「大丈夫ですか!? デイヴィスさん!!」
ガラス扉の破片に突き刺さった腕を引き上げながら金子刑事により引っ張り上げられた。
「大丈夫です。……それより……」
瀕死の重傷を負っているアブサンの胸ポケットから入国管理官の証票と別場所に保管されていた公安警察官の印を探り当て、金子刑事に提示した。
「彼は入国管理官……いや、公安警察官。所謂『隠れ公安』だったようです。なぜ突然発狂したのか……」
そして左手に自らの懐から出し手の平に忍ばせておいた薬一粒を提示した。
「その薬……一体何なんだ……」
この黄色と緑色をした半透明のカプセルこそが『TLMA0181/テロメアリス0181』である。
この薬は宮野 志保が副次的な幼児化に成功したアポトキシンをベースに、組織下のラムとは別に水面下で動く一派のガリアーノが開発した『非老化』薬だ。
"アリスに関する記憶は揮発したはずだ"
いいえ。RAM。
宮野 志保……彼女が作り出したアポトキシンに幼児化という副次的な効果があった事が分かった時には驚きを隠せなかった。
だからこそ派生した『非老化』の研究の一助になったのだろう、若返りをしても不老にならなければ永遠に服薬をし続けなければならない。
細胞の再生は現代科学で可能ではあるが、人間の『脳』だけには手が出せていない。
脳の情報は記憶装置として常に加算され忘却として減算されるが『持続的な意識』を保つという事は非老化と相反する事だ。
記憶を非老化すれば映像記憶能力……永続的なフォトグラフィックメモリーのように脳に莫大な処理負荷がかかり廃人になる。
意識を作る電気信号は非老化中の脳の更新中に途切れ、意識の分断……つまり記憶喪失、記憶が続かなくなる。
それを解決しようとしたのが『テロメアーゼアリス』つまり細胞分裂と不思議の国のアリス症候群の現実の流れと体感が異なる特異な症状の起点と終点を強制的に組み合わせたテロメアリス。
この薬は不完全であり、現時点では強力な自白剤、或いは自己暗示を強める補助薬だ。
服薬すれば殆どの人間が酩酊状態や錯乱状態を引き起こし、更には幻覚作用や思考力の低下と著しい記憶障害を引き起こす。
その著しく現実味の無い効能のため、この薬剤の存在は『ありもしない噂を流して組織内で内部分裂、抗争を引き起こすためのもの』とされ、ラムや腹心であったキュラソーが実在性を疑い、ヴェルヴェーヌを含む者達に内偵をさせていた。
但し、自分が迷い込んだのは不思議の国ではなく鏡の国だったらしいが。
「……ちょっとよく分からないですね。マトリの鑑定部で自分が確認しますよ」
「金子刑事、観光用望遠鏡に工作物が仕込まれています。それを覗いたために視界が酩酊し、後ろ手で柵を掴もうとした為か柵の内側に真新しい傷跡が残っています。被害者の爪に破片がありましたから検証してみれば分かります」
アブサンを放置して中年男性の遺体を指さした。
「な……確かに欠片が……」
金子刑事が遺体に気を取られている間に先ほど回収した薬をアブサンに一粒飲ませた。
「殺人事件だと思いますよ。お二人は金子刑事が来るまでに警察も救急も呼んでいません。早急に通報しなければケーブルカーはもう登ってこない時間帯に差し掛かると分かっていながらです」
二人は顔を青ざめさせて勝手口から逃走を図り、金子刑事はその後を追った。
これはケーブルカーに間に合わないな……。
土産は誰から受け取ればいいのやら。
「なあアブサン、最後に言いたいこと、あるか?」
これで万が一『テロメアリス服薬の被験者が一名組織内に潜伏していた』と事実が露呈されても、自分が疑われる可能性が減少した。
アブサンが死ぬまでには猶予がある。
下山は明日以降になり、血中濃度を探られても『以前の服薬から既に時間が経過しており、最後の服薬が死亡直前であった』となるだろう、そう筋書きを作る。
そもそも僕の与えられたミッションは記憶喪失を演じて警察保護下に入り、毛利小五郎の懐に入り込み各所に工作物を仕掛け、情報を組織に流すこと。
身分が露呈した場合『上と交渉の場を設ける』か『命を絶つ』か『逃げ延びて地下に戻るか』の三択を選ぶものであった。
しかし、まさかバーボンが半記憶喪失として組織に申告し、公安に入れたのは想定外だった。
警察協力章を得たことを理由としたかは分からないが、隠れ公安の麻薬取締官ともなれば、組織側には『計画は順調に進んでいる』と表す事となり、ヴェルヴェーヌを経由してキュラソーに『国家公務員にノックがいると麻薬取締官であるイザラが報告を上げた』事実も伝わっている。
今、自分を疑い罰しようとしている人物を挙げるとすれば……。
ジンと……ライだ。
「……ど……うけ……」
「大変だったのう……デイヴィス君……」
後のことは金子刑事に任せて現場を立ち去ったものの結局野宿になったが、明朝にケーブルカーに乗って阿笠博士とコナンくんが迎えに来てくれた。
「あはは……」
ガラス片により傷だらけになった体を救急隊員に手当てされながら力無く笑った。
「……探偵士さん、ちょっといい?」
頷くとコナンくんは隣に座って真剣な表情をして救急隊員が立ち去るのを待った。
「……蓬原さん、『ワープターミナル東都』で会った入国管理官で……隠れ公安だった人だよね? 何があったのか教えて」
自分がテロメアリス服薬の被験者だと把握しているのは別一派と公安とFBIだけだ。
万が一、組織に情報が流れれば『錯乱状態になる可能性がある時限爆弾』として間違いなく消される。
「……玄地さんって居たでしょ? ……組織の人間、スーズだった。どうやら蓬原はアブサンとして組織内で片恋慕していたようなんだ……。痴情のもつれってやつさ。言っていて自分が恥ずかしいよ……」
虚偽は働いていない。
「なら、なんで昨日いきなり探偵士さんを襲ったの? 会った日から随分経ってるし、チャンスはいっぱいあったじゃない」
そうだな、だから観覧車の下で爆殺されそうになった。
「……キュラソーを覚えてる? ……あの日、爆発物を仕掛けられていてね。ROT3の暗号が書いてあったんだけど実際は鍵盤が沈むアナログ変換だったんだ。その暗号の入力をROT13で打ってしまったのをモニターが無いのに、アブサンはミスを看破したんだ」
コナンくんはそれを聞くと顎に手を置いて眉を顰めた。
「……つまり、アブサンが探偵士さんを殺害しようとした犯人だったのか……」
物分かりが良くて助かる。
「そう。そのミスを安室さんにチクられたから、一度ポアロをクビになったんだ。あはは、あむあず過激派語りも理由にはあったと思うけどね……」
はぁと深い溜息をついて続けた。
「多分、恥をかかせて死なせることに拘りがあったんじゃないかな。だから殺人事件に出くわした時、犯人二人に『僕は麻薬取締官』と言ったら『彼は嘘をついている』としたんだ。僕は気が弱いから強く言えなくて……」
頭を掻いて苦笑いをすると手首を掴まれた。
「……それ、理由になってないよね」
……うーんと。
「……え? ああ、もちろん麻薬取締官証を出そうとしたよ。そうしたら『熊津と玄地の二人を誑かしたクズ』って言われちゃって……」
握られた手に込められた力が強くなる。
「……探偵士さん、昨日であった理由と身分を明かさなかった理由にはなってない」
「……なんで昨日なのかは分からないけど、蓬原から『Revenge is a dish best served cold』になる暗号を渡されていたから時間が空いたんじゃないかな。……身分を明かさなかったのは蓬原と争いになったら相手は拳銃を持っているから他の人を巻き込まない為だったんだけど……」
コナンくんは真っ直ぐに此方を見つめた。
「……そっか……それなら理屈は通るね」
この回答の何処が不満なんだ。
「あ……そうだ、お土産を受け取れてなくて……」
視線を宇宙に移すと、丁度オニヤンマがアブを捕らえた瞬間を見た。
「……ボクは探偵士さんを信じたいって、いつも思ってるから」
……信じてはくれないか。
オニヤンマがUターンをしようとくるりと旋回した時、カラスの嘴に飲み込まれ、そのまま黒い影となり消えていった。
「ありがとう。とだけ言っておくね」
、、、
「みんなー!! お土産をもらってきたよー!!」
クーラーボックスを抱えて宿で待つ少年探偵団のみんなの所へ駆けていった。
「わぁー!! もしかしてアイスクリーム!?」
歩美ちゃんが興味深げに中を覗くと、段々と瞼が下がりジト目になった。
「ゲェーッ!? 『ガジガジ君コンポタ味』じゃねえか!!」
そんなに驚くのか、まあ三日で販売休止になる程の大ヒットを記録し、売上はガジガジ君の中でも三位であり、ガジガジ君の知名度向上に貢献した商品だから無理もないか。
「あんまり味が……って噂のやつじゃないですかー!!」
百聞は一見にしかず、食べなきゃわからない。
「コラ光彦!! 貰ったものにそんなことを言うなよ!!」
コナンくんの叱責に光彦くんは日位さんに頭を下げた。
「すみませんでした……」
好みは人それぞれだから。
「ワッハッハ!! いいのいいの!! 気にするな!! どうせアイスの在庫整理なんじゃから好きなだけ食べなさい!!」
おっと、お土産という建前はどうした。
「私はパス、アナタにあげるわ」
哀ちゃんは冷ややかな目つきガジガジ君コンポタ味の風を開けて寄越した。
「本当に貰っちゃっていいの? 何だか気を使わせちゃって悪いね。僕はこのガジポタ好きなんだ……。……うっ……」
「さあて!! サシバの訓練じゃ!!」
日位さんの指揮の下、田んぼにまで降りてサシバの林太郎の飛行訓練を開始した。
「すごーい!! ちゃんとお兄さんを飼い主だって覚えてるんだ!!」
林太郎には室内で訓練をしていたから、命令は聞くようになっている。
「中々筋がいいな!!」
一通り訓練が終わると光彦くんから質問を受けた。
「どうしてあの鉄塔、赤と白の縞々模様なんですか?」
ああ、東京では見る機会が少ないか。
「ヒントをあげよう。赤と白の縞々は基本的に60m以上のものなんだよ」
その場から状況の理屈を鑑みれるか、思い込みと先入観とただそこにある事実を切り分けられるか。
「わかった!! 空が寂しくないような賑やかにしてるんだな!!」
良い切り口だ。
「きっとおめでたいことを願うおまじないだよ!!」
自由な発想で素晴らしい。
「アナタ達、鉄塔はどこにあるのかしら?」
哀ちゃんが宇宙を見上げると、歩美ちゃんが挙手をした。
「田んぼの真ん中にあるよ!!」
すると光彦くんが声を上げた。
「わかりました!! 神社の鳥居の役割ですね!!」
その発想は無かったな。
「バーロー! 田んぼは障害物が少ない。空には何がある?」
宇宙には……。
「星だろ!? ……あとは……あ!! 飛行機雲だ!!」
元太くんが指差す場所には、白い線が宇宙を二つに分断している様子がスローモーションのように流れていた。
「あれは昼間障害認識といって、ヘリコプターが鉄塔にぶつからないために視認しやすいコントラストにしているんじゃよ」
阿笠博士が答えを言ってしまうと、皆で暫く上を見上げた。
「……影送りが出来そうだ。自分の影をじっと見つめて宇宙に浮かべるんだ。……1」
玄地、スーズ。
「……2」
塞本、ガリアーノ。
「……3」
熊津、ヴェルヴェーヌ。
「……4」
蓬原、アブサン。
「……5」
岸良、コカレロ。
「……6」
……、ファイグリング。
「……7」
自分の黒い影を見つめて宇宙を見上げると、薄白くなった影が宇宙に浮かび、程なくして跡形もなく消えてしまった。
「呆れた。何真剣にやってるのよ、そろそろうちに帰るわよ」
「まさか蓬原まで薬剤を服用していたとは……。彼は信頼できる部下だとばかり……。考えを改めねばなりませんね」
下山してみんなと別れたあと、安室さんと合理して蓬原が住んでいたアパートを訪れた。
公安の建前は『組織側だった者の遺留品から情報を得る』であり、組織の建前は『NOCであった事実を消しさるため』だ。
蓬原の部屋は古物商と遺品整理士を名乗っていただけのことはあり、骨董品や絵画で溢れかえっていた。
「……彼は僕達と同じトリプルフェイスでした。三つの顔を使い分けるうちに本当の自分を見失ってしまったのでしょう」
唯でさえ人間には二面性があるのだから、視点Aから見た人間像と視点Bから見る人間像には乖離が起きて当然だ。
最後に他者から観測されたシュレディンガーの猫は死んでいたというだけのこと。
その猫が箱に入る前の猫と同じ個体かどうかを、疑うことをしないから。
「……コナン君から聞きましたよ。爆発物処理の報告の際に蓬原に嵌められたとね」
…………やはり、コナンくんという少年と捜査情報を共有している。
江戸川 コナンは工藤 新一である根拠は確実として裏付けられた。
「……はい」
アポトキシンが幼児化を特定条件で発現させる薬剤である事も同様だ。
江戸川 コナン、灰原 哀……いずれも同年代だ。
ならば更に上の年代の者が服薬し発現した場合はどうなる?
同じ学年の姿になるのか、特定の年代……例えばマイナス約10歳になるのか、服用した年代により差が開くのか縮まるのか。
仮に15歳以上の10代ならマイナス10歳、20代ならマイナス20歳、30代ならマイナス20歳と続くとする10代への年代返りだとすれば。
『私は領域外の妹だ。……この意味が分かるか? ……デイヴィスとやら』
……世良 真純の兄は二人いる。
赤井 秀一、羽田 秀吉。
そして赤井はFBI、何より両親は……。
「確かに嵌められたのは気の毒ですが、プロとして空目は看過できませんからね」
そうかよ。
ふと、ゴッホの『星月夜』のポスターにポストカードと透明なフィルムが挟まっている事に気づいた。
あはいうのはひたちつどぐ
えおそたちつてとだぢのう
かきくしすせそたちつてと
おえおかきくけこさしすせ
むまくけきくけこさしすせ
たちつてとなにぬねのはひ
ふへほまみむめもやゆよん
あいうえおかきくけこさし
透明なフィルムは以下になる、
1,6、2,5、2,6、2,9、3,8、4,7、5,5、5,9、8,9、9,8、11,8、11,9、12,8、12,9
「自分の立場は、自分がよく理解しています」
第五章 アブサン - ルージュ 完