俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

2 / 15
幻覚であってくれよ! 泣くぞ俺は!


#1 勇者誕生
王家の迎え


 人間の脳には、許容量を超える過度なストレスに晒された際、その原因となった記憶を一時的に封印し、自らの精神を保護しようとする極めて優秀な防衛機構が備わっているらしい。

 

 朝を告げる鳥のさえずりと、窓の隙間から差し込む柔らかい陽光。村の共同小屋で目を覚ましたタチバナは、自身の頭の中で見事に組み立てられた論理に従い、清々しい気分でゆっくりと身体を起こした。

 

 

(そうだ。昨日のあれは、森に生えていた新種の毒キノコの胞子でも吸い込んだことによる、村を挙げての集団幻覚だったに違いない。伝説の聖剣だの悪霊の声だの、汗臭い男たちによる胴上げだの。あんな非現実的な出来事が、実際に起こるはずがないのだ)

(よし、全ては論理的に解決した。今日も良い天気だ。アンナの焼いたパンと、ベッキーが淹れた果実水で優雅な朝食と洒落込もう)

 

 

 彼は完璧な現実逃避を完了させ、柔らかな微笑みを浮かべながら小屋の扉を開け放った。その瞬間に彼の視界に飛び込んできたのは、平和な農村の風景ではなく、朝の光を弾いてギラギラと輝く「鋼鉄の壁」であった。

 

 タチバナの微笑みが、石膏のように固まる。小屋の前を完全に包囲するように整列していたのは、塵一つないほどに磨き上げられた純銀の甲冑を纏う、十数名の重武装の騎士たちだった。その後方には、四頭の白馬に牽かれた、王家の紋章が彫り込まれた豪華絢爛な馬車が鎮座している。

 

 騎士たちの先頭に立つ、氷のように冷徹な碧眼と頬に古傷を持つ隊長らしき男が、一歩前に進み出た。歩を進めるたびに、重厚な金属音が村の空気を震わせる。

 

 

「勇者タチバナ殿とお見受けする。国王陛下より招集の命を受けた。直ちに王城へご同行願いたい」

 

 

 低く、しかし逆らうことを許さない絶対的な命令。タチバナの脳裏で、昨日の記憶が幻覚ではなく「確定した現実」として容赦なく蘇った。

 

 

(お、終わった。幻覚でも何でもない、本物の軍隊がお迎えに来やがった!? なぜだ? なぜただの村人のところに、王様の使いが来る? あれか、やっぱりあの剣は王家の国宝かなんかで、それを勝手に抜いたから窃盗罪で捕まりに来たのか!? どのみち城へ連れて行かれたら生きては帰れない!)

 

 

 タチバナの生存本能が、火が付いたように警報を鳴らす。彼は瞬時に顔の筋肉を緩め、額に脂汗を浮かべるという「重病の演技」へと移行した。

 

 

「あ、いやぁ、ご苦労様です騎士様。わざわざこんな辺境まで…ですが、困りましたね。実は俺、今朝から急に腹の具合が悪くなりまして。ええ、もう立っているのも辛いほどの激痛でして!」

 

 

 彼は大袈裟に腹を押さえ、前かがみになって顔をしかめる。

 

 

「これはきっと、未知の流行病かもしれません。俺に近づくと、騎士様たちの高貴なお体に障るやもしれません。ですので、今日のご同行はどうかご辞退させていただきたく」

 

 

 完璧な理屈だ。流行病の可能性を提示すれば、彼らも迂闊には触れられない。タチバナは内心で己の機転を自画自賛した。

 

 しかし冷徹な碧眼の騎士は、眉一つ動かさなかった。彼は無言のまま、腰に提げた長剣の柄に、ガシャリと音を立てて手を置いたのだ。抜刀の意思表示ではない。それは言葉よりも、雄弁な『我々は任務遂行のためならば、武力行使も辞さない』という暴力の気配だった。

 

 

「体調不良か。ならば好都合だ」

「へ?」

「王城には、王国最高峰の治癒術を修めた者たちが控えている。貴殿の腹痛ごとき、瞬きする間に完治するだろう。…もちろん、痛みが酷く自らの足で歩けないというのであれば、我々が手足を縛り上げ、荷物として馬車へ放り込むことも可能だが?」

 

 

 タチバナの背筋に、氷柱をねじ込まれたような悪寒が走った。選択肢など最初から存在しなかったのだ。これは招待ではない。有無を言わさぬ強制連行である。

 

 

(…ここで抵抗すれば、本当に縛り上げられて馬車の床に転がされる。どうせ連れて行かれるのなら、ふかふかの座席に座って行った方がまだ肉体的な疲労は少ない。損得勘定を間違えるな、俺!)

 

 

 タチバナは、コンマ五秒で状況の不利を悟ると、腹を押さえていた手をスッと離し、丸めていた背筋をピンと伸ばした。

 

 

「…あ、いや、不思議なことに今の一瞬で痛みが綺麗に引きました。奇跡的な回復力です。やはり勇者たるもの、身体も丈夫にできているのかもしれませんね、ハハハ…」

 

 

 引きつった笑顔でそう言い放つと、彼は騎士たちの剣幕から逃れるように、そそくさと馬車の方へ歩き出した。すると遠巻きに様子を見ていた村人たちから、感極まったような歓声と嗚咽が上がった。

 

 

「タチバナ…! お前、王様のお呼び出しに、あんなに毅然とした態度で応じるなんて…!」

「行ってらっしゃい! 立派に世界を救ってね!」

 

 

 村の男たちや娘たちが、涙ながらに手を振っている。タチバナは振り返らなかった。振り返りたくても早くこの場から逃げ出したいという一心で、首を動かす余裕すらなかったのだ。

 

 そんな彼の背後で、冷徹な騎士の隊長が深く感心したように呟くのが聞こえた。

 

 

「見事な覚悟だ。故郷への未練を断ち切るため、あえて振り返らずに無言で歩を進めるとは。あの男、ただ者ではないな」

(違う! ただ怖いから早く馬車の中に隠れたいだけだ! なんでお前ら、そんなに何でもかんでも俺の都合の良いように解釈するんだ!?)

 

 

 タチバナは心の中で血の涙を流しながら叫んだが、その悲痛な叫びが外に漏れることは決してなかった。

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 分厚いビロードが張られた馬車の座席は、村の粗末な椅子とは比べ物にならないほど心地よかった。窓枠には精緻な金細工が施されており、この装飾を一つ外して売ればどれほどの金になるだろうかという計算が、一瞬だけタチバナの頭をよぎる。

 

 だが、今の彼にそんな欲望を満たす余裕はなかった。馬車が揺れ始め、村の景色が遠ざかっていく。完全に密室となった車内で、タチバナは頭を抱えて座席に崩れ落ちた。

 

 

(終わった…俺の楽園は終わった。これから俺はどうなるんだ? 窃盗の罪で地下牢にぶち込まれるのか? それとも、本当に魔物がうじゃうじゃいる最前線に放り出されて、肉の盾にされるのか? 嫌だ、絶対に嫌だ! どうにかして逃げる口実を考えないと…っ)

 

 

 彼が必死に逃走の理屈を組み立てようとしていた、その時だった。

 

 目の前の空席だった空間が、水面のようにぐにゃりと歪んだ。淡い光の粒子がどこからともなく集まり、一つの形を成していく。光が収まると、そこには昨日の森でタチバナが全力で投げ捨てたはずのあの古びた剣を抱え、床から数寸ほど浮遊した状態で座る、銀髪の美少女がいた。

 

 感情の起伏を一切感じさせない無機質な顔立ち。吸い込まれそうなほど深い紫水晶の瞳。

 

 

「うわあああ!? 出たあああ!!」

 

 

 タチバナは声にならない悲鳴を上げ、馬車の隅へと飛び退いた。背中が壁に激突するが、痛みを気にする余裕などない。彼は手当たり次第に、座席に置かれていた豪華なクッションを少女に向かって投げつけた。

 

 

「やっぱり悪霊じゃねえか!? しかも馬車の中まで追いかけてきやがった! 頼む、祟るならあの村の男たちにしてくれ! 俺は関係ない!」

 

 

 彼が投げたクッションは、少女の身体に当たることもなく、まるで幻影をすり抜けるようにして彼女の背後へと落ちた。少女は、タチバナの無様な抵抗を一瞥することもなく、ただ淡々とした口調で、彼の脳髄に直接語りかけてきた。

 

 

『悪霊ではありません。私はこの聖剣に宿る精霊、フィリアです』

 

 

 脳内に直接響く声。それ自体が、タチバナにとっては恐怖の象徴であった。

 

 

「精霊!? どっちでもいいわ! 俺に取り憑いてる時点で悪霊と変わんねえよ! 塩はないか、塩は!」

『取り憑いてはいません。貴方が聖剣の持ち主として選ばれた。それだけのことです』

 

 

 フィリアの表情は氷のように冷たく、一切の揺らぎがない。

 

 

「選ばれただぁ!? 冗談じゃねえ、俺はそんなこと一言も頼んでないぞ! 綺麗な宝石がついてたから、売れば金になると思って触っただけだ! 不純な動機百パーセントだぞ! 勇者としての資格なんてあるわけないだろうが!」

 

 

 タチバナは必死に自身の免責を主張する。「動機が不純である」という事実を自ら突きつけることで、契約の無効を立証しようという、彼なりの極めて現実的な法廷闘争であった。

 

 だが、フィリアは冷ややかに目を細めた。

 

 

『貴方のその下劣な動機など、すでに全て読み取っています。ですが、動機など関係ありません。抜いたのは事実。その瞬間に、聖剣と貴方の魂の間に魔力的な契約が成立したのです』

「契約だ!? 契約書にサインもしてないのに勝手に結ばれる契約がどこにある! それは悪徳商法のやり口だぞ! さっさとその契約とやらを破棄しろ!」

『不可能です。魔力による血の盟約は、人間界の紙切れのような曖昧なものではありません。臓器が肉体と繋がっているのと同じ、絶対的な理です。切り離せば、貴方の命も共に消滅します。…それでも破棄を望みますか?』

 

 

 タチバナの呼吸が止まった。命が消滅する。その言葉の重みが、彼の貧弱な反骨心を完全に圧殺した。

 

 

「…つまり、俺は一生、お前とこの剣から逃げられないってことか…?」

『ご理解いただけて何よりです。貴方は英雄の資格など持ち合わせてはいない。ですが、契約者として運用することは可能です。これから貴方には私の監視の下、魔王討伐という任務を遂行していただきます』

 

 

 一切の感情を排した、事務的な死刑宣告。タチバナは、自分が最強の力を手に入れた英雄などではなく、ただこの恐ろしい精霊の、自由意志を持たない生体部品として組み込まれたのだという現実を突きつけられた。

 

 豪華な馬車の密室の中で、タチバナの顔面から全ての血の気が失われる。彼はガタガタと震える体を抱きしめ、窓の外を流れる平和な景色を見つめながら、己の不運と軽率な欲望をただひたすらに呪うことしかできなかった。




ここまで読んでくださりありがとうございます。感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので是非よろしくお願いします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。