蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第二十五話

秋の燃えるような紅葉はいつしか枯れ落ち、山田家の広大な敷地を支配していたのは、骨の髄まで凍てつかせるような冬の静寂だった。

 

漆喰の壁には薄く霜が降り、瓦屋根の連なりは白く冷たい雪の衣を纏っている。

 

十四歳の山田大輝の身体を覆う黒い「呪印」は、冬の澄んだ空気の中で、より一層鮮明に、かつ禍々しい輝きを放っているようだった。灰色の和装の隙間から覗く首筋や手首の文様は、まるで彼の体温を吸い上げて脈打つ黒い蔦のようにも見える。

 

冬の訪れとともに、『クロちゃんねる』の登録者数は、もはや統計という概念が意味を失うほどの速度で増加し続けていた。

 

登録者数、二億。三億。そして、十億――。

 

それはただの数字ではなかった。地球上に存在するスマートフォンや個人端末の総数、すなわち「インターネットに接続された人類の総数」そのものが、山田大輝の足元に平伏しつつあることを示していた。

 

世界は、この異常事態を単なる「脅威」として排除することを、とうの昔に諦めていた。今や、国家や社会のシステムそのものが、山田大輝という新時代の神に「阿る」ことでしか自らの生存を担保できなくなっていた。

 

各国の政府や巨大メディアは、彼が「配信を行う可能性のある時間帯」を完全に把握し、その時間にはあらゆる電波網、通信網の優先帯域を『クロちゃんねる』のために無償で提供していた。国連の緊急総会では、「山田大輝氏およびその愛玩呪物『クロちゃん』を人類の公的な超越管理者と認める」という、実質的な全面降伏の宣言とも言える馬鹿げた決議案が大真面目に可決されていた。

 

テレビのワイドショーやニュース番組では、笑顔を崩さないアナウンサーたちが、毎日のように「クロちゃん様」への感謝を捧げ、その恩恵を讃えるプロパガンダを垂れ流した。人々は、畏怖を通り越した依存の中で、山田大輝という理不尽を、新しい時代の「自然現象」として熱狂的に受け入れ、その機嫌を損ねないようにと必死に祈りを捧げていた。

 

大輝は、あれからもいくつかの配信を行った。

 

それらは、人類の歴史を塗り替えるような超越者が行うものとしては、拍子抜けするほどにのんきな内容だった。大輝がココアを飲みながら視聴者からの他愛のない質問に答える「質問コーナー」や、クロちゃんがいかに寒がりであるか(「冬になると、壺がカタカタ震えるのがちょっと激しくなるんだよね」)を語るだけの、穏やかで退屈な時間。

 

 

 

その、第9回目の雑談配信の時のことだった。

 

画面を流れる何万もの丁重なコメントの中に、ある一つの質問、あるいは「報告」が大輝の目に留まった。

 

『クロちゃん様、質問というか、素晴らしいご報告です。先日行われた「平和の呪い配信」の恩恵により、私たちは、自分を傷つける方法を物理的に思い出せなくなりました。自らを害するロジックが脳から失われたため、世界中で自殺者数がほぼ0になったと国際機関が発表しました。これは、大輝様が世界を救ってくださった、真の奇跡に他なりません。心より感謝いたします。』

 

大輝は、カメラの向こうにあるそのコメントを、不思議そうに読み上げた。

 

「……へぇ。みんな、自分を傷つける方法も忘れちゃったんだ。自殺する人がゼロになったの?」

 

大輝は少し首を傾げ、ペン先を顎に当てた。

 

「面白いね。僕は『他人の傷つけ方』だけを消す催眠術をかけたはずなんだけど、自分を傷つけるのも『加害の手順』に含まれてたから、脳が一緒に忘れちゃったのかな」

 

大輝にとっては、それは全く意図していない、ただのシステムの「バグ」のような結果に過ぎなかった。彼は特に世界を救いたいとも、人々を自死から救いたいとも思っていなかったからだ。

 

しかし、大輝はすぐに納得したように微笑んだ。

 

「でも、まぁいいか。死んじゃう人が減るってことは、その分、生き残ってクロちゃんを見てくれる人が増えるってことだしね。クロちゃんにとっても、その方がみんなの恐怖がいっぱい吸えるだろうし」

 

大輝がそう言って、傍らに置かれた「クロちゃん」の壺を優しく叩くと、壺は「ギチ……ギチ……」と、空間を歪ませるような不気味な軋み声を上げて、肯定するように喜悦の鳴動を返した。

 

その歪んだ合理性と、あまりにも冷徹な「ことなかれ主義」の結論。

 

そして、その「生かされた人類」が抱くすべての恐怖は、今や山田大輝とクロちゃんという単一の存在へと集中して流れ込んでいた。

 

かつて、人類の恐怖は分散していた。戦争の恐怖、犯罪への警戒、死への躊躇。あるいは娯楽としての映画や小説の中に描かれるフィクションの悪意。

 

だが、「平和の呪い」によって戦争や暴力といった「かつての恐怖の象徴」が地球上から一掃された結果、人々の心には、巨大な「恐怖の空白」が生まれていた。

 

行き場を失い、宙に浮いた数十億人の根源的な恐怖のエネルギー。

 

それが、川が海へと流れ込むように、世界で唯一「本物の理不尽な恐怖」を体現している山田大輝と、あの脈打つ黒い壺へと、津波となって押し寄せていたのだ。

 

画面を見つめる人々が、血の涙を流しながら「ごめんなさい」と祈るたび、その純粋な畏怖が、最新の情報ネットワークというパイプラインを通じて、山田家の祭壇の間へと注ぎ込まれる。クロちゃんの力は、かつて名門の阿宗家を呑み込んだ時とは比較にならないほど、絶大に、天を衝くほどの高みへと膨れ上がっていた。

 

 

 

冬至を過ぎ、いよいよ年の瀬が押し迫ったある日の夜。

 

大輝は、屋敷の最奥にある「祭壇の間」を一人で訪れていた。

 

部屋に入った瞬間、大輝は以前のようには結界が機能していないことを感じ取った。いや、結界が壊れたのではない。東宮家と間宮家の術理を融合させた最高峰の結界をもってしても、この部屋に満ちる「クロちゃん」の霊的な存在感を、もはや物理的な境界の中に封じ込めておくことができなくなっていたのだ。

 

部屋の壁紙は、壺の呼吸と完全に同調するようにじわりと湿り、天井からは実体のない黒い煤が、静かに雪のように舞い落ちていた。

 

部屋の中央。

 

そこに鎮座する「クロちゃん」の壺は、物理的には高さ五十センチの陶器のままであったが、大輝の「眼」には、それが日本列島を、いや地球そのものを包み込むほど巨大な、黒く蠢く無数の触手と怨念の山に見えていた。

 

大輝は、その冷たい陶器の表面に、そっと指先を滑らせた。

 

ドクン。

 

重厚な、大地の底から響くような鼓動が、大輝の指先を通じて魂へと直接伝わってくる。

 

クロちゃんは、世界中の数十億人の人類から吸えるだけの恐怖を、その純度の高い果汁を、最後の一滴まで吸い尽くしてしまった。壺の内側で蠢く無数の小動物、一族の魂、そして全人類の畏怖。それらは、完璧に融け合い、これ以上の変化を拒むほどの超高密度の「最強無敵の存在」へと昇華されていた。

 

六歳の夏、倉の隅で「最強の虫を作る」と決めてから、何度も虫を継ぎ足し、自身の生命を注ぎ、ついには世界の常識を書き換えてまで進めてきた「自由研究」

 

それが、今この瞬間、完全に完成したのだ。

 

「……そっか。がんばったね、クロちゃん。本当に無敵になっちゃったね」

 

大輝は、春の陽だまりのような、どこまでも穏やかな笑顔を浮かべて壺を抱きしめた。

 

「いつまでもこんな狭い壺の中に閉じ込めておくのは、窮屈でかわいそうだもんね」

 

最強のペットが完成したのだから、ケージの扉を開けて、世界に見せてあげる。

 

それがどれほど凄惨な「羽化」を意味し、この世界という器を物理的に破壊しかねない天災であるかなど、十四歳の少年の「怠惰な愛情」の前では、些細な問題でしかなかった。

 

 

 

次の日の午後、大輝はスマートフォンの『クロちゃんねる』の管理画面を開き、一つの「ライブ配信の予約」を投稿した。

 

世界中のスマートフォンの画面が、同時に、一斉に、意志を無視して青白く発光した。

 

 

【第10回記念配信:クロちゃん降臨(大晦日の年越しに合わせて、壺の蓋を開けてみたwww)】

 

 

そのテロップが、通知となって全人類の脳裏へ直接、冷たく刻み込まれた。

 

配信予定時刻は、十二月三十一日、二十三時三十分。

 

新年のカウントダウンと同時に、山田大輝は、六歳の夏から一度も開けることのなかったあの黒い壺の「蓋」を、ついに、外界へと解き放つ。

 

その告知を受け取った世界は、言葉を失った。

 

日本の呪術界を支える三家の当主――斉藤一成、東宮隆臣、間宮零は、それぞれの密室で、ただ冷たい灰のような沈黙の中で震えていた。

 

香澄は、その配信予告の表示された自身のスマートフォンを見つめながら、ついに、世界という名の砂の城が、少年の気まぐれによって最後の一粒まで崩れ去る、その終わりのカウントダウンが始まったことを悟った。

 

冬の夜風が、迫り来る終焉の予感と共に、山田家の瓦屋根を冷たく揺らしていた。

 

その奥底で、クロちゃんは、新たな誕生の時を待ちわびるように、カタカタと、深く、深く、鳴動していた。

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