の制御だった。

 

大輝は、「自分やクロちゃんについて、誰かが話をしたりすると、そこに乗った恐怖という感情を通してそれを知覚する」という、全知に近い認識網を完全に確立している。

 

熟練した霊能者である彼らは、その絶望的な「盗聴仕様」を、自身の骨身に刻まれた恐怖によって、百も承知でこの場に臨んでいた。

 

「結界は仕込んでいるが、こうやって話している内容は彼にも筒抜けだろう……だが、零殿が言うには、私たちがただ、手の施しようのない現状に頭を抱え、泣き言を言ったり、諦め混じりの愚痴を口にしている程度であれば、あの少年は『面倒くさい』からわざわざ手を下しには来ない。……私たちは今、ただの無力な愚者として、現状を嘆いているに過ぎないのだ」

 

その言葉に、卓の端で上等な日本酒をのんきに啜っていた間宮零が、クスクスと喉を鳴らして笑った。

 

「その通りよ、斉藤のおじ様。大輝くんはね、自分やクロちゃんに直接ちょっかいを出そうとする明確な害意や、具体的な策略を思考・実行に移さない限りは、何もしないわよ。基本的に『面倒なこと』が大嫌いだもの。私たちがここで『あの子を止める方法はないか……』って、シクシクと泣き言を並べている程度なら、ただの背景の雑音として聞き流してくれるわ」

 

零の銀色の瞳には、恐怖ではなく、歪んだ知的好奇心と、底知れぬ愉悦が宿っていた。彼女の白い肌には、この狂った世界の変化を最前列で観測していることへの、微かな紅潮すら浮かんでいる。

 

「……貴女は、この状況を面白いとさえ思っているのか」

 

隆臣が、恨めしげに零を睨みつけた。

 

「面白い? ええ、これ以上の最高傑作は歴史上存在しないわよ」

 

零は杯を置き、指先で卓を軽く叩いた。

 

「考えてもみなさいな。あの『クロちゃんねる』。登録者数は昨日でついに一億人を突破したそうよ。全世界の人口の何割かが、毎晩のようにスマートフォンの前で血の涙を流しながら、あの子を畏怖し、崇めている。そして大輝くんが放った『平和の呪い』。戦争のやり方を忘れた軍隊が、最新の戦闘機をただの遊覧飛行に使っているのよ? スラッシャー映画を観た若者たちが、刃物で肉が切れる物理現象に『斬新なトリックだ!』って大はしゃぎしている。……これほどの規模の常識改変、神話の黄金時代だって成し遂げられなかったわ。それを、たった十四歳の少年が、画面越しにやってのけたのよ」

「だが、その『先』がある!」

 

隆臣が、ついに耐えかねたように、しかし声のボリュームだけは決して上げないよう、細心の注意を払いながら身を乗り出した。

 

「あの壺……クロちゃんの肥大化速度は、もはや我々の想像を遥かに超えている。世界中から流れ込む『数十億人分の畏怖と信仰』のエネルギーを直接吸い込み、あの中の怪異は、今この瞬間も、天災を遥かに超えた『神』か『魔』のような何かへと昇華されつつある。あの壺の蓋が開かれる時はそう遠くない時期に訪れるだろう……たとえ、あの少年であっても、それを完全に制御しきれるのか? 手綱を失った怪異が解き放たれれば、世界は、内側から完全に咀嚼されるぞ!」

 

隆臣の言葉は、この部屋にいる全員が、そして間宮家、東宮家、斉藤家の重鎮たちが共通して抱いている、最悪の、そして最も現実的な懸念だった。

 

さらに、香澄からの報告を受け取った一成が絶望的な情報を付け加える。

 

「大輝殿は、近頃は食事やトイレに行く回数が減ってきているようだ……おそらく、彼は完全に怪異と同質の存在へと変容し始めている。仮にそうなった時、彼が人としての理性を保っているのかどうかも分からん」

 

大輝とクロちゃんは魂が繋がっている。だが、あの壺の中身は、一族二十二人分の魂、斉藤家の恐怖、そして阿宗家の百余名の消滅した存在、さらには全世界の数十億人の恐怖を吸い込んだ、呪いの終着駅だ。

 

そんな存在が、人類の敵として君臨するかもしれない。そうなった時に、世界に何が起こるか。想像するだけで、彼らの魂は凍りつく。

 

「……どうにかして、大輝殿を止めなければならん。あの壺を、これ以上強くするのを、やめさせなければ……」

 

隆臣が、深い無力感を込めて呟いた。

 

「しかし、どうやって? 説得に応じると思うか? 娘の香澄を通じて、何度もそれとなく伝えてはいる。だが、あの子にとって、クロちゃんは『唯一の家族』なのだ。これ以上の力を求めるのをやめろと説得したところで、彼は不思議そうに小首を傾げ、『でも、クロちゃんが喜んでいるから』と笑うだけだ。……彼を害することは不可能。説得も無意味。……我々には、もう何も残されていない」

 

地下室に、再び沈黙が降り積もる。

 

千年の神秘を誇り、世間の裏側で歴史を動かしてきたはずの三家当主。彼らが今、ここで共有しているのは、あまりにも巨大で、あまりにも優美な「詰み」の盤面だった。

 

大輝は彼らを虐殺しようとはしていない。ただ「平和に、クロちゃんと暮らしたい」と願っているだけだ。その無垢な執着が、世界を丸ごと押し潰そうとしている。その理不尽なまでの格の差の前に、彼らはただ、肩を落とすことしかできなかった。

 

 

「そう言えば、最近ホラー映画見るのにハマってるのよね」

 

 

静寂の中、零が退屈そうに呟いた。

 

一成と隆臣の視線が、一斉に彼女へと集中する。

 

「あの呪いにかかってから、そういうのを見てるとなかなか興味深い内容に思えてくるから不思議よね」

「……突然何を言っているのだ」

 

隆臣の問いに、零は不敵な笑みを浮かべたまま、しかし口を開こうとはしなかった。

 

彼女は、自分が今から口にしようとしている内容が、どれほど危険なものであるかを正確に理解していた。もし「大輝を止めるための、具体的かつ実効性のある術理」をこの場で口頭で発言すれば、どれほど曖昧な表現であっても、大輝の持つ「敵対の企み」への感応網に確実に引っかかる。

 

次の瞬間には、この地下室の床から、あるいは自分たちの影から、あの黒い呪印を這わせた少年が「やぁ、面白いお話を調べているね」と微笑みながら現れたっておかしくはない。

 

「その中には、無敵の怨霊だとか、不死身の怪物なんかもよく出てくるけれど、大抵は何か攻略法があったりするわ」

 

零は、雑談を続けながら、おもむろに和装の懐から、上質な白い懐紙と、一本の黒い万年筆を取り出した。

 

二人の当主は、その意図を察し、生唾を飲み込んだ。

零は、無機質な、まるで大学の講義中に落書きでもするかのような、感情を極限まで排した手捌きで、静かに万年筆のペン先を紙に滑らせた。

 

ペン先が紙を擦る、微かな摩擦音だけが、やけに大きく部屋に響く。

 

 

『────────────。これが、理論上、彼を止める唯一の方法よ』

 

 

零が、書き終えた懐紙を卓の上に静かに滑らせた。

 

「例えば、昨日見たホラー映画だと、もっと強い化け物を怪物にぶつけることで同士討ちを狙う。みたいな事をして事件を解決していたわね」

 

一成は、その文字を何度も貪るように読み、そして、深く、重い溜息と共に背もたれに体を預けた。

 

「……無理だ」

 

一成の声は、枯れ葉のように乾いていた。

 

「そんなものをどこから調達するというのだ。彼に”匹敵”する何かなど……そんなものがあるわけがない」

 

絶望。

 

彼らが手にした「唯一の解決策」は、手に入れた瞬間に「実行不可能」という分厚い壁に突き当たっていた。

 

零は、その懐紙を万年筆の先で突き、青白い蝋燭の炎にかざした。

 

紙は、黒い煤を散らしながら、一瞬にして燃え尽き、灰となって床に落ちた。

 

「ま、私としては、大輝くんがこのまま世界をどこまで書き換えるか、その最期をこの目で見届けたいから、どうでもいいけれどね」

 

零はそう言って、再び日本酒を口に運んだ。

 

三家の当主たちは、揺らめく蝋燭の光の中で、ただ、迫り来る「新世界」の足音を聞きながら、無力に、静かに、時が流れるのを許すしかなかった。




山田大輝くん
排泄とかしない系アイドルになれる逸材。自分が怪異になりかけているのには気付いてるが特に気にしてない。そんな事より順調にチャンネル登録者数が増えていてウッキウキ。彼らが話している内容は全て聞いた上で無視している。間宮零の書いた「方法」の内容については……

間宮零
大輝との初対面の時はクッソビビってたがあの後何回か特攻しかけるうちに「あれ? こいつさてはあの壺の事以外だと割と何しても怒んねえな?」となってからめっちゃ図々しくなった。山田家に住み着くようになったのもその頃から。使用人たちは当主の大輝が何も言わないので「……そういう関係?」と考えてる。作中で一成と隆臣に「方法」を伝えたのは気まぐれ。どうせ無理だろうと考えてたのもある。一割くらいはこのまま世界滅ぶのもあれだしなぁ……って考えてたのもある。
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