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それは、落下という現象で説明してよいものではなかった。
なぜなら、通常の落下とは「重力による自然な移動」を指すが、この男の場合は明らかにその前提を欠いている。意思も準備もない状態で、ある瞬間を境に空中に“配置されている”――結果として落下はしているが、その本質はもはや自然現象ではない。強制的な戦場投入と呼ぶべき状況である。
そして、その中心にいるのが、佐藤だった。
空。
青一色。
遮蔽物なし。
高度――数千メートル以上。
通常の人間であれば、この時点で思考は崩壊する。パラシュートなしの自由落下は、ほぼ例外なく死に直結するためだ。実際、この高さからの無装備降下は"処刑"以外の何物でもない。
だが。
佐藤は違う。
「……ほう」
彼は、状況を確認していた。
恐怖ではない。
混乱でもない。
観察。
ここで重要なのは、彼の精神構造である。
彼は死を恐れないのではない。
死を前提として思考している。
この違いは決定的だ。通常の人間は「どうすれば死なないか」を考えるが、彼は「一度死んだ場合、その後どうするか」を無意識に計算に入れている。つまり、思考のスタート地点が根本的に異なるのである。
風圧が強まる。
身体が加速する。
重力加速度に従い、速度は増し続ける。およそ十数秒で終端速度に近づき、人体は"空気という流体の壁"に叩きつけられている状態となる。
この状況において、人間の取れる行動は極めて限定的だ。
姿勢制御。
衝撃の分散。
あるいは――祈ること。
だが、佐藤はそのどれも選ばない。
「悪くない」
断定。
理由は単純だ。
この高度からの落下は、確実に"死"を伴う。
そしてそれすなわち、彼にとってはコンテニュー可能なアクションゲームでしかない。
視線を下へ向ける。
ジャングル。
広大。
密集。
樹冠が幾層にも重なり、地表を完全に覆い隠している。このような環境では、落下時の衝撃は一度で終わらない。枝、幹、葉――それぞれが段階的にエネルギーを吸収しつつも、同時に人体を破壊する"多段式衝突"が発生する。
簡単に言えば。
より苦しんで死ぬ。
「スリリングじゃないか」
笑み。
ここに至ってもなお、この男は評価を下す。
その評価軸はただ一つ。
"面白いかどうか"。
次の瞬間。
身体が回転する。
これは制御ではない。
風に流された結果だ。
だが、彼はそれすら利用する。
衝突角度。
接触面積。
どこから壊れるか。
どこまで意識が保つか。
すべてをゲームのように静観し、経験に変える。
そして――
激突。
最初の接触は、樹冠。
葉と細枝が衝撃を"わずかに"緩和する。
だが、それは保護ではない。
破壊の前段階に過ぎない。
次。
太い枝。
骨が折れる。
内臓が揺れる。
さらに。
幹。
ここで決定的な損傷が発生する。
脊椎。
頭部。
致命。
しかし落下は止まらない。
地面へ。
叩きつけられる。
完全停止。
結果。
死亡。
――ここまで、およそ二十数秒。
静寂が訪れる。
だが、この静寂には続きがある。
数瞬後。
指が動く。
これは痙攣ではない。
再起動だ。
「……ふむ」
声。
肺が再構築され、空気が流れ込み、声帯が震える。この一連の過程は、亜人特有の現象であり、"死亡をトリガーとして直前の健全な肉体を再生成する"という性質によって成立している。
ここで注目すべきは、その再現精度である。
単なる修復ではない。
最も健全な状態への復元。
疲労も損傷も残らない。
つまり彼にとって死とは、"完全回復付きのリセットボタン"に等しい。
佐藤は、ゆっくりと起き上がる。
関節の動作確認。
筋出力の確認。
異常なし。
当然だ。
「ふう」
予測通り。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが。
その直後。
彼の視線が、わずかに上を向く。
空。
そこにはまだ、いくつもの"点"があった。
落下している。
人間。
複数。
「……妙な話だ」
独り言。
状況の意味は、まだ見えない。
だが、考えるほどのことでもない。
今は、それだけだ。
彼は歩き出す。
理由は不要。
目的も単純。
ただ一つ。
より強い刺激を求めて。
◇
湿気が、肺にまとわりつく。
重い。
粘る。
逃げ場がない。
このジャングルそのものが、意思を持って侵入者を締め上げているかのようだ。
だが——
その中でただ一人、圧力の外にいる男がいた。
佐藤。
暑さも、匂いも、環境も。
すべてが“情報”でしかない。
感じるものではなく、処理するもの。
視線が、止まる。
何もない空間に。
否——
“何もないように見せかけている場所”に。
黒い粒子が、そこにある。
煙のように、しかし明確に“形”をなぞる異物。
闇が形を持つ。
――IBM(インビジブル・ブラック・マター)。
佐藤を含む亜人のみが視認できる不可視の存在であり、意思によって操られる“亜人のもう一つの肉体”。
黒い粒子が集まり人型を成し、音もなく現実に干渉し、人を容易く殺す力を持つ。
命じる必要はない。ただ思うだけで動く。
それは影であり、武器であり――死を超えた者にだけ従う存在だ。
「……隠れているつもりか」
声は低く、平坦。
その瞬間。
空間が剥がれる。
異形の装備を身につけたIBMは宙に消え、光が外れ、景色が歪みむ。
特徴的なマスクと幾何学的な銃が特徴的なその男は、マスクを外し佐藤に問う。
「……どうやって見た」
低音。
押し殺しているが、わずかに震えている。
佐藤は答える。
「見えているだけだ」
簡潔。
だが、揺るがない。
男の指が、引き金にかかる。
引ける距離。
外さない角度。
——だが、引かない。
理由は単純。
“理解できない”。
目の前の男は、明らかに異常だ。
そのとき——
男の視線が、わずかに横へ逸れる。
「……おい」
誰もいない空間へ。
「あいつ、見えてるってよ」
沈黙。
「いや、マジだ。普通にこっち見てた」
さらに沈黙。
「……ああ、分かってる。怪しいのは同感だ」
佐藤は、それをただ観察する。
評価対象。
それ以上でも、それ以下でもない。
男は小さく舌打ちし、再び正面へ戻る。
「……気にするな。癖だ」
「気にしていない」
即答。
男の眉が、わずかに跳ねる。
そして——笑う。
乾いた、短い笑い。
「はは……いいな、お前」
その笑いの奥にあるのは、疲労と摩耗。
「で?あんたは」
「佐藤」
「俺はノーランド。それで十分だ」
間。
短い沈黙。
だが、その中で計算は終わる。
ノーランドの銃口が、ゆっくりと下がる。
「……気に入らねぇが」
吐き捨てる。
「合理的だ」
それは、許可。
つまり——“撃たない”。
佐藤はわずかに頷く。
「協力関係を提案する」
間髪入れない。
普通なら狂気。
だがここでは、合理。
ノーランドは再び横を見る。
「……どう思う」
沈黙。
「だよな。信用できねぇ」
それでも。
前を見る。
決めた。
「ついてこい。拠点がある」
背を向ける。
無防備。
だが——
「いいのか、背を向けて」
佐藤が問う。
ノーランドは振り返らない。
「見えてるんだろ?」
それだけで十分だ。
「奇襲は無理だ」
さらに。
「それに——」
わずかに口元が歪む。
「お前、後ろから撃つタイプじゃねぇ」
断定。
経験による判断。
佐藤は一瞬だけ思考し、
「確かに、その必要はないな」
と返す。
成立。
この瞬間、二人の間に“契約”が生まれる。
言葉ではない。
理解だ。
ジャングルの奥へ、二人は進む。
ぬかるむ地面。
絡みつく蔦。
視界を塞ぐ葉。
その中でノーランドは、時折“誰か”に話しかける。
「……分かってるって。罠は避ける」
「急ぐな?無茶言うな」
「チッ、うるせぇな……」
佐藤は無視する。
重要ではない。
ただ、観察する。
この男の動き。
呼吸。
判断。
やがて、ノーランドが短く言う。
「急ぐぞ。拠点まであと少しだ」
足取りが速くなる。
佐藤も、それに合わせる。
その表情にあるのは——
緊張でも、焦燥でもない。
ただ一つ。
愉悦。
未知の環境。
未知の敵。
そして、利用価値のある人間。
条件は揃っている。
——十分だ。
ス ト ッ ク な ん て ね ぇ よ
今作において、IBMは『あたかも光が物体を通り抜けているように見える光学迷彩』として扱います。
原作のIBMも、光学迷彩をまとっていただけで案外中身は人間に似ているのかもしれません。