俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
石畳が砕け散り、微かな粉塵が宙を舞う街の広場。
魔王軍四天王の一角、”剛拳”のブライアンは、自身が放った一撃によって穿たれた巨大なクレーターの中心に立ち、巨大な腕をゆっくりと下ろした。彼の右腕を覆う漆黒の鉄の篭手からは、大気を焦がすほどの高密度の魔力が、陽炎のように立ち上っている。
逃げ惑う街の民の悲鳴、崩れ落ちた建物の瓦礫の音。それらの騒音は、ブライアンの耳には一切届いていなかった。彼にとって、脆弱な一般市民を蹂躙することなど、歩くついでに足元の枯れ葉を踏み砕くのと同じ程度の意味しか持たない。
彼の意識は、己の咆哮によって震えたはずの、広場に面した一際大きな宿屋の建物のみに集中していた。
「…ふん。我が名乗りを上げてから、随分と間が空くではないか」
ブライアンは、鋼のような筋肉で覆われた太い首を鳴らしながら、低い声で呟いた。
彼の巨躯は、ただの暴力の象徴ではない。幾千、幾万の死闘を潜り抜け、強者との命のやり取りを通して極限まで練り上げられた、一つの完成された戦闘兵器であった。
筋肉の繊維の一本一本が魔力を蓄え、骨格は巨大な衝撃に耐えうるように独自の進化を遂げている。彼は単に破壊を好むだけの狂戦士ではない。純粋に己の肉体と魔力の限界を求め、己以上の強者と魂を削り合う死合いを渇望する、生粋の求道者であった。
だからこそ、彼はこの街にやってきたのだ。
数日前、魔王軍の斥候から一つの報告がもたらされた。王都から出立した新たな『勇者』が、街道に群れていたゴブリンの群れを、ただの一瞬で殲滅したという報告である。
ゴブリン一体の戦闘力など、ブライアンからすれば塵に等しい。だが、報告に記されていた戦闘の「痕跡」が、彼の武人としての血を激しく沸き立たせたのだ。現場に残されたゴブリンの死体は、その全てが完璧な断面で両断されていたという。
複数の敵に包囲された状態から、一切の無駄な動きを排除し、最小限の剣の軌道と絶大な踏み込みの速度をもって、瞬く間に十数体の敵を切り捨てる。それは、力任せの素振りでは決して到達し得ない領域だ。
肉体の重心移動、刃筋を最適化する空間把握能力、そして斬撃の瞬間にのみ魔力を爆発させる極めて高度な魔力制御。それら全ての要素が神の如き精度で噛み合っていなければ、そのような芸術的な殺戮の跡を残すことは不可能である。
(どのような体躯を持ち、どのような死線を越えてきた男なのか。あの凄まじい剣の軌道を生み出す筋力と、敵を翻弄する歩法…。是非とも、この剛拳でその真価を確かめさせてもらわねばならん)
ブライアンの口角が、凶獰な歓喜に吊り上がる。彼は勇者タチバナという男が、己の命を懸けるに足る至高の好敵手であると確信していた。だからこそ、奇襲などという卑怯な真似はせず、あえて街の広場から堂々と名乗りを上げ、王道の手法で決闘を申し入れたのである。
あの神速の剣技を持つ男ならば、己の殺気と魔力の波長を瞬時に感知し、武人の作法に則って正面から堂々と現れるはずだ。あるいは、一見無防備を装いながら、死角から音もなく間合いを詰め、この首を狙って電光石火の斬撃を放ってくるかもしれない。
どちらにせよ、最高の死合いの幕開けとなる。
ブライアンは、全身の魔力回路を臨戦態勢に切り替え、宿屋の扉から現れるであろう強者の気配を、研ぎ澄まされた五感で待ち受けていた。
だが一秒、十秒、三十秒と時間が経過しても、標的は一向に姿を現さない。宿屋の奥から、彼が待ち望むような、空気を切り裂くような鋭い殺気も、大地を揺るがすような魔力の隆起も感じられない。
「…勇者タチバナとやら。噂に聞く神速の使い手ともあろう者が、臆したか?」
ブライアンの太い眉が、不快げに中央へと寄る。武人としての矜持が、この肩透かしの沈黙に警鐘を鳴らし始めていた。
(いや、あり得ん。あの斬撃の痕跡を残すほどの使い手が、我が魔力に当てられて逃げ腰になるなど、論理的に矛盾している。…ならば、戦術的待機か?)
ブライアンの思考が、戦士としての理屈で敵の行動を推測する。
(広場という開けた場所での戦闘は、巨躯である我に有利に働く。奴はあえて姿を見せず、我が焦れて宿屋という狭い屋内へ踏み込んでくるのを待っているのか。あるいは、どこかに潜み、極限まで魔力を練り上げて一撃必殺の狙撃を試みているのか)
もしそうであれば、それは卑怯ではなく、純然たる戦術だ。ブライアンは、見えざる敵との静かなる駆け引きに、再び闘志を燃え上がらせようとした。
その時である。バンッ! と、宿屋の重厚な扉が勢いよく内側から蹴り開けられた。
「来たか…!」
ブライアンは、右腕の鉄の篭手に凄まじい密度の魔力を集中させ、重心を落とした。扉の奥から飛び出してきた気配は、三つ。ブライアンの視力は、暗い屋内から広場の明るい陽光の下へと躍り出てきた者たちの姿を、正確に捉えた。
「…何だ?」
ブライアンの口から、闘志とは無縁の、純粋な疑問の声が漏れた。そこに立っていたのは、歴戦の覇気を纏った屈強な男でも、神速の剣士でもなかった。現れたのは、白銀の鎧を纏った金髪の騎士、赤いローブを着た魔法使い、そして純白の法衣を着た僧侶。
うら若き、三人の乙女たちであった。
彼女たちは、圧倒的な巨躯と魔力を放つブライアンを前にしても一歩も引かず、それぞれに武器と魔力を構え、決死の覚悟を宿した瞳で彼を睨み据えている。
「何だ、女子供がしゃしゃり出てきおったか…勇者はどこだ! 貴様らのような小娘を呼んだ覚えはないぞ!」
ブライアンの怒声が、広場の空気をビリビリと震わせる。だが、乙女たちはその威圧に屈することなく、むしろその闘志をさらに燃え上がらせた。先頭に立つ金髪の女騎士が、白銀の剣を真上段に構え、澄んだ、しかし鋼のように硬い声で言い放った。
「我らが相手だ! 魔王軍の狗よ、我らが命ある限り、タチバナ様へは指一本触れさせぬと思え!」
その言葉を聞いた瞬間。ブライアンの強靭な思考回路が、眼前の事象から導き出される唯一にして絶対的な結論を、極めて論理的に組み上げてしまった。
ブライアンは、彼女たちが決してただの素人ではないことを、その立ち振る舞いから正確に見抜いていた。
金髪の騎士の地面に根を張ったような低い重心と、無駄のない剣の構え。赤毛の魔法使いの身体の周囲に渦巻く、高密度に圧縮された炎の魔力の流動。僧侶が展開している、魔力による目に見えない強固な防壁。
彼女たちは間違いなく、一級品の戦士であり、魔術師である。常人であれば、一生かかっても到達できない高みにいる。
(違う。こいつらではない)
彼女たちの放つ気配の中に、あのゴブリンの群れを瞬時に両断した、「異常な剣気」は存在しなかった。あの残骸を残した者は、もっと冷徹で、もっと圧倒的な暴力の理を体現しているはずなのだ。彼女たちは強いが、あの剣技の主ではない。ならば、あの神速の勇者タチバナは、今どこで何をしているのか。
彼女たちは言った。「我らが命ある限り、タチバナ様へは指一本触れさせぬ」と。この言葉が意味する戦術的状況は、ただ一つ。
(…足止め、か)
ブライアンの脳裏で、ある一つの情景が残酷なほどに鮮明に描き出された。宿屋の奥深くに隠れ潜む勇者。強大な敵の出現に怯え、自らの命を守るために、己に従ううら若き乙女たちを盾として前線に押し出し、彼女たちが時間を稼いでいる間に、裏口から無様に逃走を図る男の姿。
「……」
その結論に達した瞬間、ブライアンの中で赤々と燃え盛っていた武人としての熱情が、音を立てて崩れ去った。
冷たい氷水、いや、泥水を頭から浴びせられたかのような底なしの失望感。強者との魂を削る死合いを求め、歓喜に震えていた己の期待が、あまりにも下劣で、あまりにも卑小な現実によって裏切られたのだ。
あの剣の痕跡を残した男が、なぜそのような真似を?
理由は分からない。あるいは、あの痕跡自体が何らかの魔導具による偽装だったのか。それとも、剣の腕だけが異常に高く、その精神は泥より卑しい臆病者であったということか。
どちらにせよ、確定した事実がある。
この街に、己が命を懸けるに足る「強者」は存在しない。いるのは、女を盾にして逃げ隠れする、誇りも尊厳も持ち合わせない腑抜けたクズだけである。
「…つまらん」
ブライアンの口から、深い、深い絶望と侮蔑の入り混じったため息が漏れた。そのため息は、先ほどの怒声よりも遥かに重く、広場の空気を凍りつかせるような冷たさを孕んでいた。
「勇者の奴…女を盾にして逃げる算段か。噂ほどの男でもなかったようだな」
ブライアンは、鉄の篭手を身に着けた右腕をだらりと下げ、忌々しそうに首を振った。彼の目に映る三人の乙女たちは、己の命を捨ててでも背後(逃げる勇者)を守ろうとする、哀れで健気な犠牲者でしかなかった。自らの命を託す相手を間違えた、愚かな小鳥たち。
「我は、強者との死合いを求めてここへ来た。貴様らのような、男の逃げ道を作るための使い捨ての盾を壊す趣味はない」
ブライアンは、冷酷な視線でアリシアたちを睥睨する。
「よい。これも何かの縁だ」
ブライアンの瞳の奥で、失望の炎が、どす黒い「怒り」と「侮蔑」の業火へと反転し始めた。己の純粋な闘争への渇望を、これほどまでに無惨に踏みにじった那个男を、彼は絶対に許すことはできない。
武人の誇りを捨て、女の背中に隠れて命を長らえようとする卑怯者。ならば、彼が頼みとしたその盾を目の前で完膚なきまでに粉砕し、彼が逃げ出すための希望を全て根こそぎ奪い取ってやる。
そして逃げ場を失い、絶望に顔を歪めるその腑抜けの四肢を、この剛拳で一本ずつゆっくりともぎ取り、己の期待を裏切った代償を己の命で支払わせてやる。
「まずは、貴様ら哀れな雑魚を片付けてから…ゆっくりと、その見苦しい腑抜け狩りといくか!」
ブライアンの右腕の鉄の篭手が、再び爆発的な魔力の光を放ち始めた。ゴオオオオッ! と、彼を中心に大気が渦を巻き、足元の石畳がその重圧に耐えかねてひび割れていく。圧倒的な威圧感。それは、純粋な武を極めた者だけが放つことのできる、絶対的な暴力の具現化であった。
ブライアンは、ゆっくりと、しかし確実な死の足音を伴って、三人の乙女たちへと歩みを進める。彼の脳内には、すでに逃げ惑う勇者を追い詰め、その下劣な顔面を拳で叩き潰す光景が鮮明に描かれていた。
武人の怒りに触れた代償がどれほど恐ろしいものか、その身をもって魂の奥底まで刻み込ませてやるために。
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