山田家の広大な敷地を彩る桜の木々は、今年も見事な薄桃色の花を咲かせ、うららかな春風に吹かれてひらひらと舞い散っている。
庭園の池では、かつて澱んだ底で凝固していた錦鯉たちが、温かな光を浴びて水面をのんびりと揺らしていた。そこには、かつて世界を押し潰さんとしていた絶対的な霊圧も、冷徹な死の残り香も、もはや存在しない。
この山田家の広大な土地と資産、そしてそこに眠る膨大な古文書のすべてを買い取り、引き継いだのは、間宮家当主・間宮零であった。
彼女は屋敷の主となってからも、大輝の代から仕えていた古参の使用人たちを誰一人解雇することなく、雇用し続けていた。
使用人たちにとって、屋敷の主が「無垢な怪物」から「冷徹な知識の探求者」へと変わったことは、ある種の救いであり、奇妙な平穏の継続でもあった。
その日、屋敷の最も日当たりの良い大広間には、四人の霊能者が集まっていた。
斉藤家当主・斉藤一成。
東宮家当主・東宮隆臣。
間宮家当主・間宮零。
そして、斉藤香澄。
漆塗りの卓を囲む彼らの前に置かれたお茶からは、穏やかな湯気が立ち上っている。
あの日、大輝を自らの手で消滅させてしまった衝撃から、香澄はしばらくの間、深い喪失感と自責の念に囚われ、暗い部屋で塞ぎ込んでいた。
しかし、一年が経った今、彼女の瞳には力強い光が戻っていた。彼女は今、以前にも増して精力的に、全国の怪異退治の活動に身を投じていた。
まるで、自らの中にある消えない咎を、人々の救済によって贖おうとするかのように。
「……それにしても、一時はどうなることかと思ったが、世界は奇妙なバランスで落ち着いたものだな」
東宮隆臣が、温かい茶を啜りながらぽつりと呟いた。
彼の指先は、もう一年の時の経過によって震えてはいなかった。
大輝という、世界中からの恐怖の視線を一手に引き受けていた「防波堤」が消滅した直後、日本の、そして世界の霊的生態系は一時的に大混乱に陥った。
大輝の死によって「怪異が本当に実在する」という恐怖の輪郭が世界中に拡散し、さらに恐怖の受け皿を失ったことで、世界各地で怪異の出現数、そしてその個体としての強度が格段に増大したのだ。
一時は霊能者の一族が総出で対処しなければならないほどの霊障パニックが引き起こされるかに思われた。
だが、その脅威すらも、大輝の遺した「平和の呪い」の前に無力化された。
平和の呪いは、人間だけでなく、人間の認知から生まれる怪異にまでその影響を広げたのである。怪異たちもまた、「人を害する具体的な手段や悪意のロジック」を、自らの構造の中に組み立てることができなくなっていた。
人間を襲おうと現れた大凶悪な怨霊が、いざ人間の前に立つと「……あれ、どうやってこの人間を八つ裂きにするんだっけ?」とフリーズし、ただの不気味な背景オブジェクトと化してしまう。
害意を失った怪異は、人間にとって単なる「少し風変わりな自然現象」へと成り下がり、結果として人々が怪異に対して抱く原始的な恐怖心そのものが、著しく、劇的に減少することとなった。
恐怖という餌を失った怪異たちは急速にその力を失い、弱体化し、一年が経った今となっては、怪異の脅威度は大輝が存在する以前の、元の静かな状態へと戻っていたのである。
「世界の軍隊も、今では完全に『災害救助隊』や『インフラ整備組織』として機能している。人を殺すための兵器は、すべて平和利用のための重機に改造された。……あの子の遺した呪いは、今も完璧に機能し続けているな」
斉藤一成が、静かに頷いた。
しかし、彼らが今日、こうして山田家に集まったのは、かつての思い出話に花を咲かせるためではなかった。
彼らの表情には、未だに拭いきれない、薄暗い懸念の影が差していた。
「……本題に入ろう」
東宮隆臣が、静かに言った。
「零殿、我々が今日ここへ足運んだ理由。それは、今なお世界中に残り続けている『呪い』への懸念ゆえにだ。……未だに大輝殿が遺した平和の呪いと評される暗示術は解けずに残り続け、『クロちゃん』に対する罵倒や侮辱を行った人間への『お仕置の呪い』すらも機能し続けている。これは何を意味する?」
一成が、神妙な面持ちで言葉を継ぐ。
「大輝殿は消えた。クロちゃんの壺も完全に消滅した。……それなのに、なぜ呪いだけがシステムとして動き続けている? 私たちが危惧しているのは、世界中の人々が未だに抱き続けている『山田大輝』と『クロちゃん』への、消えない畏怖と恐怖だ。……もし、その巨大な信仰に似た感情が、彼らを『怪異』として、再びこの世に復活させてしまうのではないか。そうなった時、私たちは今度こそ、世界を滅ぼす本物の終末を迎えるのではないか……と」
「世界中の数十億人が、今なおあの少年と壺を、恐怖と信仰の対象として脳裏に刻み込んでいる。呪いが機能しているということは……。もし、人々の恐怖を糧にして、山田大輝とクロちゃんが、今度は制御不能な『怪異そのもの』として復活するようなことがあれば、今度こそ世界は終わる。そのための封印術、あるいは予防策を、今からでも練っておかなければ……」
隆臣の必死の言葉。一成も、香澄も、神妙な面持ちで頷いた。
大輝が怪異となって復活する。それは霊的災害としては最大の悪夢だった。
しかし。
「あら、東宮のおじ様の話ってその件だったの。当主全員で話がしたいだなんて言うから何事かと思ったじゃない」
卓の端で、高級な和菓子を上品に口に運んでいた間宮零が、退屈そうに口を挟んだ。
「……何だと? 零殿、これは世界の存亡に関わる……」
隆臣が気色ばんだが、零はそれを、軽く制した。
「だって、大輝くんが復活する心配なんて、する必要ないもの」
「……どういうことですか、間宮様」
香澄が不審そうに眉をひそめる。零は口元をナプキンで拭うと、銀色の瞳をいたずらっぽく細めて、事もなげに言い放った。
「だって、大輝くんのことなら、私、もう既に復活させちゃったもの」
静寂。
客間の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。
一成は持っていた湯呑みを落としそうになり、隆臣は目を見開いたまま石化し、香澄は自分が今、何を言われたのか理解できずに静止した。
「……は?」
香澄が、乾いた声を漏らした。
その時だった。
スっ……と、客間のふすまが、あまりにもあっさりと開かれたのは。
「やぁ皆さん。お久しぶり。元気そうでなによりです。遅れちゃって申し訳ない」
廊下からトコトコと入ってきたのは、一人の少年だった。
仕立ての良い灰色の着物を着たその姿は、彼らのよく知る山田大輝と、顔立ちも、雰囲気も、瓜二つだった。ただ、その体躯は小学生にも満たないのではないか、という程の小ささに縮んでいる。
かつて彼の白い肌を覆い尽くしていたあの悍ましい黒い「呪印」のタトゥーはどこにもなく、その体からは、常人を狂わせるような呪力の気配も、不浄な邪気も、何一つ感じられない。
だが、そのおっとりとした声色。夏の終わりのひだまりのような、底知れぬ無垢さを湛えたその表情。
それは、間違いなく、彼らが知る山田大輝そのものだった。
少年は、呆然と固まる三人を見渡すと、いつものようにぽつりと呟いた。
「あ、香澄先生。お茶、僕の分もある?」
「……ぁ、ぁ……大、輝……くん……?」
香澄は、立ち上がることもできず、ただ涙目でその少年を凝視した。隆臣にいたっては、ショックで脳の血管が切れそうになり、椅子から転げ落ちそうになっている。
「大輝くん、あなた。クロちゃんにあげるために、自分の『精液』を山田家の冷蔵庫の奥に保存してたでしょう。あれね、使用人の人たちがすごく嫌がってたから、私が以前回収しておいたのよ」
零は優雅にお茶を一口飲み、何事もないように続けた。
「……待て。まさか、お前、彼の精を使って……」
隆臣が、信じられないもの、いや、本物の狂人を見るような目で間宮零を指差した。
零は、誇らしげに胸を張って答えた。
「そのまさかよ。彼の『精』と私の『卵子』を組み合わせて子供を作ったの。原始的なホムンクルスの肉体作成術にならってね。そうして出来上がった空っぽの肉体を素体にして、彼の魂を呼び出す降霊術を行ったのよ。幸い、彼自身が規格外に強い霊力を持っていたから、依り代としての肉体に簡単に定着して、すぐに安定してくれたわ」
何でもないことのように語られる、禁忌中の禁忌。
人倫をも、呪術界の掟をも、すべてを鼻で笑うような、間宮家当主による「狂気」
一成、隆臣、香澄の三人の心を支配したのは、恐怖でも驚愕でもなく、ただただ魂の底から湧き上がる、冷ややかなツッコミだった。
(((何してくれてんねん、この女……!!!)))
「まぁまぁ、そんなに怖がらなくても、今の僕は間宮さんに呼び出されただけの存在だから、契約で縛られてるんです。だから、もう昔みたいに大した事は出来ませんよ」
大輝は、酷いことしますよねほんと、と言いながら、零のすぐ横へとちょこんと腰を下ろした。
「私だって、何も考えずに彼を蘇らせたわけじゃないわよ」
零は隆臣たちの冷ややかな視線をスルーし、少し表情を引き締めて大輝を見た。
「私が彼を呼び出して、どうしても直接聞きたかったのはね……大輝くんが消えた今でも、彼の残した呪いが世界に残り続け、機能している理由よ。……大輝くん、彼らにも説明してあげて」
促された大輝は、のんびりと頷いた。
「うん。あの暗示術には、呪いにかかってる人たちから、ほんの少しずつ、気づかれない程度の微細な霊力を自動で吸い取って、術自体の存在を維持する機構を組み込んでますから。……術者がいなくなろうが、僕自身が途中で『やっぱりこれ止ーめた』って思って解除しようとしても、絶対に止まらない、解除不能な仕組みにしたんです。だから、今後人類が滅びるまで、あの平和の呪いは永遠に世界に残ると思いますよ」
大輝は間宮零の前に置かれた和菓子を横から掠め取って食べながら語った。
一成は、ごくりと息を呑み、静かに問いかけた。
「……ならば、大輝殿。クロちゃんのことを侮辱した人間が、未だにお仕置によって血を噴き出しているのはなぜだ? 術のシステムが残っているのは分かった。だが、お仕置を執行するはずの、あの巨大なクロちゃんの壺は、大晦日の夜に完全に消滅したはずだろう」
「あぁ、それはですね」
大輝は、食べていた和菓子を飲み込むと微笑んだ。
「クロちゃんがまだ、完全には消滅していないからですね」
既にこの話を一度聞いていた零以外の三人が、一瞬にして、呼吸を止めた。
「今の僕はクロちゃんと魂が繋がってるわけじゃないから、ぼんやりとしか分かんないですけどね。でも、確かに感じるんだ。……あの夜、香澄先生が壺に破片を入れたことで、クロちゃんは自分自身を喰らい続ける自食作用を始めちゃった。でも、クロちゃんは強くなりすぎてたから、自分で自分をどんなに食べても、消滅しきることが出来なかったんだと思います」
大輝は、小さな人差し指で、空中に円を描いた。
「姿を維持することはできなくなって、物質としては消えちゃったみたいだけど。……今でもクロちゃんは、自分自身の尻尾を噛んで回り続けるヘビ……『ウロボロス』みたいに、自分を喰らい、自分を吐き出しながら、この世とあの世の隙間に、エネルギーの渦として存在し続けてるんでしょうね。だから、僕がクロちゃんに仕込んでおいたお仕置の呪いもまだちゃんと機能してるんじゃないかな」
その説明を聞いた客間には、長い、長い沈黙が流れた。
東宮隆臣は、深く、深く、諦めと安堵の混ざり合ったため息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
「……なるほどな。あの壺が、霊的に存続し、かつての呪いを執行し続けているのであれば……人々の恐怖は常にそこに吸い取られ続ける。……そこに流れる恐怖が他へ漏れ出さない限り、新たな怪異が生まれる懸念はない、というわけか」
「そう。完璧な永久クローズドループよ。世界は、何一つ壊れることなく、平和なままであり続ける」
零は満足げに微笑み、大輝の頭を、愛犬を撫でるように優しく撫でた。大輝も、嫌がる様子もなくおっとりとそれを受け入れている。
その光景を見つめながら、香澄は、静かに涙を拭った。
間宮零が、東宮家や斉藤家からの「対策会議」の申し出を受け入れた時、この山田家を場所として指定し、逆に、そこに香澄を同席させるように申し出たのには理由があった。
それは、大輝を自分の手で消滅させてしまったという、消えない罪悪感と十字架を背負い、心を病みかけていた香澄に対して、
――「大輝は、こうして小さくはなったけれど、ちゃんと生きているわよ」
という事実を、彼女の目で見せ、その心を救い出すための、間宮零なりの、極めて不器用で、極めて歪な「優しさ」だったのだ。
香澄は、大輝の前にそっと膝を進め、彼の小さな頭を、愛おしそうに見つめた。
「……ねえ、大輝くん。勉強、またやり直さなきゃね。……あなた、私の出した宿題、まだやり残してたでしょう」
香澄が、優しく問いかける。
「えぇ、また宿題やるの? ……まぁ、香澄先生が教えてくれるなら、面倒じゃないから、いいかな」
大輝は、かつてと全く変わらない、無垢な少年の笑顔で頷いた。
窓の外では、春の柔らかな風が、山田家の満開の桜を揺らし、花びらの雨を降らせている。
世界は、一人の少年の気まぐれが遺した「平和の檻」の中で、牙を抜かれ、傷つけ合う方法を失ったまま、穏やかに、幸福に回り続けている。
そして、その檻の片隅で、かつての神は、小さな子供の姿となって、穏やかな日常を紡ぎ始めるのだった。
Q:どうして愛するクロちゃんを殺されて、大輝くんは香澄ちゃんに対して怒らなかったの?
A:別にクロちゃんは死んでないから。
Q:平和の呪いが大輝くん本人にもかかってるなら、どうして大輝くんは「お仕置」をする事が出来てるの?
A:お仕置の起点は大輝ではなくてクロちゃん側にあるから。さらに言うなら大輝くんはお仕置の事を「危害」ではなくて「注意」程度に認識してるので別に平和の呪いに引っかからない。
これでこの小説は完結です。こんな自己満小説に付き合っていただいてありがとうございました。本当は大輝くんを復活させたりする予定なんか無かったんですけど、間宮零というキャラクターを考案して物語の構想を練っていくうちにだんだんと「いやこいつならこうするな」みたいなのが思い付き初めて、当初の予定よりも間宮零はめちゃくちゃ登場シーンが多くなりましたし、最後にはなんか主人公生き返らせてました。これが登場人物が1人歩きする。ってやつなんですかね。