俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
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勘違い英雄譚、開幕
静かなる辺境の村、ルミナス。その中心にそびえ立つ、古くから村人たちに神聖視されてきた大樹の木陰。うららかな陽光が葉の隙間からこぼれ落ち、黄金色の斑模様を地表に描く中、タチバナはそこにいた。
手入れの行き届いた芝生の上に敷かれた清潔な布の上に、ゆったりと身を横たえている。少し長めに切り揃えられた柔らかな黒髪、優しげに弧を描くタレ目、そして何より、この泥臭い農村にはおよそ不釣り合いな、透き通るように白い肌と整った顔立ち。
彼は一見すると、神に愛された清廉なる美青年そのものであった。
「タチバナ、肩の力、抜いてね」
心地よい声と共に、村娘のアンナが彼の肩を優しく揉みほぐす。
「はい、タチバナ。今日のブドウは特別甘いわよ。あーん」
別の村娘、ベッキーが皮を剥き、種を抜いた完璧な状態の果実を彼の口元へ運ぶ。さらにその横では黒髪のクロエが大きな葉を使い、彼の額に浮かぶわずかな汗を拭うための、絶妙なそよ風を送っていた。
「皆ありがとう。君たちの優しさに、いつも救われているよ」
タチバナは、聖人のような穏やかな微笑みを湛えて応じた。その完璧な仮面の下で、彼の思考は極めて利己的かつ冷徹な計算式を弾き出していた。
(ふっ、素晴らしい。アンナの指圧技術は、昨日よりも三割増しで向上している。ベッキーの果物選別眼は、もはや職人の領域だ。そしてクロエ…うちわを仰ぐために彼女が屈むたび、その粗末な服の隙間から覗く胸の谷間の角度が、俺の視界に対して完璧な幾何学模様を成立させている。眼福極まりない)
遠くの畑では、村の男たちが汗と泥にまみれて重い鍬を振るっている。タチバナは彼らを視界の端に捉え、心底からの哀れみを抱いた。
(愚かなことだ。人間、なぜ自ら苦労を背負い込むのか。己の持つ天賦の才──すなわち『顔の良さ』と『庇護欲をそそる雰囲気』──を最大限に活用し、他者に労働を代行させることこそが、最も理にかなった生き抜くための術というものだ。あの泥まみれの働き蜂たちには一生理解できまい)
至れり尽くせりの環境。タチバナは差し出された焼きたてのパンや、素朴な木彫りの装飾品を眺めながら、ふと、満たされぬ渇きを覚えた。
(悪くはない。決して悪くはないのだが…正直、限界だな)
彼の欲望は、この小さな村の供給能力をとうに超えていた。木の実やパンではなく、王都で出されるような極上の肉と美酒が欲しい。粗末な布の服ではなく、肌触りの良い絹の衣服が欲しい。何より、彼の安全と怠惰な一生を決定づける、黄金や宝石といった『絶対的な資産』が必要だった。
それに、彼がこの村を離れなければならないと考える「論理的な理由」がもう一つあった。タチバナは、献身的に世話を焼く娘たちを細目で見つめる。
(これ以上、この娘たちの好意を煽るのは危険だ。女の愛情というものは、一定の許容量を超えると、途端に制御不能な厄災へと変貌するからな…)
彼の脳裏に、今は亡き母、サヤカの姿が鮮明に蘇る。彼と同じ黒髪と黒目を持つ、村でも浮き上がるほどの絶世の美女であった母。村人からは、「遠い東の国の没落貴族の生き残りではないか」と噂されていた彼女は、タチバナを病的なまでに溺愛していた。
あの日、タチバナが「今日のシチュー、美味いね」と何気なく褒め言葉を口にした瞬間、彼女の精神の均衡は崩壊した。歓喜のあまり奇声を上げ、台所で狂気じみた喜びの舞を踊り狂い…その遠心力で濡れた床に足を滑らせ、巨大な素焼きの壺に後頭部を強打して帰らぬ人となったのだ。
それだけではない。頭から大量の血を流しながら、彼女は最期の力を振り絞り、自身の血を指につけて床にメッセージを書き残した。
『愛してる♡』
この世界の標準的な文字しか知らないタチバナにとって、それは見たこともない不気味な象形文字であった。特に最後の『♡』の形。あれは心臓をえぐり出して捧げるという、禍々しい呪いの紋章にしか見えなかったのだ。
(女は怖い。どれほど美人で優しくても、感情が爆発すれば呪いを振りまく悪霊に成り下がる。…この娘たちも、いつあの『心臓の紋章』を描き出すか分かったものではない)
タチバナは身震いした。村の男たちは「タチバナの母は、息子のために身を粉にして働いて倒れた」と美談にしているが、真実はただの狂気だ。
(だからこそ、女とは適度な距離を保ち、深入りする前に逃げるのが賢明なのだ。…よし、決めたぞ。手っ取り早く金目のものを見つけて、この村をおさらばしよう)
タチバナは、芝居がかった優雅な仕草で立ち上がった。
「少し、森の空気を吸いながら散歩をしてくるよ」
「えー、もう行っちゃうの? タチバナ」
「森は危ないわ。早く帰ってきてね!」
娘たちの名残惜しそうな声を背に受けながら、彼は「ああ、すぐに戻るさ」と爽やかな嘘を吐き、足取りも軽く村の外れへと向かった。
木々が鬱蒼と生い茂る森の中。タチバナの爽やかな微笑みは、村の境界を越えた瞬間に消え失せ、代わりに舌打ちと悪態が漏れ出した。
「くそっ、なんだこのクモの巣は。俺の美しい髪が汚れるだろうが」
彼は拾った小枝を振り回し、前方の障害物を払い除けながら不満げに歩みを進める。
「靴の底に泥がこびりついた。本当に不愉快だ。なぜ俺のような選ばれた人間が、自ら足を使って歩かねばならないのか」
彼の言う「金目のものの探索」とは、決して鉱脈を探して土を掘り返すことではない。そんな肉体労働は彼の信条に反する。
彼の探索手法とは、「どこかの金持ちで間抜けな旅人が、運良くこの森で金貨の入った袋や宝石箱を落としていないか」と、ただ地面を眺めて歩き回るという、純度百パーセントの他力本願であった。
(世の中には、不注意な人間が必ず一定数存在する。確率論で言えば、この森のどこかに貴金属が落ちている可能性は、ゼロではないはずだ。俺はそのわずかな確率を拾い上げるだけの、賢い労働をしているに過ぎない)
そんな彼なりの極めて都合の良い理屈を並べながら、薄暗い獣道を進んでいく。やがて、森の奥深く。木漏れ日が不自然なほど集中的に差し込む、円形の開けた場所に出た。
タチバナの足が止まる。その中央には、長い年月を思わせる苔むした石の台座があり、そこに一本の古びた剣が深々と突き刺さっていたのだ。
タチバナは剣に近づき、値踏みするように目を細めた。剣の刀身は風雨に晒され、刃こぼれも目立つ。装飾も剥げ落ちており、一見すればただの鉄くずだ。伝説の武具が放つとされる神聖な気配や、魂を揺さぶるような運命の導きなど、彼には微塵も感じられなかった。
だが、彼の実利主義的な視線は、剣の柄頭に埋め込まれた一つの石にピタリと固定されていた。
(…ん? なんだこの赤い石は…ルビーか?)
タチバナは顔を近づけ、指先でその赤い宝石をカリカリと引っ掻いてみる。
(かなり大粒だ。しかも不純物が少ない。刀身はゴミ同然だが、この石だけなら相当な価値があるはずだ。物好きな貴族か、裏街の盗品商に持ち込めば…王都で三年間は遊んで暮らせるだけの金貨に化けるかもしれないぞ!)
彼の頭の中で、チャリンチャリンと金貨が弾ける音がした。これだ。ついに俺の卓越した探索理論が実を結んだのだ。
「よいしょっと」
タチバナは何の気負いもなく、むしろ少し面倒くさそうに剣の柄を両手で握り、ぐっと引き抜く力を込めた。伝説によれば、真の勇者でなければ決して抜くことはできないとされる聖剣。
タチバナの不純な力が加わった瞬間、まるで温かいパンにナイフを入れるかのようにズブリと何の抵抗もなく、台座から剣が抜け出てしまった。
(お、意外と軽いな。これなら村まで隠して持ち帰るのも楽で助かる。さて、この宝石だけをどうやって叩き割って取り出すか)
彼は抜いたばかりの剣を太陽の光にかざし、王都での堕落した豪遊生活を思い描いて、下卑た笑みを浮かべた。タチバナが宝石の輝きに酔いしれていた、その時だった。
『…最低ですね』
彼の脳髄のど真ん中に、女性のものと思われる、透き通るように美しい、しかし絶対零度の冷たさを伴った声が直接響き渡った。
(は!?)
タチバナは弾かれたように顔を上げ、周囲をキョロキョロと見回した。だが、木々が風に揺れる音と、遠くで鳴く鳥の声しか聞こえない。人の気配など、どこにもなかった。
『聞こえていますよ。その、お金のことしか考えていない下劣な思考、全て』
再び響く声。それは耳から聞こえているのではない。自分の頭蓋骨の内側から直接響いているのだという事実を、彼は理解してしまった。タチバナの顔面から、一瞬にして血の気が引き、土気色へと変わる。
(うわあああああ!? なんだこの声は!? 幻聴か!? ついに俺は怠惰すぎて脳が腐ってしまったのか!? それとも、この森に棲みつく悪霊か!?)
タチバナの心臓が、早鐘を打つ。彼の頭脳は、これまでの人生で培ってきた生き残るための「理屈」を総動員し、現状を瞬時に分析した。
(古い台座に刺さっていた剣。それを抜いた途端に頭に響く女の声。そして、こちらの思考を読み取ってくる現象。…間違いない。これは、欲望に目が眩んだ愚か者を呪い殺すタイプの、極めて悪質な呪いの武具だ!)
未知の声の主が名乗るよりも早く、タチバナは自らの命を守るための最善の防衛策を導き出した。この手の怪異に対する鉄則。呪われた品物には、決して触れ続けてはならない。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
タチバナはカエルのような情けない悲鳴を上げ、たった今まで宝物のように握りしめていた剣を、まるで燃え盛る炭でも掴んでしまったかのように、全力で空高く放り投げた。カランッと乾いた音を立てて、剣が土の上に落ちる。
脳内に響いていた声が止んだ。
(もう宝石なんてどうでもいい! 命あっての物種だ! 助けてくれえええええ!)
タチバナは踵を返し、村の方向へ向かって全速力で走り出した。転ばないように、しかしこれまでの人生で一番の速度で。彼の脳裏には、もはや王都での優雅な生活や黄金の輝きはなく、ただ「正体不明の悪霊の呪い」に対する本能的な恐怖だけが渦巻いていた。
(このまま村に逃げ込んで、布団を被って震えていよう。そうすればきっと、気のせいだったということになるはずだ…!!)
必死に己に言い聞かせながら、タチバナは風を切って森を駆け抜けていく。息も絶え絶えに、肺を内側からヤスリで削られるような痛みに耐えながら、タチバナは村の境界である丸太の柵を転がり込むようにして越えた。
額からは滝のように冷や汗が流れ、整った顔は恐怖で青ざめ、土気色に染まっている。
(助かった…! 追ってきてはいないな!? 呪いの類であれば、物理的な距離をとることで効果範囲から逃れられる可能性が高い。俺の生存本能と危機回避能力の勝利だ!!)
膝に手をつき、肩で激しく息をするタチバナ。だが、彼が安堵の息を吐き出すよりも早く、村のただならぬ空気が彼の肌を打った。
顔を上げると、広場には村中の人間が集まっていた。農作業を放り出してきたのか、手に手に鍬や鎌を持った男たち、そしてアンナやベッキーたち村の娘たちもいる。彼らの視線は、一点に──すなわち、逃げ帰ってきたタチバナの姿に、異常なほどの熱を帯びて注がれていた。
(なんだ…? なぜ全員が俺を見ている? まさか、あの剣の呪いがすでに村人にまで感染して、俺を八つ裂きにしようとしているのか!?)
タチバナが後ずさろうとしたその時、群衆を掻き分けて、杖をついた村の長老が進み出てきた。長老はタチバナの数歩手前で立ち止まると、おもむろに膝をつき深く頭を垂れた。
「おお、タチバナよ。森の奥から天を突くような光の柱が、立ち昇るのが見えた。そして、お前のその疲労困憊の姿…間違いない! 我が村に伝わりし『勇者のみが抜ける伝説の聖剣』を、お前がついに引き抜いてくれたのだな!」
長老の絞り出すような、歓喜に震える声が広場に響く。
(光の柱? なんだそれは。俺が背を向けて全力で逃げている間に、あの剣が勝手に発光でもしたというのか? ──というか、聖剣!? あれは高く売れるルビーがついた呪いのアイテムではなく、この村の伝説の代物だったのか! 早く言え、それなら最初から近づかなかったものを!)
タチバナの脳内で、事態の整合性を合わせるための演算が猛烈な勢いで回転するが、全く追いつかない。
彼が言葉を失い、恐怖と混乱で目を白黒させていると、今度は村一番の力自慢である木こりのガストンが進み出てきた。普段はタチバナが昼寝をしていると、わざと近くで斧を振り下ろして脅かしてくるような、無骨で粗暴な男だ。
ガストンは、その髭もじゃの顔をくしゃくしゃに歪ませ、滝のような涙を流していた。
「すまなかったタチバナ…! 俺たちは今まで、お前のことをただの怠け者の穀潰しだとばかり思っていた!」
(事実だ。穀潰し以外の何者でもない。むしろそれこそが俺の目指す究極の完成形だ)
「だが、違ったんだな! お前が毎日毎日、木陰から一歩も動かなかったのは…己の内に秘めた『強大すぎる聖なる力』が暴走して村を吹き飛ばさないよう、必死に精神を集中して抑え込んでいたんだ!」
(…は? どういう論理回路を経由すれば、そんな狂った結論に到達するのだ? 俺はただ、動くと腹が減るし、体力を消耗するから寝ていただけだぞ。人間の肉体は、活動量を減らすことで必要なエネルギー摂取量を抑えられるという、極めて合理的な節約術を実践していただろうが)
タチバナの内心の激しいツッコミなど、感極まったガストンの耳には届かない。周囲の男たちも、「そういうことだったのか!」「俺たちはなんて見る目がなかったんだ!」と、次々に男泣きを始めている。
「ちくしょう、お前って奴は…! 自分が悪者になってまで、この村を、俺たちを守ってくれていたんだな!」
ガストンが感極まり、泥だらけの太い腕を広げてタチバナの肩を抱きしめようと迫ってきた。
(冗談じゃない! 泥と汗と樹液にまみれた不潔な手で、俺の美しい肌に触れるな! 感染症でもうつったらどうする気だ!)
タチバナは本能的な嫌悪感から、「ヒィッ!」と短い悲鳴を上げ、全力でガストンの手を払い除けた。
「汚い! 俺に触るな! 近寄るな!」
自己保身と潔癖症から出た、心からの拒絶の叫び。だが、この狂乱の渦の中にあっては、タチバナの放つあらゆる言動が、極限まで美化された解釈のフィルターを通過してしまう。
払いのけられたガストンは、怒るどころか、ハッとして自分の泥だらけの手を見つめ、さらに激しく涙を流した。
「おお…! そうか、そうだよな…! 伝説の聖剣に認められ、神聖なる使命を身に宿したお前の体は、もはや我々のような凡夫が泥にまみれた手で気安く触れてよいものではなくなったというのだな! その誇り高さ、そして己を律する厳しさ……まさに、真の英雄だ!」
(違う! 単に不潔だから触るなと言っただけだ! お前たちの脳みそは、都合の良い幻覚でも見せるキノコに寄生されているのか!?)
「いいか野郎ども! タチバナはこれから、世界を救う過酷な旅に出るんだ! 今まで馬鹿にしていた分、俺たちが全力で送り出してやるぞ!」
「おうともよ!」
男たちのボルテージは、もはや誰にも止められない頂点に達した。彼らはタチバナの拒絶を「謙虚さの表れ」として完全に無視し、束になって彼を取り囲むと、そのひょろりとした身体を軽々と宙に放り投げた。
「わっしょい! 勇者タチバナ! わっしょい!」
視界が激しく上下に揺れる。青い空と、男たちの汗臭い頭頂部が交互に現れる。周囲では、アンナやベッキーたち村の娘が「タチバナ、素敵ー!」「私たちの勇者様!」と熱狂的な歓声を上げている。
(下ろせ! 今すぐ俺を下ろしてくれ! 俺の求めていた人生は、清潔なベッドと静寂と、適度な奉仕だけだ! こんな汗臭い男たちに胴上げされて、命の危険が伴う魔王討伐なんていう無報酬の強制労働に駆り出されることじゃない!)
タチバナの魂からの絶叫は、空を舞うごとに熱狂の渦に飲み込まれ、誰の耳にも届かない。
人間の認識能力というものは、己が信じたい「英雄の物語」を構築するためには、どれほど破綻した事実であっても、勝手に都合よく繋ぎ合わせてしまうものらしい。タチバナは、身をもってその恐ろしい真理を味わっていた。
こうして、タチバナの個人的な意思や怠惰な本性など完全に置き去りにされたまま、村中を巻き込んだ壮大な勘違い英雄譚は、もはや後戻りできない形で強制的に幕を開けたのであった。
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