蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第二十六話

大晦日の夜は、山田家の広大な屋敷を、息が凍りつくような冷徹な暗闇で包み込んでいた。

 

上空に広がる冬の星座は、いつになく鋭く冷たい光を投げかけている。しかし、その清廉な星明かりも、屋敷を覆う二重三重の認識阻害の霧を透かすことはできない。世界中の人々がスマートフォンの前で固唾を飲み、狂信的な興奮と本能的な恐怖の狭間で「クロちゃんねる」の配信開始を待つ中、山田大輝の「祭壇の間」には、針が落ちても聞こえるほどの静寂が満ちていた。

 

ライブ配信開始、およそ三十分前。

 

部屋の中央に鎮座するクロちゃんの壺。

 

世界中から無秩序に流れ込む数十億人分の「畏怖」と「信仰」をその貪欲な胃袋に収めた壺。

 

陶器の表面に這う生々しい朱い血管は、部屋を照らす青白い蝋燭の炎に呼応してドクン、ドクン、と、狂った機械のように脈打っている。そこから漏れ出す気配は、もはや不浄な邪気と一言で言い表せるようなものではなく、空間そのものを食い破らんとするかのような印象を見る者に与えていた。

 

大輝は、その壺の前に、泰然と立っていた。

 

全身の肌を埋め尽くす黒い「呪印」は、彼の呼吸と、そしてクロちゃんの鼓動と完全に同調し、微かに蠢いている。大輝は三脚に固定されたカメラのレンズを優しく拭い、それからクロちゃんの気配を封じ込めていた結界に、最後の調整となるだろう手を加え始めた。

 

 

 

キィ……

 

不意に、部屋の引き戸が、微かな軋み音を立てて開いた。

 

大輝は手を止めず、おっとりとした笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと振り返った。

 

そこに立っていたのは、肩を震わせ、幾重もの霊的加護を纏った斉藤香澄だった。彼女の瞳は、普段の家庭教師としての優しい温もりを失い、張り詰めた決意と、どこか冷たい静寂を湛えていた。

 

「やぁ、香澄先生。こんばんは」

 

大輝は、冬の日のひだまりのような、どこまでも無垢な笑顔で彼女を迎え入れた。

 

「配信開始までは、まだ少し時間があるよ。でも、先生が来てくれて嬉しいな。一緒にクロちゃんが開く新しい世界を見られるんだからね」

 

大輝の声は澄んでいて、一片の毒も悪意も含んでいなかった。

 

 

 

山田大輝は知っている。斉藤香澄が何故ここへ来たのかを。

 

 

 

香澄は、大輝の前に歩み寄りながら、コートのポケットの中で、冷たく、そして不思議な手触りを持つ「ある物」を強く握りしめていた。

 

それは、彼女が数日前に、山田家の荒れ果てた「始まりの倉」の埃の中から拾い上げた、一つの古い陶器の破片だった。

 

香澄は、大輝を救うためにここへ来ていた。

 

すべてを侵食し、世界をペットサークルへと作り変えようとしている「クロちゃん」という怪物の蓋が開かれる前に、あの怪異をこの世から永遠に祓い、教え子である山田大輝という少年を、人間の世界へと連れ戻す。ただそれだけを、彼女は願っていた。

 

 

 

前日の夜、香澄は斉藤本邸にいる父・一成に相談を持ちかけていた。

 

薄暗い奥の院で、香澄は震える手で紙に文字を書き連ね、倉で拾い上げた「黒い壺の破片」を一成の前に差し出した。

 

『これは、山田家の古い倉で見つけた、クロちゃんの壺の破片です。これを使って、大輝くんを止めることはできませんか』

 

一成は無言のまま、目を見開き、卓上に置かれた欠けた陶器の破片を凝視した。

 

そこには、かつて阿宗家や一族の魂を啜り尽くした「呪いの根源」としての悍ましい気配など欠片も無い。あの日、大輝が倉から壺を引きずり出した時、不注意でぶつけて欠けさせてしまった、全ての始まりとなる「破片」

 

クロちゃんを直で見た事のない一成の目には、単なる陶器の欠片にしか見えない。

 

だが、香澄の言葉が真実だとするなら……。

 

それを見つめながら、一成は静かに筆を執り、墨の滲む紙へと何かを書き始めた。

 

香澄の目が、その文字を追う。

 

そこに書かれたのは、間宮零が彼らに示した「理論上、山田大輝を止められる唯一の方法」

 

 

 

それは――『クロちゃんに自殺させること』

 

 

 

一成の筆は、淀みなく動いた。

 

『あの壺は、今や世界中の恐怖を吸い尽くし、神にも等しい力を宿す強大な怪異へと昇華されている。だが、その原形はあくまでも、大輝殿が六歳の時に始めた「蠱毒」だ。蠱毒の基本原理は「共食い」――同じ器の中に入れられた蟲たちが、最後の一匹になるまで互いを喰らい合わせ、残った虫を式神とする、単純な儀式術に過ぎない』

 

一成は、極力自身の心の平静を保つよう心がけながら、万が一にもこの筆談の内容が大輝に伝わらないように、細心の注意を払って続きを書き連ねた。

 

 

『その破片を、あの壺の中へ入れるのだ。

そうすれば、あの蠱毒の壺は、自らをも「器の中の虫の一匹」として認識し、自分で自分を喰らい合い、その存在を自壊させるだろう』

 

 

この方法を考え付いたのは、一番長く「山田大輝」という特異点を研究し続けていた間宮零である。

 

実際に間宮零が彼らに示したのは、「山田大輝以外の、山田大輝よりもクロちゃんと縁の深い『何か』をクロちゃんの中へ入れる」という方法。

 

しかし、間宮零自身も、この方法が実行可能だとは思っていなかった。

 

この方法で一番確実なのは、クロちゃんにクロちゃん自身を食べさせること、クロちゃんの中に、クロちゃんに繋がる成分を持った「何か」を入れる。Aの中にAを入れるという事が原理上不可能なのだから、必然的にその方法に使える「何か」と言うのは一番クロちゃんと縁の深い山田大輝しかいない。

 

しかし、そもそもの話として、クロちゃんと魂の繋がっている山田大輝その人は、自分の親族はおろか自身の体液すらもクロちゃんの中へと流し込み、その魂を蠱毒と繋げてしまっている。

 

それでいて、共食いを基本原理とするはずの蠱毒の壺たるクロちゃんは、大輝を取り込む事もなく、ましてやクロちゃん自体が自壊する様子も見せずに、その力を増し続けている。

 

間宮零はいくつかの推測を立て、実際に山田大輝本人にその疑問を直接聞いたりもしたが、結局のところ何故自壊していないのかは、山田大輝本人にも分かっていなかった。

 

一番有力な説は、山田大輝が、恐怖を感じないという特異な精神性ゆえに、怪異にとって「無益」のため、山田大輝を通じて呪いの縁が広がってはいかない事に起因するのではないか、という仮説だった。

 

しかし、確証と言えるものはない。山田大輝が無自覚に、クロちゃんの自壊を抑えるストッパーとしての役割を担っている可能性も捨てきれない。

 

そして、山田大輝以外に、クロちゃんと縁の繋がるような存在は、既にこの世には存在していない。

 

 

だが、香澄の手元にあるのは、他ならぬ「クロちゃんの壺の欠片」だった。

 

 

大輝が六歳の夏、指先を滑らせて台座に激突させ、放置した、あの数センチの欠けた破片。

 

それは、クロちゃんが数十億の魂を呑み込み、神話の怪物へと進化する前から、ずっと「始まりの倉」に置き去りにされていた、正真正銘の、クロちゃんの一部だった。

 

 

 

香澄は一成から提示されたその原理を、自らの胸に深く刻み込んでいた。

 

(これなら、大輝くんを助けられる。この破片を、あの巨大な壺の中へ放り込めば、クロちゃんは自分で自分を喰らって消滅する。そうすれば、大輝くんは、また人の道に戻れる)

 

香澄は、そう信じていた。

 

 

 

山田大輝は知っている。斉藤香澄がこれから何をしようとしているかを。

 

 

 

しかし、斉藤一成も、間宮零も、そして斉藤香澄本人も、今から香澄が行う事によって山田大輝の身に「何が起こるのか」を、理解できていなかった。

 

――クロちゃんを消滅させれば、その魂をリンクさせ、共生している山田大輝自身もまた、クロちゃんと同じ運命を辿ることになる。

 

霊能者の最高峰である彼らが、なぜそんな単純な因果関係に気づけなかったのか。

 

 

答えは、あまりにも残酷だった。

 

 

彼らもまた、大輝が全世界に放った催眠術――「平和の呪い」の影響下に置かれていたからである。

 

大輝放った催眠術、世間では通称「平和の呪い」と呼ばれているそれは、『人が他者を殺害し、傷つける方法・ロジックを脳が想起できなくなる』という強烈な認識のバグを引き起こす暗示術である。

 

「クロちゃんを消滅させれば、魂を共有している大輝も死ぬ」という極めて単純な因果は、彼らの脳内において、無意識のうちに『山田大輝という一人の人間を殺害する手段』として処理されてしまう。

 

そのため、彼らがどれほど深い知性を持って思考しようとも、その思考が「大輝の死」の境界線に触れた瞬間、その結末を想像すること自体が強制的にフリーズさせられていたのだ。

 

彼らにとって、この「作戦」はどこまでも「大輝を止める方法」でしかなかった。まさかそれが、香澄が助けたいと願った生徒を、自らの手で殺害する「最悪の暗殺劇」になるとは、夢にも思っていなかった。

 

 

 

山田大輝は知っている。斉藤香澄の行いによって、何が起こりうるのかを。

 

 

 

山田大輝とて、霊能者としての術理を学んでいる身だ。自分が既にどれだけの存在へと変容しているかなど、客観的にも主観的にも理解している。

 

そんな自分を止める方法。間宮零が考え出した、その方法。

 

斉藤一成や東宮隆臣らが、間宮零から筆談でその内容について伝えられた時、山田大輝は彼らの思考(恐怖)を直接読み取ることで、その内容を盗み見ていた。

 

それによって何が起こりうるかなど、当然の知識として認識していた。

 

 

 

だが、山田大輝自身もまた、その「平和の呪い」の歪みの中に閉じ込められていた。

 

 

 

彼は自身で考案した暗示術を用いて、世界から「闘争」の概念を奪い去ったが、その時に「例外」を作ろうとはしなかった。

 

大輝は「平和の呪い」の術を編み出した時、そこに安全装置としての、解除のための仕組みや、ワクチンのような、術を予防するための理論を組み込まなかった。

 

それは、そうした方が術の強度が増し、誰かに防がれるリスクを減らせる。という理由もあったが、それだけの理由で制御不能な呪いを振りまくほど、彼は愚かではない。

 

何故、これほどの規模の呪いに「安全装置」を付けることを彼は嫌ったのか。

 

 

 

それは、山田大輝という「世界を滅ぼしかねない存在」から、人類を守るための、彼なりの、最後の理性がそうさせたからだった。

 

 

 

この平和の呪いが機能している限り、山田大輝という化生が完全に怪異と化し、その理性と人格が完全に消滅するような事になっても、人を襲う事は出来なくなる。人類が片手間に滅ぼされるような事態は避けられる。

 

それ故に、山田大輝は、自分自身にも平和の呪いによる暗示をかけていた。

 

大輝は、香澄が懐に何を持っているのかを知っていた。間宮零がかつて一成たちに教えた「クロちゃんを消滅させる方法」の内容も、香澄がそれを今から実行しようとしていることも、彼の全知の認識網はすべて捉えていた。

 

 

それなのに、なぜ大輝は、香澄を笑顔で迎え入れ、無防備にそこに立たせているのか。

 

 

その理由は、大輝と、それ以外の人間の認識の差だった。

 

平和の呪いは、「人に対して危害を加える場合」にのみ、その認識を阻害する。

 

間宮零がこの方法を思いつくことができたのは、彼女の脳が、この理論を「山田大輝(人間)を殺す方法」としてではなく、あくまで「クロちゃんという『怪異』を消滅させる方法」として考案したからだった。

 

それ故に、あくまでも「大輝を止める方法」としてその理論を伝えられた一成や香澄も、それを忘れることなく覚えていることが可能だった。

 

 

しかし、山田大輝本人にとって、クロちゃんとは『自分自身』に他ならない。

 

 

彼らにとっては「怪異の消滅」であっても、大輝の脳内においては、クロちゃんを破壊する手段とは、すなわち「山田大輝という人間を害する手段」そのものとして自動的に翻訳されてしまう。

 

 

世界で唯一、山田大輝だけは――間宮零が考え出したその方法を、平和の呪いによる暗示によって「自分を害する驚異」として記憶しておくことができなかった。

 

 

香澄の手にある破片を見ても、彼の脳はそれを「かつて自分が落とした、懐かしい破片」程度にしか認識できない。

 

大輝は、香澄の行動をただの「心優しい先生が、クロちゃんに思い出のプレゼントを届けに来てくれた」という、無邪気で微笑ましいエピソードとしてしか捉えられていなかったのである。

 

「先生、それをクロちゃんにあげるの? ……うん、クロちゃんもきっと喜ぶと思うな。だって、それは元々、クロちゃんの一部だったんだから。倉からわざわざ持ってきてくれたんだね。僕もその破片の事はすっかり忘れちゃってたよ」

 

大輝はそう言って、優しく目を細めた。

 

香澄は、大輝のあまりの無防備さに喉の奥が引き攣るのを感じながらも、緊張を顔に出さないよう、ゆっくりと歩みを進めた。

 

大輝の横を、ただの「家庭教師」として、静かに通り過ぎる。

 

目の前には、脈打つ黒泥の塊、世界の終わりを凝縮したクロちゃんの巨大な鼓動がある。その禍々しい邪気の気配は本来なら精神を狂わせるものだったが、香澄の手を動かしていたのは、大輝を救いたいというあまりにも切実で、無垢な愛着だった。

 

「……ええ。大輝くん。これを、クロちゃんに返すわね」

 

香澄は、大輝の目の前で、手に持った黒い陶器の破片を、クロちゃんの脈打つ肉塊の隙間――かつて自分が作った、あの「欠け穴」の奥深くへと、躊躇なく、しかし優しく押し込んだ。

 

 

次の瞬間。

 

 

香澄の目の前から、まるで最初からそうであったかのように、クロちゃんの姿が、掻き消えていた。

 

 

どこかから、激しい軋み音が聞こえてくる。

 

 

それは、怪物の咆哮ではなかった。自らの内側から伸びる自身の影によって、自分自身を強引に引き裂き、貪り食い始める、冒涜的な「共食い」の摩擦音だった。

 

「クロ……ちゃん?」

 

大輝が、初めて、その瞳から感情を消し去って首を傾げた。

 

彼の体が、ボロボロと炭のように崩れ、剥がれ落ちていく。

 

大輝は、自分の右腕を見つめた。そこには、ただの灰となって消えていく、自分の肉体の境界線があった。

 

「あ、そっか……。これって、僕を……」

 

そこにいたって、彼はようやく理解した。香澄が自分を救うために行った行為が、他ならぬ、山田大輝という存在をこの世から完全に消滅させる、唯一の「最適解」だったということを。

 

「大輝くん!? 体が……!」

 

香澄は、大輝の体が、足元からじわじわとひび割れ、灰となって崩れていくのを見て、絶叫した。

 

彼女は、大輝の細い肩を抱きしめようと手を伸ばしたが、彼女の手は、何の抵抗もなく大輝の体をすり抜け、逆にその体をボロボロと崩れさせた。

 

そこで、香澄も自身のした行いの「意味」を思い出した。

 

涙が香澄の頬を伝い、畳に落ちる。

 

その時、大輝は、いつものおっとりとした、少しだけ申し訳なさそうな表情で彼女を見つめ、静かに微笑んだ。

 

「……ごめんね、香澄先生。気にしないで、先生が僕のためにやってくれたのは知ってるから」

 

大輝の体は、すでに右腕と胴体を残して、灰となって消え去ろうとしていた。

 

だが、その表情に恐怖も、怒りも、後悔もなかった。あるのは、静かな、あまりにも穏やかな安堵だけだった。

 

「……大輝くん、ごめんなさい……私は、ただ……」

 

香澄の謝罪に対しても、大輝は表情を変えず、ただゆっくりと微笑んだ。

 

「いいんだ、香澄先生。僕を殺すのが香澄先生で良かったよ。……短い間だったけど、色々とありがとう」

 

大輝の姿は、最後に、春の陽だまりのような優しい微笑みを残し、大晦日の冷たい空気の中へ、静かに、一瞬にして霧散した。

 

祭壇の間には、ただ、静かな蝋燭の光と、主を失った灰色の和装、そして、一人の女性の、張り裂けんばかりの慟哭だけが残された。

 

 

 

数日後。

 

世界中から、あの不気味な『クロちゃんねる』の配信が行われなかった事実。そしてアーカイブの動画がすべて「該当の動画は削除されました」という無機質な白い画面に変わったことが確認された。

 

だが。

 

山田大輝が消え去った後も、彼が世界に遺した「平和の呪い」だけは、何事もなかったかのように、人類の脳に深く、永く、残り続けていた。

 

人々は、未だに「他者を害する手順」を思い出すことができない。

 

兵士たちは二度と銃の引き金を引くことができず、映画館では若者たちが、かつてのスプラッター映画を「失われた超次元パズル」として、のんきに面白がり続けている。

 

冬の終わりの山田家。

 

古い倉を吹き抜ける風は、今日も冷たく、しかし優しく、残された世界を包み込んでいる。

 

かつて、一人の少年の無垢な執着がもたらした、終わりのない落日。

 

世界は今日も、優しく、そして狂気的な平和の中で、静かに、ゆっくりと回るのだった。




この作品の構想を考えた時、主人公が世界を滅ぼしかねない強大な存在となる。そしてその存在が結局は死んでしまって世界は平和になる。という終わり方は最初から決めていました。

ただ、どうやって最強無敵の存在を殺すのか、ということに関しては結構頭を使いました。私はチート主人公とかが活躍する作品で「どうやったらこのチートキャラを倒せるんだろう」と考えるのが結構好きなので、山田大輝くんを殺す方法を考えるのは結構楽しかったです。
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