例によって時系列は特に考えていません。
また、別のある日。ゲヘナでの用事を済ませた先生は、その帰り道に、人気のない広場で何事かを繰り返すヒナノの姿を見かけた。
「"……"」
先生はそれを「ヒナが以前語っていた彼女の奇行である」と即座に見抜き、しばらく見物しておくことにした。幸い仕事は全て片付いていて、時間は十分にあった。
空砲を撃ち、虚空に蹴りを放ち、掌底を打ちこんで大きく後ろに飛ぶ。体勢を低く屈めて、突進と同時に肘を打ち上げる。突然横に飛んで受け身を取り、体を捻って体勢を整えると同時にまた空砲を撃つ。
そんな奇行が、眺め始めてから10分は続いただろうか。
突然彼女は体をビタリと停止させ、直立したまま何事かを呟き始めた。先生が耳を澄ます。
「――18時45分08秒、状況終了。今回のシミュレート結果、仮想戦闘継続時間31分17秒、状況再現率78.6%、観測補強率90.7%と推定。イオリさんへの行動適合率は今までと比較して12%程度の補正が期待される……。
さて、『先生』。何のご用でしょうか?」
息一つ乱していないヒナノが、背を向けたまま正確にこちらを名指しした。視線を向けられていたことには、とうに気付いていたらしい。
「"いや、邪魔するつもりはなかったんだけど。真剣だったから、つい見入っちゃって"」
「観測されるのは本意ではありませんが、実害はないので不問とします。ですが、私の『儀式』は見世物ではありませんよ」
ヒナノはゆっくりと振り返り、その手の中の手帳に何かを書き込みながら淡々と答える。その場所は、かつて彼女が不良として暴れ、イオリに制圧されたという因縁の地だった。
「"ここでよく、そんな風にシミュレーションをしてるって、ヒナから聞いてね"」
「……ヒナ委員長が、ですか」
ヒナノの手がピタリと止まる。そして、微かに、本当に微かにだが、呆れたような息を吐いた。
「"ヒナは言ってたよ。ヒナノは、イオリを暴いて、追い越して、打ち倒すつもりなんじゃないかって"」
「……ヒナ委員長は、キヴォトスにおける戦力としても組織の長としても極めて優秀で、尊敬に値する方です。しかし、こと私とイオリさんの関係性の解釈においては、酷く的外れですね」
ヒナノは手帳をしまい、無機質な瞳で先生を見つめ返した。
「私がここで、過去のイオリさんを仮想敵として『打ち倒す』シミュレートを繰り返しているのは事実です。入部当初は、確かにそう公言していましたからね。
ですが、それは彼女を害するためでも、下克上を果たすためでもありません。そんな低俗な欲求は、もはや私の論理回路には1バイトも存在しません」
肩を竦め、小さく
「"じゃあ、どうして?"」
「簡単な話です。私がイオリさんの最適解、最高速度、最大火力を完全に上回り、彼女を無傷で制圧できるだけの演算能力と身体能力を持たなければ……本当の戦場で、彼女を完璧に守り切ることはできないからです」
ヒナノは一歩、先生へと歩み寄る。
「彼女は猪突猛進で、死角が多い。そのすべてをカバーし、彼女に一切の損傷を負わせないためには、私が彼女の思考を先読みし、彼女以上の速度で障害を排除する『完璧な機構』になる必要があります。
あの日、私をねじ伏せた圧倒的な暴力と規律。あの気高きイオリさんをシミュレート上で無力化できて初めて、私は彼女の隣に立つ『盾』としての最低要件を満たすのです」
彼女の語る言葉は、論理的でありながら、その根底にあるのは常軌を逸した狂信だった。ヒナが「イカれている」と評したのも頷ける。
「"なるほどね……。
でも……ヒナはもう一つ言ってたよ。最近のヒナノの視線が、かなり粘ついた『熱』を帯びてる……って"」
先生がやや逡巡しながら口にした、その言葉を聞いた瞬間。ヒナノの無表情な顔に、ほんの僅かに亀裂が走った。
いや、それは亀裂ではなかった。極限まで圧縮された狂愛が、薄皮一枚を隔てて漏れ出したような、ぞくりとするような微笑だった。
「……ええ。当然です、そう見えるのも。あれから私は大きく変わりましたから」
ヒナノは自らの胸元に手を当て、うっとりとした口調で紡ぐ。
「彼女は、何の目標もない、ただの下らない不良だった私に、秩序と生きる意味を与えてくれた。かつてはその背中を、ただ追いかけるだけで満たされていました。
ですが、彼女を観測し、理解し、私の内側に情報を蓄積していくにつれ……その神聖さは、私のキャパシティを容易く凌駕していった。
今や私の内なる『崇拝』は、より高次な『絶対的保存』の欲求へと変質しています」
ヒナノの目が、昏く
「誰にもあの人を傷つけさせない。誰にもあの人の美しさを損なわせない。一切の曇りなく、私の手の届く範囲で、イオリさんを完璧な状態のまま永久に保存したい……。
そのためには、もはや彼女の盾になるだけでは不十分なのです。彼女の周囲の空間、彼女に降りかかる運命そのものを、私が掌握し、再定義しなければならない」
「"……それは、少し息苦しくないかな? イオリにとっては"」
先生の真っ当な指摘に、ヒナノはすっと元の無表情に戻り、首を傾げた。
「息苦しい? ご心配には及びません。イオリさんにそのような不快な感情を抱かせないよう、私が裏で完璧に立ち回り、環境を最適化するだけですから。彼女は今まで通り、ただ気高く、その美しき我儘のままに風紀を正していればいいのです」
一切の悪びれもなく、自らの狂気を「至極当然の真理」として語るヒナノ。
彼女がかつて入部届を叩きつけた時の「傍に居たいヤツができました」という言葉。それは、純粋な憧れなどという可愛らしいものではなく、ひたすらに重く、歪な信仰宣言だったのだ。
「……さて、シミュレート後のクールダウンも完了しました。私は戻って、本日のイオリさんの観測データを整理しなければなりませんので、これで失礼します」
一礼し、踵を返すヒナノ。
「"あ、うん。気を付けて帰ってね"」
「ええ。先生も、夜道にはお気を付けて。
……もしイオリさんに害をなすような真似をすれば、例外なくあなたも私の『排除対象』にリストアップされますから」
最後に振り返り、抑揚のない声で静かに警告を残すと、ヒナノは今度こそ夜の闇へと消えていった。
残された先生は、彼女の背中を見送りながら、深々とため息をつく。
「"……ヒナの言ってた通り、本当に危ない子だなぁ……色んな意味で"」
冷徹な機械の皮を被った、一途すぎる狂信者。
彼女の底知れぬ愛の深さ、重さを垣間見た先生は、風紀委員会の未来に――主にイオリの胃袋の安否について――一抹の不安を抱えながら、帰路につくのだった。