IBMを纏ったローランドが、木々の影へと溶けていく。
追う気はない。
止める気もない。
ただ、この星で何を選ぶかは各自の自由だとでも言うように、その輪郭は沈黙したまま揺れていた。
佐藤は倒れた異形の残骸を一度だけ見下ろし、AK-47の弾倉を確かめる。
残数、十分。
腰のピストル。
予備弾倉。
ナイフ。
問題ない。
「じゃあ、行ってくる」
返事はない。
だが背後のIBMが、わずかに肩をすくめたように見えた。
佐藤は歩き出す。
ローランドから聞いた情報は簡潔だった。
この森には、“狩る側”がいる。
空から獲物を落とし、地形を読み、恐怖を遊ぶ者たち。
姿を消し、熱を見て、肉体一つで獲物を裂く者たち。
そして、強い。
それだけ聞けば十分だった。
佐藤にとって必要なのは、名前ではない。
居場所だ。
森は深い。
枝葉は空を隠し、昼なお薄暗い。
湿った土の上には、人間の靴跡、獣の爪痕、何かを引きずった跡が幾重にも重なっている。
だが、“狩る側”の痕跡だけが見当たらない。
佐藤はしゃがみ込み、土を指先で撫でた。
落ち葉の裏返り。
苔のわずかな潰れ。
枝先の不自然な揺れ。
それだけ。
重い体躯が通ったはずなのに、足跡は残っていない。
「最低でも百十五……重ければ百六十」
呟き、視線を細める。
「それでこの薄さか」
――狩人とは、獲物を追う者ではない。
自分の存在を消し、気づかれる前に仕留める者だ。
痕跡を残さぬ移動は、その基本にして完成形である。
立ち上がる。
歩幅は広い。
だが音は少ない。
訓練された移動だ。
人間ではない。
佐藤の口元がわずかに上がった。
「楽しみだ」
進む。
そのはるか上空。
雲と樹冠の狭間を、一羽の影が滑っていた。
鷹に似ている。
だが羽根ではない。
薄い金属板が幾重にも連なり、太陽光を鈍く弾く翼。
刃のような嘴。
赤く点る単眼。
生物の姿を模した監視機だった。
高度が高すぎる。
地上の人間が、森の切れ間でも見上げぬ限り気づける距離ではない。
佐藤は当然、気づかない。
視線は地面。
意識は痕跡。
耳は森の沈黙へ向けられている。
機械の鷹は一度だけ大きく旋回した。
熱源確認。
装備確認。
単独行動確認。
それだけで十分だった。
次の瞬間、翼角を変える。
急旋回。
音もなく進路を反転し、来た方角へ一直線に飛び去っていく。
佐藤は沢沿いの石を調べながら呟く。
「何かが通ったな」
石の表面には、ごく浅い擦過痕。
岸辺の泥は不自然に乾き、周囲の草だけが寝ている。
確証には遠い。
だが自然ではない。
それだけは分かった。
その頃、数百メートル先の樹海上空。
機械の鷹は下降し、巨大な枝へ音もなく着地した。
そこには、何もいない。
否。
何もない空間が、わずかに揺れていた。
迷彩。
樹上に屈む異形の狩人へ、赤い単眼が明滅する。
映像。
体格。
武装。
移動経路。
全てが送られる。
迷彩の輪郭が、ゆっくりと持ち上がった。
ただ一体だけ。
肩には猛禽の意匠。
細身の装甲。
背には機械の鷹を従える制御装置。
顔を覆う面は、猛禽ではない。
滑らかで鋭角的。
無機質な金属面に細い視認スリットが走り、感情も表情も一切読み取れない。
空を司る戦士というより、冷たい処刑具そのものだった。
右腕から、静かに刃がせり出す。
長く湾曲した、手首装着式の単刃。
樹上の狩人は、単独で枝を蹴った。
一方その頃。
佐藤はようやく顔を上げる。
森が静かすぎる。
鳥が鳴かない。
虫も止んだ。
生き物が、何かを避けている沈黙。
「……よく来たね」
AK-47を肩から外す。
安全装置。
確認。
弾倉。
装填済み。
木々の間、何もない空間がわずかに歪んだ。
正面上方。
高所。
単独。
接近中。
佐藤は笑った。
「一人か」
次の瞬間。
枝が裂ける。
上空から影が落ちた。
佐藤は反射的に横へ跳ぶ。
直後、さっきまでいた地面へ右腕の刃が突き刺さる。
土が弾け、落ち葉が舞う。
着地と同時に佐藤は連射した。
AK-47の銃声が森を裂く。
弾丸は跳ねるように退いた何もない空間へ吸い込まれ——火花を散らした。
当たった。
IBMの輪郭が崩れる。
そこに現れたのは、鋭角な金属面を被った異形の戦士。
肩から機械の鷹が飛び立つ。
佐藤は笑みを深めた。
「いい装備だ」
異形は無言。
右腕の刃を水平に構える。
枝から枝へ、獣のように跳ぶ。
速い。
だが、佐藤は逃げない。
迎え撃つ。
人間と狩人。
一対一の距離まで、あと数メートルだった。
静寂が裂けた。
次の瞬間には、二つの影が交差していた。
ファルコナーの右腕から伸びた単刃が、一直線に佐藤の喉笛を奪いに来る。
対する佐藤は、AK-47を棍棒のように横薙ぎへ振り抜いた。
激突。
鋼と鋼が噛み合い、火花が散る。
常人なら腕ごと持っていかれる衝撃。
だが佐藤は踏みとどまる。
そのまま引き金を引いた。
至近距離の連射。
だが先ほどの激突で、銃身はわずかに歪み、内部機構も狂っていた。
一発目は胸部装甲へ叩き込まれる。
二発目は明後日の方向へ逸れる。
三発目――薬室内で暴れた火薬が、銃そのものを裏切った。
暴発。
レシーバーが裂け、木製ハンドガードが砕け散る。
爆ぜた金属片が佐藤の手と頬を切り裂き、衝撃で銃は完全に沈黙した。
異形の身体が半歩ずれた。
その“半歩”で十分だった。
佐藤は壊れたAK-47を投げ捨てる。
距離が近すぎる。
この間合いで長物は棺桶だ。
ファルコナーの左腕が振られる。
籠手の一撃。
佐藤の頬骨が砕け、身体が横へ吹き飛ぶ。
木へ叩きつけられ、幹が軋む。
口から血が落ちる。
だが佐藤は笑っていた。
「いいね」
異形が再び来る。
速い。
重い。
迷いがない。
狩り慣れた動きだった。
右腕の刃が袈裟懸けに走る。
佐藤は身を捻る。
肩から胸へ深く裂かれる。
肉が開く。
血が噴く。
普通なら戦意が折れる傷。
だが佐藤は、その裂かれた懐へ踏み込んだ。
左手で相手の手首を掴む。
右手で腰のナイフを抜く。
ファルコナーの面が初めて揺れた。
近すぎる。
この距離は、銃でも刃でもなく——組み付きの距離だった。
異形の膂力が佐藤を持ち上げる。
片腕だけで宙へ浮かせ、地面へ叩きつける。
肺の空気が抜ける。
肋骨が折れる音。
それでも佐藤は手首を離さない。
ナイフを握ったまま、下から突き上げる。
刃先が脇腹の継ぎ目へ潜る。
浅い。
だが入った。
ファルコナーが怒りの唸りを漏らし、頭突きを叩き込む。
佐藤の鼻梁が潰れる。
視界が赤く染まる。
さらに刃が振り下ろされる。
避けきれない。
右肩から鎖骨まで断ち割られ、佐藤の右腕が半ば千切れかけた。
地面へ転がる。
致命傷。
普通なら、ここで終わる。
だが佐藤にとって損壊は敗北ではない。
這う。
血を撒きながら、なお前へ出る。
異形が一瞬止まった。
理解できないのだ。
なぜ壊れた獲物が向かってくるのか。
その一瞬。
佐藤は足首へ組みついた。
体重を掛けて引く。
巨体がバランスを崩す。
ファルコナーが片膝をついた。
そこへ佐藤は飛びつく。
左手一本で面を掴み、ナイフを首元へ突き立てる。
一撃。
硬い。
装甲の縁に阻まれる。
二撃。
隙間へ半分入る。
三撃。
刃が肉へ届く。
黒い血が噴いた。
異形が暴れる。
佐藤の背を掴み、引き剥がそうとする。
脊椎が軋む。
それでも離さない。
「もう少しだ」
四撃。
五撃。
六撃。
片手で、何度も、何度も。
ナイフが首へ振り下ろされる。
装甲の縁。
喉。
頸筋。
同じ場所へ執拗に。
狩人は強い。
だが首は、どんな強者にもある。
七撃目。
刃が深く沈む。
ファルコナーの身体が跳ねた。
八撃目。
気管を裂く音。
九撃目。
頸椎へ届く硬い手応え。
異形の力が抜けた。
巨体が前のめりに崩れ、佐藤ごと地面へ倒れ込む。
森が静まる。
佐藤はしばらく死体の上で息を整えた。
砕けた顔面。
裂けた肩。
折れた肋骨。
ぶら下がる右腕。
満身創痍だった。
だが、生きている。
佐藤はゆっくりとピストルを抜いた。
迷いなく銃口を自分の顎下へ当てる。
「さて」
乾いた銃声。
頭蓋が弾け、身体がその場へ崩れ落ちた。
数秒の静止。
やがて肉がうごめく。
砕けた頭部が盛り上がり、潰れた顔面が戻り、裂けた肩が繋がる。
折れた骨が音を立てて噛み合い、千切れかけた右腕も元の位置へ収まっていく。
死を経由して、完全な身体が再構築される。
佐藤は何事もなかったように起き上がった。
「やっぱりこれが早い」
異形の首には、何度も抉られた傷口が残っていた。
佐藤はナイフの血を払う。
視線は、死体の顔へ落ちる。
鋭角な金属面。
無機質な視認スリット。
最後まで感情を見せなかった仮面。
佐藤は左手でその縁を掴み、力任せに引いた。
金具が軋む。
留め具が外れ、面が剥がれる。
下から現れた素顔を一瞥しただけで、興味を失う。
必要なのは中身ではない。
勝った証だ。
佐藤はマスクを持ち上げる。
ずしりと重い。
血と土に汚れた金属面が、森の薄明かりを鈍く返した。
続いて右腕を見る。
刃を生やしていた籠手――ガントレット。
金属の留め具をナイフでこじ開け、腕ごと引き剥がすように外す。
重い。
だが作りは精密だった。
刃の展開機構。
見慣れぬ文字列。
人類の兵器とは別系統の思想。
「こっちも貰おう。トロフィーだ」
佐藤はそれを自分の左腕へ押し当て、無理やり固定する。
次に、マスクを顔へ当てる。
冷たい金属が皮膚へ吸い付く。
視界は狭い。
息苦しい。
重い。
だが悪くない。
佐藤はゆっくりとかぶり直した。
無表情の金属面の奥で、口元だけが笑う。
壊れたAK-47を一瞥する。
使い捨てにはなったが、役目は果たした。
そのまま見捨てる。
その顔には狩人の面。
腕には奪ったガントレット。
人間の姿は、もう半分消えていた。
佐藤は森の奥へ歩き出す。
次の獲物を探すために。
評価、感想、お気に入り欲しいです!
ください!!!