蠱毒の壺をペットにしたバカの話   作:二度見屋

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第八話

夕暮れの残光が西の客間に差し込み、畳の上に長く、歪な影を落としていた。

 

先ほどまで死闘――いや、一方的な蹂躙が繰り広げられていたとは思えないほど、部屋は静まり返っていた。大輝の胸に突き刺さっていた霊刀は、折り紙のような呪符へと姿を変え、主の元を離れて大輝の足元に力なく転がっている。

 

大輝の胸元にあるべき「刺し傷」は、一成が一瞬、瞬きをして目を逸らした間に消え去っていた。

 

六人いた斉藤家の精鋭たちは、「茶を汲みに行かせる」という名目で下がらせた。今この部屋にいるのは、大輝と一成の二人だけだ。

 

斉藤一成は、呼吸を整えようと必死だった。心臓の鼓動が耳の奥で鐘のように鳴り響いている。目の前の少年、山田大輝は、胸を刺され、首を落とされ、業火に焼かれたはずだ。しかし今、彼は何事もなかったかのように立ち、壁に掛けられた古びた掛け軸を、好奇心に満ちた瞳で眺めていた。

 

「……この掛け軸、面白いね。龍の鱗の一枚一枚に、小さな文字で『鎮』って書いてある。一成さんのご先祖様が書いたのかな?」

 

大輝が、放課後の部活動でも語るかのような気軽さで口を開く。その声には、命を狙われたことに対する怒りも、自分を害そうとした者への敵意も、微塵も感じられなかった。

 

一成は戦慄した。もし大輝が激昂し、その強大な力で自分たちを抹殺しようとしていたなら、まだ「理解」はできた。それは強者の論理であり、怪異の本能だからだ。だが、この少年は違う。彼は自分たちを殺そうとも、服従させようとも思っていない。ただ、純粋にこの空間と、そこに付随する「術」という知識を楽しんでいる。

 

(……この少年は、本物の『化生』だ。しかし、その魂はあまりにも純粋で、温厚すぎる。我らが賭けるとしたら、彼のその気質が、まだ『人間』の側にあると信じるしかない)

 

一成は、己の震える手を強く握りしめた。これほどの理不尽な暴力を向けられながら、微笑んでいられるなど、人としての感情が欠落しているのか、あるいは我々のような羽虫の羽ばたきなど気にも留めないほどの高みにいるのか。一成は、本来なら屈辱的な考えだが、後者であってくれ、と願うしかなかった。

 

「……大輝殿」

 

掠れた声で、一成が呼びかける。大輝はゆっくりと振り返った。その動作一つ一つが、一成には巨大な天災が静かに動き出す予兆のように見えて、背筋が凍る。

 

「……一つ、教えていただきたい。我々の術は、斉藤家が数百年の歴史の中で練り上げ、数多の怪異を滅してきた秘術だ。それを貴殿は、なぜ……こうも容易く、遊びのようにあしらい、防いだのか。霊能者として、その術理を、知る義務がある」

 

それは、敗者が勝者に乞う、惨めな問いだった。しかし一成にとっては、この少年の正体を見極め、生存の糸口を掴むための唯一の道だった。

 

「……うーん、なんて言えばいいのかな」

 

大輝は足元に転がっていた、折り紙のように畳まれた一成の霊刀——今はただの紙切れと化した呪符——を拾い上げ、不思議そうに見つめた。

 

「防ぐ、なんて大層なことはしてないです。炎で包まれた時は少し熱かったけど、あの時みんな僕が見えなくなってたでしょ? 僕は、クロちゃんと魂が繋がっていて、半分くらいあっち側……怪異側に寄っちゃってるからさ」

 

大輝は、手の中の呪符を見つめながら、どこか憂鬱そうに、つぶやくように話した。

 

「こうなって分かったんだけど、人って『見えない』状態を本能的に一番怖がってるんです。一成さんが炎を吐いた瞬間、僕の存在を一瞬だけ『消えろ』って願ったでしょう? 僕はその恐怖に乗っかる形で、みんなの認識から逃げることができたんです。炎が熱かったのは本当だけど、存在そのものがそこになければ、焼かれることもないですから」

 

事も無げに語られるその原理。それは、怪異が人を襲う際のロジックを、霊能者としての意識を保ち、そこに術理を乗せて実行していることを意味していた。

 

一成は絶句するしかなかった。術者が放つ殺意や願望を逆手に取り、恐怖を利用して自身の存在を「認識の外」へ送り出す。それは単なる隠身の術ではない。概念的な消失だ。

 

大輝は手の中の、呪符と化した刀を見つめた。

 

「この刀から流れてきた封印の呪詛……あれは、あの早口が聞き取れる相手にはやめた方がいいと思います。一成さんのあの術は、構成が『綺麗すぎて』、すごく分かりやすい形だった。一度祝詞を聞いて構造を理解しちゃえば、返し方を知っている人には簡単に呪詛返しで跳ね返されると思います。数学の公式を逆に解くみたいなものかな」

 

(構成が、綺麗すぎるだと……?)

 

一成は愕然とした。斉藤家が千年の歴史の中で磨き上げ、無駄を削ぎ落として完成させた「最適解」の術式。それが、大輝にとっては「分かりやすすぎる弱点」に映ったというのか。

 

「あと、あの注連縄の結界。あれは本当によく出来てました。でも……気を悪くしないで欲しいんですけど、僕を閉じ込めるのには、ちょっと不向きかな」

 

大輝は少し申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「あれって、対象とした存在『一つだけ』を外界から切り離して、中に閉じ込める術式ですよね? でも、僕とクロちゃんは一人じゃないんです。魂が二重構造になってるというか、僕を閉じ込めようとするとクロちゃんが溢れ出しちゃうし、クロちゃんを閉じ込めようとすると僕が外に残っちゃう。あんな風に、一人分しかない枠の中に僕らを押し込もうとしても、無理なんです。……でも、術の構造自体は素晴らしかったから、少し僕なりにアレンジして真似させてもらいました」

 

一成は戦慄を通り越し、虚脱感に襲われた。

 

大輝の言っていることは、単なる力の多寡の問題ではない。大輝は、自分たちのような凡百の霊能者が一生をかけても到達できないほどの「才能」を、最初から持っているのだ。

 

呪詛返しも、結界術の即興的な模倣も、単なる力のゴリ押しで出来るようなものではない。極めて高度な知性と、霊的な回路の柔軟性がなければ不可能な芸当だ。

 

彼は、斉藤家の術式を「見た瞬間に理解し、瞬時に自分用に最適化して構築し直す」という、神業をやってのけた。殺し合いの結果だけではない。霊能者としての才においても、自分たちはこの十四歳の少年に、完敗していることを、認めざるを得なかった。

 

大輝は自分たちよりも遥かに高い、霊能者としての天賦の才を持っている。それも、一族の歴史を数世代分飛び越えた、神域に近い才能を。

 

「……では、最初の、刀による一閃……あれはどうやって防いだのだ。あれは幻や惑わしなどではなかった。術など発動させる間もなく、確かに骨肉を断ったはず……。その胸も、確かに心の臓を貫いた……。それは、香澄から聞いた『クロちゃん』という壺によるものなのか?……」

 

一成が恐る恐る尋ねると、大輝は「そうですよ」と何でも無さそうに頷いた。

 

「首を斬られたのは初めてだったけど、やっぱり死ななかったね。僕は魂がクロちゃんと繋がっているから。……たぶん、僕を殺したいならクロちゃんから先に壊さないといけないと思いますよ」

 

その告白を聞いた瞬間、一成の心は完全に折れた。

 

自分たちがこれまでしてきたことは、化生の本体を無視して、その端末を叩こうとしていたに過ぎない。しかも、その端末である少年は、こちらを殺す気すらない「温厚な」対応で、無様に自分たちを無力化してみせた。

 

そしてあまつさえ、その『弱点』を隠すことも無く、先ほどまで命を狙って襲ってきた相手に教える。それは、お前たちが取るに足らない存在に過ぎない。という宣言に他ならなかった。

 

その屈辱的な宣言に、一成は何も言い返す事は出来なかった。

 

もし仮に、今聞いた『弱点』を元にして作戦を立て、大輝をどうにかしようとクロちゃんに手を出せばどうなる?

 

目の前の少年を殺すには、彼と魂を共有しているであろう壺を先に破壊しなければならない。封印を行うにしても、両方を封じ込めなくては意味が無いだろう。

 

だが、香澄の報告によれば、その壺――クロちゃんは、まだ蓋すら開けられていない蠱毒の壺。儀式自体、完成すらしておらず、無数の魂を吸い込み続けている「未調伏の怪異そのもの」だという。

 

大輝のように「優しく」手心を加えて相手をしてくれる保証などどこにもない。

 

絶望的な詰みの状態。一成は、この少年の手綱を握ることは、本質的に不可能だと悟った。

 

 

 

ならば、縋るしかない。彼が「人間」としての理性と温厚さを保ち続けてくれることに。

 

一成は、覚悟を決めた。これは、霊能者の誇りを捨て、一族を守るための、泥水を啜るような賭けだ。

 

「……山田大輝殿。改めて、先ほどの非礼を詫びる。そして、一つ提案……いや、懇願がある」

 

一成は、震える声に覚悟を込めた。

 

「香澄を通じて、斉藤家が持つ呪術の知識、理、術式の全てを貴殿に伝授すると約束しよう。我々の知恵を全て君に与える。その代わりに、大輝殿……お願いだ。クロちゃんを完全に君の制御下に置けるよう、霊能者としての訓練を積んでくれないか。君という理性が、その巨大な呪いを制御し続けなければ……世界は終わる」

 

これは、斉藤一成にとって一世一代の賭けだった。

これほどの怪物に、さらなる知恵と技術を与えるなど、正気の沙汰ではない。火に油を注ぐようなものだろう。しかし、大輝が歪な独学のまま、制御不能な力の奔流を解放してしまえば、結果は同じこと。ならば、彼に「正しく制御する手段」を教え込み、彼の「善性」に賭けるしかない。

 

大輝は少し意外そうに一成を見た。そして、春の陽だまりのような、どこまでも純粋な笑顔を浮かべて頷いた。

 

「それは嬉しい提案ですね。ぜひ、お願いします。……僕も、周りの人たちが『弱すぎて』困っていたんです。クロちゃんを強くするのは楽しいけど、僕はちゃんとした抑え込み方を知らないから、そろそろ誰かを食べちゃうんじゃないかって、ヒヤヒヤしてたんです……。僕も、わざわざそこまでしてクロちゃんを強くしようとは思ってないですから……。それで『面倒ごと』が増えるのは本意じゃないんです」

 

大輝の言葉には、一片の嘘もなかった。彼を動かしているのは、世界征服の野望でもなければ、破壊の衝動でもない。ただ「静かに、クロちゃんと暮らしたい」という、歪んだ執着。

 

そして、言葉の節々から感じ取れるのは、大輝は本質的には、『人が死ぬ』のが嫌なのではない。『人が死んだ後の面倒ごと』が嫌いなのだ。

 

だが、一成はその言葉を聞いて安堵した。怪異としての面が、今の大輝に存在しないのは確かだ。一成は今の大輝の言葉を聞いてそう確信した。

 

一成は、その長い経験でよく知っている。怪異は本能的に人を恐怖に陥れようと動き、人を騙し、嘘をつき、血を啜る化け物だ。

 

そんな怪異が、消極的な言い方でとはいえ、『人が傷付くのは嫌だ』などという言葉を吐けるわけがない。

 

もし純粋な怪異がそんな言葉を、仮に嘘でも放ったなら、それは『自己の否定』に繋がり、自分で自分を呪う事に他ならない。その存在は即座に崩壊するだろう。

 

一成は深いため息を吐いた。

 

救われたのか、あるいは破滅を加速させたのか。今はまだ分からない。ただ一つ確かなのは、この日を境に、日本の呪術界の勢力図は、たった一人の少年の手によって完全に塗り替えられたということだけだった。

 

大輝は再び、壁の龍の絵を見つめた。

その影で、実体を持たぬ「家族」が、新しい知識の香りに喜悦の鳴動を上げていた。

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