蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第二十四話

世界の中心たる山田家の屋敷では、いつもと変わらない、穏やかで歪な「日常」が流れていた。

 

「……大輝くん、ここの英語の動詞、過去形にするのを忘れているわよ」

 

日当たりの良い書斎。斉藤香澄は、大輝の隣に座り、ノートを指差していた。

 

「あ、本当だ。また間違えちゃった。ありがとう、先生」

 

大輝は、素直にペンを動かして修正する。その首筋、そして耳の裏を覆う黒い「呪印」の文様は、今や彼の白い肌の一部として完全に馴染み、かつてのように邪気を外に漏らすことはない。

 

香澄は、彼の横顔をじっと見つめながら、不思議な感慨を抱いていた。

 

世界中が、この少年が起こした「広域常識改変」によって大混乱に陥り、テレビのニュース番組が血の涙を流しながら彼を賛美しているというのに、当の本人は、こうして中学校の英語の宿題に頭を悩ませている。

 

「そういえばね、先生。僕のチャンネル、登録者数がもうすぐ二億人になりそうなんだよ。海外の人たちが、すごくたくさんコメントをくれて面白いんだ。だから暗示で話すんじゃなくて、ちゃんと英語くらいは話せるようになっておきたいんだよね」

 

大輝が、スマートフォンの画面を嬉しそうに見せてきた。そこには、世界中のあらゆる言語で書かれた、彼と「クロちゃん」への、狂信的で、どこか怯えた感謝の言葉が並んでいる。

 

「……そう、よかったわね、大輝くん。みんな、クロちゃんの魅力に気づいてくれたみたいで」

 

香澄は、精一杯の引きつった愛想笑いを浮かべた。

 

(全世界の人々をクロちゃんに食べさせるなんて言わなかっただけ、本当にマシなのだから。世界中の人々の『恐怖』が、あの子の安全な『おやつ』に選ばれた。……うん、これは素晴らしい平和的解決だわ。そう思わなきゃやってられない……)

 

そんな風に、自分に言い聞かせるようにして、香澄は授業を続けていた。

 

しかし、それと同時に。香澄の胸の奥には、恐怖とは全く異なる、重く切ない感情が澱のように溜まり始めていた。

 

大輝の家庭教師を続ける中で、香澄は、彼が段々と「怪異」と同じ存在へと変容していくのを、誰よりも間近で見つめ続けてきた。

 

食事の量も、トイレを行く回数も目に見えて減り、その肌に刻まれた呪印によって気配自体は封じ込められているが、おそらくその中身は既にほとんど怪異と言っていいモノとなっていることは想像にかたくない。

 

彼の人間としての体温が少しずつ、だが確実に彼から失われていく。

 

このままクロちゃんの肥大化が続き、大輝が境界線を越えてしまえば、世界は今度こそ滅ぶかもしれない。その懸念は当然あった。だが、それ以上に香澄の心を締め付けていたのは、「大輝という一人の少年を助けたい」という、霊能者としては決して抱いてはならない、あまりにも純粋な情、祈りだった。

 

確かに、規格外の存在への恐怖や畏れは、今なお彼女の根底に冷たく横たわっている。目を合わせるだけで脳幹を灼くような術、気まぐれで世界の理を書き換えうる力。彼が機嫌を損ねれば、自分の命も一族の運命も、羽虫のように潰されるのだ。

 

だが、彼は人を殺したいわけでも、世界を壊したいわけでもない。ただ、無垢で、おっとりしていて、面倒くさいことが嫌いな、十四歳の少年に過ぎないのだ。もし、その性質を残したまま彼をこの世に繋ぎ止められる方法があるのなら。

 

 

 

香澄はそっとペンを置き、大輝の静かな横顔を見つめた。

 

「……ねえ、大輝くん」

「なに? 先生」

 

大輝は不思議そうに、その曇りのない瞳を香澄に向けた。

 

「その……『クロちゃんねる』の配信も、世界中から恐怖を集めるのも、もう十分にうまくいっているでしょう? 世界中の人があなたたちを畏れているわ。クロちゃんも、信じられないくらい強くなっている」

 

香澄は、震えそうになる声を必死に抑えながら、できるだけ優しく、諭すように言葉を紡いだ。

 

「だから……もう、これ以上クロちゃんを強くするのを、終わりにしない? これ以上は、あなた自身にとっても、クロちゃんにとっても、きっと負担が大きすぎるわ」

 

一人の家庭教師として、彼を「人間」に引き留めようとする、切実な説得。

 

しかし、大輝は小首を傾げ、困ったような、しかし何の揺らぎもない、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。

 

「うーん……でも、先生。クロちゃん、強くなればなるほど、喜んでくれるんだ。それに、ここまでやってきたんだから、最後までやり遂げたいんだ」

「それは……」

 

悪びれる様子もなく、ただおもちゃを自慢する子供のように、大輝は優しく語る。その瞳に悪意は微塵もない。だからこそ、自分の説得が、一切取り合ってもらえないのだという事実が、香澄の胸に深い無力感を突き刺した。

 

「……そう。そうね、わかったわ」

 

香澄は、それ以上言葉を続けることはできなかった。

 

「あの……先生、ちょっといい? クロちゃんが、少しだけご飯が欲しいって言っているみたいだから、お部屋に行ってくるね」

 

大輝がそう言って立ち上がった。彼がこうやって席を外すことは珍しくない。

 

「ええ、行ってらっしゃい。私は、少し席を外してお手洗いに行ってくるわね」

「はーい」

 

大輝は、軽やかな足取りで廊下の奥の「祭壇の間」へと向かっていった。

 

香澄は、深くため息をつき、部屋を出て廊下を歩き始めた。

 

山田家の屋敷は、大輝の結界が最適化されているため、今は呼吸をするのも容易なほど清浄な空気に満ちている。だが、それでもやはり、どこか現実離れした、真空のような不自然な静けさが漂っていた。

 

お手洗いを済ませ、元の書斎へと戻る途中、香澄はふと、屋敷の北側へと繋がる古い渡り廊下の前で足を止めた。

 

廊下の窓から、裏庭の様子が見える。

 

生い茂る雑草と、燃えるような紅葉の木々の奥深くに、隠されるようにして、その建物はあった。

 

それは、手入れが全くされていないように見える、ひどく古ぼけた、瓦屋根の「倉」だった。白い漆喰の壁はくすんで汚れきっており、這い上がった蔦が、建物の輪郭を世界から覆い隠すように絡みついている。

 

(あれは……?)

 

香澄の胸に、奇妙な、ざわめくような予感が走った。

「祭壇の間」に置かれている、あの圧倒的な存在感を放つクロちゃんの壺。しかし、あの倉から漂うのは、そんな強力な呪力ではない。それは、どこか懐かしい、夏の終わりの、カビと埃と、古い紙の匂い。

 

ちょうどその時、廊下の向こうから、洗濯物を抱えた古参の使用人の女性が通りかかった。

 

「あの……ちょっといいかしら」

 

香澄が呼びかけると、使用人はびくりと肩を震わせ、丁寧にお辞儀をした。

 

「はい、斉藤様。何かご用でしょうか」

「あそこにある、古い倉……。あそこは、何の場所なの? 普段は誰も近づいていないようだけれど」

 

香澄が指差すと、使用人は、窓の外の倉を一瞥した瞬間、その顔から血の気を失わせ、声を潜めて答えた。

 

「……ああ、あそこは……。大輝坊ちゃんが、あの……『クロちゃん』の壺を倉の奥で見つけられて、最初の蠱毒をお始めになられた、始まりの倉でございます」

 

使用人の声は、震えていた。

 

「当時は、おじい様の古い本や、用途不明の道具がたくさん眠っておりました。……坊ちゃんが、あそこの奥からあの不気味な壺を引きずり出され、そこで色々な虫や生き物を集めて入れておられたのです。……ですが、あの日……旦那様たちの事故の後、坊ちゃんが壺をご自身の客間へ移されてからは、もうあそこには何も残っておりませんし、誰も近づくことはございません。坊ちゃんも、あそこにはもう用がないようでございますが……」

「……そう、ありがとう」

 

老人は、一礼すると、逃げるようにして廊下の奥へと去っていった。

 

「始まりの、場所……」

 

香澄は、窓の外の古い倉を見つめ続けた。

 

大輝が、六歳の夏に、自由研究という名の無邪気な狂気で、最初の蠱毒を開始した場所。

 

中身が空っぽであるなら、何も恐れることはないはずだ。

 

だが、彼女の「霊能者」としての本能、あるいは家庭教師としての、この事態の『根源』を知りたいという強い好奇心が、彼女の足を、ゆっくりと動かさせた。

渡り廊下の非常口から外へ出ると、冷たい秋の風が、香澄の黒髪を乱暴に揺らした。

 

湿った落ち葉を踏みしめる音が、静かな庭園に響く。

古い倉の前に立つと、扉にかけられたはずの錆びついた錠前は、とうの昔に壊れ、地面に落ちていた。大輝自身、今の『クロちゃんねる』の配信や、さらに強大になったクロちゃんに夢中で、最初のゆりかごであったこの場所に、もはや一ミリの関心も持っていないのだろう。

 

香澄は、震える手を、重い木製の扉にかけた。

 

キィィィ……。

 

油の切れた蝶番が、悲鳴のような重い軋み声を上げて、ゆっくりと開く。

 

内部から溢れ出したのは、冷たく、淀んだ空気。そして、かつてここで無数の虫や小動物、そして人間の魂が殺し合い、貪り食い合った『怨念の残り香』だった。それは、吐き気を催すほどに甘美で、どこか懐かしい、死の匂い。

 

埃が、差し込む光の筋の中で、キラキラと雪のように舞っている。

 

薄暗い倉の中。

 

中央の床板には、かつて大輝が、太平洋の藻屑となった一族の魂を無理やり引き戻すために、自らの血で描き上げた、複雑極まる『引導の陣』の跡が、黒く変色した血痕となって生々しく残されていた。

 

香澄は、息を呑みながら、一歩、中へと足を踏み入れた。

 

足元で、乾いた床板がピシ、と鳴る。

 

大輝は、誰にも教わることなく、この薄暗い倉の中で、独学で、ただ古文書を読みながら世界の禁忌を塗り潰していったのだ。その天才という言葉では足りない、世界のバグとしての足跡が、この空間には色濃く刻まれている。

 

(……本当に、何もない。ただ、かつての気配が残っているだけ……)

 

香澄は、少し安堵したように息を吐き、部屋を出ようとした。

 

だが、その時。

 

コト、と、彼女の足元から、微かな「音」が聞こえた。

 

何か石でも転がっていたのか。そう考えて下に目を向ける。

 

 

(これは……?)

 

 

香澄は、その「ある物」を目にした瞬間、言葉を失った。

 

香澄は、震える手でそれを拾い上げた。

 

その表面に積もった埃が、いつからここに「これ」が落ちていたのかを想起させる。

 

夕暮れの赤い光が、その「ある物」の輪郭を、妖しく、そして鮮烈に照らし出した。

 

(まさか、これって……)

 

香澄の瞳が、驚愕と、ある種の戦慄で、限界まで見開かれた。

 

それは、彼女の実家である斉藤家や、結界の大家である東宮家、そして知の探究者である間宮零ですら、想像すらしていなかった。

 

 

これがあれば、あるいは……。

 

 

彼女の手の中で、その「ある物」は、夕闇の光を吸い込んで、静かに、冷たく佇んでいた。

 

 

 

彼がすべてを「知覚」しているはずのこの世界で。

 

しかし、この荒れ果てた「始まりの倉」から立ち上る、静かなる因縁の波紋だけは、まだ誰の耳にも、ささやき声としては届いていなかった。

 

秋の夜が、山田家の屋敷を、そして世界を、完璧な静寂の中に包み込もうとしていた。

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