五月の柔らかな陽光が山田家の広大な屋敷を照らしていたが、その光は大輝が籠もる倉の奥深くまで届くことはない。
山田大輝が十四歳、中学二年生になった頃。彼の周囲に漂う「気」は、もはや常人が数分間同じ空間にいるだけで精神を病むほどに濃密で、冷徹なものへと変貌していた。声変わりを終え、少年の幼さを脱ぎ捨てつつあるその瞳には、同年代が持つ瑞々しい感情の代わりに、深淵を覗き込むような静謐な覇気が宿っている。
しかし、そんな大輝は今、かつてない壁に直面し、深く、静かに悩んでいた。
「……やっぱり、これ以上は無理なのかな」
膝の上に広げたのは、経年劣化で黒ずんだ羊皮紙の断片。それは祖父が遺した古文書の中でも、特に強い封印が施されていた『人代の理』と呼ばれる章だ。
これまで大輝は、自身の精通以来、生命の源泉とも言えるその種子を、あるいは山から集めてきた無数の生命を、惜しみなくクロちゃんへと注ぎ込んできた。壺は期待に応えるように、時折咆哮のような不気味な震動を返し、内部で蠢く蟲は確実に「最強」へと近づきつつあった。
しかし、呪術に対する研究が進むにつれ、大輝が集めた書物たちは一つの結論を指し示していた。
大量の虫や自らの精を贄とすることでも、今までのように呪物を強化することはできる。しかし、それらより「効率の良い供物」の存在が、どの古文書にも書かれていた。
『万物の霊長たる人の命、これに勝る供物なし。殊に、術者と血を分かちし縁者であれば、その魂は呪の基盤となりて不滅の核を成さん』
「人間の命……それも、血縁者」
大輝は無造作に、倉の壁に立てかけてあったスマートフォンを手にとった。画面をスワイプする指先は一切の震えもない。
彼は人道的な意味で人を殺すことに躊躇していたわけではない。彼は善人というには純粋すぎて、悪というには怠惰すぎた。
ただ、彼にとっての行動原理は依然として「面倒か、そうでないか」であった。
わざわざ誰かを誘い出し、痕跡を残さぬよう殺し、その魂を効率よく壺に流し込む――その一連の工程は、極めて効率が悪く、何より「面倒くさい」のだ。
「人を呪う…か、やったことは無いけど今の僕なら多分できるんだろうな。でもエネルギーを使うしね。……それに、そんな事しなくても今のクロちゃんでも十分に強くなってるしね」
そんな淡白な思考で、彼はその日も、壺の欠け穴からわずかな供物を流し込み、淡々と日常を過ごしていた。
転機が訪れたのは、ゴールデンウィークを目前に控えたある日のことだった。
山田家は地方の旧家として、親族間の結びつきが異常に強い。正樹たちが企画したのは、ゴールデンウィークの連休を利用した、一族郎党を引き連れての海外旅行だった。正樹の狙いは明白だった。最近、屋敷の空気が耐え難いほど重くなっていること、そして、あの倉に置かれている呪物、蠱毒の壺そのものから一時的に逃避すること。
「大輝も、たまには羽を伸ばすといい」
そう言った正樹の目は泳いでいた。本心では「お前だけは置いていきたい」という恐怖が渦巻いているのを、大輝は敏感に感じ取っていた。
結局、運命は大輝に味方したのか、あるいは彼を見放したのか。
旅行の出発当日、大輝は猛烈な悪寒と高熱に襲われ、ベッドから起き上がることすらできなくなった。
医師は「過労と風邪の併発」と診断したが、大輝自身は知っていた。それは身体的な病ではない。クロちゃんが、自分のすぐそばに主が留まることを切望した結果引き起こされた、一時的な拒絶反応のようなものだ。
「大輝……本当に大丈夫か?」
「……しょうがないよ。みんな、僕の分まで楽しんできてよ。寝てれば治るだろうし、使用人の人たちも居るんだから一人っきりって訳じゃないしね」
薄暗い部屋で、大輝は父親にそう言って弱々しく微笑み、彼らを送り出した。
大輝の両親は一抹の不安を覚えつつも、それ以上に「大輝とあの壺」から解放される数日間に、隠しきれない安堵の色を浮かべて屋敷を後にした。
だが、大輝は寝込んでいながらも、独りではなかった。
彼は数ヶ月前から、密かに術の研鑽を積んでいた。和紙で折った無数の人形の式神。それらを、出発する親戚たちの荷物や衣服の隙間に、認識をズラす呪いを仕込んで影のように潜ませていたのだ。
「これで見聞きしたことは、全部僕にも伝わる。海外の景色、僕にも見せてね」
寝込みながらにして、親族たちの視覚と聴覚を共有し、居ながらにして世界を旅する。彼にとっては、それもまた、退屈しのぎの娯楽に過ぎなかった。
しかし、その娯楽は最悪の形で幕を閉じた。
事故が起きたのは、彼らが成田を発ってから数時間後のことだった。
太平洋上空。大輝の意識の端っこで、式神を通じて伝わってくる喧騒が、突如として悲鳴と怒号に変わった。
機体の激しい振動。酸素マスクが降りてくる音。
共有された視界の中で、母が泣き叫び、父が震える手で何かを祈っているのが見えた。
高度が急速に下がる、あの不快な浮遊感。耳を劈く金属音と、気圧の変化による頭痛。
(あ、これ、死ぬんだ)
大輝はベッドの上で目を見開いた。額からは大量の冷汗が流れている。
式神を通じて、彼は一族全員の「死への恐怖」をリアルタイムで受信していた。
そして――。
ドォォォォンッ、という衝撃。
視界が真っ白になり、次に訪れたのは、絶対的な「無」だった。
全ての式神との接続が、一瞬にして断絶した。それは、接続先である魂の器が、物理的にこの世から消失したことを意味していた。
「……え……」
静まり返った自室で、大輝は呆然と呟いた。
外では五月の穏やかな風が吹いている。ニュースはまだ、その惨劇を報じていない。当然だろう。事故が起きたのは数秒前なのだから。
だが、大輝には分かっていた。自分以外の血族が、この瞬間に一人残らず絶命したという事実を。
沈黙。
大輝の目から、一筋の涙が溢れた。
それは親愛の情からくる悲しみだったのか、あるいは、唯一自分と繋がっていた人間という存在を失った喪失感だったのか。
だが、その涙が乾くよりも早く、大輝の脳裏を支配したのは、あまりにも合理的で冷徹な、呪術師としての「閃き」だった。
「……そっか。死んじゃったんだ」
彼はゆっくりとベッドから這い出し、ふらつく足取りで倉へと向かった。
窓の外、夕闇が迫っている。
大輝の頭の中では、数日前まで読んでいた古文書の記述が、鮮明な黄金の文字となって踊っていた。
「既に死んじゃってるなら……有効利用しないとね。みんな、ただ消えるのは勿体ないよ」
大輝は倉の扉を乱暴に開け放った。
中央に鎮座する黒い壺、クロちゃんが、かつてないほど激しく鳴動している。
大輝は古文書の知識を総動員し、禁忌中の禁忌とされる「魂の引導術」を開始した。
本来、死者の魂は肉体を離れれば数刻のうちに霧散する。しかし、彼らに憑けていた式神を通じて、大輝は霧散しそうになっていた霊魂を、強引に引き寄せた。
自身の指をカッターで切って、血が滴る指先で倉の地面に暗記した複雑な陣を書き上げた。
痛みはない。あるのは、かつてない高揚感だけだ。
「さあ、おいで。みんな、僕の一部になるんだ。クロちゃんの中で、ずっと一緒にいようね」
大輝が呪文を唱えると、倉の中の空気が物理的な衝撃を伴って捻じ曲がった。
太平洋の深海に沈んだ肉体から、無理やり引き剥がされた「山田家一族」の魂たちが、式神の糸を伝ってこの倉へと収束していく。
苦しみ、嘆き、恨み、そして大輝への微かな愛情。それら全てが渾然一体となった霊的なエネルギーが、激流となって黒い壺の欠け穴へと吸い込まれていった。
カタカタカタカタカタカタッ――!
壺の振動は絶頂に達し、ついには蓋を縛っていた麻縄が火を吹くように燃え上がった。
しかし、大輝は素手でその蓋を押さえつけた。
「全部食べて。お父さんも、お母さんも、みんなだよ」
一時間。あるいは一晩だったかもしれない。
全ての「回収」が終わったとき、倉の中には静寂だけが残っていた。
黒い壺は、もはや以前の姿ではなかった。
陶器の表面には、細かなひび割れのような赤い筋が走り、そこから脈打つような鼓動が聞こえてくる。漏れ出す気配は、一国を滅ぼしかねないほどの禍々しさを帯びていたが、大輝はそれを「心地よい」と感じていた。
大輝はゆっくりと、熱を失った壺を抱きしめた。
十四歳にして、彼は文字通りの天涯孤独となった。保護者も、兄弟も、親戚もいない。社会的には、不幸な事故の唯一の生存者として同情される存在。
だが、大輝の心は、かつてないほどの充足感に満たされていた。
「これからは、クロちゃんが僕の唯一の家族だ。……ううん、山田家そのものだね」
彼は、禍々しい気を放つ壺を優しく撫でた。
クロちゃんという「ペット」は、今この瞬間、山田家全ての魂を内包した「唯一の家族」へと格上げされた。
あるのは、ただ一人の家族を慈しむ、狂気に満ちた愛情だけだ。
五月の夜風が、天涯孤独となった少年の、静かな泣き声を運んでいった。