俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


#4 聖剣の舞と三つのため息
平穏な街道と忍び寄る脅威


 王都を出発した四頭立ての豪華な馬車は、整備された石畳の街道を抜け、木々が鬱蒼と生い茂る森の道へと差し掛かっていた。

 

 御者台では僧侶のセシリアが器用に手綱を握り、車内では魔法使いのメグが王女騎士のアリシアに向かって何やら楽しげに話しかけている。見目麗しい乙女たちの和やかな旅の風景。

 

 だが、その車内に同乗しているタチバナの精神状態は、嵐の中の小舟のように激しく揺れ動き、今にも難破寸前であった。

 

 

(…どうすればいい。この状況、どう考えても俺の生存確率を著しく下げている)

 

 

 タチバナは、車窓の外を眺めるふりをしながら、視界の端で向かいの席に座るアリシアを盗み見ていた。白銀の鎧を身に纏った彼女の横顔は、彫刻のように美しく、気高い。

 

 しかしタチバナの脳内には、王の私室で目撃したあの恐るべき密命がこびりついて離れなかった。

 

 

『その美貌と体を使って、勇者を籠絡せよ』

 

 

 国王自らが実の娘に下した、ハニートラップの指示。つまり、この美しい王女は、タチバナを監視し、弱みを握り、いざとなれば王室の都合の良いように彼を操るための「毒蜘蛛」なのだ。

 

 下手に誘惑に乗って手を出せば、それが即ち国家権力に対する致命的な弱みとなる。かといって、あからさまに距離を置けば、「王女を蔑ろにした」として不敬罪に問われる可能性すらある。

 

 

(触れることも許されず、突き放すことも許されない。まさに歩く処刑装置じゃないか…! なにが楽しいハーレム旅行だ。一歩間違えれば首が飛ぶ、政治的監視下の護送車じゃないか!?)

 

 

 タチバナが胃のあたりを抑え、冷や汗を流して青ざめていると、彼の脳髄に直接、氷のように冷たい思念が滑り込んできた。

 

 

『…随分と怯えていますね。ですが、貴方のその危機感は極めて正しいと言えます』

 

 

 透明化した状態でタチバナの隣に浮遊している精霊、フィリアのテレパシーであった。

 

 

『あの王女は、獲物を前にした蛇のように、ただ最適な機会を窺っているだけです。今は静かに息を潜めていますが、貴方が欲に目が眩んで不用意な隙を見せた瞬間、その喉笛に致命的な牙を立ててくるでしょう』

(黙れ! 言われなくても分かってる! 誰のせいでこんな針の筵に座らされてると思ってるんだ!)

 

 

 タチバナが内心で精霊に悪態をついた、まさにその時だった。ガクンッ! と、馬車が急ブレーキをかけたように激しく揺れ、車輪が土を削る鈍い音が響き渡った。

 

 

「うおっ!?」

 

 

 タチバナは前のめりに体勢を崩し、危うく座席から転げ落ちそうになる。同時に、御者台にいるセシリアの、普段のおっとりとした雰囲気からは想像もつかないほど緊迫した声が響いた。

 

 

「タチバナ様、アリシアさん、メグさん! 前方に魔物です!」

 

 

 その一言が、タチバナの思考を一変させた。国家の陰謀や監視の恐怖といった政治的な恐れは瞬時に吹き飛び、より直接的で、原始的な「死」の恐怖が彼の全身を支配したのである。

 

 

「敵襲! 皆の者、速やかに降車し陣形を組め!」

 

 アリシアの鋭い号令に従い、ヒロインたちは迅速に馬車の外へと飛び出していく。タチバナもまた、車内に一人で取り残される恐怖から、慌てて彼女たちの後を追うようにして馬車の外へと転がり出た。

 

 だが、街道の上に広がる光景を視界に捉えた瞬間、彼の足は石のように硬直した。

 

 

「ギギ、ギギャアアッ!」

 

 

 馬車の進行方向を塞ぐようにして群れていたのは、大人の腰ほどしかない小柄な体躯を持つ、醜悪な緑色の生物の群れだった。十体、いや、二十体近いだろうか。彼らの手には、赤黒い錆がこびりついた粗末な鉈や棍棒が握られている。

 

 

(うわキモッ! なにあれ、ゴブリンか!? 無理無理無理無理! なんだあの濁った目と、鼻が曲がりそうな獣の悪臭は!)

 

 

 タチバナの脳内で、極めて現実的な生存計算が瞬時に行われる。

 

 相手は小柄とはいえ、明確な殺意を持ち、凶器を携えた魔物の群れだ。対するタチバナは、王城から与えられた防御力皆無の布の服を着ているだけの、ただの素人である。あの錆びた刃で掠り傷でも負えば、破傷風などの致命的な感染症を引き起こす可能性が極めて高い。

 

 戦うという選択肢は、論理的に考えて自殺行為に等しい。いかにしてこの場から逃走し、ヒロインたちを肉の盾として機能させるか。それが彼にとっての唯一の正解であった。

 

 だが、頭ではそう理解していても、肉体が追いつかない。タチバナの膝は、己の意思とは無関係にガクガクと激しく震え始め、立っていることすら困難な状態に陥っていた。腰に差した聖剣の柄を握る手のひらからは、止めどなく脂汗が吹き出している。

 

 白銀の剣を抜き放ったアリシアが、鋭い視線をタチバナへと向けた。

 

 

「勇者様! ご指示を!」

(ご指示を、って言われても! 俺が知るか! お前たちが適当に散らして、俺が逃げるための安全な道を作れ!)

 

 

 タチバナの喉は恐怖で完全に干上がり、声を発することすらできない。そこに、フィリアの無機質な声が脳内に響く。

 

 

『推奨される行動は、聖剣を抜いての「戦闘」です。ちなみに、現在の貴方が己の身体能力のみでこの状況を生き延びる確率は、一万分の一にも満たない絶望的な数値となります』

(そんな絶望的な情報いらんわ! 煽ってんのか!)

 

 

 強烈な死の恐怖と、どうにかして英雄としての見栄を保ちたいという浅ましい自己保身。それらがタチバナの脳内で激しく衝突し、許容量を超えた結果、ついに彼の貧弱な下半身の筋肉は限界を迎えた。

 

 ガクン、と。タチバナの両膝から完全に力が抜け、彼はそのまま地面に無様な尻餅をついてしまった。

 

 

「あ…」

 

 土の感触が尻に伝わる。ヒロインたちが、その光景を見て息を呑む気配がタチバナにも伝わってきた。

 

 

(…終わった。俺の威厳も、架空の英雄像も、これで完全にジ・エンドだ…)

 

 

 タチバナが腰を抜かして地面にへたり込んだのを見て、群れの一匹が「好機」とばかりに奇声を上げた。醜悪な緑色のゴブリンが、錆びた鉈を振り被りながら、タチバナに向かって一直線に飛びかかってくる。

 

 血走り、濁りきった凶暴な両目が、スローモーションのようにタチバナの視界に迫る。振り下ろされる刃の軌道が、彼の頭蓋をカチ割る未来を明確に予感させた。

 

 

(死んだあああああ! 俺の華麗なる寄生人生、こんな泥まみれの街道で終わるのかあああ!)

 

 

 タチバナは抵抗することすら諦め、両手で頭を覆って固く、固く目を閉じた…その瞬間だった。彼の脳髄に、フィリアの冷たく、そして絶対的な宣告が響き渡った。

 

 

『──自律戦闘術式、起動します。…まったく、手のかかる主ですね』

 

 

 カチン、と。タチバナの身体の奥底で、極めて精緻な歯車が噛み合ったような、硬質な感覚が走った。次の瞬間、タチバナの右腕が、彼の意思とは全く無関係に、まるで強靭なバネ仕掛けの機械のように弾かれた。

 

 腰を抜かしたままの不格好な体勢。そこから、腰の鞘に収まっていた聖剣を握る右腕だけが、目にも留まらぬ神速の軌道を描いて動いた。白銀の閃光が奔る。刃が風を裂き、肉を断つ、スパァンという小気味よい音がタチバナの鼓膜を打った。

 

 

(…え?)

 

 

 恐る恐る薄目を開けると、目の前には、空中で上下真っ二つに両断され、悍ましい体液を撒き散らしながら崩れ落ちるゴブリンの残骸があった。

 

 

『目標、残り十七体。殲滅を開始します。恐怖で失禁して尊厳を失う前に終わらせてあげますから、精々感謝することですね』

 

 

 フィリアの無慈悲な宣言と共に、タチバナの体が、まるで見えない強靭な糸で操られる人形のように、勝手に跳ね起きた。そして、彼の「待て」という内なる絶叫を完全に無視して、タチバナの肉体は恐るべき踏み込みの速度で、ゴブリンの群れの中心へと突進していったのである。

 

 

(うおおおおお!? 待って待って待って! 俺そんなつもり微塵もないから! 止まれえええええ!)

 

 

 タチバナの視界は、もはや極度のパニックと高速移動による残像でぐちゃぐちゃになっていた。自分の肉体が、自分の意思を完全に置き去りにしたまま、神話の戦士のごとき洗練された動きで暴れ回っている。

 

 右前方から振り下ろされる棍棒を、勝手に動く腕が手首の僅かな返しだけで弾き落とす。さらにその反発力を利用して身体が独りでに回転し、左側から迫っていた二体目のゴブリンの首筋を、聖剣が音もなく薙ぎ払う。

 

 

(うわあああ! 首が! 首が飛んだああああ!)

 

 

 背後からの奇襲に対し、タチバナの肉体は振り向きもせず、聖剣の柄尻を的確に後頭部へと叩き込み、体勢を崩した敵の心臓を、手首を反して背中越しに正確に貫いた。

 

 

(ぐええええ! 剣から肉を裂く嫌な感触が伝わってくるううう!)

 

 

 刃が骨を断つ振動、返り血の生暖かい感触。それら全てが、戦闘経験皆無のタチバナの繊細な神経を容赦なく蹂躙していく。彼の口からは、到底英雄らしからぬ、甲高い悲鳴が絶え間なく漏れ続けていた。

 

 

「ひぃぃぃっ!」

「助けてえええ!」

「もうやめてくれええええ!」

 

 

 しかし、そのあまりにも情けない絶叫は、激しい剣戟の金属音や、ゴブリンたちの断末魔の悲鳴に掻き消されているのか、少し離れた場所にいるアリシアたちは、ただ呆然と立ち尽くしてタチバナの単独の蹂躙劇を見守るだけであった。

 

 

『やかましいですね。少し口を閉じなさい。声帯を無駄に震わせることは、筋肉への酸素供給効率を下げるだけの非合理な行為です』

(やかましいのは、勝手に俺の体を動かしてるお前のせいだろうが! 俺を巻き込むな! 俺を安全な場所に下ろしてくれえええ!)

 

 

 数分後。タチバナの周囲には、原型を留めない緑色の肉塊の山が築き上げられていた。聖剣を握りしめた右腕がピタリと停止し、ようやく身体の主導権がタチバナ自身のものへと返還される。

 

 

「ぜぇっ…はぁっ、はぁっ…!」

 

 

 慣れない劇的な運動と、極限の恐怖による精神的疲労により、タチバナは肩で激しく息をした。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、立っているのがやっとの状態だった。

 

 

『殲滅、完了しました。評価としては、貴方のその見苦しい悲鳴さえなければ、百点満点でしたね』

 

 

 フィリアの事務的な報告を聞きながら、タチバナは再びその場にへたり込みそうになる膝を、必死の思いで支えていた。

 

 

(もう…いやだ…なんで俺がこんな目に…っ。今すぐあの安全な村に帰りたい…)

「タチバナ様!」

 

 

 タチバナが息を整えていると、ヒロインたちが興奮した様子で駆け寄ってくる足音が聞こえた。ハッとして、慌てて袖口で顔を乱暴に擦り、涙と鼻水を誤魔化した。いくら何でも、泣き顔を見られるのだけは避けたい。

 

 最初に辿り着いたアリシアが、紅潮した頬のまま、尊敬の念でキラキラと輝くサファイアの瞳を向けてきた。

 

 

「お見事でした、タチバナ様! あの、流れるような神速の剣技…! 我々が手出しをする隙すらありませんでした」

 

 

 アリシアは興奮気味にタチバナの武を称えた後、少し不思議そうに小首を傾げた。

 

 

「ですが、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか。開戦の直前…なぜ、あえて無防備に腰を抜かすような隙を見せたのですか? あの動作には、どのような戦術的意図が隠されていたのでしょうか…?」

(戦術的意図!? 違うわ! マジで死ぬほど怖くて、足の筋肉が限界を迎えて腰が抜けただけだよ!)

 

 

 タチバナが内心で冷や汗を流して絶叫していると、横からメグが目を輝かせて割って入ってきた。

 

 

「あたし、わかっちゃった! わざと無抵抗なフリをして、敵を完全に油断させて引きつけてから、一網打尽にするっていうカウンター戦法でしょ! うわー、えげつなーい! でも、あの数の敵をたった一人でノー傷で全滅させるなんて、超クール!」

 

 

 セシリアもまた、胸の前で手を組み、うっとりとした表情で深く頷いている。

 

 

「タチバナ様…。私たちの手を汚させまいと、自ら過酷な役目を引き受けてくださったのですね。なんとお優しい…」

(なんでそうなるんだよ! お前らの目は節穴か! 俺のあの無様な姿のどこに、そんな高度な知性や優しさがあるように見えたんだ!)

 

 

 彼女たちの熱烈な尊敬と称賛の言葉を浴び続けているうちに、タチバナの心の中にあった恐怖心は急速に薄れていった。そして、それに代わって湧き上がってきたのは、己の都合の良いように現実を解釈する、極めて単純で浅はかな「万能感」であった。

 

 

(…待てよ。そうだ。俺はただ腰を抜かして悲鳴を上げていただけだが、結果として敵は全滅した。そして彼女たちは、それを『俺の実力』だと完全に信じ込んでいる)

 

 

 タチバナの口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。

 

 

(つまり、この聖剣が勝手に戦ってくれる限り、俺は何もしなくても『最強の英雄』として称賛され続けるということじゃないか! これほど美味い話が他にあるか!? ぐへへへ!)

 

 

 彼は、自らがただの操り人形であったという事実を完全に脳内から消し去り、さも全てが自らの実力であるかのように振る舞い始めた。タチバナは胸を張り、聖剣の刀身に付着した血糊を、大仰で芝居がかった仕草で振り払ってみせた。そして、フン、と鼻を鳴らして見下ろすように言う。

 

 

「…まあ、こんなものか。ウォーミングアップにもならなかったな」

 

 その露骨に見栄を張った一言に、ヒロインたちが「やはり…! 息一つ乱しておられない!」とさらに感動を深める気配を感じ、タチバナは完全に有頂天になった。

 

 

(そうだ…! 俺は選ばれし勇者様なんだ! この程度のゴブリンの群れなど、俺様にかかれば赤子の手をひねるようなものよ! フハハハハ!)

 

 

 彼が己の虚栄心で限界まで増長し、脳内で高笑いをあげた、まさにその瞬間だった。フィリアの、絶対零度よりもさらに冷たく、鋭利に研ぎ澄まされたテレパシーが、彼の脳天を垂直に串刺しにした。

 

 

『…少しでも魔物を倒した気になっているのなら、直ちにその浅ましい勘違いを捨てることです。この底抜けの臆病者が』

(ぐっ…!)

『調子に乗らないでいただけますか。貴方が先ほど行ったことと言えば、極限の恐怖で地面に尻餅をつき、涙と鼻水を汚らしく垂れ流しながら、私の聴覚を害するほどの甲高い悲鳴を上げていただけです。何か一つでも、ご自身の思考と腕力で行った武功がありましたか?』

 

 

 フィリアの、一片の反論も許さない的確すぎる正論の前に、タチバナの万能感は一瞬にして粉微塵に打ち砕かれた。

 

 

『勘違いしないでください。強いのは、極限まで練り上げられた『私』の術式であって、貴方ではありません。貴方はただ、私が物質界で剣を振り回すために必要な、空っぽの【肉の器】に過ぎないのです。その絶対的な事実を、ゆめゆめお忘れなきよう』

(に、肉の器…!)

 

 

 フィリアからの、容赦のない存在意義の否定と痛烈なダメ出しに、タチバナの顔の筋肉が激しく引きつった。目の前には、自分を神のように崇めるヒロインたちの尊敬の眼差し。そして脳内には、自分を単なる生体部品としか見ていない精霊からの、絶対的な軽蔑の視線。

 

 そのあまりにも残酷なギャップに精神を引き裂かれそうになりながら、タチバナはただ、顔面を痙攣させながら「は、はは…」と乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。




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