その狂愛が視るものは   作:Othuyeg

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第3話の裏側です。


第3節・逆位置 トレーニングの場合

 先生はジムに来ていた。色々な生徒に「健康に気を遣え」と注意されてしまったからである。

 先生はへとへとだった。運悪くスミレに見つかり、体力の限界をギリギリ超えない絶妙に悪質なトレーニングを強要されたからである。

 ヘロヘロの体で何とか休憩スペースに辿り着きスポーツドリンクをガブ飲みしていると、隣に腰掛ける人影があった。

 

 「……随分とお疲れのご様子ですが。何故そのようなハードトレーニングを?」

 

 「"……ヒナノ"」

 

 果たしてその正体は、永峯ヒナノであった。

 「はい、永峯ヒナノですが」と首を傾げるヒナノ。

 

 「質問に答えていただいても?」

 

 「"……ああ、ごめん。

 ちょっと……トレーニングに、特に情熱を注いでる子に見つかっちゃってね"」

 

 「巻き込まれた、ということですか」

 

 「"うん……"」

 

 力なく首を縦に振る先生に、ヒナノは手元のタオルで汗を拭い、先生にプロテインを差し出しながら淡々と告げる。

 

 「観察する限り、かなり筋繊維が悲鳴を上げていますね。超回復を促すため、至急プロテインの摂取と十分な休息を推奨します」

 

 「"ありがとう。ヒナノも、今日はトレーニング?"」

 

 先生が問う。ヒナノはタオルを畳んで、プロテインドリンクを飲み干すと、口元を拭い、答える。

 

 「はい。日課のようなものです。

 本日は100kgのバーベルを用いたハイバースクワットと、20kgのダンベルを用いたレネゲードロウを規定セット消化し、追加でそれぞれ同じ重量のベンチプレス、ルーマニアンデッドリフト、リバースフライ、ダンベルツイストランジと、アブローラーを行いました。

 休憩を終えたら、長距離ランニングで体力強化に臨みます」

 

 涼しい顔で常軌を逸したトレーニング内容を口にするヒナノ。先生は、いつかチナツが胃を痛めながら語っていた『異常なトレーニングをしている人物』の報告を思い出した。

 

 「"そういえば、ヒナノのトレーニングの噂を聞いたよ。

 今日は少し負荷が軽めなんだね?"」

 

 「……? いえ、普段はこの負荷です。おそらく高負荷のトレーニングをしていた様子を見られていたのだと思いますが、『噂』というのはどなたから?」

 

 「"チナツからだよ。時々他の利用者が怖がって通報してくるって、胃を痛めてた"」

 

 「そうですか、それはご迷惑をおかけしますね」

 

 特に気にした風もなく、淡々と返すヒナノ。先生はさらに続ける。

 

 「"……でも、どうして? ヒナノは十分体力も運動神経もあると思うし、そこまで無理して体を苛める必要なんて無いんじゃない?"」

 

 「……確かに、客観的に見て私の身体能力は並の生徒を大きく上回っています。ですが万全を求めるのであれば、その程度は最低限満たさなければならない基準でしかありません。

 私はイオリさんの盾として、そして矛として、常に進化し続ける彼女の前を進み続けなくてはならない。

 急かず、手抜かず。倦まず、弛まず。より一層の精進を……」

 

 その言葉は、どこかの武道家か求道者のようだった。しかし、彼女の瞳の奥のそれは、純粋な武への探求心などではない。ただひたすらに、特定の一個人を最適に支えるための「執念」だけがそこにあった。

 

 「"……そういえば、チナツから聞いたんだけど。ヒナノの趣味って、筋トレや格闘技だけじゃないんだってね"」

 

 「はい。身上調書にも記載した通り、多岐にわたりますが。それが何か?」

 

 「"例えば『タロット占い』とか『天体観測』、それに『ビオラ』や『DIY』まで……。それらも全部、イオリのためなの?"」

 

 先生の問いに対し、ヒナノは当然の事実を確認されたかのように、少しだけ不思議そうに首を傾げた。

 

 「ええ、肯定します。

 タロット占いや天体観測は、イオリさんの行動方針に統計的な助言、補完をするためのアプローチです。イオリさんにリラックスしてもらうための娯楽という側面もないことはないですが。

 DIYや楽器演奏は、イオリさんの周囲の環境をより快適に保つための、一つの手段です。『聞いていると眠くなる』と言われたので、ビオラについては失敗だったかもしれませんが、まあ睡眠導入としては活用できるでしょう」

 

 「ギターやシンセサイザーの方が良かったかも知れませんね」と語る彼女の、能面のような無表情。

 まるで機械の仕様書を読み上げるような、抑揚のない説明。

 そこに、彼女自身の「楽しい」や「面白い」といった感情が介在する余地は、最初からほんの僅かも存在していなかった。

 

 「"……チナツは心配してたよ。ヒナノの行動は、そこからヒナノ自身の幸福や痛みがすっぽりと抜け落ちてる気がするって。

 ……ヒナノは、自分の楽しみのために何かをしたりはしないの?"」

 

 先生の言葉を聞いたヒナノの動きが、ふと止まる。

 彼女は、まるでひどく難解な外国語でも聞かされたかのように、目を細めて先生を見つめた。

 

 「……『私自身の楽しみ』、ですか?」

 

 「"うん"」

 

 先生が首肯すると、ヒナノは大きくため息を吐いた。

 

 「先生。前提の認識が間違っています」

 

 ヒナノは、冷たい氷のような声で静かに言い放つ。

 

 「かつて、不良として無為な日々を過ごしていた頃の私には、何の価値もありませんでした。『何かをする自分』に価値を見出すなど、ひどく無駄で滑稽なことでした。

 私の本質は、あの頃から……漠然とした焦燥感と不安に駆られ、周囲に当たり散らしていたあの頃から何も変わってはいないのです。

 ただ、人生を賭けるに足る目的を見つけた。それだけのこと。

 私の行動のすべては、イオリさんという『観測対象』を理解し、保存し、崇拝するための手段として完全に統制されています。そこに、永峯ヒナノという個人の『純粋な欲求』が入り込む余地などありませんし、必要もありません」

 

 そう語るヒナノの瞳の奥に、ふつふつと、あの石油のように重く粘っこい『熱』が浮かび上がる。

 彼女にとっての至上の幸福とは、己を満たすことではない。己を削り、己を消費し、イオリという神格を完璧に保つことそのものなのだ。

 

 「イオリさんを観測し、彼女の最適解となり得るパーツとしてこの身を再構成し続けること。それが私の存在理由であり……強いて一般的な言葉を当てはめるなら、それが私の『娯楽』です。

 ……さて。規定のインターバルが終了しました。長距離ランニングへ移行します」

 

 ヒナノは立ち上がると、一糸乱れぬ正確な動作で一礼し、ジムの出口へと向かって走り去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、先生はチナツが言っていた「たまに背筋が寒くなるほど不気味」という言葉の意味を、肌で理解していた。

 

 ("……確かに、味方としてはこれ以上なく頼もしいけど……")

 

 自らを『コスト』や『手段』としか認識していない、その歪で空虚な献身。

 あの執着の重さに当てられてしまいそうだと語ったチナツの怯えは、決して杞憂などではなかったのだと、先生はスポーツドリンクのペットボトルを握りしめながら一人ごちるのだった。




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