俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


#7 魔王軍、動く
動揺するタチバナ


 市場での買い出し騒動から数日が経過した。勇者一行は、街で最も高級な宿屋の、最も広く快適な特別室に滞在していた。

 

 王家から潤沢な資金を与えられているタチバナにとって、硬い地面の上で薄い毛布にくるまる野営生活に戻る理由はどこにもなかった。彼は、天蓋付きのふかふかなベッドに横たわり、高級な綿がたっぷりと詰められた枕に頭を預け、完全に骨休めモードへと突入していた。

 

 

(ああ…最高だ…。背中を痛めることのない柔らかい寝具、朝昼晩と運ばれてくる極上の食事、そして何より、傍らには三人の可愛い女の子たち。…もう、魔王討伐なんていう危険なマネは辞めて、ずっとこの街に滞在し続けるというのはどうだろうか)

 

 

 タチバナは、窓の隙間から射し込む心地よい陽光に目を細めながら、外の様子をうかがった。

 

 宿屋の広大な中庭では、王女騎士アリシアが真剣な表情で木剣を振り下ろし、絶え間なく鍛錬に励んでいる。その横の木陰では、天才魔法使いメグが分厚く難解な魔導書を広げ、ぶつぶつと呪文の構成を読み解いている。さらに宿屋の入り口付近では、僧侶セシリアが街の人々の擦り傷や病を無償で癒やして回り、感謝の言葉を浴びていた。

 

 彼女たちが己の能力を高め、あるいは徳を積むために汗を流している姿を見下ろしながら、タチバナは自分だけが何もしないという圧倒的な優越感に浸っていた。

 

 

(いや〜、みんな真面目で本当に助かるな。俺が何もしなくても、勝手に経験を積み、勝手に強くなってくれる。まさに理想的な部隊の運用形態だ)

 

 

 タチバナの頭脳は、自らの怠惰を正当化するための極めて強固な理屈を常に用意している。部隊を率いる指揮官の最大の武器は、肉体的な腕力ではなく、いざという時に的確な判断を下すための「知力」である。その知力を十全に働かせるためには、良質な休息による脳の疲労回復が不可欠だ。

 

 前衛の兵士たちと同じように汗を流して体力をすり減らすなど、戦略的観点から見れば言語道断。彼が今こうしてベッドで寝転がっているのは、部隊の生存率を最大化するための、極めて高度な「指揮官としての責務」なのだ。

 

 彼にとって、「魔王討伐」という本来の目的は、もはや遠い異国の御伽噺のように現実味のないものへと霞んでいた。

 

 

『…警告します』

 

 

 その時、透明化して部屋の隅に浮遊していた精霊フィリアから、氷のように冷たく無機質な思念がタチバナの脳髄に叩き込まれた。

 

 

『貴方の肉体を構成する余分な脂の割合が、この三日間で明確に増加しています。筋肉量に対する脂の比率が二割を超えようとしています。このまま無為なカロリー摂取と睡眠を繰り返せば、魔王を討つ勇者ではなく、ただの身動きの鈍い肥満体と化しますが、よろしいですか?』

(うるさい! これも今後の過酷な旅路に備え、英気を養うための重要な休息だ!)

 

 

 タチバナは、寝返りを打ちながら内心で強く反論する。

 

 

(飢餓状態に陥った際、蓄えられた脂肪は生命を維持するための貴重なエネルギー源となるんだよ。大体、俺が最前線で剣を振るって戦うわけじゃないんだから、体が少し重くなったところで何の影響もないだろうが!)

 

 

 タチバナが自らの怠惰を「生存のための栄養備蓄」と見事にすり替え、再び快適な眠りの底へ沈み込もうとした、まさにその時であった。

 

 

 ゴゴゴゴ…ッ!! 

 

 

 突如として宿屋の建物全体が、街の地盤そのものが下から突き上げられるように激しく揺れ動いた。タチバナは弾かれたように目を見開き、あまりの揺れの強さにベッドの端から床へと無様に転がり落ちた。

 

 

(な、なんだ!?)

 

 

 タチバナは床の絨毯にしがみつき、天井のシャンデリアが落下してこないか必死に頭をかばった。激しい揺れは数秒でピタリと収まった。自然現象の地震にしては、あまりにも唐突で不自然な揺れ方だった。タチバナが疑問を抱いた次の瞬間。

 

 街の広場の方角から、空気を直接振動させるような、腹の底に重く響く巨大な声が轟いた。

 

 

「我は魔王軍四天王が一人! ”剛拳”のブライアンなり!」

 

 

 その声には、単なる大声とは次元の違う、濃密な魔力と圧倒的な殺意が込められていた。音波そのものが物理的な破壊力を持っているかのように、宿屋の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げて激しく共鳴する。

 

 タチバナは、その声の響きを聞いた瞬間、全身の血が足元へ一気に逆流していくような強烈な感覚に襲われた。

 

 

(ま、魔王軍…四天王!? 嘘だろ!? なんであんな物語の終盤に出てくるような最高幹部クラスが、最初の街にいきなり現れるんだよ! バランスがおかしいだろ!)

 

 

 タチバナは、腰が砕けそうになるのを必死に堪え、床を這うようなへっぴり腰のまま、震える手で窓の縁ににじり寄った。そして、分厚いカーテンをほんの数ミリだけ開け、その隙間から恐る恐る外の様子、街の広場の方角を覗き見た。

 

 

「勇者タチバナとかいう、腑抜けた男はどこにおる! 我の退屈しのぎの相手にならぬのならば、さっさとその首を差し出せェ!!」

 

 

 広場の中心。そこには、人間を遥かに超越した巨躯を持つ、まるで悪夢から這い出してきた鬼か悪魔のような姿をした大男が立っていた。その腕は丸太のように太く、筋肉の繊維が鋼鉄のように隆起している。特に異常なのは、男の右肩から腕にかけて装着された、巨大な鉄の篭手であった。

 

 男の足元には、彼がその篭手でただ一撃、地面を叩きつけたことによって生じたのであろう、石畳を粉砕した巨大なクレーターが穿たれていた。先ほどの地震のような揺れは、男が地面を殴っただけの物理的衝撃だったのである。

 

 タチバナの眼球が、その「”剛拳”のブライアン」と名乗る男の姿と、彼がもたらした破壊の痕跡を視界に捉えた瞬間、タチバナの頭脳は自らの生存確率を弾き出すための戦力分析を極限の速度で開始した。

 

 

(…無理だ)

 

 

 一瞬の計算の末に導き出された結論は、それ以外にあり得なかった。

 

 

(あんなもん、絶対に勝てるわけがない。なんだあの体格は。ゴリラじゃねえか。名前の響きからして力自慢のゴリラだとは予測できたが、想像の十倍は凶悪なゴリラだ。あの鉄の塊で殴られたら、骨が折れるどころか、俺の身体がトマトみたいに破裂するぞ!)

 

 

 つい先日遭遇したゴブリンの群れなど、彼に比べれば可愛らしい子犬のようなものだ。ゴブリンならば最悪の場合でも逃げ切れるという微かな希望があったが、あの筋肉の化け物の跳躍力と瞬発力を想像すれば、背を向けて走った瞬間に背後から粉砕される未来しか見えない。

 

 タチバナの全身が、理屈を超えた本能的な恐怖によって完全に支配された。指先から急速に体温が失われ、氷のように冷たくなっていく。心臓は、薄い胸郭を突き破って飛び出してしまいそうなほど、狂ったような速度で激しく鼓動していた。

 

 

『対象の魔力量および筋力密度を測定しました』

 

 

 フィリアからの、無慈悲な分析結果が脳内に投下される。

 

 

『先日のゴブリン一体の持つ脅威度を「1」と仮定した場合、現在の対象が内包する総合的な戦闘力は、推定「5000」を優に超えます』

(五千!? つまりあのゴブリン五千匹分が一つに固まってるってことか!?)

『ええ。ちなみに、純粋な肉体能力のみで算出した貴方自身の戦闘力は、おおよそ「0.5」といったところですね』

(0.5ってなんだよ! ゴブリン一匹の半分、つまり一般人以下じゃねえか! まあ知ってたけど!)

 

 

 圧倒的すぎる数値の差。それは、知恵や小手先の戦術でどうにかなる次元を完全に超越していた。タチバナは、窓から弾かれたように飛び退くと、一目散に部屋の中で最も死角となりやすく、防御壁に覆われている空間──豪奢なベッドの下へと、床を滑るようにして潜り込んだ。

 

 

(むりむりむりむり! 絶対無理! なんで俺が名指しで呼ばれてるんだよ! 勇者がここにいるって、誰だよ魔王軍にチクったやつは! 情報漏洩の管理が甘すぎるだろこの国は!)

 

 

 ベッドの下の薄暗く埃っぽい空間で、タチバナはガタガタと全身を激しく震わせながら、膝を抱え込んだ。

 

 だが、彼の優れた自己保身の機能は、恐怖で停止することなく、どうやってこの絶体絶命の状況から「自分一人だけ」が生き残るか、そのための完璧な逃亡計画を必死に紡ぎ出し始めていた。

 

 

(そうだ…! アリシアたちを囮にすればいいんだ!)

 

 

 彼の導き出した解は、あまりにも冷酷で、純度百パーセントのクズであった。

 

 

(あいつらは『俺の背中を守る』と誓ったんだ。あのゴリラが相手でも、王女騎士と天才魔法使いが束になれば、数分くらいは足止めできるはずだ! あいつらが広場で戦って注意を引きつけている隙に、俺は裏口の窓から路地裏に抜け出し、馬を奪って街から脱出する! 幸い、この街の構造と逃走ルートはある程度頭に入っている。…いける! これなら俺だけは助かる!)

 

 

 タチバナがベッドの下の暗闇で、自らの生存のみを目的とした完璧な逃亡計画を練り上げていると、突然、部屋の重厚な扉がバンッ! と勢いよく蹴り開けられた。

 

 

「タチバナ様! ご無事ですか!」

「大変! 魔王軍の四天王だって!」

「お下がりください、ここは私たちが…!」

 

 

 飛び込んできたのは、既に武器を構え、戦闘準備を完全に整えたアリシア、メグ、セシリアの三人であった。彼女たちは血相を変えて部屋を見回すが、そこにいるはずの部隊の指導者の姿がないことに気づき、キョロキョロと視線を彷徨わせた。

 

 やがて、部屋の隅のベッドの足元に目を向けたアリシアが、ベッドの下の暗がりに身を潜め、小さく丸まっているタチバナの姿を発見した。

 

 

(しまった、見つかった! 怯えて隠れていると思われたら、俺の威厳が地に墜ちて、囮になってくれないかもしれない!)

 

 

 タチバナは冷や汗を吹き出し、必死に言い訳の言葉を探そうとした。しかし、アリシアの口からこぼれたのは、臆病者に対する軽蔑や失望の言葉ではなかった。

 

 

「タチバナ様。そうでしたか。あなたは、すでに敵の凄まじい力量を完全に見抜き、我々を無駄死にさせぬよう、安全な場所で策を練っておられたのですね…!」

「(…は?)」

 

 

 ベッドの下で、タチバナは自分の耳を疑った。アリシアのサファイアの瞳は、侮蔑どころか、深い感銘と畏敬の念に震えている。メグも、アリシアの言葉を聞いてハッとしたように目を輝かせた。

 

 

「そっか! あの四天王の魔力、尋常じゃないもん! ただ力任せに突っ込むだけじゃ勝てないって、勇者様は一瞬で見抜いたんだ! だから、最も安全な死角に入って、どうやってあの化け物を倒すか、必死に戦術を組み立ててたんだね! さすが勇者様、冷静すぎる!」

 

 

 セシリアも、胸の前で両手を固く組み、うっとりとした表情で深く頷いている。

 

 

「ああ…私たち凡人には、敵の強大さにただ怯え、焦って武器を構えることしかできませんでしたのに…タチバナ様は、常にその先を見据え、私たちの命を預かる者としての最善を尽くしていらっしゃるのですね…」

 

 

 ヒロインたちの、あまりにも都合の良い、そしてあまりにも壮大で美しい勘違いの連鎖。

 

 強大な敵を前にしてベッドの下に隠れるという極めて情けない行為が、彼女たちの高度な知性と「勇者は高潔である」という絶対的な前提を通ることで、『被害を最小限に抑えるための、指揮官としての冷徹な戦術考案の姿勢』へと見事に変換されてしまったのだ。

 

 

(ち、違う…! 俺はただ、本気で死ぬのが怖くて、どうやってお前たちを盾にして一人で逃げ出すか考えてただけだ…!)

 

 

 タチバナは、喉の奥まで出かかった真実の叫びを必死に呑み込んだ。彼女たちの尊敬と期待に満ちた、キラキラと輝く瞳を前にして、俺は逃げるなどと言えるはずがなかった。

 

 

『…極めて好都合ではないですか』

 

 

 タチバナの脳内に、フィリアの悪魔のような、ひどく冷ややかな囁きが滑り込んだ。

 

 

『彼女たちの脳内では、貴方が「必勝の策を練るための時間」を求めていることになっています。彼女たちは、貴方にその時間を与えるため、自ら進んであの強大な敵の前に立ち塞がってくれるようですよ。…貴方の真の目的である「逃亡のための時間稼ぎ」と、彼女たちの行動目的の利害は、見事に完全に一致していますね』

 

 

 フィリアの冷徹な分析が、タチバナのクズな決断を力強く後押しした。

 

 

(そうだ。結果が同じなら、過程の解釈はどうでもいい。あいつらが勝手に戦ってくれるというなら、俺はそれに乗っかるのが最も賢い選択だ!)

 

 

 タチバナは覚悟を決め、ベッドの下からゆっくりと身体を這い出させた。立ち上がり、衣服や顔についた埃を大袈裟に手で払い落とす。そして、わざとらしく低く重々しい咳払いを一つすると、苦渋の決断を下した孤高の英雄の顔を完璧に作り上げ、三人の乙女たちに向かって静かに告げた。

 

 

「…ああ。そうだ。奴は想像していた以上に、強い。今の状況で正面からぶつかれば、被害は甚大なものになるだろう。お前たちだけで行かせるのは、危険すぎる。だが…奴の弱点を突き、確実に仕留める策を練り上げるには、もう少しだけ時間が必要だ」

 

 

 タチバナは、アリシア、メグ、セシリアの瞳を、一人ずつ真っ直ぐに見つめた。その真摯な視線の裏で、彼の心臓は恐怖とほんの数ミリの罪悪感で早鐘を打っている。

 

 

「…頼めるか? 俺が、奴を討つための『必勝の一手』を編み出すまで…ほんの少しでいい。俺のために、時間を稼いでほしい」

 

 

 その言葉の真意は、『頼むから、俺がこの裏窓から抜け出して街の外へ逃げ切るまでの間、あいつの足止めをしてくれ! 殺されない程度に、適当に時間を稼いでくれ!』という、純度百パーセントの自己保身である。

 

 しかし、その声に込められた切実な響きは、ヒロインたちに最大級の信頼の言葉として届いてしまった。勇者が、自分たちの実力を認め、勝利への布石として自分たちの命を頼ってくれている。三人の乙女たちは、互いに顔を見合わせると、死地へ赴く戦士の誇りに満ちた表情で、力強く頷いた。

 

 

「「「御意のままに(お任せください)!!」」」

 

 

 三人の声が重なる。彼女たちは、勇者のために時間を稼ぎ、彼の必勝の策を完成させるという至上の任務を胸に抱き、一切の迷いなく部屋を飛び出し、広場へと向かっていった。

 

 バタン、と扉が閉まり、一人残された豪奢な部屋で。タチバナは、彼女たちが向かった扉とは全く逆の方向にある、裏通りへと通じる窓へと視線を移した。

 

「(…よし。これで、俺が逃げる時間は稼げた。お前たちの犠牲は無駄にしない。達者でな、お前たち…!)」

 

 

 タチバナは、自らのあまりにもクズすぎる決断に、ほんの少しだけ胸を痛めたが、その痛みは0.1秒後には自身の生存の喜びによって完全に消え去っていた。彼は、魔王軍四天王の咆哮が響く広場に背を向け、一切の躊躇いなく、逃走のための窓枠に手をかけるのだった。




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