髪や爪をクロちゃんに入れ始めたのは、大輝が精通してから、その精液と同時期に入れ始めた。という内容に変えています。2026/4/23
山田大輝がネット上に公開した「家庭教師募集」の条件は、あまりにも破格だった。
週三日の稼働で月額百万円。交通費・食費全額支給。学歴不問だが、「精神的にタフであること」という妙な一文が添えられていた。
その異常な高報酬に釣られ、数人の家庭教師候補が屋敷を訪れたが、彼らは一様に数分と経たずに逃げ出した。玄関先で大輝と目が合った瞬間、あるいは屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間に、喉をかきむしるような閉塞感と、本能的な「死の予感」に襲われるからだ。
大輝はため息をつきながら、そうやって屋敷から逃げ出していく家庭教師候補だった者たちを見送るしかなかった。
そんな日々が続いていたある日、一台のタクシーが山田家の重厚な門前に止まった。
降り立ったのは、ポニーテールにまとめた黒髪と、銀縁の眼鏡が知的な印象を与える若い女性――斉藤香澄、二十一歳。大学で歴史学を専攻する傍ら、彼女にはもう一つの、そして現代での生活には全く役に立たない「顔」があった。
(……何よ、この家。空気が重すぎて、肺が潰れそう)
香澄は眼鏡のブリッジを押し上げ、屋敷を見上げた。
彼女は古の霊能者の家系の末裔だった。かつて平安や室町の頃、怪異が人々のすぐ隣に息づいていた時代、彼女の先祖は「奇跡」を体現する存在として畏敬を集めていた。
しかし、霊能者の力――「霊力」は、その神秘性が暴かれるたびに力を失う。一族相伝、独自に発展された術式が大衆に暴かれれば、彼らはその力を失ってしまう。現代の情報社会においては、秘匿ゆえの脆弱な力へと成り下がっている。
対して、そんな霊能者の敵である怪異が扱う「呪力」は、人々の恐怖や畏れを糧とする。現代のネット社会において、呪いはむしろ拡散され、その認知度が高まるほどに肥大化する性質を持つ。
その正反対の性質ゆえに、香澄のような霊能者は、日陰で生きることを余儀なくされ、それらを生業とする者は、現代ではほぼ存在しない。
そう聞くと怪異側が有利なのか、と感じるがそうでもない。怪異側も時代の変化により、人が増えるにつれてその力を減らし、数も減った。
人々が怪異を畏れる事が無くなったからだ。
今の世界は、強く動けない霊能者と、弱く少なくなった怪異との間にある、微妙なバランスの上に成り立っていた。
「お入りください。坊ちゃんがお待ちです」
表情の消えた使用人に案内され、香澄は屋敷の奥へと進む。廊下を歩くたび、足元から冷気が這い上がってくる。それは暖房の有無など関係のない、霊的な拒絶反応だった。
通されたのは、落ち着いた和室だった。
そこに、灰色の和装を纏った少年が座っていた。山田大輝。
十四歳ということを踏まえても、より幼く見える顔立ち。しかし、その黒い瞳には、同年代の少年が持つべき光が一切ない。代わりに、深い、深い、底の見えない淵のような静謐さが湛えられていた。
童顔のせいで幼く見えるが、その体から溢れ出す覇気は、香澄がこれまで対峙してきたどの怪異よりも異質だった。大輝は無垢な微笑を浮かべて彼女を見上げた。
「……こんにちは、斉藤さん。あなたが、新しい先生?」
大輝が憂いを帯びた妖しい笑みを浮かべる。
大輝が口を開いた瞬間、香澄の脳内の警報が最大音量で鳴り響いた。
大輝が身にまとっているのは、修練を積んだ霊能者が持つ「霊力」だけではない。それは、人の恐怖を糧とする怪異や怨霊が放つ、どす黒い「呪力」そのものだという事に気が付いた。
(この子……人間じゃない。いや、形は人間だけど、中身が別の何かに書き換えられてる!)
香澄の判断は速かった。彼女は霊能者としての経験上、この手の存在に「対話」は通じないと確信している。
そして彼女の「霊能者」としての知識が、即座に結論を下した。――ここで、殺さなければならない。
「ええ、斉藤香澄です。よろしくお願いしますね、大輝くん」
香澄は愛想笑いを作りながら、一気に距離を詰めた。
鞄を投げ捨て、弾かれたように大輝の懐へ飛び込む。
「――っ!」
香澄は大輝の腕を強引に捻り上げ、体格差に任せて、その細い体を畳にうつ伏せに押し付けた。
香澄は懐から、彼女自身の血を用いて呪文が刻まれた、秘蔵の呪符を取り出した。怪異と不意に遭遇した時に備えて、お守りの意味で持ち歩いていた「滅殺」の呪いが込められた呪符だ。
呪符を大輝の背中に叩きつけようとした、その時。
「……それを貼られるのは遠慮したいかな」
押し伏せられているはずの少年の、あまりにも平坦な、退屈そうな声。
香澄の心臓が跳ねた。大輝の体からは、抵抗する力すら感じられない。まるで「されるがまま」を楽しんでいるかのような余裕。
若さゆえに経験が少ない香澄は、その異様さに一瞬固まった。
その次の瞬間、嫌な音がした。
ベキベキッ、グシャッ、という、生身の人間からは決して鳴ってはならない骨の砕ける音。
うつ伏せになっていた大輝の首が、不自然な角度で回転し――真後ろにいた香澄の目を、真逆に、百八十度回転した状態で正面から見据えた。
「まずッ……!?」
香澄は反射的に目線を離そうとした。だが、大輝の瞳と目が合ってしまった。
呪い。というのは、突き詰めると相手と、どれだけ縁を繋げられるか。という問題になる。
普通であれば目を合わせた程度の縁では、そこまで強力な呪詛を流し込まれることは無い。
しかし、香澄は直感的に、「こいつと目を合わせるのはヤバい」と感じていた。
香澄はすぐさま目を逸らしたが、遅かった。視界の下端、大輝が大きく開けた口の中から、人間のそれとは思えないほど長く、紫がかった舌が這い出していた。
その舌の表面には、墨で書かれたかのように鮮明な『幻』の一文字が刻まれている。
「あ――」
視界が歪む。
色彩が反転し、世界が一度、粉々に砕け散った。
「──こんにちは、斉藤さん。あなたが、新しい先生?」
気がつくと、香澄は部屋の入り口に立っていた。
使用人に案内され、今まさに部屋に入った瞬間の光景。
先ほどの不意打ちも、大輝の首が回った恐怖も、まるで無かったかのように、時間が巻き戻っている。まさに、狐に化かされたかのような感覚。
(嘘……あの一瞬で、術をかけられた? 術式の構成も、発動の予兆も、何一つ感じなかったのに……!)
香澄は全身から滝のような汗を流し、その場に膝をついた。
目の前では、先ほどと全く同じポーズで、大輝が薄笑いを浮かべて座っている。
「……大丈夫? 斉藤さん。顔色が悪いよ。やっぱり、僕の家は空気が合わないかな」
大輝の言葉には、皮肉も悪意もなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。それが余計に恐ろしい。
香澄は、自分が今、捕食者の目の前で震える小動物に過ぎないことを悟った。死を覚悟した彼女に、大輝は細めた目を向け、ゆっくりと立ち上がった。
「折角来てくれたんだし、僕の大事な家族を紹介するよ。斉藤さんなら、きっと分かってくれると思うんだ」
大輝に促され、香澄は震える足で彼に付いていった。
案内されたのは、厳重な結界が施された「祭壇の間」
「ここだよ。僕のクロちゃん」
案内された部屋の中央、結界の奥に鎮座する「それ」を見た瞬間、彼女は絶句した。
「蠱毒……!? でも、これ、おかしいわ。まだ蓋も開いていないのに、どうして……」
香澄は震える声で大輝に問うた。
「どうやってこれを作ったの? 普通、蠱毒は器の中で殺し合いをさせて、式神を作るだけの術よ。器から出てもないのに、外界にこれほどの影響を及ぼすなんて、あり得ない」
大輝は「秘密を共有する友達」に教えるような口調で、淡々と答えた。
「最初は虫だけだったんだけどね。途中から、僕の髪とか、爪とか……あ、精通してからは精液も入れたかな。書物には、呪物に血肉を混ぜると繋がりが強固になるって書いてあったから。最近は、事故で死んじゃったみんなの魂も全員分、クロちゃんにあげたんだ。有効利用しないと勿体ないでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、香澄は頭を激しく揺さぶられたような衝撃を受けた。
呪術の理論上、呪物や式神を作る際に、術者の血肉を混ぜることは一般的なやり方だ。彼女の秘蔵の呪符も、彼女自身の血を使い、彼女自身が霊力を込めて使用することでその効力を高めている。
しかし、それが「蠱毒」となると話は別だ。
蠱毒の器に術者本人の体液や、縁の近い者の魂を入れるなど、自殺行為以外の何物でもない。
蠱毒の本質は「共食い」だ。術者の成分を混ぜれば、術者本人もまた「蠱毒の中の虫の一匹」として認識される。確かに呪術的な繋がりは構築されるだろうが、それを通じて、中の蟲と力を奪い合い、殺し合う羽目になるだろう。
実際、香澄は実家の呪物の制作法に関する書物で、そうやって自滅してしまった愚かな霊能者が過去にいた。という内容の記述を読んだ記憶がある
しかし、目の前の少年はどうだ。
彼は怪異に喰われるどころか、その膨大な呪力を平然と飼いならし、自身の霊力と混合させて「共生」している。
「……独学、なのよね? あなた、誰にも教わらずにこれを?」
「うん。古文書を読みながら、自分なりに効率がいい方法を探しただけだよ。何か間違ってた?」
大輝の曇りなき瞳を見て、香澄は戦慄した。
(この子……素人に毛が生えた程度の知識しか持ってない。ただ『強くなるから』という無垢な理由だけで、禁忌を塗り潰して、独自の理論でここまで……!)
香澄は、改めてクロちゃんと呼ばれたその壺を見た。
蓋は閉じられ、麻縄で縛られている。本来なら、蠱毒は蓋を開けて「完成品」を取り出すまでは外界に直接的な干渉はできないはずだ。
初歩的な式神作成術なのだから、当然と言えば当然だ。式神が未完成なのに、式神に何かをさせることなんてできないはず。香澄自身も、蠱毒自体は何度か行った事がある。これは確かだ。
だが、現実として、目の前の壺はただそこにあるだけで異様な邪気を放っている。
その時、香澄は、壺の口の縁が少し欠けていること気が付いた。
(あの小さな穴だけで、これほどの力……? もし、この蓋が完全に開けられたら……)
想像するだけで、香澄は正気を失いそうになった。
「……大輝くん、なんでここまでクロちゃんを強くしてるの?式神が欲しいだけなら、もう十分な強さになってると思うけど」
「最初は夏休みの自由研究でやってたんだけどね。最強の虫を作ろう。って……だけど途中からは大事な家族に思えてきちゃってさ、せっかくなら本当に無敵の存在にしてあげようって思って頑張ってるんだ」
既に無敵の存在になってるわよ。喉から出そうになったその言葉を、香澄はグッとこらえる必要があった。
もしこの壺が「羽化」し、中の怪異が外界へと完全に解放されれば、それは一人の霊能者や一族がどうにかできる規模の災害では済まない。日本、いや世界が、この少年の生み出した呪いに飲み込まれる。
大輝は、そんな彼女の内心の戦慄など露知らず、誇らしげに壺を撫でている。
「クロちゃん、すごいでしょ? 僕がずっと、一人で育てたんだ。でも、もっともっと良くしてあげたいんだ。先生、教えてくれる? 古い本には、もっとすごい方法が書いてある気がするんだよね」
大輝が向けた期待に満ちた眼差し。それは勉強を教わる子供のそれと同じ、無垢な輝きだった。
(……ダメよ。この子に、これ以上の『餌』の与え方を教えてはならない)
香澄は決意した。
今の大輝を殺すことは不可能だ。逃げることは出来るかもしれないが、彼女も霊能者の端くれ、こんな爆弾を放置したまま逃げ出す事などできない。
ならば、彼女にできることは唯一つ。
大輝の「信頼できる協力者」という立場を演じ、彼のストッパーとなること。この無邪気な飼育者が、うっかり壺の蓋を開けてしまわないように、導いていくしかない。
「ええ……そうね。大輝くん。あなたの『研究』、私も手伝わせて。……でも、急いじゃダメよ。強い力には、相応の準備が必要なんだから」
香澄は、震える声でそう告げた。
「よかった。先生なら、そう言ってくれると思ったよ」
大輝は満足げに微笑み、再びクロちゃんの壺を優しげに撫でた。
カタカタ、と壺が震える。
その音は、香澄には、まるで壺が新たなエサを見出した喜びに震えているように聞こえた。