俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


#6 市場での買い出し
街への到着


 整備された石畳の上を馬車の車輪が転がる心地よい振動と、活気にあふれた人々のざわめき。そして、あちこちの屋台から漂ってくる、香辛料と焼けた肉の食欲をそそる匂い。数日間にわたる過酷な森での野営生活を経て、勇者一行はついに最初の目的地である中規模の街へと到着を果たしていた。

 

 馬車から降り立ち、文明の光に満ちた街並みを見渡したタチバナは、魂の底から湧き上がるような強烈な解放感を味わっていた。

 

 

(ふぅー! やっと着いた! もうあの森での野宿はこりごりだ!)

 

 

 タチバナは内心で快哉を叫びながら、大きく背伸びをした。

 

 理屈で考えてみてほしい。人間の肉体というものは、硬く冷たい地面の上で薄い毛布一枚にくるまって眠るようには設計されていない。夜露に濡れ、名前も知らない羽虫に悩まされ、遠くで聞こえる獣の遠吠えに怯えながら浅い眠りを繰り返す。

 

 そのような環境下では、疲労が回復するどころか蓄積していく一方である。

 

 それに加え、タチバナには野営中に負った「もう一つの精神的疲労」があった。数日前の夜、あの完璧な計算に基づいて実行した「セシリアの胸鷲掴み事件」である。

 

 タチバナにとっては自らの欲望を満たした究極に甘美な出来事であり、この世の春を謳歌するような最高の思い出であった。あの日を境に、三人のヒロインたちのタチバナに向ける視線が、妙に熱っぽく何やら気まずい、しかし期待に満ちた空気を帯びるようになっていたのだ。

 

 四六時中、背中に突き刺さる熱のこもった視線。それはそれで男としての優越感を満たしてくれるものではあったが、同時に「いつ寝首をかかれるか」という得体の知れない緊張感を伴うものでもあった。

 

 

(まあ、あれはあれで最高の収穫だったがな…! だが、張り詰めた糸はいつか切れる。たまには気分転換と、完全なる休息が必要だ。よし、今日は絶対に美味い飯を食って、宿屋の一番高い部屋のふかふかのベッドで、昼まで泥のように眠ってやるぞ!)

 

 

 タチバナの思考は、すでに魔王軍の動向調査や、この街での武器防具の調達といった本来の目的から完全に切り離され、「いかにしてこの街で楽をし、自らの欲望を満たすか」という一点のみに極限まで集中していた。

 

 

『…貴方の脳内にある旅の予定表には、「休息」と「娯楽」という項目しか記載されていないようですね』

 

 

 タチバナの隣の空間で透明化したまま浮遊している精霊フィリアが、絶対零度の思念を彼の脳髄へと直接送り込んできた。

 

 

『本来、この街に立ち寄った目的である「情報収集」や「魔王軍の動向調査」といった文字は、貴方の頭のどこをどう探しても見当たりませんが』

(うるさい! 指揮官にとって、万全の休息を取ることもまた重要な任務の一つだ! 疲労困憊の状態で魔物と遭遇してみろ、全滅は免れないぞ!)

 

 

 タチバナは、いつものように自らの怠惰を正当化するための極めて都合の良い理屈を並べ立て、フィリアの冷徹なツッコミを内心で華麗に弾き返した。

 

 街の中心に位置する広大な中央市場は、様々な品物を扱う露店が軒を連ね、商人たちの威勢の良い呼び込みの声と、行き交う群衆の熱気でごった返していた。荷車が通り過ぎるのを避けながら、王女騎士アリシアが真面目くさった顔で提案する。

 

 

「まずは、今後の旅に必要な保存食や野営の物資を補給しましょう。質の良い砥石も探しておきたいところです」

「おっ! あそこの露店、見たことない面白そうな魔導具を売ってる! ちょっと見てきてもいいかな!?」

 

 

 天才魔法使いのメグが、燃えるような赤い髪を揺らして目を輝かせる。

 

 

「あ、あの…私は、傷薬の調合に使う薬草の値段も見ておきたいですね」

 

 

 僧侶のセシリアが、胸の前で両手を組みながらおっとりと微笑んだ。

 

 三者三様の目的。ならばここで一度解散して自由に買い物を楽しめばいいものを、事態はタチバナの予想を遥かに超える「嬉しい誤算」へと発展した。誰がこの市場で、勇者タチバナと共に行動するか。三人の乙女の間で、音のない激しい火花が散り始めたのだ。

 

 

「タチバナ様。この市場は人が多く、不測の事態が起きないとも限りません。指揮官の護衛は前衛たる私の役目です。はぐれぬよう、共に参りましょう」

 

 

 アリシアが、己の主張の正当性を理路整然と説きながら、タチバナの右腕にそっと手を添えようとする。

 

 

「えー! アリシアは真面目すぎてつまんなーい!」

 

 

 そこに、メグがアリシアの言葉を遮るようにして、タチバナの左腕にぐっと絡みついてきた。

 

 

「勇者様、あたしと一緒にもっと面白いもの見に行こうよ! 絶対に退屈させないからさ!」

 

 

 メグの健康的な素肌がタチバナの腕に触れ、彼女が身を寄せるたびに、ローブの奥にある柔らかな膨らみが彼の二の腕に直接的な物理的圧力をかけてくる。

 

 

「あ、あの…」

 

 

 二人の押し問答に、セシリアが一歩だけタチバナに近づき、その潤んだエメラルドグリーンの瞳で、下から見上げるようにして訴えかけてきた。

 

 

「タチバナ様さえよろしければ、私と一緒に薬草の調合を見ていただけると…とても、嬉しいのですが……」

(ぐへへへへ! なんだこれは、モテモテじゃねえか俺!)

 

 

 タチバナの顔面は、緩みきりそうになる筋肉を総動員して必死に引き締められていたが、その内側では歓喜の火山が噴火していた。右を見れば、気高き王女騎士の熱視線。左を見れば、元気な魔法使いの豊満な密着。正面を見れば、聖母の如き僧侶の庇護欲を掻き立てる上目遣い。

 

 

(これがハーレム! これが、過酷な運命を背負わされた勇者である俺にのみ与えられた、至高の特権なのだ! 神よ、俺は今日という日を決して忘れない!)

 

 

 タチバナは、三方向から迫る美少女たちの芳しい香りと柔らかな気配に完全に有頂天になっていた。だが、彼の研ぎ澄まされた自己保身の計算機能は、この夢のような状況下にあっても極めて冷静な一つの答えを導き出していた。

 

 

(…待てよ。このまま誰か一人を選べば、残り二人の機嫌を損ねる。かといって三人全員と行動を共にすれば、俺はこの街での貴重な『自由時間』を完全に失うことになる。彼女たちの前で、俺が本当に見たいものや行きたい場所を堪能することなど不可能だ!)

 

 

 美少女との買い物も悪くない。だが、それ以上にタチバナは、自らの純粋な欲望を満たすための完全なる単独行動を渇望していた。彼は、最もらしい顔を作って重々しい咳払いを一つすると、部隊の指導者としての威厳を顔面に貼り付け、静かに告げた。

 

 

「まあ、落ち着け。手分けして効率よく買い物を済ませるのが一番だ。俺は一人で、この街の民の暮らしぶりでも見て回っている。何かあれば呼べ」

 

 

 その言葉の真意は、極めて単純明快である。

 

 

(お前らと一緒に行動していたら、俺の羽伸ばしができないだろうが! さっさと買い物を済ませてこい! 俺を一人にしてくれ!)

 

 

 しかし、タチバナのこの身勝手極まりない冷酷な突き放しは、ヒロインたちの純真な思考フィルターを通ることで、またしても完璧な美談へとすり替えられた。

 

 

「ご自身の休息よりも、民の暮らしを優先されるとは…!」

 

 

 アリシアが感銘を受けたように目を伏せる。

 

 

「さすがはタチバナ様…! あたしたちのことまで気遣ってくれてるんだね!」

 

 

 メグが尊敬の眼差しで頷く。

 

 

「どうか、お気をつけて…」

 

 

 セシリアが名残惜しそうに祈りのポーズをとる。

 

 彼らは、タチバナの「深い配慮」と「高潔な目的」に心底感心し、渋々ながらもそれぞれの目的の場所へと散っていった。

 

 ヒロインたちの姿が群衆の中に完全に消えたのを確認すると、タチバナの顔から「憂いを帯びた英雄」の仮面が音を立てて剥がれ落ちた。彼の足は、食料品や武具が並ぶ活気ある大通りには目もくれず、迷うことなく市場の少し外れにある、人通りの少ない裏路地へと向かっていた。

 

 

「(…ほう、見つけたぞ。俺のオアシス…!)」

 

 

 タチバナは、誰にも見られていないことを周囲を見回して確認すると、ニヤリと下卑た口角を上げ、吸い寄せられるようにその店の中へと入っていった。店の軒先には、色とりどりの極めて薄く、繊細な布地で作られた品々が、まるで夜に咲く妖艶な花のように飾られている。

 

 そこは、女性の肌に直接触れる特別な衣服のみを取り扱う、女性用下着の専門店であった。

 

 店内には、様々な意匠を凝らしたランジェリーが所狭しと並べられている。タチバナは、まるで数百年前に描かれた歴史的名画を鑑定する美術商のように、一つ一つの商品を手に取り、その生地の肌触りや布の面積を、極めて真剣な表情で吟味し始めた。

 

 彼はただの変態として、これを見ているのではない。彼の中には、この行為を正当化するための、強固な理屈が存在した。

 

 

(これは、我が部隊の女性陣が身につけるべき、装甲の下の『極秘の防具』の視察だ。彼女たちの士気を高め、かつ戦闘時の動きやすさを担保するためには、直接肌に触れる衣服の素材選びが極めて重要となる。俺は指導者として、その適性を確認しているに過ぎない!)

 

 

 タチバナは、己の言い訳に完璧に酔いしれながら、脳内で極上のファッションショーを開催した。

 

 

「(ふむ。この気品あふれる純白のレース生地。これは間違いなくアリシアだな。普段は重厚な甲冑で隠されている彼女の透き通るような白い肌に、この繊細なレースが絡みつく様は、想像するだけで芸術の域だ…)」

 

 

 彼は一つの下着を手に取り、目を閉じてアリシアがそれを身に着けた姿を完璧な解像度で思い描く。

 

 

「(おおっ! 次はこれだ! この情熱的で、防御力が皆無に等しい布面積の少ない真紅の紐結びの下着! これはもうメグしかいないだろう! あの元気で活発な褐色の肌との強烈なコントラスト…紐を解く瞬間の高揚感…ぐへへ、想像しただけでたまらん!)」

 

 

 タチバナの鼻息が徐々に荒くなり、彼の瞳はもはや完全に理性のタガが外れた欲望の色に染まっていた。

 

 

「(そして、これだ。一見すると清楚な白いコットンの生地だが、光の加減によってわずかに透ける素材になっている…! これはセシリアだ! あの聖母のような包容力を持った彼女が、こんな扇情的なものを身に着けているという強烈なギャップ! それだけで俺の理性が焼き切れそうだ!)」

『貴方のその妄想をそのまま映像化する魔導具があれば、飛ぶように売れるかもしれませんね。もちろん、購入者は全て犯罪者予備軍でしょうが』

 

 

 タチバナの脳内で、フィリアの氷のように冷たい侮蔑の思念が響き渡った。しかし、現在のタチバナにとって、精霊のツッコミなど心地よいBGMに過ぎない。彼は己の脳内で繰り広げられる三輪の華の着せ替えショーに完全に没入し、外界の情報をほぼ遮断していた。

 

 タチバナの妄想と興奮のボルテージは、ついに人体の許容できる臨界点を突破しようとしていた。

 

 

「(ああ…神よ…! 俺は今、過酷な現実から離れ、世界の真理に触れている…!)」

 

 

 彼が恍惚とした表情を浮かべ、手に持った少し透ける白いランジェリーを顔の高さまで持ち上げ、その布地が放つであろう花の香りを想像して嗅ごうとした、まさにその瞬間だった。

 

 ツーッ、と。タチバナの鼻の奥から、熱を持った生温かい液体が一条、唇を伝って床へと垂れ落ちた。

 

 

「(…はっ!? まずい、鼻血!? 興奮しすぎて血圧が跳ね上がったのか!?)」

 

 

 彼が慌てて空いている方の手で鼻を強く押さえた、まさにその時である。

 

 

「あれー? 勇者様、こんなところで何してんのー?」

 

 

 タチバナの背後から、聞き覚えのある、底抜けに快活な声が飛んできた。ビクンッ、とタチバナの肩が跳ね上がる。恐る恐る振り返ると、そこには魔導具の買い物を終えたらしいメグが、不思議そうな顔をして小首を傾げながら立っていた。

 

 

「(終わったあああああ!! 女性用下着屋の店先で、エロい下着を握りしめながら鼻血を垂らして興奮している変態勇者! これを見られたら、俺が今まで必死に築き上げてきた英雄としての社会的生命が、完全に、完膚なきまでにジ・エンドだあああ!)」

 

 

 タチバナの脳細胞は、極限の恐怖と羞恥心によって真っ白に染め上げられた。言い訳の余地などどこにもない。物的証拠も、生理現象による証拠も揃いすぎている。

 

 メグがタチバナの顔を見て、ギョッと目を丸くした。

 

 

「勇者様!? どうしたの、鼻血なんて! どこか悪いわけ!? 大丈夫!?」

 

 

 彼女が心底心配そうに駆け寄ってくる。絶体絶命のピンチ。処刑台の階段に足をかけたも同然のこの状況下において、タチバナの自己保身という名の人間の本能は、脳の限界を超えた奇跡的な閃きを産み落とした。

 

 タチバナは、押さえた鼻の隙間から赤い血を滴らせながら、フッと遠くの空を見るような「憂いを帯びた目」を作り上げた。そして、限りなく悲しみに満ちた表情で、ゆっくりと、重々しく口を開いた。

 

「…ああ、メグか。いや、何でもないんだ。怪我でも、病気でもない。ただ…」

 

 

 彼は、自分が握りしめていたセシリア用の扇情的なランジェリーを背後に隠し、代わりに、店の軒先の端に掛けられていた、布地の粗末な「子供用の木綿の下着」を震える指でそっと指し示した。

 

 

「この街は活気にあふれているが…その陰で、親を失い、満足な服も与えられずに寒さに震えて育つ子供たちがいるのだと思うとな。…その健気で痛ましい姿を想像しただけで、俺の胸が、激しく張り裂けそうになってしまってな」

 

 

 タチバナは、わざとらしく一つ大きな深呼吸をし、痛切な響きを声に込めた。

 

 

「この鼻から流れる血は…彼らを救いきれない俺自身の不甲斐なさと、虐げられる民を想う心が、悲しみのあまり流させている血の涙のようなものなんだ…」

 

 

 完璧な、そしてこの世の何よりも下劣でクズすぎる大嘘であった。

 

 

『…極めて悪質な虚偽の発言ですね』

 

 

 タチバナの脳内で、フィリアの冷酷な訂正が響いた。

 

 

『貴方がたった今まで欲望の眼差しで手にしていたのは、成人女性用の、極めて扇情的なデザインの絹のランジェリーであり、子供用の粗末な木綿の下着などではありません。また、貴方の心拍数と血圧の異常な上昇は、純然たる性的興奮に起因するものであり、同情や悲しみといった高尚な感情によるものではないと、私の生体探知が明確に断定しています』

 

 

 フィリアがどれほど冷徹に事実を暴こうとも、その声はメグの耳には届かない。メグは、タチバナの指さした子供用の下着を見つめ、そして、鼻血を流しながらもなお他者の痛みに心を痛めるタチバナの横顔を見た。

 

 みるみるうちに、彼女の琥珀色の大きな瞳に、大粒の涙が浮かび上がっていく。

 

「勇者様…。そんな…会ったこともない子供たちのことまで想って…」

 

 

 メグは両手で口元を覆い、感極まったようにタチバナを見上げた。彼女は、タチバナの海よりも深い聖人のような優しさと、自己犠牲の精神に、心の底から打ち震え、感動していた。英雄は、どれほど強大な力を持とうとも、決して弱者への慈悲を忘れないのだと。

 

 タチバナは、涙ぐむ彼女の純粋すぎる反応を見下ろしながら、鼻血を押さえたまま、その心の中で高らかに叫んでいた。

 

 

(よし! 騙せた! どうだフィリア、俺の完璧な論理的すり替えと演技力の勝利だ! 俺の勝ちだ!)

 

 

 タチバナは、己の欲望の暴走を最高級の美談へと錬金術のように昇華させた自らの才能に酔いしれ、内心で狂喜のガッツポーズを何度も突き上げていた。




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