俺の命を守るためなら、お前らを盾にする   作:最高司祭アドミニストレータ

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タチバナ視点


#8 勇者の力
詰んでしまったタチバナ


 宿屋の特別室。三人の乙女たちが決死の覚悟で部屋を飛び出していった足音が完全に遠ざかるのを確認し、タチバナの顔に歓喜と安堵の入り混じった笑みが浮かび上がった。

 

 

(よし、行ったな! 今が絶好の好機だ!)

 

 

 タチバナの足は迷うことなく、広場とは反対側──裏路地に面した窓へと向かっていた。彼には初めから、巨大な鉄の篭手を持つあの化け物と正面から戦う意思など微塵も存在しない。

 

 窓枠に手をかけ、そっと下を見下ろす。石畳の敷かれた薄暗い路地には人影がない。二階からならば、隣の建物の庇を経由して飛び降りれば怪我なく着地できるだろう。そこから壁伝いに進み、街の裏門を抜ければ完全なる自由が待っている。

 

 

(さらばだ、勇敢なる乙女たちよ! 君たちの尊い犠牲は、俺が安全な場所で生き延びる限り決して無駄にはしない! …まあ、三日くらいは悲しんでやるから許してくれ! ぐへへ!)

 

 

 新たな安全地帯での悠々自適な生活に胸を躍らせ、タチバナが窓から足を乗り出そうとした、その瞬間である。

 

 

『…その窓から外へ逃げ出すのは、おやめになった方がよろしいかと存じます』

 

 

 脳髄を直接凍らせるような、聖剣の精霊フィリアの冷たい声が響き渡った。

 

 

(うわっ! なんだよいきなり! 邪魔するな! 俺は今、輝かしい未来へと羽ばたこうとしているんだぞ!)

『羽ばたく前に、冷たい石畳の上で物言わぬ肉塊に成り果てることになるでしょう。その裏路地の角、影が濃くなっている部分をご覧ください。ブライアンの配下である、硬い鱗を持った爬虫類の魔物の斥候が二体、すでに潜伏しています。貴方が無防備に着地した瞬きほどの間に、その首は胴体から綺麗に切り離されていることでしょう』

(なっ…!?)

 

 

 タチバナの動きが、空中でピタリと止まる。目を凝らして路地の奥の暗がりを見つめると、確かに爬虫類のような眼球が鈍く光り、鋭利な刃の反射が見えた。

 

 

(そ、そんなバカな! なんでそんなことまで分かるんだよ!)

『私は貴方と違って、貴方がベッドの下で醜く丸まり、自己中心的な逃亡計画を練っている間にも、周囲の魔力配置を正確に探知しておりましたので』

 

 

 フィリアの冷徹な事実の突きつけに、タチバナは滝のような冷や汗を流しながら、慌てて窓枠から身を引き剥がした。裏口からの脱出ルートは完全に塞がれている。

 

 

(じゃ、じゃあ、表の扉から一気に駆け抜けて…!)

『宿屋の正面玄関および一階の窓は、すでにブライアンが放った魔力の網によって封鎖されています。聖剣の力を用いれば物理的に突破することは可能ですが、その場合は巨大な魔力の衝突音が生じ、ブライアン本人に貴方の居場所を知らせる、極めて派手な狼煙を上げることになりますね』

(完全に詰んでるじゃねえか!)

 

 

 タチバナの自立した生存計画は、実行の数秒前という段階で完膚なきまでに破綻した。

 

 

 逃げ道を完全に塞がれ、タチバナは力なく絨毯の上にへたり込んだ。

 

 

(どうしようどうしよう…! このままじゃ、魔物に殺されるのを待つだけだ!)

 

 

 恐怖に震え上がるタチバナの絶望をさらに煽るかのように、フィリアによる極めて無機質で、かつ残酷な戦況の逐一報告が脳内で開始された。

 

 

『ああ。王女アリシアの渾身の一撃が、ブライアンの鉄の篭手によって容易く弾き返されました。激しい金属の衝突音。衝撃を殺しきれず、彼女の剣を持つ手が痺れ、体勢を崩しているようです。純粋な膂力の差は、歴然としていますね』

(やめろ! そんな離れた場所の状況をわざわざ報告してくるな! 俺は聞きたくない!)

 

 

 タチバナは両手で耳を強く塞いだが、フィリアの声は物理的な鼓膜を通さず、直接脳内に響くため全くの無意味であった。

 

 

『おっと、魔法使いメグの放った極大の火炎魔法がブライアンの胴体に直撃しました。周囲の空気を焼き尽くすほどの熱量ですが…煙が晴れた後、彼の肉体には軽いやけど程度の損傷しか与えられていません。彼の強靭な筋肉には、極めて強力な魔術耐性が付与されている模様です』

(嘘だろ!? あの天才の魔法が効かないのか!? ますます勝てるわけがないじゃないか! 聞きたくない、俺は何も聞きたくないぞ!)

 

 

『僧侶セシリアが展開した魔力の防壁も、ブライアンの拳のただ一撃によって、薄いガラス細工のように砕け散りました。ああ…その凄まじい衝撃の余波を受け、三人の乙女たちが宙を舞い、石畳の上へと吹き飛ばされていく…武の圧倒的な暴力が弱者を蹂躙する、美しい光景ですね』

(どこが美しいんだよ! この悪魔! お前は人間の心を持たない悪魔か!)

 

 

 フィリアの淡々とした、しかし異常なほど的確な実況は、タチバナの脳内に、ヒロインたちが一方的に叩きのめされ、傷ついていく凄惨な光景を鮮明な幻視として描き出していく。

 

 タチバナは絨毯の上で丸まり、ガタガタと激しく歯の根を鳴らしていた。このままでは、三人の少女たちが殺されるのは時間の問題である。それは疑いようのない事実だった。

 

 

(どうする、どうすればいい! あのゴリラが三人を片付けたら、次は絶対に俺の番だ! この宿屋に乗り込んで来て、俺をベッドごと粉砕するに決まっている!)

 

 

 タチバナの脳内で、自らの命を生きながらえさせるための極限の天秤が揺れ動く。

 

 一つの選択肢は、このまま部屋に隠れ続け、ヒロインたちが全滅するのを待つこと。だが、その結果は火を見るより明らかだ。逃げ道を塞がれた状態でブライアンに見つかれば、抵抗する間もなく確実に殺される。

 

 もう一つの選択肢は、今すぐ部屋を飛び出し、ヒロインたちを助けに向かうこと。ブライアンという規格外の怪物に殺される確率は極めて高いが、あの聖剣が勝手に戦ってくれるという事実に賭ければ、万に一つの勝ち目があるかもしれない。

 

 

(どっちにしろ死ぬ確率が高すぎるじゃないか!)

 

 

 しかし、タチバナの生存本能と、これまでの経験に基づく打算的な計算は、より「長期的な安全」を確保するための論理的な解答を導き出した。

 

 

(いや、待てよ…。もし仮に俺がここで生き残れたとしても、あの三人が死んでしまったら、俺の部隊は完全に壊滅だ。俺の怪我を無償で治してくれる回復役も、俺の代わりに魔物の前に立ってくれる壁役も、安全な後方から敵を焼き尽くしてくれる魔法の使い手も、全て失うことになる。そうなったら、この先の危険な旅路で、そこら辺をうろついている下級の魔物にすら、俺は殺される可能性がある…それはダメだ! 俺の今後の安全で快適な旅のためには、あいつらには絶対に生きていてもらわなければ困る!)

 

 

 仲間を想う英雄的な使命感など、彼の心には一欠片も存在していなかった。ただひたすらに、自分自身の今後の「安全」と「楽な生活」を維持するためだけに、タチバナは彼女たちを救わねばならないという極めて不純な決断を下したのだ。

 

 

『ようやく、剣を取る気になりましたか。実に利己的で、打算に満ちた自己中心的な動機ですが、魔王軍の幹部を討ち果たすという結果さえ伴うのであれば、貴方の精神の在り方など些細な問題です』

(うるさい! お前は黙ってろ!)

 

 

 タチバナは内心で怒鳴りかえすと、震えの止まらない足に無理やり力を込めて立ち上がり、腰に提げた聖剣の柄を力強く握りしめた。

 

 宿屋の一階へ駆け下り、封鎖されていない勝手口の扉を蹴り開けて、タチバナは広場へと続く裏通りへと飛び出した。彼の目に飛び込んできたのは、まさにフィリアの報告通り悲惨な光景であった。

 

 砕け散った石畳の上に倒れ伏し、苦悶の表情を浮かべて身をよじるアリシア、メグ、セシリアの三人。そして彼女たちを見下ろし、止めの一撃を振り下ろそうと巨大な鉄の篭手を高く振り上げるブライアンの姿があった。

 

 

(うわあああっ…! マジで最悪の状況じゃないか! あんな丸太みたいな腕で殴られたら、女の子の細い骨なんて一瞬で砕け散るぞ!)

 

 

 頭では助けなければと分かっていても、タチバナの足は、ブライアンから発せられる強烈な殺気と威圧感の前に、石のようにすくんで一歩も動かなかった。

 

 だが、タチバナの臆病な意思など、最初から誰も必要としていない。彼の身体を支配しているのは、彼自身ではないのだ。

 

 

『対象への強制介入を開始します。目標、四天王ブライアン。これより、敵対存在の殲滅を実行します』

(またかよおおおおおお!)

 

 

 タチバナの身体が、彼の悲痛な絶叫をその場に置き去りにして、矢が放たれたかのような恐るべき速度でブライアンへと突進していく。背後から迫る凄まじい踏み込みの音と魔力の高まりに気づき、ブライアンがゆっくりと振り返った。

 

 その凶悪な顔に、待ち望んでいた獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な笑みが浮かぶ。

 

 

「ほう? 隠れて震えていたかと思えば、ようやく出てきたか、腑抜けが!」

 

 

 ブライアンは、倒れているヒロインたちへの攻撃を即座に中止し、目標をタチバナへと切り替えた。振り上げられていた巨大な鉄拳が、空気を切り裂く轟音と共に、突進してくるタチバナの頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。

 

 山をも砕くかのような、破壊の化身の一撃。その拳が放つ圧力だけで、タチバナの呼吸が強制的に止められた。

 

 

(死んだああああああああ!)

 

 

 タチバナは、己の脆い身体が血飛沫となって弾け飛ぶ未来を確信し、人生で何度目か分からない「死」を完全に覚悟して、固く、固く両目を閉じた。

 

 だが、タチバナの肉体を粉砕するはずの、あの恐ろしい質量を持った衝撃は、一秒待っても二秒待っても、決して彼を襲うことはなかった。代わりに周囲の空間から、鼓膜を破らんばかりの激しい金属の衝突音と、大気が弾けるような轟音が連続して鳴り響いている。

 

 

(…え? どうなってるんだ?)

 

 

 恐る恐る、タチバナは固く閉じていた片目を薄く開けた。彼の視界に映し出されたのは、己の常識を遥かに超越した、信じがたい光景であった。

 

 巨大な鉄拳が迫るたび、タチバナの右腕が、自らの意思とは全く無関係に、神速の軌道を描いて動いている。

 

 手首の絶妙な返しによってブライアンの強烈な一撃の軌道を僅かに逸らし、破壊力を完全に無効化する。横薙ぎに放たれた蹴りを、跳躍のタイミングを完璧に合わせて回避し、その隙を突いて白銀の刃を敵の死角へと打ち込む。ブライアンが怒りに任せて放つ高密度の魔力弾すらも、聖剣の刀身が寸分の狂いもなく切り裂いていく。

 

 その動きは、もはや人間の肉体構造が持つ限界を完全に突破していた。一切の恐怖も迷いもなく、ただ敵を効率よく殺すためだけに最適化された、純粋な戦闘機械の動き。

 

 

(…え? あれ? 俺、なんか、めちゃくちゃすごくないか?)

 

 

 一瞬、タチバナは眼前の圧倒的な暴力による恐怖を忘れ、自らの肉体が繰り出している美しき神技に心を奪われてしまった。自分自身が、この無敵の剣士であるかのような、甘美な万能感。

 

 しかし、その程度の浅はかな高揚感で覆い隠せるほど、魔王軍四天王の真の恐ろしさは甘いものではなかった。

 

 

「ぬおおおおおッ! ちょこまかと! その細い身体ごと、圧し潰してくれるわッ!!」

 

 

 度重なる攻撃を無傷で捌かれたブライアンが、激昂の咆哮を上げた。彼の全身から、先ほどまでとは比較にならない、どす黒く粘り気のある膨大な魔力が爆発的に噴き出した。周囲の石畳が、その魔力の重圧だけでメキメキと音を立てて陥没していく。

 

 空気を震わせ、皮膚を直接焼き焦がすような、純度百パーセントの絶対的な殺意。それを至近距離で、真正面から全身に浴びてしまったタチバナの、元より一般人以下の容量しか持ち合わせていない貧弱な精神構造は、ついに恐怖の許容量を完全に超過した。

 

 

(むりむりむりむりむりむり…ッ!)

 

 

 タチバナの脳内に、警報すら鳴らないほどの致命的な負荷がかかる。目の前が真っ白に染まり、思考を司る回路が完全に焼き切れた。

 

 ブツン、と。脳の奥深くで、何かの太い糸が断ち切られたような音がした。タチバナの意識は、猛烈な恐怖と重圧から逃避するように、深い、深い底なしの闇の中へと急速に沈み込んでいった。

 

 

『主の精神の覚醒レベル、ゼロを計測。肉体的な生命活動には異常なし。…まあ、あの者の脆弱な精神を考慮すれば、極めて妥当で予想通りの結果ですね』

 

 

 意識を失い、白目を剥いて完全に人形のようにぐったりとなったタチバナの肉体を、魔力によって強引に立たせ、操りながら。聖剣の精霊フィリアは、何の感情も交えない淡々とした思念を紡ぎ、目の前の四天王ブライアンを確実かつ最短で殲滅するための、戦闘の最終段階へと移行していくのだった。

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