雨の匂いが、薄汚れた路地裏に未だ残っていた。
黄昏時の街灯の届かない細い路地裏で、ひとりの少女──有馬マカは自身の膝を抱えるように小さく座り込んでいた。濡れたアスファルトの冷たさがじわじわと座り込んだ下半身から全身伝わってくるのに、マカは動く気にはなれなかった。
静かすぎる。
ほんの少し前まで、マカの世界は壊れることのない福音で満たされていたはずだった。ママのぬくもり、パパの微笑みがマカを包み、最高の誕生日で終わるはずだった。
それが突然、嘘みたいに消えてしまった。
怒号、衝突音、誰かの悲鳴。残ったのは、自分一人だけ。
大好きだったママも、抱き着くたびにお鬚がジョリジョリしてくすぐったかったパパも。
「……なんで」
呟いた声は、ひどく小さくて、誰にも届かなかった。
もう泣く気力もなかった。ただ、頭の中だけがぐるぐると回り続ける。
どうして。どうして自分だけ。
そのとき——
ざり、と。
誰かが、古ぼけたアスファルトを踏む音がした。
思わずといった様子でマカは顔を上げる。
ママ来たのかも。パパが探しに来てくれたのかも。そう思ったマカだが、顔を上げても求めていた人の姿も形もない。
ただ、薄明るい路地裏の入口に、ひとりの少年が立っていた。
パッと見はマカと同世代くらいだろう。
明かりに照らされた白い髪。
薄汚れた白いニット帽。
夜の差し掛かる狭間の世界の中で、その少年の白だけがやけに浮いて見えた。
「……誰?」
警戒する声だった。自然とマカの体が強張る。
少年は答えない。ただ、じっとその赤い瞳がマカを見ていた。そのどこか世界を恨んでいそうな視線は冷たくもなく、優しくもない。ただマカという存在を“測っている”ような目だった。
「……ここ、危ないぞ」
短い沈黙を挟んで、そんな低い声が落ちた。
「……放っておいて」
マカ即座に少年へと返す。関わりたくなかった。もう誰とも。
少年は少しだけ眉を動かしたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、向けていた視線をマカの向こう……路地の奥へ向ける。
その瞬間、蹲っていたはずのマカの背筋にぞくりとしたものが走った。
……何かいる。
遅れて、足音が聞こえてきた。
重く、そしてどこか湿ったような足取り。
路地の奥から、暗い影がにじむように近づいてくる。
「……っ」
恐怖でマカの呼吸が乱れる。
ドクンっと心臓が跳ね、雨上がりで肌寒いはずなのに汗が肌を湿らす。
少年は小さく舌打ちした。
「間に合わなかったか」
「なに、あれ……」
路地の影の中から現れたのは、人の形をしているようで、どこか歪んだ存在だった。目だけがぎらりと光り、こちらを捉えている。
知識としては知っていた。だけど実際にその存在を目の当たりにして、マカは動けなかった。
怖い……はずなのに、足がすくむというより、体が“固まる”。
そのとき。
「……見るな」
低い声と同時に、視界の前に白い何かが割り込んだ。
さっきまで入口に立っていたはずの少年だった。
いつの間にかマカとの前に立ち、背中で庇うようにしている。
「……逃げろ」
「でも……」
「いいから」
有無を言わせない声音だった。
次の瞬間。
少年の腕が、光と共にぐにゃりと形を歪めた。
「え……?」
骨が砕けるような音も、肉が裂けるような音もなかった。ただ、当たり前のように……少年のその腕は確かに変形していく。
伸び、湾曲し、刃を形作る。
赤黒い刃を持つ、大きな鎌へ。
「……は?」
理解が追いつかない。
だが、少年……いや、“ソレ”はマカの守るように一歩踏み出した。
空気が変わる。
さっきまでの静けさとは違う、張り詰めた圧。
影の中の敵が少年へと飛びかかる。
瞬間、白い閃光が走った。
……一閃。
音が遅れて響いたかのように聞こえた。
次の瞬間には、敵は路地のアスファルトへと崩れていた。
もうひとり。
もうひとり。
少年は迷いなく振るう。ギラギラとした視線と品性のない下品な嗤いを浮かべていた敵を相手に、その動きは無駄がなく、冷静で、どこか機械的ですらあった。
わずか数秒。
それだけで、すべてが終わった。
路地の中に再び静寂が戻る。
ぽた、と水滴が落ちる音だけが響く。
やがて、鎌は元の形へと戻っていく。少年の腕が、何事もなかったかのように人の形を取り戻した。
戻った腕には赤く、そして僅かに鉄臭い液体が流れていた。
「……なんで」
気づけば、マカは立ち上がっていた。
「なんで、助けたの」
自分でもわからない言葉だった。責めるような響きが混じる。
いや、心のどこかでわかっていたのだ。
もうママもパパも居ない。私はひとりぼっちなんだと。
少年は振り返らない。
「……別に」
「放っておけばよかったじゃん」
言いながら、胸の奥がざわつく。
……本当は違う。
……本当は。
「……ひとりだったからだろ」
ぽつり、と。
少年の声が落ちた。
マカの言葉が止まる。
「……ああいう奴らはな、そういうやつを狙う」
振り返る。
その目は、やはり冷静だった。けれど、どこかで……ほんの少しだけ、同じものを知っているような色があった。
マカは言葉を探す。でも見つからない。
代わりに出てきたのは、全然違うものだった。
「……あんたも?」
一瞬、沈黙が落ちる。
少年は、ほんのわずかにその冷めた視線をマカから逸らした。
「……まあな」
それだけだった。
それだけなのに、十分だった。
マカはゆっくりと、一歩少年へと近づく。
「……名前は?」
少年は少しだけ間を置いた。
何かを考えるように。
そして、
「……ソウル」
「ソウル=イーター」
そう、短く答えた。
それがきっと本名じゃないことは、なんとなくマカにも分かった。
でも、今はそれでいいと思った。
「……私はマカ。
自分も名乗る。
ほんの少しの沈黙。
雨の匂いが、また強くマカの鼻を刺激した。
「……行くとこ、あんのか」
もうすぐ雨がする。マカと同じことを感じたソウルがそうマカへと訊く。
マカは首を横に振った。
「……ない。もうどこにも居場所なんてない」
「……そうか」
マカの言葉に、それ以上ソウルは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を上げて、曇りに曇った夜空を見たあと。
「……ついてくるか」
そうぶっきらぼうに言った。
命令でも、誘いでもない、曖昧でどこか落としどころを探るような……そんな言い方。
でも。
マカは迷わなかった。
「……うん」
小さく頷く。
それだけで、何かが決まった気がした。
白い背中が歩き出す。
マカはその後ろを、少しだけ間を空けてついていく。
距離はまだ遠い。
最悪の誕生日。大切な全てを失った日。
それでも、マカは完全なひとりになることはなかった。
その事実だけが、冷たい喪失の沼の底で、やけに温かかった。
これが、2人の新しい始まりだった。