俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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フィリア視点


宿屋の一室と観測者による分析報告

 市場の喧騒と様々な思惑が交錯した買い出しを終え、一行は街で最も格式高いとされる宿屋に到着した。潤沢な国家予算を背景に、彼らにはそれぞれ広々とした個室があてがわれた。

 

 勇者タチバナに割り当てられた部屋は、特に豪奢な造りであった。柔らかな間接照明が照らす室内には、質の良い木材で作られた家具が配置され、中央には清潔なシーツが張られたふかふかの特大ベッドが鎮座している。

 

 森での過酷な野営生活から一転、ようやく文明的な休息を得たタチバナは、部屋に入るなりそのベッドへとダイブし、大の字になって寝転がっていた。

 

 聖剣の精霊フィリアは、物質界の物理法則に縛られることなく、その部屋の隅の空中に静かに浮遊していた。

 

 彼女は自身の気配を完全に遮断し、視覚的な実体化も行っていない。管理者としての彼女の現在のタスクは、先ほど市場で発生した一連の事象と、それによって引き起こされたヒロインたちの精神波長の変化を解析し、今後の運用データとして統合することであった。

 

 ベッドの上のタチバナは、天井を見つめながらだらしなく顔を綻ばせ、ゴロゴロと寝返りを打っては、己の「完璧な立ち回り」を脳内で反芻し、自画自賛の沼に沈み込んでいた。

 

 

『(いやー、今日の俺、完璧だったな…。女性用下着屋の前で鼻血を出すという絶体絶命のピンチから、あそこまで綺麗に挽回できるとは。あの「孤児を想う涙」の言い訳は、我ながら歴史に残る天才的なアドリブだった! メグの奴、完全に俺の聖人っぷりを信じ込んで感動してやがったしな。ぐへへ、ちょろい、ちょろすぎるぜ!)』

 

 

 彼の大脳新皮質は、自己肯定感と安堵から分泌される快楽物質によって満たされ、極めて低俗な万能感に支配されていた。フィリアの論理演算回路は、その浅はかで底の浅い思考のストリームを受信し、氷点下の冷たさでそれを即座に切断する決定を下した。

 

 

『…訂正します』

 

 

 フィリアの透明で無機質な思念が、タチバナの脳髄に直接、鋭利な針のように突き刺さる。

 

 

『貴方のその「天才的な言い訳」を、魔法使いメグ・フレイムハートは、半分しか信じていません』

 

 

 突然脳内に響いた声に、タチバナはビクッと体を痙攣させ、ベッドの上で跳ね起きた。

 

 

『(うわっ! なんだよフィリア! またいきなり! …って、おい待て。半分しか信じてないって、どういうことだ!?)』

 

 

 彼の顔から、先ほどまでの余裕と悦悦とした表情が瞬時に剥がれ落ちる。

 

 

『文字通りの意味です。私の観測データによれば、彼女は貴方の「恵まれない子供たちを想う優しさ」については、貴方の見え透いた演技を真に受け、純粋に感動し、信じ込んでいます。しかし…』

 

 

 フィリアは、情報の効果を最大化するために、あえてそこで言葉を区切った。

 

 

『(しかし、なんだよ!? 早く言え!)』

『しかし、それと同時に。貴方が女性用の下着専門店で、極めて扇情的なデザインのランジェリーを手に取り、恍惚とした表情を浮かべていたという事実もまた、彼女の優れた視覚情報処理によって正確に認識されています』

『(なっ…!?)』

 

 

 タチバナの顔面は、血の気を失い、純白のシーツよりも蒼白に染まった。

 

 

『(バレてたのか!? あの距離で!? あいつの視力どうなってんだよ! 魔法使いなら目は悪いんじゃないのか!?)』

 

 

 彼がパニックに陥り、意味不明な偏見を喚き散らすのを聞き流しながら、フィリアは淡々と分析結果の報告を続行する。

 

 

『その結果、彼女の認識世界において、貴方は「民を想う心優しき聖人」であり、かつ「女性の過激な下着に興奮して鼻血を出すスケベ」という、二つの相反する属性を同時に併せ持つ、極めて興味深く矛盾に満ちた存在として再定義されました』

『(せ、聖人でスケベ…? なんだそれ…?)』

 

 

 タチバナは、ベッドの上で膝を抱え、混乱の極みに達していた。

 

 

『(それって、俺の評価、上がったのか? 下がったのか? どっちなんだよ!? 軽蔑されたのか!? 変態としてパーティから追放されるのか!?)』

 

 

 恐怖に震える契約者に対し、フィリアは、人間の感情の不可解さを証明する、一つの残酷な結論を突きつけた。

 

 

『結論から言えば、貴方への評価は、著しく上昇しました』

『(…は?)』

 

 

 タチバナの思考が、完全に停止した。彼の口は半開きになり、瞬きすら忘れて虚空を見つめている。

 

 

『彼女にとって、貴方はこれまで、高潔すぎて手の届かない完璧な英雄という虚像でした。しかし、その英雄が「自分と同じように世俗的でスケベな一面も隠し持つ、血の通った男」へと変化した。その落差(ギャップ)が、彼女の中にあった純粋な尊敬の念を、より個人的で、熱を帯びた恋愛感情と性的好奇心へと昇華させる、極めて強力な触媒として機能したのです』

 

 

 フィリアの言葉は、論理的でありながらも、タチバナにとっては全く理解の及ばない、信じがたい福音のように聞こえた。

 

 

『(な…なんだってー!?)』

 

 

 彼はベッドの上に立ち上がり、両手で自分の頭を抱え込んだ。

 

 

『(じゃあ、俺が女の下着見てスケベな妄想を垂れ流して鼻血を出してたのがモロにバレたせいで、逆にメグの好感度が爆上がりしたってことか!? そんなバカな理屈があるか!)』

『貴方の貧弱な理解力に苦しむのは自由ですが、それが観測された事実です。人間、特に生殖本能と好奇心が旺盛な若い雌の感情というものは、時としてこのように、非論理的で、倒錯した化学反応を示すことがあります。実に、興味深いサンプルケースと言えるでしょう』

 

 

 タチバナは、しばらくの間、口をパクパクと動かしたまま呆然としていた。しかし、彼のその単純な脳回路が事態を「自分にとって都合が良い」と完全に理解した瞬間、彼の顔に、下品で、どうしようもなく俗悪な笑みが、ひたひたと広がっていった。

 

 

『(ぐ…ぐへ…ぐへへへへへ!)』

 

 

 彼は、両手を腰に当て、ベッドの上で偉そうに仁王立ちの構えをとった。

 

 

『(そうか! そうだったのか! 俺はスケベを隠す必要など全くなかったのだ! むしろ、俺のこのありのままの純粋な欲望、飾らない男としての本性こそが、女たちを強烈に惹きつける最強の魅力だったというわけか! フハハハハ!)』

 

 

 完全に調子に乗り、天井に向かって声なき高笑いを始めるタチバナ。自分の変態行為が肯定されたと勘違いし、全能感に酔いしれるその姿は、英雄の欠片もない、ただの滑稽な道化であった。

 

 フィリアは、そんな救いようのない主の姿を、物質界の温度を奪うような絶対零度の瞳で見下ろしながら、この愚かな男の暴走を制御するための、冷徹な最後の釘を刺すことを忘れなかった。

 

 

『…一つ、忠告しておきます。それはあくまで、天才ゆえの特異な好奇心と思考回路を持つ、魔法使いメグという特殊な個体にのみ限定された偶発的な事象です』

 

 

 フィリアの静かな、しかし重圧を伴う声が、タチバナの高笑いを遮る。

 

 

『もし、貴方のその「ありのままの純粋な欲望」とやらが、騎士の誇りと規律を重んじる王女アリシアや、神への信仰と純潔を重んじる僧侶セシリアの前に、何の言い訳もなく露見した場合。…貴方の首と胴体が、明日も無事に繋がっている保証は、この私にはできません』

『(うぐっ…!)』

 

 

 フィリアの極めて現実的で冷酷な指摘に、タチバナの高笑いはピタリと止まった。彼は、ベッドの上で仁王立ちしたまま硬直して、気まずそうに視線を泳がせた。

 

 アリシアの白銀の剣の鋭さと、セシリアが時折見せる盲目的なまでの思い込みの強さ。彼女たちの前で「俺はスケベだ!」などとカミングアウトすれば、一瞬で「魔の者」として浄化、あるいは「不敬罪」として斬首される未来が、容易に想像できた。

 

 

『(そ、そうだよな…。アリシアは真面目すぎて冗談が通じないし、セシリアは純粋すぎるからショックで何しでかすか分からないしな…。うん、やっぱり、相手を見た使い分けが大事だよな、使い分けが…)』

 

 

 彼は一人で勝手に納得し、ウンウンと深く頷きながら、ベッドの上に正座し直した。

 

 フィリアは、そんな彼の浅はかな自己完結の姿に、もはや言葉を追加する価値すら見出せなかった。彼女はふいっと顔をそむけ、部屋の隅の暗がりへと溶け込むように、再びその気配を完全に消し去った。タチバナは、フィリアの冷たい態度と忠告に少しだけ肝を冷やしたものの、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが彼の才能である。

 

 

『(でも、メグはイケるってことだよな…? ということは、明日の移動中、もっと積極的にスキンシップを図っても拒絶されないどころか、喜ばれる可能性が高い…! ぐへへへ)』

 

 

 新たな希望(という名の欲望)を見出し、再びふかふかのベッドに大の字に寝転がった。宿屋の窓の外では、街の夜の喧騒が続いている。

 

 勇者タチバナは、魔王討伐への重圧も、世界を救う使命感も一切抱くことなく、ただひたすらに、今夜以降の「メグ攻略計画」と「いかに楽をしてハーレムを構築するか」という下劣な妄想だけを練り上げながら、極上の眠りへと落ちていくのであった。




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