俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
夜の帳が完全に下り、森は静寂に包まれていた。時折、風が木々の葉を揺らす微かな音が聞こえるだけで、焚火の燃えさしから立ち上る細い煙が、暗闇の中へと静かに溶けていく。
物質界の物理的な制約を一切受けない霊体として、野営地の中心に浮遊している聖剣の精霊フィリアは、己の研ぎ澄まされた知覚網を通じて、三つの天幕から漏れ出している強烈な思念の波長を、観測し終えたところであった。
王女騎士の、己の女性的魅力に対する深い劣等感と、黒い嫉妬。
天才魔法使いの、未知の欲望に対する倒錯した好奇心と、甘い興奮。
そして心優しき僧侶の、初めて刻み込まれたオスという存在の熱に対する、抗いようのない混乱。
三者三様の、激しくも歪な感情の渦。彼女たちがこれほどまでに己の精神を消耗させ、眠れぬ夜を過ごしている原因は、ただ一つ。フィリアの無機質な紫水晶の瞳が、野営地で最も大きく、最も快適に設営された勇者専用の天幕へと向けられた。
フィリアは音もなく、物理的な障壁である天幕の布地をすり抜けて内部へと侵入する。そこには、厚手で最高級の獣毛が詰められた寝袋に身を包みながらも、一向に眠る気配を見せない契約者──タチバナの姿があった。
彼は仰向けに寝転がり、自らの両手を顔の前にかざしては、何かを確かめるように指を何度も開閉している。そして、静まり返った天幕の中で、誰に聞かせるでもなく、はっきりと声に出して歓喜の独り言を垂れ流していた。
「いや〜、最高だった…。あの弾力、あの圧倒的な重量感…。まさに神の創造物だ。俺の人生、この瞬間のためにあったと言っても過言ではないな…ぐへ、ぐへへへへ…っ」
薄闇の中で、だらしなく口元を歪め、己の手のひらに残る感触をねっとりと反芻するその姿。魔王軍との戦いへの重圧など微塵もなく、ただ己がしでかした破廉恥な行為の余韻に浸りきる、どうしようもないクズの極致がそこにあった。
フィリアは、一切の感情を交えることなく、絶対零度の冷たさを伴った思念を、彼の脳髄へと直接叩き込んだ。
『…随分とご満悦のようですね。ご自身の犯した罪業の感触を、まだその汚れた手で味わい尽くしているのですか』
「うわっ!?」
不意に頭の中に響いた氷のような声に、タチバナはビクッと体を跳ね上げ、寝袋の中で情けない悲鳴を上げた。
「な、なんだよフィリア! 人が至福の快感に浸っているところに、いきなり冷や水を浴びせやがって! ていうか、罪じゃない! あれは不可抗力だ! 事故だって言っただろ!」
タチバナは寝袋から身を乗り出し、何もない空間に向かって声を荒らげた。声に出して言い訳を並べ立てるその態度は、自らの正当性を無理やりにでも主張しようとする小悪党のそれであった。
『事故、ですか』
フィリアは、彼の白々しい弁明を、嘲笑することすら馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、平坦な思念で切り捨てた。
『私の観測した事象の記録と、物理法則に基づく演算結果をお教えしましょう。貴方がセシリアの背後に回り込み、地面に落ちていたクルミの実を正確な角度で踏み抜いて体勢を崩した。そこまでは、百歩譲って不注意としましょう。ですが…』
フィリアの追及は、極めて論理的かつ残酷なまでに精密であった。
『人間が意図せず前方に転倒した際、生物としての防衛本能は、必ず両手を地面に向けて突き出し、顔面や頭部への衝撃を和らげようとします。しかし、貴方の両腕の軌道は、地面を捉えることを完全に放棄し、重力に逆らうように持ち上がり、セシリアの胸部という極めて限定的な目標に向かって、寸分の狂いもなく吸い込まれていきました』
「ぐっ…! そ、それは、咄嗟に彼女を庇おうとして、手が伸びただけで…!」
『さらに言えば』と、フィリアはタチバナの苦しい言い訳を完全に黙殺して続ける。『貴方の掌の形です。倒れ込む瞬間の貴方の手は、何かを受け止めようとする平手ではなく、対象物を完全に包み込み、逃がさぬように五指を最適な形に湾曲させた、完璧な『捕獲』の構えでした。…これら一連の不自然な動作が、全くの偶然によって連鎖する確率は、十万に一つも存在しません』
フィリアの紫水晶の瞳が、暗闇の中で冷酷な光を放つ。
『それはもはや、事故などではありません。精密な計算に基づいて実行された、極めて悪質で卑劣な計画的犯行と呼ぶべきものです。称賛に値しますよ、この痴漢』
「ち、痴漢って言うな! 俺はただ、異常はなかったと声をかけようとしただけで…!」
タチバナは顔を真っ赤にして口をパクパクと動かしているが、己の行動が完全に論理で解体され、ぐうの音も出ない状態に追い込まれていた。
『貴方のその下劣な弁明など、私には何の意味も持ちません。問題なのは、貴方のその浅ましい欲望の暴走が、彼女たちにどのような影響を与えたかです。その結果、三人の乙女たちが、今この瞬間も眠れぬ夜を過ごしているという事実を、貴方はどうお考えで?』
「え…?」
タチバナの動きが止まった。フィリアは、先ほどまで観測していた三人のヒロインたちの錯綜する内心を、一切の情けを容赦することなく、タチバナへと突きつけていく。
『王女アリシアは、貴方の行為を不測の事態だと必死に自己暗示をかけながらも、内心では「自分にはセシリアほどの女性的な魅力がないのではないか」と、任務への焦りと強烈な嫉妬に苦しんでいます』
「えっ、そうなの!?」
タチバナの目が見開かれる。
『魔法使いメグは、「なぜ自分がその対象にならなかったのか」という嫉妬と、「次は自分に仕掛けてくるかもしれない」という倒錯した期待に、熱狂的な興奮を隠せずにいます。彼女の中で、貴方は高潔な尊敬の対象から、未知の興味を探求する【性的な観察対象】へと完全に移行しました』
「マジで!? ぐへへ…いや、いかんいかん、俺は真面目な勇者だぞ」
タチバナは必死に顔の筋肉を引き締めようとするが、その口元はすでに緩みきっている。
『そして、直接的な被害者である僧侶セシリア。彼女は、恐怖や嫌悪感よりも、貴方の大きな手に触れられたという衝撃と、その強烈な熱の感触によって、精神的な混乱の極みに達しています。貴方の行為は、彼女の純粋な心に、消えることのない歪んだ楔を深く打ち込みました』
フィリアの報告を聞き終わったタチバナは、最初は自身の悪行が露見して糾弾されるのかと怯えていたものの、次第にその態度は一変していった。彼は寝袋の上に胡座をかき、腕を組んで、何度も「なるほど」と呟きながら、信じられないほど晴れやかな表情を浮かべたのだ。
「つまり…なんだ? 俺のその今回の不測の事故は、結果的にあいつらの俺に対する好感度というか、興味の度合いを、めちゃくちゃに押し上げたってことで、合ってるよな…?」
どこまでも救いようのない、己の欲望と保身しか見えていない下劣な結論。フィリアは、もはや呆れを通り越して、ある種の感心に近い感情すら抱いていた。これほどまでに人間の醜悪さを煮詰めたような精神構造は、高位精霊である彼女にとっても極めて稀有な観測対象である。
『ええ、その通りです。貴方の下劣極まりない痴漢行為は、結果として、彼女たちの心をより強く、そしてより歪んだ形で、貴方に縛り付けることに成功しました。おめでとうございます、この外道。貴方は、己の性欲を満たすという最も低俗な手段を用いて、意図せずして、最悪の形で人心を掌握したのです』
「外道はやめろ! でも、そうか…そうだったのか…! 俺の行動は全て裏目に出るどころか、最高の形で彼女たちの心を掴んだってわけだ! うははは! 天才だ、俺はひょっとして天性の女たらしの才能があるのかもしれん!」
タチバナは、自分の浅はかな行動が予想だにしない最高の形で転がったことに、歓喜の震えを抑えきれず、天幕の中で高笑いを上げた。
魔王討伐の危険な旅において、自らを守るための「強固な肉の盾」であり、自らを甘やかしてくれる「美しい世話係」。彼女たちが自分に執着すればするほど、彼自身の生存確率と生活の質は飛躍的に向上するのだ。
フィリアは、有頂天になって己の幸運を自画自賛するその愚かな男を、無表情のまま静かに見下ろしていた。
『…ですが、忘れないでください』
フィリアの冷たい思念が、タチバナの笑い声を断ち切る。
『偽りの前提の上に積み上げられた勘違いの塔は、高ければ高いほど、崩れ落ちる時の残骸もまた、壮観なものとなりますよ。真実が露見した時、彼女たちのその歪んだ執着が、そのまま貴方への絶対的な殺意へと裏返るであろうその日が来ることを…私は心から楽しみにしています』
その言葉に含まれた、冷徹な分析とほんのわずかな悪意に、タチバナは一瞬だけ背筋を凍らせた。だが、すぐに「俺の完璧な演技がバレるわけがない」と己の虚栄心を補強し、再びハーレム生活への妄想へと逃避していく。
フィリアは、再び下劣な妄想に浸り始めた主に背を向けるように、その半透明な身体をふわりと反転させた。そして、これまで常にテレパシーでのみ会話をしていた彼女が、ふと物質界の空気を震わせ、自らの声帯を使って、極めて小さな声で呟いた。
「…この男が『勇者』でなければ、今この場で、その心臓の脈動を完全に停止させていたところです」
それは、ほとんど吐息のような音量だった。しかし、興奮状態から一転して静寂が訪れていた天幕の中で、その氷点下の殺意を孕んだ肉声は、なぜかタチバナの鼓膜に、あまりにも鮮明に届いてしまった。
「おいこら!?」
タチバナの顔面から、一瞬にして全ての血の気が失われた。彼は寝袋から跳ね起き、後ずさるようにして天幕の隅へと張り付いた。
「今、なんかものすごく物騒なこと言わなかったか!? 心臓の脈動を停止って何!? まさか、俺の息の根を止めるってことか!?」
タチバナの必死の叫びに対し、フィリアはゆっくりと振り返った。その紫水晶の瞳には、一切の感情が宿っていない。彼女は無表情を微塵も崩さないまま、再び自らの声で短く応えた。
「なんだ、聞こえていやがったのですね。チッ」
「舌打ちすな!! 今、完全に舌打ちしただろ! 隠す気ゼロかよ! ていうか『聞こえていやがったのですね』じゃねえよ! どういう意味だ今の! お前、本気で俺を殺そうとしてんのか!?」
タチバナが喉を引き裂かんばかりに抗議する。恐怖で声が裏返り、全身の毛穴から冷や汗が噴き出している。彼に向かって、フィリアは極めて事務的に、しかしその瞳の奥に確かな侮蔑の光を宿しながら、静かに告げた。
「冗談です。私は、聖剣の契約者を守り、魔王討伐へと導くのが役目ですから。たとえその保護対象が、貴方のような道端の塵芥以下の存在であったとしても」
「全然冗談に聞こえねえよ! 目が完全にゴミを放り込む時の目だったぞ今!」
タチバナは、自らの命の決定権が、この美しくも恐ろしい精霊の気分一つで、いつでも文字通り「停止」させられる可能性があるという、身も蓋もない絶対的な事実を改めて突きつけられた。
先ほどまでの、女たちに囲まれたバラ色のハーレム生活の妄想など、冷徹な死の予感の前には何の役にも立たない。
「うぅ…なんで俺が、こんな目に…もう嫌だ、帰りたい…」
タチバナは、自分の甘い考えを心の底から呪いながら、ガタガタと震える身体を抱きしめ、寝袋の最も深い場所へと潜り込んだ。彼が今夜こそ安眠できるという希望は、精霊のたった一度の呟きによって、完膚なきまでに打ち砕かれたのである。
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