俺の命を守るためなら、お前らを盾にする 作:最高司祭アドミニストレータ
砕けた石畳の上に、三つの華が散っていた。魔王軍四天王の一角、”剛拳”のブライアンは、鼻腔を突く血の匂いと土埃の中で、自らの足元に倒れ伏す三人の乙女たちを冷ややかに見下ろしていた。
彼女たちは、確かに一級品の戦士であり、魔術師であった。金髪の騎士が放った剣撃は、小柄な体躯からは想像もつかないほど重く、踏み込みの速度も申し分なかった。
赤毛の魔法使いが編み上げた炎の術式は、大気を焼き尽くすほどの高密度の熱量を誇っていた。
そして、純白の法衣を纏う僧侶が展開した防壁は、魔力の流れを緻密に編み込んだ極めて強固な盾として機能していた。
人間の軍隊であれば、彼女たち三人だけで一個大隊を壊滅させるだけの力を持っているだろう。
だが、それもあくまで「人間の中では」という前置きがつく。ブライアンの極限まで鍛え抜かれた肉体と、膨大な魔力を圧縮して放つ鉄の篭手の前では、彼女たちの技など児戯に等しかった。
騎士の剣は篭手によって容易く弾き返され、魔法使いの炎はブライアンの強靭な筋肉に刻まれた魔術耐性を突破できず、僧侶の防壁は拳のただ一撃でガラスのように粉砕された。
戦闘はものの数分で決着し、彼女たちは今、激しい苦悶の表情を浮かべて地面に伏している。
(だが、不可解だ)
ブライアンは、ゆっくりと視線を上げ、広場に面した宿屋の扉を睨みつけた。
彼の脳裏には、数日前にゴブリンの群れを瞬時に殲滅したという「異常な剣気」の痕跡が焼き付いている。あの淀みない剣の軌道、死角を完全に支配した歩法。それは、足元で倒れている彼女たちの技量とは、全く別次元のものだった。
あの剣気の持ち主は、間違いなくこの街にいる。
にもかかわらず、その男は姿を現さない。
「…勇者タチバナ。貴様は本当に、この女たちを盾にして逃げるつもりか」
ブライアンの低い声が、地を這うように響いた。強者との魂を削る死合い。それこそがブライアンの生きる意味であり、武人としての至上の喜びであった。だからこそ、彼は名乗りを上げ、真正面から待ったのだ。
だがその期待は、あまりにも下劣で卑小な現実によって裏切られようとしている。宿屋の奥に身を潜め、己の命惜しさに女を死地に送り出し、時間を稼いでいる間に逃亡を図る腑抜け。そのような誇りも尊厳も持たぬクズが、あの芸術的なまでの斬撃を放ったというのか。
(武の真髄とは、己の精神を極限まで研ぎ澄ました者にのみ宿るもの。そのような腐りきった性根の男が、武の頂に到達できるはずがない。…あの痕跡自体が、何らかのまやかしであったか)
ブライアンの胸の内で、落胆の炎が、どす黒い怒りへと変貌していく。期待が大きかった分だけ、裏切られた怒りは凄まじい。己の闘争への渇望を汚したあの男を、決して生かしてはおかない。まずはこの足元の盾を完全に破壊し、その絶望的な現実を以て、隠れて震えている男を絶望の底へと引きずり出してくれる。
「死ね、小娘ども」
ブライアンは、倒れたまま動けないアリシアたちに向け、無慈悲に巨大な鉄の篭手を高く振り上げた。その時である。バンッ! と、宿屋の扉が激しい音を立てて内側から蹴り破られた。
「おお?」
ブライアンの視線が、扉から広場へと飛び出してきた一つの人影を捉えた。そこに立っていたのは、防具すら身に着けていない、粗末な布の服を着た黒髪の青年であった。
彼の全身は小刻みに震え、顔面は土気色に青ざめている。一見すれば、ただの恐怖に駆られた一般人にしか見えない。
「ほう。隠れて震えていたかと思えば、ようやく出てきたか、腑抜けが!」
ブライアンは、獲物を見つけた猛獣のように口角を歪めた。逃げ出す算段が狂ったのか、それとも女たちが見殺しにされるのを黙って見ていられなかったのか。理由はどちらでもいい。自ら死地に歩み出てきたその蛮勇だけは、微塵ほどの評価を与えてやろう。
ブライアンは、ヒロインたちへ振り下ろそうとしていた鉄拳の狙いを即座に変更し、突進してくるタチバナへと向けた。彼は、己の巨躯から生み出される圧倒的な質量と魔力を、篭手に集中させる。
(まずは一撃。その脆い肉体を木端微塵に粉砕し、貴様の底の浅さを思い知らせてやる!)
空気を引き裂く轟音と共に、山をも砕く破壊の一撃がタチバナの頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。その瞬間、ブライアンの優れた動体視力は、タチバナの顔に浮かんだ「完全なる死の覚悟」を明確に捉えていた。男は、己に迫る拳の圧力に絶望し、固く、固く両目を閉じたのだ。
(…自ら視覚を放棄したか。やはり、ただの素人。武を語る価値もない、路傍の石ころよ)
ブライアンが勝利を確信し、男の肉体が弾け飛ぶ感触を待った、まさにその刹那。
ガキンッ!!
広場に、鋭く、そして甲高い金属の衝突音が響き渡った。ブライアンの目が見開かれる。タチバナの肉体を粉砕するはずだった彼の鉄拳は、男の身体に触れる数寸手前で、完全にその軌道を逸らされていたのだ。
「…何?」
ブライアンの拳の横には、いつの間にか抜かれていた白銀の聖剣が添えられていた。男の右腕が、ブライアンの視覚すら凌駕する神速で動き、拳の側面に刃の平を絶妙な角度で当てたのだ。
力で受け止めたのではない。ブライアンの突進力と拳の威力を利用し、手首の微かな返しだけで、自らをかすめる軌道へと「流した」のである。
(馬鹿な…!? 我の一撃を、あの細腕でいなしただと!?)
ブライアンは驚愕に思考を一瞬停止させたが、即座に次の行動へと移る。拳が空を切った勢いを利用し、巨体を回転させて左足の強烈な回し蹴りをタチバナの胴体へと放つ。
だが、タチバナの身体は、地面に吸い付くような低い姿勢でそれを紙一重で回避し、同時に聖剣の刃が下から上へと跳ね上がり、ブライアンの鎧の隙間を的確に切り裂いた。
チッと浅い傷から血が飛ぶ。ブライアンは後方へと跳び退き、間合いを取った。目の前に立つ青年を先ほどまでとは全く異なる、戦慄に満ちた目で凝視した。
(…どういうことだ。今の動きは、素人の偶然で片付けられるものではない。魔力の流れ、重心の移動、刃筋の正確さ。全てが、極限まで練り上げられた達人のそれだ)
ブライアンは、油断なく構えを取りながらタチバナを観察する。青年は、いまだに両目を固く閉じたままであった。その顔は恐怖に引きつり、呼吸は浅く荒い。
だが、ブライアンの武人としての理屈は、その見た目の「情けなさ」を、全く別の高度な次元の技術として翻訳し始めていた。
(…まさか、あえて視覚を遮断しているのか?)
武を極めた者の中には、視覚という不完全な情報に頼ることを嫌う者がいる。視覚は光の反射であり、幻影や動きのフェイントに騙されやすい。真の強者は、敵から発せられる微細な空気の震え、筋肉の収縮音、そして魔力の波長を、皮膚と第六感で直接感知する。
タチバナが両目を閉じているのは、恐怖からではない。ブライアンのフェイントに惑わされることなく、純粋な殺気と魔力の流れのみを読み取るための、極限の集中状態に入っている証なのだ。
(さらに、あの震え。恐怖による痙攣に見えるが、違う…!)
ブライアンの解析は止まらない。
(あれは、筋肉の緊張と弛緩を極限の速度で繰り返すことで、いかなる体勢からでも瞬時に最大速度の攻撃・回避行動に移れるようにするための、高度なアイドリング状態だ! 全身のバネを常に弾ける状態に保っているのだ!)
「…ククッ、ハハハハハ!」
ブライアンの喉の奥から、歓喜の笑い声が漏れた。彼は間違っていた。この男は決して、女を盾にして逃げるような腑抜けではない。彼は最初から、この極限の戦闘を想定していたのだ。
宿屋に籠もっていたのも、ブライアンの魔力の質を遠隔から分析し、自らの精神をこの『無の境地』へと引き上げるための準備時間であったに違いない。
「見事だ、勇者タチバナ! 貴様こそ、我が命を懸けるに相応しい強敵ぞ!」
ブライアンは、自らの内に眠る全ての力を解放することを決意した。これほどの武の極致に達した者を前にして、手加減など最大の侮辱である。彼は右腕の篭手に、己の生命力すらも変換した漆黒の魔力を、限界を超えて注ぎ込み始めた。
「ぬおおおおおッ! ちょこまかと、のように! その細い身体ごと、圧し潰してくれるわッ!!」
ブライアンの咆哮が、街を震わせた。彼の全身から噴き出すどす黒い魔力は、物理的な質量を持って周囲の空間を歪ませ、石畳をメキメキと陥没させていく。
空気を焼き焦がし、皮膚を直接削り取るような、純度百パーセントの絶対的な殺気。それは、ブライアンがこれまでの生涯で到達したことのない、己の限界を突破した一撃を放つための準備動作であった。
ブライアンは、その殺気を真っ向から浴びるタチバナの反応を注視した。如何に武の極致にある者といえど、この圧力を前にしては、魔力による防壁を展開するか、あるいは迎撃のための踏み込みを行うはずだ。
だが、タチバナの反応は、ブライアンの予想を根底から覆す、異常なものであった。
「…なっ!?」
タチバナの身体から、突如として一切の「力み」が消失したのだ。膝の震えが止まり、首が力なくガクンと垂れ下がる。そして、彼が薄く目を開けたかと思うと、その眼球は完全に白目を剥き、焦点が定まらぬまま虚空を見つめていた。
それは、気絶。極度の恐怖と精神的負荷に耐えきれず、自己防衛のために脳の活動を強制的にシャットダウンさせた、生物としての極めて脆弱な反応。しかし、ブライアンの武人としての強固な論理の枠組みは、その事象を、人智を超えた恐るべき「神域の業」として解釈してしまったのである。
(ば、馬鹿な! 自らの意識を、完全に切断したというのか!?)
ブライアンは戦慄した。武の修行において、最も邪魔になるのは「己の感情」である。生きたいという執着、敵への怒り、痛みへの恐怖。それらの自意識が、肉体の反応を僅かに遅らせ、剣の軌道に迷いを生じさせる。
故に達人は皆、「無念無想」の境地を目指す。だが、それはあくまで精神の領域での話であり、完全に意識を消し去ることは不可能だ。意識がなければ、肉体を動かすことはできないからだ。
だが、目の前の男は、それをやってのけた。恐怖や迷いという感情の発生源である「意識」そのものを自ら完全にシャットダウンさせ、肉体を「ただ敵を殲滅するための純粋な戦闘装置」へと作り変えたのだ。
(白目を剥き、完全に脱力したこの姿…! これこそが、あらゆる殺気にも動じず、あらゆる攻撃に自動で反応する、武の最終到達点! 人はこれを、神の領域と呼ぶのか…!)
ブライアンの背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。彼は自分が今、人間の形をした「剣の理そのもの」と対峙していることを理解した。
「往くぞ、化け物め!」
ブライアンは恐怖を歓喜で塗り潰し、大地を砕いてタチバナへと突進した。右腕の鉄の篭手に集約された極大の魔力が、空間を歪ませながらタチバナの無防備な身体へと叩き込まれる。必殺の、文字通り神をも屠る一撃。
意識を失い、完全に糸の切れた操り人形のように脱力していたタチバナの肉体が、理不尽なまでの滑らかさで動いた。
白銀の軌跡が、夜空に稲妻を描く。タチバナの剣は、ブライアンの拳を受け止めることすらしなかった。拳が到達するコンマ一秒前。タチバナの身体は、まるで風に舞う柳の葉のように、拳の生み出す空気の圧力に乗って自然に横へと流れ、攻撃の軌道から完全に外れていたのだ。
(何ィ!?)
驚愕するブライアンの視界の端で、白銀の剣閃が煌めいた。回避と同時に放たれた、一切の溜めも予備動作も存在しない、絶対的な死の一撃。
斬ッー!
硬質な音が響き、ブライアンの右腕を覆っていた絶対の防御を誇る漆黒の鉄の篭手が、紙細工のように両断され、宙を舞った。さらに、流れるような連撃。タチバナの肉体は、重力という概念を完全に無視しているかのように、あり得ない姿勢から次々と斬撃を繰り出す。
(速い…! いや、違う! 動きに「次どう動くか」という思考の過程が存在しないのだ! だから、予測が全くできん!)
ブライアンは、自らの肉体が切り刻まれていくのを感じながらも、その圧倒的な剣技に見惚れていた。自意識を排除した肉体は、聖剣という媒体を通して、ただ「敵の命を絶つ」という結果だけを最短経路で出力し続けている。防御、回避、攻撃。それらが区別されることなく、一つの流麗な「舞」として完結していた。
ブライアンの膝が折れ、巨大な身体が石畳の上に崩れ落ちた。全身から血が噴き出し、もはや指一本動かす力も残されていない。致命傷。彼の命の灯火は、あと数秒で消え去ろうとしていた。
その眼前で、タチバナは白目を剥き、だらりと首を垂れたまま、ピタリと動きを止めていた。その姿は、およそ英雄とは呼べない、不気味で異様なものであった。
だが、ブライアンの瞳には、それが人智を超えた神の如き姿として焼き付いていた。
「…見事だ」
ブライアンの口から、血の泡と共に絞り出された声。そこには、敗北の悔恨も、死への恐怖もなかった。ただ純粋な、極致の武に触れることができた武人としての、至上の歓喜だけがあった。
「我が覇道を阻む者が…これほどの高みに至る存在であったとは…。我は、満足だ…」
自らの攻撃が全て見切られ、自らの武が全く通じなかったという事実が、ブライアンの魂を最高に満たしていた。これほど強い相手がいるのなら、己がここで散るのもまた、一つの武の理である。
「誉れ高き勇者よ。貴様のその無念無想の剣、とくと…見せてもらったぞ…」
ブライアンは、最後に満足げな笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。その巨体から力が抜け、魔王軍四天王の一角が静かに息を引き取る。己の命を奪ったその剣撃が、タチバナの意思によるものではなく、聖剣に宿る精霊の自動操作によるものであったことなど、知る由もなかった。
そして、自分が神の領域と信じて疑わなかったタチバナの脱力が、ただ単に恐怖のあまり意識を失い、白目を剥いて気絶していただけという情けない真実を知ることも、永遠にない。
武人ブライアンの魂は、武の果てにある安らかな眠りへと旅立っていったのだった。